退学者は思い出す 3

文字数 1,501文字

 生きたい、というのとは少し違った。
 このまま死んでしまう道を選ぶことは絶対に許されないと強く思っただけだ。

 他の誰の言葉を裏切ったっていい。
 自分自身を偽ったって構わない。
 それでも、彼の言葉を無視することだけは絶対にクリアの中では許されなかった。生きている限りは頑張るべきで、笑って生きることが出来た後で、やっと楽になるその道に迷い込む理由を自分に与えられる。
 クリアの中では、それだけのことだった。
 あの言葉を裏切るくらいなら、どんな無茶だろうが実行するし、誰に嫌われたって構わないし、どんな意志だって無視できる。


 魔術を使って欲しくない精霊の気持ちなんて、彼の願いの前にはどうでもいい。
 生きることをどうでも良いと思っている自分の気持ちなんて、彼の言葉の前にはどうでもいい。


 初めて深淵でクリアは自らの意志で魔術を使おうと動いた。
 さっきまで全く動かなかった意識を、無理やり剥がすように動かした時、重苦しいその中で嫌がる声と同時に喜ぶ声が聞こえたような気がした。一度動いてみれば、さっきまで感じていた拘束感が嘘のように身軽になって、さぁっと靄が晴れるように深淵内に魔術の経路がはっきり示される。
 これを辿れば、魔術は構築され実行される。
 感覚的にそうだと理解した。
 聞いていた「魔術を使う」感じとはかなり異なるけれど、迷わなかった。
 妙に急かされているような感覚すら感じながら、残り少ない魔力の残りを使って魔術の経路を辿り、終点に着く。


 ぱりん、と薄い硝子が割れるような音。
 おそらくそれはエメラルドが敷いた魔術が壊れた音だったのだろう。


 ただ、魔術が完成して実行のために意識が浮上するより前、魔力が本当に尽きてしまって、現実という水面に届く前に、意識が深淵にとぷっと沈んだ。
 今回は自分の意思ではなく、精霊の抵抗でもなく、本当に力尽きて動けなくなり、ぬるりと深淵の中を沈み始める。
 水の中に沈むというより、沼か蟻地獄にずぶずぶと引きずり込まれるような感じだった。
 あるいは急流に呑まれたような。
 とにかく、さっきまでの拘束とはまた別の、引き込もうとするひどく強い流れを感じる。抵抗する力もない中、まるで意志を持っているかのように深淵へと飲み込まれていく。

 深淵で魔力が尽きれば戻れない。
 それは魔術士にとって当然の理である。深淵を動き回るために絶対に必要なものが魔力なのだ。それが尽きれば、たとえ出口の目の前にいようが出ることは出来ないという。
 己の魔力量に合わない大魔術を使おうとした未熟者の末路で一番あるのが、深淵内での魔力切れによる死亡とされる程度には知られた現象だ。

 これは流石に自死とは呼べないだろうと思ったけれど、頑張ったかとなると微妙だし、笑った記憶もないなと思うと、このまま死ぬのはちょっと嫌かな、と。

 思った所で沈んでいた意識が下から強引に持ち上げられるような、或いは下から楔のようなもので勢いよく貫かれ留められたかのような感覚に襲われた。
 果ての見えない深淵の奥へと引きずり込まれる動きが一瞬止まる。
 人の力では抗えないはずの何か大きな力に、それと同じくらいに大きな何かをぶつけて無理やり止めたような。説明は難しいが、死への落下が止まった安心感よりも、力の奔流の真ん中で両者に押しつぶされる圧迫感の方を強く感じた。このままでは深淵に沈んで死ぬより前、圧死しそうなほどに。
 一体何だと思っていたら、今度は上から痛みすら感じるほど強引に意識を掴まれる。

「やるならやるでギリギリとかやめなさいよねーっ!!」

 ものすごく激しい怒りの声と共に、有無を言わさずクリアは引き上げられた。
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