第二十七話 精神的支柱
文字数 2,137文字
翌朝八時過ぎ。
恭介たちが通う高校では、いつもと変わらぬ景色の中、一つだけ欠けている部分があった。
二年二組の教室に、智哉の姿がない。
「……西岐、来てないね」
空席を見遣り、結羽が寂しげに呟いた。
いつもならウザいくらいに元気よく教室へ入ってくる少年の声は、ホームルームが終わっても聞こえてこない。
「夏雅さんからも連絡ねェんだ……居るのが当たり前に思っていたヤツが来ねェと、物足りねェな」
恭介も相手に同意を示しながらスマートフォンを確認するが、夏雅からの連絡は相変わらずなかった。
何があったのかわからない二人には、何があったのか考えることも難しい。
────────
同じ頃、特務救急施設の個室で智哉は眠っている。
「…………」
その傍で、椅子に座っている夏雅は微動だにせず弟の様子を心配そうに見守っていた。
「……ぅ、うっ……ぁ……」
「智哉!?」
それまで静かに眠っていた智哉が、苦しそうに呻いて身を捩り始めたことで、跳ねるように反応した夏雅の声が短く響いた。
何か嫌な夢を見ているに違いない。
額に汗が滲み、目尻に涙が滲む。
「や……っ、兄ちゃ……」
「智哉、智哉ッ!」
「!!」
肩を揺さぶると、ハッとしたように目が開いた。
胸元を上下させ、荒い呼吸を繰り返す智哉の視界に入るよう、夏雅は身を屈めて相手の様子を確認する。
「智哉、だいじょ──」
「い、嫌だ!! 来るな!!」
叫び声が響くと同時に、智哉の両腕に弱々しく突き飛ばされた。
人一人を押すには弱過ぎる腕の力。
しかし、夏雅はその力にも目を見開いて後ろによろめき、力なく椅子に腰を下ろした。
力に勝てなかったわけではない。
拒絶されてしまったことが、夏雅を無力にさせた。
「……智、哉?」
智哉はシーツを頭まで引き寄せ、酷く脅え、震えている。
「やめて!! 嫌だ!!」
まさに、手負いの獣を思わせるような警戒心を顕にして、シーツをギュッと強く握っている。
「……智哉、俺だ……兄ちゃんだよ……」
「ッ!?」
極めて優しく、相手が怖がらないようにと穏やかを心掛けて声を掛けると、身体を震わせはしたものの、少しの間を置いてから恐る恐るシーツを目元までずらして夏雅の姿を確認する。
「……智哉?」
不安げに揺れる綺麗な瞳を見つめながら、改めて声を掛けた。
「……兄、ちゃん?」
確認するように問われると、少しの安堵が訪れて微かに口角を上げ、頷く。
「ああ、俺だよ」
「兄ちゃん……」
智哉の表情が、怯えからゆっくりと驚きに変わり、そして、今にも泣き出しそうに弱々しく変わった。
ゆっくりと、上体を起こそうとしている。
「智哉、寝てた方が……」
慌てて抱き起こしてあげると、またまともな力の入らない両腕を突き出された。
「うそつき!!」
「……智哉……」
距離を置こうとする相手の両腕に抗うことなく、夏雅は寂しげに見つめた。
「まもってくれるっていったのに!!」
また、智哉の目元から滴が零れ落ちる。
「……」
夏雅は言葉を失った。
それは、相手に何度も言ってきたことだった。
──『兄ちゃんが、守ってやるからな』
言うだけなら、簡単だった。
ただ、相手のことを守るという気持ちは本物だった。
しかし、今ではもう、何を言おうと言い訳にしかならない。
「……ごめんな」
そう詫びることしか出来ず、夏雅は推し戻そうとする両腕を無視して強引に抱き締めた。
腕の中で、相手は非力にも暴れ始める。
「はなせよ!! 兄ちゃんのうそつき!!」
泣き喚きながら、何度も何度も胸元を殴られ、髪を引っ張られる。
まるで、幼い子どものような抵抗。
それを優しく抱き留めながら、夏雅は上を向いた。
溢れてくる感情を必死に堪えながら、深く震える息を吐く。
「……ごめんな、守ってやれなくて」
「兄ちゃんなんか、だいっきらい!!」
言葉では嫌悪を吐き出しながら、その両腕はしっかりと夏雅の背に回され、服を握っている。
離れないで、と言うように。
「…………」
子どものような口調に、駄々っ子のような振る舞い。
夏雅にはわかっている。
これは、『幼児退行』という精神面からくる症状。
幼い頃からずっと傍に居てくれた兄が、唯一甘えられる心の拠り所だと脳が判断しているために、そうやって甘えることで精神的な安定を図ろうとしている。
今までにも、智哉が極度の不安に陥った際には度々顕れていた。
しかし、夏雅を「兄ちゃん」と呼び、擦り寄って甘えることはあったものの、ここまで激しいことはなかった。
今は、優しく声を掛けて落ち着かせてあげることしか出来ない。
「……俺は、智哉のこと、大好きだからな」
素直な気持ちをそのまま伝え、宥めるようにそっと背を撫でて甘えさせてあげた。
「ん……兄ちゃん、だいすき……」
大きく感情を吐露した相手は次第に落ち着きを取り戻し、先ほどとは打って変わった態度を取り始めた。
夏雅の腕の中で大人しく身を委ね、微かに鼻を啜りながら瞼を伏せる。
幼い子にありがちな、泣き疲れて眠るという状態に近い。
「嬉しいな、ありがとよ」
心の安定が図れるまでの間、暫くは、身体的と精神的の両面を看てあげる必要があるだろう。
智哉が眠ったあとも、夏雅はずっと抱き締めたまま背を撫で続けていた。
恭介たちが通う高校では、いつもと変わらぬ景色の中、一つだけ欠けている部分があった。
二年二組の教室に、智哉の姿がない。
「……西岐、来てないね」
空席を見遣り、結羽が寂しげに呟いた。
いつもならウザいくらいに元気よく教室へ入ってくる少年の声は、ホームルームが終わっても聞こえてこない。
「夏雅さんからも連絡ねェんだ……居るのが当たり前に思っていたヤツが来ねェと、物足りねェな」
恭介も相手に同意を示しながらスマートフォンを確認するが、夏雅からの連絡は相変わらずなかった。
何があったのかわからない二人には、何があったのか考えることも難しい。
────────
同じ頃、特務救急施設の個室で智哉は眠っている。
「…………」
その傍で、椅子に座っている夏雅は微動だにせず弟の様子を心配そうに見守っていた。
「……ぅ、うっ……ぁ……」
「智哉!?」
それまで静かに眠っていた智哉が、苦しそうに呻いて身を捩り始めたことで、跳ねるように反応した夏雅の声が短く響いた。
何か嫌な夢を見ているに違いない。
額に汗が滲み、目尻に涙が滲む。
「や……っ、兄ちゃ……」
「智哉、智哉ッ!」
「!!」
肩を揺さぶると、ハッとしたように目が開いた。
胸元を上下させ、荒い呼吸を繰り返す智哉の視界に入るよう、夏雅は身を屈めて相手の様子を確認する。
「智哉、だいじょ──」
「い、嫌だ!! 来るな!!」
叫び声が響くと同時に、智哉の両腕に弱々しく突き飛ばされた。
人一人を押すには弱過ぎる腕の力。
しかし、夏雅はその力にも目を見開いて後ろによろめき、力なく椅子に腰を下ろした。
力に勝てなかったわけではない。
拒絶されてしまったことが、夏雅を無力にさせた。
「……智、哉?」
智哉はシーツを頭まで引き寄せ、酷く脅え、震えている。
「やめて!! 嫌だ!!」
まさに、手負いの獣を思わせるような警戒心を顕にして、シーツをギュッと強く握っている。
「……智哉、俺だ……兄ちゃんだよ……」
「ッ!?」
極めて優しく、相手が怖がらないようにと穏やかを心掛けて声を掛けると、身体を震わせはしたものの、少しの間を置いてから恐る恐るシーツを目元までずらして夏雅の姿を確認する。
「……智哉?」
不安げに揺れる綺麗な瞳を見つめながら、改めて声を掛けた。
「……兄、ちゃん?」
確認するように問われると、少しの安堵が訪れて微かに口角を上げ、頷く。
「ああ、俺だよ」
「兄ちゃん……」
智哉の表情が、怯えからゆっくりと驚きに変わり、そして、今にも泣き出しそうに弱々しく変わった。
ゆっくりと、上体を起こそうとしている。
「智哉、寝てた方が……」
慌てて抱き起こしてあげると、またまともな力の入らない両腕を突き出された。
「うそつき!!」
「……智哉……」
距離を置こうとする相手の両腕に抗うことなく、夏雅は寂しげに見つめた。
「まもってくれるっていったのに!!」
また、智哉の目元から滴が零れ落ちる。
「……」
夏雅は言葉を失った。
それは、相手に何度も言ってきたことだった。
──『兄ちゃんが、守ってやるからな』
言うだけなら、簡単だった。
ただ、相手のことを守るという気持ちは本物だった。
しかし、今ではもう、何を言おうと言い訳にしかならない。
「……ごめんな」
そう詫びることしか出来ず、夏雅は推し戻そうとする両腕を無視して強引に抱き締めた。
腕の中で、相手は非力にも暴れ始める。
「はなせよ!! 兄ちゃんのうそつき!!」
泣き喚きながら、何度も何度も胸元を殴られ、髪を引っ張られる。
まるで、幼い子どものような抵抗。
それを優しく抱き留めながら、夏雅は上を向いた。
溢れてくる感情を必死に堪えながら、深く震える息を吐く。
「……ごめんな、守ってやれなくて」
「兄ちゃんなんか、だいっきらい!!」
言葉では嫌悪を吐き出しながら、その両腕はしっかりと夏雅の背に回され、服を握っている。
離れないで、と言うように。
「…………」
子どものような口調に、駄々っ子のような振る舞い。
夏雅にはわかっている。
これは、『幼児退行』という精神面からくる症状。
幼い頃からずっと傍に居てくれた兄が、唯一甘えられる心の拠り所だと脳が判断しているために、そうやって甘えることで精神的な安定を図ろうとしている。
今までにも、智哉が極度の不安に陥った際には度々顕れていた。
しかし、夏雅を「兄ちゃん」と呼び、擦り寄って甘えることはあったものの、ここまで激しいことはなかった。
今は、優しく声を掛けて落ち着かせてあげることしか出来ない。
「……俺は、智哉のこと、大好きだからな」
素直な気持ちをそのまま伝え、宥めるようにそっと背を撫でて甘えさせてあげた。
「ん……兄ちゃん、だいすき……」
大きく感情を吐露した相手は次第に落ち着きを取り戻し、先ほどとは打って変わった態度を取り始めた。
夏雅の腕の中で大人しく身を委ね、微かに鼻を啜りながら瞼を伏せる。
幼い子にありがちな、泣き疲れて眠るという状態に近い。
「嬉しいな、ありがとよ」
心の安定が図れるまでの間、暫くは、身体的と精神的の両面を看てあげる必要があるだろう。
智哉が眠ったあとも、夏雅はずっと抱き締めたまま背を撫で続けていた。