07 路地裏の猫-2
文字数 3,461文字
「あー、あんなこと言っちゃったけど、俺の方がどうするんだ……」
これじゃあジェスラの二の舞だ。先ほどはジェスラからどうにかハンカチを遠ざけようと狭く入り組んだ路地を進んだが、正直場所がわからない。完全に迷子になってしまったようだった。
見知らぬ街で迷子になってしまったことと、ジェスラから取ってきたこのハンカチをどうするか。このふたつの問題が重なり合い、大変心細い。
「ああ、やっぱりジェスラに捕まってもらった方が……いやいやいや、絶対ダメだろそれは」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると、薄暗い路地に淡く反響する。随分と奥に入ってきたようだが、ここは街のどの辺なのだろう。周りの建物は民家だと思うのだが、人の声や生活音は聞こえてこない。口を噤めばしいんとした空気の音が耳に刺さるだけだ。
その静けさが余計に心細さを掻き立てる。誰か人のいる場所に行けないだろうか。とうろうろしていると、どこからか風に乗って、うっすらと人の声が聞こえてきた。
「…い……!………だ……うが!」
「………でしょう」
「……なん…………!」
「はな………ら……ね」
何人かが言い争ってでもいるような、語気が荒い声が聞こえる。何を言っているかはわからないが、あまり近寄りたくはないな。
別の道を探そうと踵を返した瞬間、ガジャン!と金属か何かがぶつかったような音を皮切りに、バタバタとした足音のような音と、追え!という男のものと思われる怒声が響く。何が起こったのかと驚いていると、音や声が段々とこちらに近づいてくるのがわかる。
近づいてくる音に、何処かに隠れた方がいいだろうか。と思うが、ここは迷路のような狭いわかれ道が時折現れるだけのただの路地裏だ。道の端にガラクタや箱が目に付くが、子供の体だとしても隠れられるような大きさではない。
別にやましいことなどこれっぽっちもないが、ケンカの場面にバッタリ出くわして巻き込まれるなんてのはごめんだ。近づく音から遠ざかるよう、もと来た道を走り出した。
が、子供の足なんて結局大人には勝てないものらしく、大きくなる足音に追いつかれているのがわかる。
こちらの存在に気が付かれているわけがないのに、どうしてこうもこちらの行く先について来るんだ。
「あああ! 無理無理やっぱ何処かに隠れよう!」
足を動かしながら何かがないかと探すが、やはり細い道に転がっているのはガラクタばかりで隠れられるものは見当たらない。もしかしたら! なんて儚い希望を手に、生活音の聞こえない建物の扉でガチャガチャとノブを回してみるが、開く気配は全くない。
「くっそおあああっ、べぶっ!?」
近づく足音に焦りながらも、別の扉に手をかけると、ガチャンという音を響かせ扉が開く。直ぐさま空いた隙間から体を滑り込ませるが、なにかに押される感覚にバランスを崩し、頭から床に豪快に激突した。
バタンガチャンッ
「痛ってえぇ」
鼻筋と額がヒリヒリと痛む。触った感覚から血は出ていないことに安心する。鼻を抑えながら辺りを見渡すと、埃が積もり、所々に蜘蛛の巣や穴が空いた壁など、廃屋のようだ。
キョロキョロと見渡していると後ろからのギィっと木が軋む音にびくりと体が固まる。
「ごめんなさいね、乱暴にしちゃって。怪我はない?」
女性の声だ。すぐさま後ろを振り返ると、薄暗い部屋の中、扉の前に誰かが立っていた。先ほど俺は彼女に押されたのか。
「だ、誰ですか」
「そんなに警戒しないで、あなたに危害は加える気は無いの。ただちょっと隠れたかっただけよ。あなたと同じで」
「俺と同じ?……さっき追われてた人って」
「わたしよ」
ばさっと帽子を取ると、暗色系の長い髪と俺の知る人間にはあり得ないものが存在していた。耳だ、動物、恐らく猫か何かの耳だ。獣の耳がついたヒューマ の女性。
汚れて白く曇ったガラスから取り込まれる光は弱く、彼女の姿を明瞭に見ることは出来ないが、薄ぼんやりとした光源に照らされた顔は美しい。大体、20歳前後の女性だろうか。
「ふー、久しぶりにこんな走ったわ。あなたの足音についてって良かった」
「え?」
足音? まさか、やけにこちらについて来ると思ったが、俺の足音が聞こえていたのか?
「猫って、耳結構いいのよ。あなたの足音つけるくらいどうってことないわ。まあ、さっきの様子じゃあ怖い思いさせちゃったみたいね。ごめんなさい」
俺の言いたい事が顔にでも出ていたのか、くすくすと笑う彼女の言葉に、少しだけ恥ずかしくなる。さっき動揺していたことはばれているのか……。
「で、でも、なんで俺のあとなんか」
恥ずかしさに顔が火照るのがわかる。誤魔化すように話題を変えると、彼女はパタパタと帽子で首元を仰ぎながら、こちらの問いに答えてくれた。
「うーん、地元の人間なら抜け道知っているかと思ったんだけれど、あなたここの人間じゃあないみたいだし。途中で気が付いたけれど、いい感じに進んで行くからそのまま付けて来たのよ。おかげで隠れる事が出来たわ」
彼女はありがとうね。と言うと薄汚れた窓から様子をうかがい始めた。男の声は先ほどよりは小さく聞こえるが、屋内に入ったからそう聞こえるだけで、むしろ近づいているのかもしれない。
「お姉さん。あの声の人たちから逃げてるんですか?」
「そうよ。ちょっと尋ね事してたら、ナンパされちゃったのよねえ。断ったら怒ってね、いやよねーそんなことくらいで怒る人」
カルシウム足りてないのよきっと。と続けておちゃらけたように彼女は言うが、こんなに路地裏で尋ね事なんて普通するだろうか。事の真意は知らないが、話す気は無いのだろう。それ以降会話は途切れ、先ほどより遠ざかった声が外から聞こえるのみだ。
薄い光の中にぼんやりと浮かび上がる彼女を眺めていると、ハッとした。若い女性……汗……そうだ! そっと気付かれないように、持っていたハンカチを出すと、彼女に差し出した。
「あ、あのこれどうぞ使ってくださいっ」
「え?ああ、ありがとう。気が利くのね」
多少声が裏返ってしまったが、彼女は躊躇することもなく、ハンカチで汗を拭き始めた。己の中の罪悪感が非常に疼くが、仕方ないんだ。これは仕方がない事なんだ。と己に言い聞かせる。
「ありがと。洗って返したいけれど、明日にはこの街出なきゃいけないのよね。新しいの買ってあげよっか?」
「いや、ハンカチなんて洗えばいいだけですし、そのまま返してもらって構いません」
「そう? うーんまあいいや、ごめんね」
わざわざ俺の手を取り、はい、ありがとう。とハンカチを渡す彼女。意識などしていなければわからなかったであろう汗の匂いがふわっと香ってきて、少しだけドギマギしてしまう。彼女に悟らせまいと明後日の方を見るが、彼女の笑顔に見透かされてしまっているようで余計落ち着かない。
と、とりあえず、やった、俺はやったぞ。これでジェスラを犯罪者にせずに済むんだ。食い扶持は確保出来たぞ!
じーんと罪悪感と入り混じる達成感にしばらく浸っていると、ねえ、と彼女に声をかけられる。
「はいっ?」
「あなた名前は?」
「へ? あ、アユムです」
「へえ、アユムくんって言うんだ」
裏返った声を誤魔化すようにごほんとごまかすが、別に気にしたそぶりを見せずに彼女はふーんとだけ言うと、扉へと向かって歩いて行った。
あ、尻尾あるんだ。と後ろ姿を眺めていると、ガチャンと鍵を外す音が聞こえる。こちらへ振り返りながら帽子をかぶり直すと彼女は俺に声をかけてきた。
「もう、あの人達は別のところに行ったみたい。もうすぐ日がくれちゃうから、早く帰りなさいね」
ギィイと古い蝶番の音を響かせながら、扉が開くと、先ほどより赤みが強い光が入ってくる。聞こえていた男の怒声や足音はもうない。
外に出て、赤い光を浴びる彼女は眩しそうに、路地裏に入る光に目を細めていた。
「あの、お姉さんの名前は」
「ん? もし……また今度、会えたら教えてあげる」
少し考えるそぶりを見せた後、ニッとした意地悪そうな笑みでそう言うと、彼女は気紛れな猫のように何処かに行ってしまった。ポツンとひとり廃屋に残された俺はただ呆然と、開かれたままの扉を眺めていた。
「あ、帰り道……聞いとくんだった……」
これじゃあジェスラの二の舞だ。先ほどはジェスラからどうにかハンカチを遠ざけようと狭く入り組んだ路地を進んだが、正直場所がわからない。完全に迷子になってしまったようだった。
見知らぬ街で迷子になってしまったことと、ジェスラから取ってきたこのハンカチをどうするか。このふたつの問題が重なり合い、大変心細い。
「ああ、やっぱりジェスラに捕まってもらった方が……いやいやいや、絶対ダメだろそれは」
ぶつぶつと独り言をつぶやいていると、薄暗い路地に淡く反響する。随分と奥に入ってきたようだが、ここは街のどの辺なのだろう。周りの建物は民家だと思うのだが、人の声や生活音は聞こえてこない。口を噤めばしいんとした空気の音が耳に刺さるだけだ。
その静けさが余計に心細さを掻き立てる。誰か人のいる場所に行けないだろうか。とうろうろしていると、どこからか風に乗って、うっすらと人の声が聞こえてきた。
「…い……!………だ……うが!」
「………でしょう」
「……なん…………!」
「はな………ら……ね」
何人かが言い争ってでもいるような、語気が荒い声が聞こえる。何を言っているかはわからないが、あまり近寄りたくはないな。
別の道を探そうと踵を返した瞬間、ガジャン!と金属か何かがぶつかったような音を皮切りに、バタバタとした足音のような音と、追え!という男のものと思われる怒声が響く。何が起こったのかと驚いていると、音や声が段々とこちらに近づいてくるのがわかる。
近づいてくる音に、何処かに隠れた方がいいだろうか。と思うが、ここは迷路のような狭いわかれ道が時折現れるだけのただの路地裏だ。道の端にガラクタや箱が目に付くが、子供の体だとしても隠れられるような大きさではない。
別にやましいことなどこれっぽっちもないが、ケンカの場面にバッタリ出くわして巻き込まれるなんてのはごめんだ。近づく音から遠ざかるよう、もと来た道を走り出した。
が、子供の足なんて結局大人には勝てないものらしく、大きくなる足音に追いつかれているのがわかる。
こちらの存在に気が付かれているわけがないのに、どうしてこうもこちらの行く先について来るんだ。
「あああ! 無理無理やっぱ何処かに隠れよう!」
足を動かしながら何かがないかと探すが、やはり細い道に転がっているのはガラクタばかりで隠れられるものは見当たらない。もしかしたら! なんて儚い希望を手に、生活音の聞こえない建物の扉でガチャガチャとノブを回してみるが、開く気配は全くない。
「くっそおあああっ、べぶっ!?」
近づく足音に焦りながらも、別の扉に手をかけると、ガチャンという音を響かせ扉が開く。直ぐさま空いた隙間から体を滑り込ませるが、なにかに押される感覚にバランスを崩し、頭から床に豪快に激突した。
バタンガチャンッ
「痛ってえぇ」
鼻筋と額がヒリヒリと痛む。触った感覚から血は出ていないことに安心する。鼻を抑えながら辺りを見渡すと、埃が積もり、所々に蜘蛛の巣や穴が空いた壁など、廃屋のようだ。
キョロキョロと見渡していると後ろからのギィっと木が軋む音にびくりと体が固まる。
「ごめんなさいね、乱暴にしちゃって。怪我はない?」
女性の声だ。すぐさま後ろを振り返ると、薄暗い部屋の中、扉の前に誰かが立っていた。先ほど俺は彼女に押されたのか。
「だ、誰ですか」
「そんなに警戒しないで、あなたに危害は加える気は無いの。ただちょっと隠れたかっただけよ。あなたと同じで」
「俺と同じ?……さっき追われてた人って」
「わたしよ」
ばさっと帽子を取ると、暗色系の長い髪と俺の知る人間にはあり得ないものが存在していた。耳だ、動物、恐らく猫か何かの耳だ。獣の耳がついた
汚れて白く曇ったガラスから取り込まれる光は弱く、彼女の姿を明瞭に見ることは出来ないが、薄ぼんやりとした光源に照らされた顔は美しい。大体、20歳前後の女性だろうか。
「ふー、久しぶりにこんな走ったわ。あなたの足音についてって良かった」
「え?」
足音? まさか、やけにこちらについて来ると思ったが、俺の足音が聞こえていたのか?
「猫って、耳結構いいのよ。あなたの足音つけるくらいどうってことないわ。まあ、さっきの様子じゃあ怖い思いさせちゃったみたいね。ごめんなさい」
俺の言いたい事が顔にでも出ていたのか、くすくすと笑う彼女の言葉に、少しだけ恥ずかしくなる。さっき動揺していたことはばれているのか……。
「で、でも、なんで俺のあとなんか」
恥ずかしさに顔が火照るのがわかる。誤魔化すように話題を変えると、彼女はパタパタと帽子で首元を仰ぎながら、こちらの問いに答えてくれた。
「うーん、地元の人間なら抜け道知っているかと思ったんだけれど、あなたここの人間じゃあないみたいだし。途中で気が付いたけれど、いい感じに進んで行くからそのまま付けて来たのよ。おかげで隠れる事が出来たわ」
彼女はありがとうね。と言うと薄汚れた窓から様子をうかがい始めた。男の声は先ほどよりは小さく聞こえるが、屋内に入ったからそう聞こえるだけで、むしろ近づいているのかもしれない。
「お姉さん。あの声の人たちから逃げてるんですか?」
「そうよ。ちょっと尋ね事してたら、ナンパされちゃったのよねえ。断ったら怒ってね、いやよねーそんなことくらいで怒る人」
カルシウム足りてないのよきっと。と続けておちゃらけたように彼女は言うが、こんなに路地裏で尋ね事なんて普通するだろうか。事の真意は知らないが、話す気は無いのだろう。それ以降会話は途切れ、先ほどより遠ざかった声が外から聞こえるのみだ。
薄い光の中にぼんやりと浮かび上がる彼女を眺めていると、ハッとした。若い女性……汗……そうだ! そっと気付かれないように、持っていたハンカチを出すと、彼女に差し出した。
「あ、あのこれどうぞ使ってくださいっ」
「え?ああ、ありがとう。気が利くのね」
多少声が裏返ってしまったが、彼女は躊躇することもなく、ハンカチで汗を拭き始めた。己の中の罪悪感が非常に疼くが、仕方ないんだ。これは仕方がない事なんだ。と己に言い聞かせる。
「ありがと。洗って返したいけれど、明日にはこの街出なきゃいけないのよね。新しいの買ってあげよっか?」
「いや、ハンカチなんて洗えばいいだけですし、そのまま返してもらって構いません」
「そう? うーんまあいいや、ごめんね」
わざわざ俺の手を取り、はい、ありがとう。とハンカチを渡す彼女。意識などしていなければわからなかったであろう汗の匂いがふわっと香ってきて、少しだけドギマギしてしまう。彼女に悟らせまいと明後日の方を見るが、彼女の笑顔に見透かされてしまっているようで余計落ち着かない。
と、とりあえず、やった、俺はやったぞ。これでジェスラを犯罪者にせずに済むんだ。食い扶持は確保出来たぞ!
じーんと罪悪感と入り混じる達成感にしばらく浸っていると、ねえ、と彼女に声をかけられる。
「はいっ?」
「あなた名前は?」
「へ? あ、アユムです」
「へえ、アユムくんって言うんだ」
裏返った声を誤魔化すようにごほんとごまかすが、別に気にしたそぶりを見せずに彼女はふーんとだけ言うと、扉へと向かって歩いて行った。
あ、尻尾あるんだ。と後ろ姿を眺めていると、ガチャンと鍵を外す音が聞こえる。こちらへ振り返りながら帽子をかぶり直すと彼女は俺に声をかけてきた。
「もう、あの人達は別のところに行ったみたい。もうすぐ日がくれちゃうから、早く帰りなさいね」
ギィイと古い蝶番の音を響かせながら、扉が開くと、先ほどより赤みが強い光が入ってくる。聞こえていた男の怒声や足音はもうない。
外に出て、赤い光を浴びる彼女は眩しそうに、路地裏に入る光に目を細めていた。
「あの、お姉さんの名前は」
「ん? もし……また今度、会えたら教えてあげる」
少し考えるそぶりを見せた後、ニッとした意地悪そうな笑みでそう言うと、彼女は気紛れな猫のように何処かに行ってしまった。ポツンとひとり廃屋に残された俺はただ呆然と、開かれたままの扉を眺めていた。
「あ、帰り道……聞いとくんだった……」