遺されたすみれ

文字数 2,300文字

快晴が続くこの頃、春の陽気から夏の香りが感じられ、人々の衣類も薄手になって日差しは益々力をつけていく。そんな淡い青空に雲のような白煙がふわふわ漂っている。指で揺蕩う煙に触れると霞のように青空に広がっていった。
「内田さん、また休憩ですか?」
「うわっびっくりした!」
横から突然声がかかり手の煙草を落としそうになる。その声の主は特務隊隊長補佐官だ。
「そう。そろそろ忠勝が走ってくる頃だね」
「はは、いつも『大尉が仕事をしてくれない!』って言ってますよ」
まったく、俺が仕事をしてないことを言い広めないでほしい。──俺が仕事をしてないのが全面的に悪いのだが。
「いつも忙しそうな補佐官くんはこんなところにどしたの」
「秀貴さんが本部から戻ってくるのでここで待ち合わせているんです」
それなら座れと手で促すと補佐官は長椅子の端にスッと腰を下ろした。
そのすぐ後に秀貴の姿を視認することができた。胸ポケットに入れていた携帯灰皿に煙草を押し込むとこちらに近づいてくる秀貴にも座るよう促すと、自分と補佐官の間にできた狭い空間にも小柄な秀貴は少し狭そうに収まった。
「内田さんお仕事はなさっていますか」
「仕事はねえ、してないね」
はははと歯を見せると表情を変えない秀貴は「そうやって昇級をしないようにしているんですか」と言う。
どうして自分の周りにはこうも鋭い人間ばかりがいるんだろうか。非常にやりにくい。
「だって責任や期待ばかり増えていくだろ?給料が増えたってやってらんないよ。俺は別に左遷されてもいいね、楽であればなんでも」
そうなんですか、とあまり納得してなさそうな秀貴は言葉を心の中で反芻して理解しようとしている。
真面目だな。怠惰の大人だと捨て切れば良いのに。

「気になってたんですけど内田さんのそのライター、記念品ではないですか?確か……一気に上官が総入れ替えした時の」
「何で知ってるのそれ」
左手で弄んでいた銀地にすみれの模様が入った高価そうなライターを補佐官はめざとく見つけていたようだ。
「あ、僕も見たことあります。父も同じ物を持っていました」
手の中の銀地にすみれの花の紫と葉の翡翠色が陽に照らされて思い出と共に煌めいている。

「これ佐々木が持ってたんだよ。……ちょっと前に」
「……形見ですか」
秀貴も手の中の美しいライターに目を向ける。秀貴の緋色の目も思い出を孕んでその両目は煌めいている。
「そうなっちまったなぁ。そのつもりだったんだろうけど。なにせ、あいつの持ち物は軍に回収されちまったし、こいつ以外はなんも残ってないからな」

「あいつ煙草もライターも滅多に貸さないやつだったんだよ、なのに突然これを渡してきて『うるさいから持っておけ』なんて最悪だよな。自分がこれからどうなるかわかって俺に渡してきたんだったら最低最悪の男だ」
秀貴と補佐官は静かに耳を傾けていた。この二人が唯一あいつの素の話をできる相手なのだ。
「ホントいつも俺を頼りもしないのに最後の最後に『部屋の水が出ないから泊まらせろ』って言って、これ渡してきて、なんなんだよな。捨てらんねぇし」
そう話すうちに補佐官の顔が変わった。どうしたのかと声をかけると「それって去年の話ですよね?」と聞いてくる。補佐官曰く
「いやね、本部寮の修繕記録を先日見たんですが、男子寮の部屋の設備の故障の記録は一年ほどなかったんです。女子寮は半年で二件あったんですが……。特に佐々木さんの部屋は立ち入り調査で全て点検されているはずですからおかしなところがあれば記録に残っているはずです」と。

やられた。大きな声で笑うと隣の秀貴は驚いてビクッと肩を振るわせる。ごめんごめんと肩を叩くと「内田さん」と心配そうな声がかかる。
「あぁー!最後の最後にやられた!最悪!あいつマジで許せねぇ!」



「おい、今日一晩部屋を貸せ」
「何事?お前がそんなこと言ってくるなんて槍が降るか?悪事を働こうってんじゃないだろうな」
「お前じゃないから安心しろ。部屋の水が出ないだけだ。まぁただとは言わん、酒でも手土産に持って行ってやる」
「どうぞ!一晩とは言わずいつまでもいてください佐々木大明神!」
俺の冗談に笑いもせずに話が終わったとさっさと離れて行ったあいつ、宿は金がかかる実家は論外、ならば俺の部屋といった具合に考えたのだろうと思った。あいつに頼られたのが嬉しくて浮き足立っていた。──それが最後の雑談なるなんて思わんだろ。
部屋に入るなり酒盛りをして、あいつは酒より煙草の奴だけど珍しく飲んでいた。なんだ酒飲めるんじゃないか。
酔っ払っていてもあの時のあいつの顔は妙に記憶に残っている。初めて見た心の底から笑っている顔。内容は忘れたがくっだらない話をしている時に見せたあの顔。いつも隙なんてない完璧人間を装ったあいつが煙草を持ったまま机に伏して寝てしまった。その日は見たことのない姿ばかりだった。

「世話になったな」
「もう何泊でもしていいんだぜ?」
「いらん鬱陶しい。……それと、あぁ、手を出せ」
手渡されたのは昇級記念品の高価そうな銀のライター。これを持っているのは知っていたが使っているのは見たことがない。いつもポケットの肥やしになっている。
「いつもライターがないだの煩いから持っておけ。貸してくれと言っても聞かんからな」
「いいのかよこれ記念品だろ」
「使わないからな」
これはラッキーと礼を言ってポケットにしまうと佐々木はいつもの調子で鼻を鳴らして踵を返して行ってしまう。が、そのすぐあと少しこちらを向いて
「お前の世話をするのも終いだ」。



「言うんならもっとハッキリ言えよ!わかんねぇよ!なーにが俺の世話だ!クッソ真面目の大馬鹿野郎が!」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み