【壱】大原美沙の憂鬱
文字数 2,757文字
澄んだ青空だった。八月下旬、本来なら学校も夏休みだが、五村城南高校は進学校ということもあって夏期講習という名の補習授業があり、生徒も通常通り登校している。
夏期講習が終わると休みなく二学期に突入し、学生にとって貴重な休みも終了する。
大原美沙は、教室のベランダから街の景色を眺めながらため息をついた。昼休みの教室は相も変わらず騒がしい。昨日のテレビの話に流行の音楽の話、ファッション、誰が誰を好きで、誰が誰を嫌いかという何の意味もなさないゴシップ話。
ウンザリだった。
受験に就職、人生の過渡期であるにも関わらず、教室内にそんな緊張感は微塵もない。美沙も決してマジメな生徒ではなかったが、美沙はそんな空気に辟易していた。
教室はクーラーが利いていて快適ではあるが、室内の淀んだ空気に浸かるくらいなら、この蒸し暑いベランダで過ごすほうが美沙にはずっと快適だった。
美沙にとって学校は監獄も同然だった。理想と現実の齟齬は学校に入った瞬間から顔を出し、三年生にもなるとそれは目に余るほどになっていた。
とはいえ、友達がいないわけではないし、学内のカーストもそれなりで成績も悪くはない。が、自分は他の人間とは違うという感覚が、美沙を他の生徒たちから孤立させる。それは、思春期にありがちな自分を特別な存在だと思い込む現象とは違う。美沙は自分が何かに秀でているとか、自分が特別だとはまったく思っていなかった――ある一点を除けば。
「何してんのぉ?」クラスのギャル集団のボス的存在である結城亜美が、陽炎を見つめる美沙に話し掛けてきた。
面倒くさい。
美沙も美沙で化粧をしたり、スカートの丈を短くしたりと派手な生徒を演じてはいるが、それは自分がクラスというコミュニティから弾き出されないためのカモフラージュにすぎなかった。
努めて明るく返事をした。取るに足らない世間話――何てつまらないのだろう。そうだと思わなくても、同調圧力によって、そうだと答えなければならない暴力的な世界――学校はヤクザの世界以上に仁義がない。
亜美が、トイレへいこうと誘う。
いきたくなくてもいかなければならない。
断れば今度は自分が爪弾き者になるだけだ。
自分の意見など持ってはいけない。
教室の中には歴史上のどんな独裁者よりも凶悪な権力者が存在する。
自分は所詮、そんな権力者に従うだけの犬でしかない。
いっそ、このベランダから飛び降りてしまったほうが楽になれるのではないか――いや、それは絶対にないだろう。一時の感情や勢いで自殺するなんてダサすぎる。
それに、死ねば自分もあの青白い顔をした連中と――。
いずれにしろ、自殺なんてしたくはない。
最近はことあるごとに自分を「鬱」と称しては、悲劇のヒロインを気取る馬鹿が増えたが、そんなの馬鹿も休み々々いえ、だ。「鬱」の人間が、自分を鬱病だなんて自覚しているわけがなく、そんな「ファッション鬱」の奴らを美沙は鼻で笑っていた。
が、美沙には自己主張をするだけの勇気がなかった。
同調圧力に負け、美沙は亜美率いるギャル集団とともにベランダから出た。
教室から出ようとすると、友人の野添麻奈美と鉢合わせになった。
麻奈美は美沙の小学校時代からの友人で、美沙にとって信用できる唯一の人でもあった。
派手さを演出している美沙とは違い、麻奈美は化粧もしておらず、髪も黒のショートカット。スカートの丈も膝上一センチほどをキープし、成績も学年トップクラスというまさに優等生その物といった感じだった。
亜美が麻奈美を突き飛ばす。麻奈美はバランスを崩し、すぐ近くの机にもたれ掛かった。そんな麻奈美を亜美たちは嘲笑した。クラスメイトも麻奈美には一切手を貸そうともせずにただ薄ら笑いを浮かべて麻奈美を見下ろすばかり。美沙の表情が険しくなる。
亜美は麻奈美のことを、地味な真面目ちゃんとして毛嫌いしていた。亜美はよく美沙に、麻奈美なんかと仲良くすんのやめなよといっていたが、美沙は曖昧にはぐらかすばかりだった。友人が傷つけられていても自分には何もできないという不能感を胸に抱いて。
こんなことなら魂を売ってまでカーストを上げるんじゃなかったと美沙も後悔していた。
こんな馬鹿なグループと一緒にいるくらいなら、多少生活しづらくても麻奈美と一緒にいたほうがいい。が、美沙はこれまで確立してきた自分の地位をなし崩しにするのが怖くて何もいい出せない。美沙は何もできないまま亜美に促され、教室を跡にした。
自分は何て弱い人間なのだろう。美沙は心中で何度も麻奈美に詫びた。
トイレに入ると、美沙を除く三人はポーチから化粧道具を取り出してメイクを直し始めた。美沙はひとり携帯を弄って時間を潰す。特にやることもないのに携帯を眺めなければいけない時間は苦痛以外の何物でもなかった。美沙は込み上げてくるため息を堪えた。
亜美はメイクを終え道具を仕舞うと、派手なデコレーションを施したスマートフォンを弄り始めた。か、と思うと急に笑い出し、メイクに精を出す仲間たちに画面を向けた。
「ねぇ、見てこれ! マジ、ちょーウケんだけど!」品のない喋り方。本当に苦痛だ。
大体、この手の「マジウケる」が美沙の琴線に響いたことは一度もなかった。が、人権の保障されていない学内では、カースト上位者に同調することがマシな学校生活を送るための最良の手段だった。美沙は興味ありげな笑顔を作り、亜美の携帯を覗き込んだ。
亜美のSNSの画面――動画が映し出されている。
美沙の目は動画に釘付けになった。
何でも、その動画はここ最近投稿された物らしく、撮影場所は美沙の通う五村城南高校のある五村市内の駅近くだった。顔はよく見えないが、動画には三〇半ばくらいであろう甚平姿の男と中年男性が映っていた。甚平の男は壁に向かって暴言を吐き散らし、中年の男が甚平の男を宥めようとしている。
動画を見て馬鹿笑いするギャルたち。
「マジウケるっしょ?」そう問われて、美沙は可能な限りの自然さを装い頷いた。
本当は全然面白くない。何故なら、美沙にはわかってしまったのだ。
甚平の男は壁に向かって暴言を吐いていたのではなく、壁の前に立つ全身アザだらけで、腹部にナイフの刺さった顔の青白いチンピラに向かって暴言を吐いていたのだ、と。
死んだ人間が見える――それが美沙の孤独の原因だった。
夏期講習が終わると休みなく二学期に突入し、学生にとって貴重な休みも終了する。
大原美沙は、教室のベランダから街の景色を眺めながらため息をついた。昼休みの教室は相も変わらず騒がしい。昨日のテレビの話に流行の音楽の話、ファッション、誰が誰を好きで、誰が誰を嫌いかという何の意味もなさないゴシップ話。
ウンザリだった。
受験に就職、人生の過渡期であるにも関わらず、教室内にそんな緊張感は微塵もない。美沙も決してマジメな生徒ではなかったが、美沙はそんな空気に辟易していた。
教室はクーラーが利いていて快適ではあるが、室内の淀んだ空気に浸かるくらいなら、この蒸し暑いベランダで過ごすほうが美沙にはずっと快適だった。
美沙にとって学校は監獄も同然だった。理想と現実の齟齬は学校に入った瞬間から顔を出し、三年生にもなるとそれは目に余るほどになっていた。
とはいえ、友達がいないわけではないし、学内のカーストもそれなりで成績も悪くはない。が、自分は他の人間とは違うという感覚が、美沙を他の生徒たちから孤立させる。それは、思春期にありがちな自分を特別な存在だと思い込む現象とは違う。美沙は自分が何かに秀でているとか、自分が特別だとはまったく思っていなかった――ある一点を除けば。
「何してんのぉ?」クラスのギャル集団のボス的存在である結城亜美が、陽炎を見つめる美沙に話し掛けてきた。
面倒くさい。
美沙も美沙で化粧をしたり、スカートの丈を短くしたりと派手な生徒を演じてはいるが、それは自分がクラスというコミュニティから弾き出されないためのカモフラージュにすぎなかった。
努めて明るく返事をした。取るに足らない世間話――何てつまらないのだろう。そうだと思わなくても、同調圧力によって、そうだと答えなければならない暴力的な世界――学校はヤクザの世界以上に仁義がない。
亜美が、トイレへいこうと誘う。
いきたくなくてもいかなければならない。
断れば今度は自分が爪弾き者になるだけだ。
自分の意見など持ってはいけない。
教室の中には歴史上のどんな独裁者よりも凶悪な権力者が存在する。
自分は所詮、そんな権力者に従うだけの犬でしかない。
いっそ、このベランダから飛び降りてしまったほうが楽になれるのではないか――いや、それは絶対にないだろう。一時の感情や勢いで自殺するなんてダサすぎる。
それに、死ねば自分もあの青白い顔をした連中と――。
いずれにしろ、自殺なんてしたくはない。
最近はことあるごとに自分を「鬱」と称しては、悲劇のヒロインを気取る馬鹿が増えたが、そんなの馬鹿も休み々々いえ、だ。「鬱」の人間が、自分を鬱病だなんて自覚しているわけがなく、そんな「ファッション鬱」の奴らを美沙は鼻で笑っていた。
が、美沙には自己主張をするだけの勇気がなかった。
同調圧力に負け、美沙は亜美率いるギャル集団とともにベランダから出た。
教室から出ようとすると、友人の野添麻奈美と鉢合わせになった。
麻奈美は美沙の小学校時代からの友人で、美沙にとって信用できる唯一の人でもあった。
派手さを演出している美沙とは違い、麻奈美は化粧もしておらず、髪も黒のショートカット。スカートの丈も膝上一センチほどをキープし、成績も学年トップクラスというまさに優等生その物といった感じだった。
亜美が麻奈美を突き飛ばす。麻奈美はバランスを崩し、すぐ近くの机にもたれ掛かった。そんな麻奈美を亜美たちは嘲笑した。クラスメイトも麻奈美には一切手を貸そうともせずにただ薄ら笑いを浮かべて麻奈美を見下ろすばかり。美沙の表情が険しくなる。
亜美は麻奈美のことを、地味な真面目ちゃんとして毛嫌いしていた。亜美はよく美沙に、麻奈美なんかと仲良くすんのやめなよといっていたが、美沙は曖昧にはぐらかすばかりだった。友人が傷つけられていても自分には何もできないという不能感を胸に抱いて。
こんなことなら魂を売ってまでカーストを上げるんじゃなかったと美沙も後悔していた。
こんな馬鹿なグループと一緒にいるくらいなら、多少生活しづらくても麻奈美と一緒にいたほうがいい。が、美沙はこれまで確立してきた自分の地位をなし崩しにするのが怖くて何もいい出せない。美沙は何もできないまま亜美に促され、教室を跡にした。
自分は何て弱い人間なのだろう。美沙は心中で何度も麻奈美に詫びた。
トイレに入ると、美沙を除く三人はポーチから化粧道具を取り出してメイクを直し始めた。美沙はひとり携帯を弄って時間を潰す。特にやることもないのに携帯を眺めなければいけない時間は苦痛以外の何物でもなかった。美沙は込み上げてくるため息を堪えた。
亜美はメイクを終え道具を仕舞うと、派手なデコレーションを施したスマートフォンを弄り始めた。か、と思うと急に笑い出し、メイクに精を出す仲間たちに画面を向けた。
「ねぇ、見てこれ! マジ、ちょーウケんだけど!」品のない喋り方。本当に苦痛だ。
大体、この手の「マジウケる」が美沙の琴線に響いたことは一度もなかった。が、人権の保障されていない学内では、カースト上位者に同調することがマシな学校生活を送るための最良の手段だった。美沙は興味ありげな笑顔を作り、亜美の携帯を覗き込んだ。
亜美のSNSの画面――動画が映し出されている。
美沙の目は動画に釘付けになった。
何でも、その動画はここ最近投稿された物らしく、撮影場所は美沙の通う五村城南高校のある五村市内の駅近くだった。顔はよく見えないが、動画には三〇半ばくらいであろう甚平姿の男と中年男性が映っていた。甚平の男は壁に向かって暴言を吐き散らし、中年の男が甚平の男を宥めようとしている。
動画を見て馬鹿笑いするギャルたち。
「マジウケるっしょ?」そう問われて、美沙は可能な限りの自然さを装い頷いた。
本当は全然面白くない。何故なら、美沙にはわかってしまったのだ。
甚平の男は壁に向かって暴言を吐いていたのではなく、壁の前に立つ全身アザだらけで、腹部にナイフの刺さった顔の青白いチンピラに向かって暴言を吐いていたのだ、と。
死んだ人間が見える――それが美沙の孤独の原因だった。