15 すべてのまぼろしは鞄の海へ消えた

文字数 3,794文字

 薄汚れた扉に手をかける。鈍い音を響かせながら開いた先は真っ暗で、背後から照らす光が影を伸ばす。
 明かりに慣れた目には暗闇ばかりが写り込むが、差し込む光は鉄の輪郭を浮かび上がらせた。昼間なら整備士達の騒々しさに埋まっているこのガレージも、今は静けさに満ちている。
 足を進めガレージに止まる数台の車の中から見慣れた車に近付き、車体の後ろで立ち止まる。右側のテールランプからバンパーにかけて伸びた傷跡。まるで獣が付けたような四本の深く抉られた爪痕と、握り潰されたような跡。とても人が付けられるような跡ではないが、正真正銘自分と同じ人間が付けたもの。

「……夢じゃあ、ないんだよなあ」

 ポツリと落とした呟きは誰に拾われるでもなく暗闇に溶けた。
 ラヘンテミーレで会偶したあの少女が付けた傷跡。自身の見た目より何歳か上の十五、六歳ほどの少女だったように思う。この傷跡は逃げる際に付けられたものだとジェスラは言っていた。だが、少女はとてもではないがこんな傷跡を残せるような風貌ではなく、変わっているといえば右腕は少女には似合わない鱗を持った腕だった。だがそれもこの世界では珍しい事ではない。
 あれは何だったのか。一体どういう意味だったのか。まるで俺を知っているような口ぶりで、俺を殺そうとした少女は一体何者なのか。そっと首に手を伸ばすとあの光景が蘇ってくる。
 今まで生きてきた中で初めて感じた本気の憎悪。俺は彼女と出会った事はない筈だ。ましてや誰かに恨まれるような憶えもない。
 細い光が漏れる扉の向こうから話し声が聞こえ、それを無視するように車に乗り込み座席に体を預けた。

 あれから数日後、マルディヒエロに戻りルフィノを無事送り届け、今はガンリの家にいる。ラヘンテミーレを出て暫くはただ呆然とするばかりでジェスラとルフィノには随分と心配を掛けたように思う。今は大分落ち着いているが、気を失い、次に目覚めた時には殺されかけたという事実に混乱しきっていた。ジェスラに何があったのかと何度も問われたが、喉がつかえて言葉が出ず少女に投げかけられた言葉の事を未だに話せないでいる。自分で考えるよりも、この体は思い出すことへの恐怖を感じているのかもしれない。
 先ほどまでガンリは何があったのかと騒々しかったが、俺がひとりになりたいのを汲み取ってくれたのか、ジェスラはガンリに話があるからとガンリをなだめながら放ってくれた。先ほど漏れ聞こえた声は、今頃ガンリに問い詰められているのかもしれない。

「……俺、殺されそうだったんだ」

 車に付いた傷跡を考えると、あの時ジェスラが様子を見に来ることがなければ本当に死んでいたのかもしれない。そう思うと途端に恐ろしくなってくる。憎悪をたたえた表情に振りほどくことの出来ないほどの腕力、空を掻く足に黒に染まっていく視界。震え始める体を感じ、思考を追い払おうとする。
 しかし、頭に浮かぶのはあの銀髪の少女ばかりだ。

「忘れているなんてあり得ない……」

 あの少女は全てを忘れて生きているのかと言い放った。俺は今まで東郷歩として生きてきた。たった十九年と言われても、それだけの時間は生きてきた。何も忘れているはずなんてない。体が幼くなっても、頭に残る傷跡や本来の年齢の体の面影を感じるこの姿は自分自身だと言っていい筈だ。でも、だとしたらこの右腕は一体なんなのだろう。本当の俺の腕はどこにある?
 右腕をさすると肌同士が触れあう感覚。左腕と遜色ない動きをし、指先までなんの違和感も感じない。違うのは自分とは違う、あの少女と同じ褐色の肌。この腕はあの子のものなのだろうか。

「人じゃなくなったってどういう意味なんだ……」

 見たところ彼女は右腕以外完璧なヒューマの容姿のようだったから、もし本当に腕をすげ替えられと言うのなら、あの鱗の付いた腕によって人ではなくなったと言う意味だろうか。ジェスラと出会った時、差別がどうこう言っていたし、様々な人種が溢れるこの世界にも差別主義者というものはいるのだろう。だが、そんなに単純な話だろうか。

「そんなわけないよなあー……」

 はー、と深くため息をつく。答えが何にしろ恨まれているのは確実だろう。人違いだと思いたいが、この右腕はそう思い込む事は許してくれそうにはない。異形の人々の暮らす世界に来てしまったと思えば、今度は見知らぬ少女に恨まれる。しかも己の右腕はその少女のものでかなり込み入った事情がありそうだ。俺は思った以上に問題を抱えているらしい。
 何かを忘れているという自覚はない。だが確かにクナの森で目覚める前の記憶はあやふやだ。もし何かあるとすればその間かもしれない。体が幼くなったことも、この右腕の答えもそこにあるだろう。
 意図的に考えないようにしてきたが、体が縮むなんてまるで何処ぞの漫画のようだ。以前の自分なら絵空事だと馬鹿にしていただろうが、毎日があり得ない事の連続で大分緩くなってきているのかもしれない。認めたくはないがもう現実逃避じみた事はやめるべきか。
 思えば自覚なんてしていなかった。きっといつか帰れるだろうという甘い考えでいた。少し考えれば分かるはずだ、ここは俺の故郷のように平和な場所ではない。安全を確約されてなんていない。帰れるなんて叶うかもわからない希望にすがって今を見れない。臭いものに蓋をしている場合ではないのだ。自身の問題に向き合って自覚をしなければ、帰る以前にこの世界で生きていけるかも怪しい。

「なんとかなるだなんて……自惚れがすぎたんだよなあ」 
「全く、その通りだね。自分の事を甘く考えすぎなんだよ。呆れを通り越して尊敬する」
「そりゃあ、どうも」
「ついでにひとつ、独り言はもう少し小さくした方がいい。ぶつくさ煩くて眠れりゃしない」
「ああ、ごめ、ん……?」

 俺は今、何に返事をした? 勢い良く声が聞こえた車内後部を振り返る。微量の光しか差し込まない車内は暗く、積み重ねられた木箱やダンボールによってその後ろまでは確認できない。
 子供のようなその声に無意識に答えたがここに子供なぞいるわけもなく一瞬肝が冷える。だがもしかすると近所の子供でも忍び込んで遊んでいるのかもしれない。そう思い座っていた座席から後部の荷台スペースへと音を出さないように移動した。

「誰かいるのか?」

 声をかけてみるが返事はなく、荷物の影も覗き込んでみるが姿はない。結局一番後ろまで隅々探したが誰もいなければ気配すらも感じなかった。

「空耳、いや幻聴か。……俺、ちょっと病院行ったほういいのかな」

 先の出来事で精神的に参っているのかもしれない。重いため息を吐きながら項垂れていれば、ばんばんと車体を叩くような音が聞こえてきた。

「おい、アユムいるかー」

 ジェスラの声が外から聞こえ返事を返すと、ガチャと音を立てながら右手側のドアが開き、見慣れた虎頭が顔を出す。

「そんな後ろで何してるんだ」
「ああいや、バッグ、バッグ探してて」

 丁度足元に放られていた自分のボディバッグを引き寄せ、ジェスラに見せるよう勢いよく持ち上げるがバッグは思いのほか重く腕に負担がかかる。別にやましいことがある訳ではないが、子供の声が聞こえて調べていたなんて言ったら余計な心配をさせそうで咄嗟にそんな言い訳が口をついた。
 ジェスラは気にする様子もなく返事を返すと俺に外に出るように促す。重いバッグをその場で背負い、荷物をすり抜け車から出れば突然ガレージが明るくなる。今しがた電気をつけたらしいガンリがやって来てジェスラと話し始めた。

「今日はもう帰る。修理頼むぞ」
「荷物は」
「今回のは殆どお前から頼まれた物だったからな。他のはもう家に置いてきたから全部下ろしていい」
「おう。……なあアユム。」
「なに」
「近いうちにまた来いよ。なんか聞きたいことあるんだろ」

 聞きたいこととはなんだったか。そういえばAIの事についてガンリが詳しいと言うことで尋ねようとしていた筈だ。その話しかと思い出しガンリを見ると、いつもより少し陰りを帯びた顔で俺を見る。

「うん、わかった。……ありがとうガンリ」
「ん、じゃあな」

 ジェスラから大方の話は聞いたのだろう。ガンリにも心配をかけているのだと思うと本当に申し訳ないと思う。いつまでも引きずってはいられない。ジェスラにもガンリにも近いうちに何があったのかを話すべきだろう。
 ガンリの家を後にしジェスラと共に家路に着いた。街頭が薄く照らす人通りの少ない夜道を歩いてゆく。途中、ガンリの店の周辺に子供は住んでいるのか? とジェスラに尋ねてみたが、あの辺りで子供の姿は見たことはないそうだ。それはわざわざこんな夜更けにガレージの中に忍び込んで遊ぶ子供なんていやしないというわけで。自分が聞いたあの声は幻聴であったのだとますます頭が痛くなる思いだ。ズシリと体にかかる荷物の重さも、きっと疲れているからそう感じてしまうのだろう。帰ったらさっさと寝ようと心に決め、あまり星の見えない夜空を見上げた。



「………………」
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