-himno- 第9話「たずねびと」
文字数 3,158文字
何処か騒々しい気配を感じ、目を開けた。
差し込む月明かりがいやに眩しく感じる。
どんどん、と、戸を叩く音が響いた。
「…今開けるよ。」
――思ったより遅かったな…。
そう思いながら、私は戸を開けた。
『――銀翅さま。よもやとは思いましたが…お帰りになられたのですね』
現れたのは、はじめに私を村へ導いた男だった。
「ああ。――久しぶりだね。変わりはないかい?」
『はい。…突然この地を去られて、驚きましたよ』
「私の役目はとうに終わっていたからね。…とはいえ、碌な説明もなく去ってしまって申し訳なかった。」
『いえ…。』
男は、やがておずおずと口を開いた。
『その…。此度は何用で、我が村へ?』
「用が有ったのは此の山にさ。君達の村には一歩も足を踏み入れていない。」
『そ…、それはそうですが……、…。』
「…それに、目的は既に果たしたから、これ以上長居をする心算は無い。――私は流れ者だからね。解るかい?」
『…?』
「流れ者、というのはね。いろいろな処を訪ねている。清い処も、穢らわしい処も。様々な処の、様々な気を受けているのさ。…それがひとつところに留まるとなれば、予め、十分な禊が必要になる。それをせねば、何が起こるか解らない。――そういう、厄介なものなんだ。」
『そ、…そうなんですか…。』
「――深入りは止しなさい。…厭だろう? 山の神の怒りを買うのは。」
『…、ですが…それならせめて、私のこの願いだけでも――』
「己ひとりが益 を受ける為なら、他の者に疫 を齎 しても構わぬというのかい、君は。」
『…っ。』
「そのような事をすれば、忽 ち村からうらみを買うよ。――村へ、お帰り。」
『…。はい…』
――ひょっとすると、今こうして言葉を交わす事すら…
そう思い至り、私は肺の臓に淀んでいた息を吐き出す。
やれやれ。――今のうちに支度をした方が良いかも知れないな。
おちおち話をする暇 も無いとは…。
男が去ると、まるでそれを見計らったかのように、十六夜が音もなく現れた。
「銀翅。」
「十六夜か。どうかしたかい?」
「あいつら――臭うで。」
恐らくは麓を指し、言ったのだろう。
「ほう。君も気付いたかい。」
「は?」
十六夜は意外にも、私の言葉に驚いたような表情を見せた。
「…話は後だ。――私は此処を出る」
「碌に休みもしてへんのにか?」
「好くない事が起こりそうだ。――休んでいる場合ではない」
「…そんなら、うちも連れてってや。」
「ほう?」
今度は此方が驚かされた。
――十六夜を見れば、ほんとうに解っていないのだなとでも云うような表情で此方を見つめている。
そう笑いながら十六夜は此方に近付き、――変わらず荷に挿されたままの風車に、ふ、と息を吹きかけた。
からからから。――風車が軽やかに音を立てる。
「――成程。…最も気を許してはならぬもの、だったか。」
苦く笑い、風車を引き抜く。――持ち方を改め、どこか恭しく十六夜に手渡した。
「集めた力を、君へ還そう。」
「快 し。――ほな、行こか。」
***
ごう、と強い風が吹く。――忽ち、松明の炎が消えた。
『何だ、今の風は…。さては、あの怪しげな術師の仕業か』
『流れ者の癖に山の神の恩恵を横取りするとは、不届きな』
『このままでは、村は…』
そんな声が聞こえたように思った。
傍らの銀翅は、一度だけ私に尋ねた。
「本当に、良いのかい?」
「…あいつらは、力のあるもんを自分らの都合のええように使うことしか、考えてへん。――使われるばっかりなんは御免や。」
「解った。」――あっさりとした応えに、余程時が迫っているのだなと察する。
そして私もその先を見据え、気付いた。
「…! 待ち。この先はあかん、囲まれる。」
銀翅は飽くまでも落ち着いていた。
「戻ったところで同じだろう。」
「それもそうやけど…。とりあえず、あんたは下がっとき」
「…、十六夜――」
「うちの言葉を聞かん奴なんか、知ったことやない。」
「っ、…。」
銀翅は何かに面食らったように、口を噤んだ。――こいつでも、こんな表情 をするのか。
驚いていると、俄 かに辺りが騒がしくなった。
『…! 十六夜様!!』
「何やねん、あんたら。揃いも揃って。」
『十六夜様。誑かされてはなりません』
「は? 逆ならまだ解るけど、何でそうなるんや。阿呆か」
『どうか我らをお見捨てにならないで下さい…!』
「自分らのやってる事、よう考えてから言いや。」
『…。…………』
口々に紡がれる言葉を撥ね退けると、漸く誰もが口を噤んだ。
「解ったんやったらさっさと其処、退き。」
『…。――お前さえ招かなければ…!』
「!?」
その怒気と鈍い音に私は驚き、声のした方へ振り返った。
――刹那、視界に朱が映る。それは私の片目を侵し、尚驚いた私は咄嗟に目を押さえた。
「…、何や…?」
俯くと、私の半身が朱に染まっていた。これは、まさか――
「…!!! 銀翅…!!」
「…っ、十六夜、落ち着け…!!」
恐らく頭を狙ったのだろうその攻撃は、銀翅が咄嗟にかわしたことでどうやら肩に当たったらしい。――使い物にならなくなった片腕を押さえ、銀翅は、ぎりりと奥歯を噛んだ。
なればこの血は何処 より――?
銀翅の衣にも飛んでいる朱は、銀翅のものではない様子だった。
どさり、と、誰かが地に伏す音がする。
――あの男だ。銀翅をはじめに、この地に招いた男…。
その最期に、見ていた村人達は恐れ慄き、先程よりも一層に怒気が濃くなる。
「…く…っ」
「死んだか…。…、十六夜。――瞼には出来るだけ触れるな」
「うちのことはええから、――!」
声を掛けたその背後に、別の男が武器を振り翳すのが見えた。
咄嗟に銀翅の腕を引く。――またも鈍い音が響いたが、それよりも先に手を取って人の輪を突き飛ばし、駆け出していた。
「銀翅、何処が痛い?」
「――判らない。…痺れている…。」
闇雲に駆けるにつれ、段々と道幅は狭くなってゆく。
未だ日も射さぬというのに、その上片目を奪われては、道を誤っても不思議ではなかった。
「…。堪忍な。」
「――加減が利かずに、彼等を手に掛けてしまった私が悪い。…君の所為では無い。それに…」
何かを言おうとした銀翅は、そこで力尽きたように、言葉を止めた。
「…とりあえず今は、逃げるで」
「…、ああ。」
そうは言ったものの、怪我人を連れ、狭くなった視界で尚足掻くのは、すこし難しいことだった。――逃げてはみたが、直に追いつかれるだろう。
「――だから。深入りは止せと言ったのに…」
不意に、重くなった口を開け、ぽつりと呟いた銀翅はふらりとよろめき姿を消した。少しの間の後、水音が大きく響いた。
「…!! 銀――」
『居たぞ。こっちだ…!』
「!!! ………」
名を呼ぶことさえ憚られるなんて。――伸ばした手を下ろし、息を潜め、遺った風車に触れた。
――ああ。これすらも、血で汚れてしまっている。
何故。と問うことすらも、億劫になった。
***
『…!! 狐…?』
漸く追い詰めた、と思った村人達が目にしたのは、それはそれは大きな狐の姿がひとつ。
啼く狐の足元には、朱い風車。
それは無惨にぐしゃりとつぶれて、廻ることすら出来ずに在った。
つぶれたそれから力を得たように、狐は更にひとつ啼き。
村人達は漸く畏れを憶えたが、遅すぎる、と誰かが嗤った。
――その力で、還すがいい。
誰かの声を聴いたのは。啼く狐、唯ひとりだった。
差し込む月明かりがいやに眩しく感じる。
どんどん、と、戸を叩く音が響いた。
「…今開けるよ。」
――思ったより遅かったな…。
そう思いながら、私は戸を開けた。
『――銀翅さま。よもやとは思いましたが…お帰りになられたのですね』
現れたのは、はじめに私を村へ導いた男だった。
「ああ。――久しぶりだね。変わりはないかい?」
『はい。…突然この地を去られて、驚きましたよ』
「私の役目はとうに終わっていたからね。…とはいえ、碌な説明もなく去ってしまって申し訳なかった。」
『いえ…。』
男は、やがておずおずと口を開いた。
『その…。此度は何用で、我が村へ?』
「用が有ったのは此の山にさ。君達の村には一歩も足を踏み入れていない。」
『そ…、それはそうですが……、…。』
「…それに、目的は既に果たしたから、これ以上長居をする心算は無い。――私は流れ者だからね。解るかい?」
『…?』
「流れ者、というのはね。いろいろな処を訪ねている。清い処も、穢らわしい処も。様々な処の、様々な気を受けているのさ。…それがひとつところに留まるとなれば、予め、十分な禊が必要になる。それをせねば、何が起こるか解らない。――そういう、厄介なものなんだ。」
『そ、…そうなんですか…。』
「――深入りは止しなさい。…厭だろう? 山の神の怒りを買うのは。」
『…、ですが…それならせめて、私のこの願いだけでも――』
「己ひとりが
『…っ。』
「そのような事をすれば、
『…。はい…』
――ひょっとすると、今こうして言葉を交わす事すら…
そう思い至り、私は肺の臓に淀んでいた息を吐き出す。
やれやれ。――今のうちに支度をした方が良いかも知れないな。
おちおち話をする
男が去ると、まるでそれを見計らったかのように、十六夜が音もなく現れた。
「銀翅。」
「十六夜か。どうかしたかい?」
「あいつら――臭うで。」
恐らくは麓を指し、言ったのだろう。
「ほう。君も気付いたかい。」
「は?」
十六夜は意外にも、私の言葉に驚いたような表情を見せた。
「…話は後だ。――私は此処を出る」
「碌に休みもしてへんのにか?」
「好くない事が起こりそうだ。――休んでいる場合ではない」
「…そんなら、うちも連れてってや。」
「ほう?」
今度は此方が驚かされた。
――十六夜を見れば、ほんとうに解っていないのだなとでも云うような表情で此方を見つめている。
そう笑いながら十六夜は此方に近付き、――変わらず荷に挿されたままの風車に、ふ、と息を吹きかけた。
からからから。――風車が軽やかに音を立てる。
「――成程。…最も気を許してはならぬもの、だったか。」
苦く笑い、風車を引き抜く。――持ち方を改め、どこか恭しく十六夜に手渡した。
「集めた力を、君へ還そう。」
「
***
ごう、と強い風が吹く。――忽ち、松明の炎が消えた。
『何だ、今の風は…。さては、あの怪しげな術師の仕業か』
『流れ者の癖に山の神の恩恵を横取りするとは、不届きな』
『このままでは、村は…』
そんな声が聞こえたように思った。
傍らの銀翅は、一度だけ私に尋ねた。
「本当に、良いのかい?」
「…あいつらは、力のあるもんを自分らの都合のええように使うことしか、考えてへん。――使われるばっかりなんは御免や。」
「解った。」――あっさりとした応えに、余程時が迫っているのだなと察する。
そして私もその先を見据え、気付いた。
「…! 待ち。この先はあかん、囲まれる。」
銀翅は飽くまでも落ち着いていた。
「戻ったところで同じだろう。」
「それもそうやけど…。とりあえず、あんたは下がっとき」
「…、十六夜――」
「うちの言葉を聞かん奴なんか、知ったことやない。」
「っ、…。」
銀翅は何かに面食らったように、口を噤んだ。――こいつでも、こんな
驚いていると、
『…! 十六夜様!!』
「何やねん、あんたら。揃いも揃って。」
『十六夜様。誑かされてはなりません』
「は? 逆ならまだ解るけど、何でそうなるんや。阿呆か」
『どうか我らをお見捨てにならないで下さい…!』
「自分らのやってる事、よう考えてから言いや。」
『…。…………』
口々に紡がれる言葉を撥ね退けると、漸く誰もが口を噤んだ。
「解ったんやったらさっさと其処、退き。」
『…。――お前さえ招かなければ…!』
「!?」
その怒気と鈍い音に私は驚き、声のした方へ振り返った。
――刹那、視界に朱が映る。それは私の片目を侵し、尚驚いた私は咄嗟に目を押さえた。
「…、何や…?」
俯くと、私の半身が朱に染まっていた。これは、まさか――
「…!!! 銀翅…!!」
「…っ、十六夜、落ち着け…!!」
恐らく頭を狙ったのだろうその攻撃は、銀翅が咄嗟にかわしたことでどうやら肩に当たったらしい。――使い物にならなくなった片腕を押さえ、銀翅は、ぎりりと奥歯を噛んだ。
なればこの血は
銀翅の衣にも飛んでいる朱は、銀翅のものではない様子だった。
どさり、と、誰かが地に伏す音がする。
――あの男だ。銀翅をはじめに、この地に招いた男…。
その最期に、見ていた村人達は恐れ慄き、先程よりも一層に怒気が濃くなる。
「…く…っ」
「死んだか…。…、十六夜。――瞼には出来るだけ触れるな」
「うちのことはええから、――!」
声を掛けたその背後に、別の男が武器を振り翳すのが見えた。
咄嗟に銀翅の腕を引く。――またも鈍い音が響いたが、それよりも先に手を取って人の輪を突き飛ばし、駆け出していた。
「銀翅、何処が痛い?」
「――判らない。…痺れている…。」
闇雲に駆けるにつれ、段々と道幅は狭くなってゆく。
未だ日も射さぬというのに、その上片目を奪われては、道を誤っても不思議ではなかった。
「…。堪忍な。」
「――加減が利かずに、彼等を手に掛けてしまった私が悪い。…君の所為では無い。それに…」
何かを言おうとした銀翅は、そこで力尽きたように、言葉を止めた。
「…とりあえず今は、逃げるで」
「…、ああ。」
そうは言ったものの、怪我人を連れ、狭くなった視界で尚足掻くのは、すこし難しいことだった。――逃げてはみたが、直に追いつかれるだろう。
「――だから。深入りは止せと言ったのに…」
不意に、重くなった口を開け、ぽつりと呟いた銀翅はふらりとよろめき姿を消した。少しの間の後、水音が大きく響いた。
「…!! 銀――」
『居たぞ。こっちだ…!』
「!!! ………」
名を呼ぶことさえ憚られるなんて。――伸ばした手を下ろし、息を潜め、遺った風車に触れた。
――ああ。これすらも、血で汚れてしまっている。
何故。と問うことすらも、億劫になった。
***
『…!! 狐…?』
漸く追い詰めた、と思った村人達が目にしたのは、それはそれは大きな狐の姿がひとつ。
啼く狐の足元には、朱い風車。
それは無惨にぐしゃりとつぶれて、廻ることすら出来ずに在った。
つぶれたそれから力を得たように、狐は更にひとつ啼き。
村人達は漸く畏れを憶えたが、遅すぎる、と誰かが嗤った。
――その力で、還すがいい。
誰かの声を聴いたのは。啼く狐、唯ひとりだった。