第33話 蜘蛛の糸④

文字数 2,070文字

気がつけばいつもの大将執務室にいた。いつものように椅子の背もたれに肘をかけて座って、目の前の空席の執務机の横にはいつも通り沖津が立っていた。
「貴方、来るのが早すぎますよ」
そう悲しげに告げる沖津に申し訳なさと懐かしさで胸の内がいっぱいになった。
「いやぁ、本当に体が勝手に動いたんです。……すみません。せっかく任せてもらったのに」
そう言う俺の肩を沖津はぽんと叩いて「それを、私が貴方にどうこう言うことは出来ませんから……」と困ったように微笑みかけた。

「あの世ってあるもんなんですね。俺ははあまり信じてなかったんです」
「はは、貴方あまり信心深くなかったですものねぇ」
「沖津さんはここにずっといるんですか?」
そう問いかけると沖津は少し笑ってその優しそうな顔を窓の外へ向けた。雲ひとつない青空が眩むほど明るかった。
「ずっとではありませんよ。たまにです。ここは存外自由にできるもんで、行ったり来たりしているんですよ」
沖津と別れてそう時間は経ってないのに懐かしさと嬉しさ寂しさが一気に押し寄せて何を話していいかよくわからなかった。
「秀貴さん、どうするんでしょうね」
「……そうですね、秀勝がいますが……」
沖津ははっきりとは言わなかった。だが何が言いたいかわかっていた。
「俺がいなくても大丈夫、じゃないんでしょうね」
その言葉に沖津は今度は宥めるような悲しげな微笑みを湛える。

「おい」
突然と部屋の扉の向こうから見知った声が聞こえる。その声に二人で反射的に顔を向け驚いて同時に声を上げた。
「秀人さん」

「補佐官、早く来い」
その声に沖津と二人目を見開いたまま顔を見合わせた。「時間がない、早くしろ」との秀人の声が続き、沖津は意を決したように「行ってください補佐官殿」と俺の背中に手を当てる。
「ちょっと待ってください、俺はまだ貴方に聞きたいことがあるんです」
そう言う俺の背中を沖津は今度は力強く押す。
「いけませんよ。ここに貴方が長居するのは。最後にいいですか、貴方の周りには沢山の人がいます。それを忘れないでください」
渋る俺に対して一方的に捲し立てながら扉の方へグイグイ押していく。扉を開けるといつも廊下へ繋がるその扉の先は黒のインクで塗りつぶしたような漆黒が広がっていた。
「これ行くんですか……」
「大丈夫ですよ秀人さんもいらっしゃいますから」
どこに、と言いかけ右へ視線を移動させた扉の真隣に秀人はいた。秀人と沖津、別れたのはまだ最近だっていうのにこんなに懐かしくて安心する。
「沖津さんは行かないんですか?」
「私は、行けないですねぇ」

「えぇこれ行っても大丈夫なんですか〜?真っ暗ですよ……」
「いいから早く来い」
扉の先に一歩踏み出すと秀人の目線が俺の後ろにあることに気づいた。沖津と秀人は言葉こそ交わさなかったがその目は力強くお互いを見据えていた。俺にはわからない会話が今にもあったのだろう。


秀人に促され後ろをついて歩くとそこには何もなく、漆黒の闇の中に自分と秀人の姿だけがはっきりと視認できる不思議な空間だった。そんな中でも秀人は迷わず歩いていく。
「秀人さんどこに行くんですか」
「お前の帰りたい場所へ、だ」
秀人に言いたいことがたくさんある。まずは「すみません。俺、死んで」秀貴のこれからのこと。
「何故庇った?」
真っ直ぐ向いて歩を止めずに秀人は聞いてきた。
「体が勝手に動きました。あの人が傷つけられるのが嫌だったんです。まぁ……結果こっちの方が悪くなった気はしますね」
そう答えると同時に秀人はピタッと歩を止めた。そしてこちらへ向き直った。見慣れたいつもの軍服で身なりを整えた秀人だった。
「お前に頼んで正解だったな」

その刹那、視界に広がる漆黒の闇が家の庭に変わった。真木家の広い庭に青空が覆うように広がっていた。
「次はもっと上手くやれよ。次なんて、ないがな」
手を伸ばすより早く、そう言って秀人はあの時と同じようにサラサラと粉になって青空に溶けていった。

庭に一人残されて立ち尽くしていると人の話し声が聞こえる。耳をすますと後悔した。これはあいつらの声だ。一族の奴ら、両親。何故ここに?
「甘えるな立て殺せ」「心など要らないのよ」「お前なんていなければ良かった」「人との関わりなど必要ない」「殺すこと以外する必要はない」「期待はずれ」「貴方は裏切らないわよね?」

「五月蝿いな。お前たちのいる場所じゃない。ここは俺と俺の大切な人たちの居場所だ。お前達のせいで聞こえないだろ、命令が。さっさと失せろ」


旋風が俺の前髪を巻き上げる。いつも前髪で隠していた左の額につけられた傷が顕になるとそれを小さな掌が覆う。その掌には覚えがあった。
「秀貴さん」
小さな秀貴が宙に浮かんで己の頭部を包んでいる。
「貴方は秀貴さんですか?」
その問いに瞬く間に足元には真っ赤な水溜まりが出来て砂利の間を広がっていく。
「あぁ、鬼蜘蛛か。う〜ん、その姿なら喰われても良いかな」
己の頭部を覆う腕に手を寄せると頬を寄せてくる。温かいあの温もりだった。
そしてその姿に似つかわしくない女の声が頭に響き渡った。




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