第10話:捕虜の交換
文字数 1,645文字
突如頭上から現れた男に対し、ヴァイオラ船長とマーシャだけではなく、トロイや他の乗組員達の視線が集まった。
ナシームは気まずそうに彼らに会釈しつつ、そしてこれから彼を待ち受けている新たな悲劇に対する悲嘆を堪えながら、カーン船長のもとへ歩み寄った。
「一体何の御用でしょうか、船長」
彼はわかっていながら、あえておずおずと尋ねてみた。時間稼ぎに意味などないというのに。カーン船長はというと、やはりこの時も哄笑している。
「何って、ハッハハハ、聞いてたくせに愉快な奴だなお前は!お前にはしばらくエンプレス号に乗ってもらうことになる。証人だ。なに、ちょっとした旅行だと思えばいいさ!」
相変わらず彼の言うことは支離滅裂だと思いつつも、ナシームはとりあえず頷いた。そして相手方の船長とその傍らの航海士とへ視線を遣る。ヴァイオラ船長は小さくなっているナシームを見て肩を竦めた。
「うちはこの男を出す。航海士のマーシャだ。人質の交換は今でいいのか?」
おおよろしくなマーシャ、と喚いたカーン船長にヴァイオラ船長の質問は届いていないと踏んだナシームは、渋々通訳の仕事を再開した。
「船長、ヴァイオラ船長が人質の交換は今でいいのかと聞いてますが」
やはりわかっていなかった様子のカーン船長は、「うん?」という疑問符に続いて、「ああ!」と頷いた。
「もちろんだ!それじゃあナシーム、しばらくお別れだな。ヴァイオラはお前を悪いようにはしないはずだ。達者でやれよ!」
彼女が彼を悪いようにはしないという確証は一体どうしたら得られるのだろうかという疑問は飲み下して、ナシームはカーン船長に背中を叩かれるままに、ヴァイオラ船長とエンパイア号のクルー達に向かって歩き始めた。同時にあちらからは、航海士のマーシャが気取った足取りで彼の船長のもとを離れた。
「では船長、ご機嫌よう」
「言っとくけど、あまり変な気起こすなよ。お前のために言ってるんだ」
ヴァイオラ船長の声に対して手を振って応えると、マーシャはぴたりとカーン船長の隣についた。同じ頃にはナシームがヴァイオラ船長の前に立っている。
ナシームはとりあえず会釈して見せた。
「ええ、ナシームと申します。『赤い海賊』のしがない通訳でございます。どうかお手柔らかにお願い致します」
「酒場で会ったな。お前はこっちの言葉が話せるのか、丁度よかった。話が通じないんじゃ何かと不便だからな」
腰に両手を添えた格好のヴァイオラ船長は、カーン船長に向けていた時よりも幾分か和らげた視線を彼へ向けた。確かに彼女にはその体格にそぐわない威圧感があるが、不思議と悪人には見えない。彼女は続けて言った。
「まあしかし、あんたにする仕事はない。私達は不正なんてする気はさらさらないからな。そういうわけだ、短い間だが、うちでの滞在を楽しんでいってくれ」
まるで新しい友人をディナーパーティーに招待するかのような軽さで、ヴァイオラ船長は言った。
ナシームは彼女の態度を意外に感じると同時に、つい今し方まで彼の上に重くのしかかっていた悲痛が、蒸発して軽くなってゆくのを感じた。これはもしかしてもしかすると、ヴァイオラ船長はカーン船長よりは随分まともな人格者かもしれない――
今ではそれぞれの船の乗組員達は自分の持ち場へ戻っている。ヴァイオラ船長が合図すると、エンパイア号はふたたびゆっくりと動き始めた。
同じように海面を滑り始めたラディーナ女王号の甲板の上から、カーン船長が大きく腕を振った。
「おお俺の女神!俺はお前に勝ってお前の愛を得る!『宝島』で会おう!」
徐々に遠ざかってゆく男を横目に見ながら、ヴァイオラ船長が眉を顰めた。
「どうにも時々聞き取れないんだが…あちらさんは何を言ってるんだ?」
丁度脇に立っている新たな通訳に向かって、ヴァイオラ船長は言った。
とても口にする気になれない回答を返さねばならなくなったナシームは、思わず口ごもった。
*
ナシームは気まずそうに彼らに会釈しつつ、そしてこれから彼を待ち受けている新たな悲劇に対する悲嘆を堪えながら、カーン船長のもとへ歩み寄った。
「一体何の御用でしょうか、船長」
彼はわかっていながら、あえておずおずと尋ねてみた。時間稼ぎに意味などないというのに。カーン船長はというと、やはりこの時も哄笑している。
「何って、ハッハハハ、聞いてたくせに愉快な奴だなお前は!お前にはしばらくエンプレス号に乗ってもらうことになる。証人だ。なに、ちょっとした旅行だと思えばいいさ!」
相変わらず彼の言うことは支離滅裂だと思いつつも、ナシームはとりあえず頷いた。そして相手方の船長とその傍らの航海士とへ視線を遣る。ヴァイオラ船長は小さくなっているナシームを見て肩を竦めた。
「うちはこの男を出す。航海士のマーシャだ。人質の交換は今でいいのか?」
おおよろしくなマーシャ、と喚いたカーン船長にヴァイオラ船長の質問は届いていないと踏んだナシームは、渋々通訳の仕事を再開した。
「船長、ヴァイオラ船長が人質の交換は今でいいのかと聞いてますが」
やはりわかっていなかった様子のカーン船長は、「うん?」という疑問符に続いて、「ああ!」と頷いた。
「もちろんだ!それじゃあナシーム、しばらくお別れだな。ヴァイオラはお前を悪いようにはしないはずだ。達者でやれよ!」
彼女が彼を悪いようにはしないという確証は一体どうしたら得られるのだろうかという疑問は飲み下して、ナシームはカーン船長に背中を叩かれるままに、ヴァイオラ船長とエンパイア号のクルー達に向かって歩き始めた。同時にあちらからは、航海士のマーシャが気取った足取りで彼の船長のもとを離れた。
「では船長、ご機嫌よう」
「言っとくけど、あまり変な気起こすなよ。お前のために言ってるんだ」
ヴァイオラ船長の声に対して手を振って応えると、マーシャはぴたりとカーン船長の隣についた。同じ頃にはナシームがヴァイオラ船長の前に立っている。
ナシームはとりあえず会釈して見せた。
「ええ、ナシームと申します。『赤い海賊』のしがない通訳でございます。どうかお手柔らかにお願い致します」
「酒場で会ったな。お前はこっちの言葉が話せるのか、丁度よかった。話が通じないんじゃ何かと不便だからな」
腰に両手を添えた格好のヴァイオラ船長は、カーン船長に向けていた時よりも幾分か和らげた視線を彼へ向けた。確かに彼女にはその体格にそぐわない威圧感があるが、不思議と悪人には見えない。彼女は続けて言った。
「まあしかし、あんたにする仕事はない。私達は不正なんてする気はさらさらないからな。そういうわけだ、短い間だが、うちでの滞在を楽しんでいってくれ」
まるで新しい友人をディナーパーティーに招待するかのような軽さで、ヴァイオラ船長は言った。
ナシームは彼女の態度を意外に感じると同時に、つい今し方まで彼の上に重くのしかかっていた悲痛が、蒸発して軽くなってゆくのを感じた。これはもしかしてもしかすると、ヴァイオラ船長はカーン船長よりは随分まともな人格者かもしれない――
今ではそれぞれの船の乗組員達は自分の持ち場へ戻っている。ヴァイオラ船長が合図すると、エンパイア号はふたたびゆっくりと動き始めた。
同じように海面を滑り始めたラディーナ女王号の甲板の上から、カーン船長が大きく腕を振った。
「おお俺の女神!俺はお前に勝ってお前の愛を得る!『宝島』で会おう!」
徐々に遠ざかってゆく男を横目に見ながら、ヴァイオラ船長が眉を顰めた。
「どうにも時々聞き取れないんだが…あちらさんは何を言ってるんだ?」
丁度脇に立っている新たな通訳に向かって、ヴァイオラ船長は言った。
とても口にする気になれない回答を返さねばならなくなったナシームは、思わず口ごもった。
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