第26話 プロパーとトレーナーの狭間で……

文字数 6,800文字

■立場

 加藤の立ち場は、トレーナーである。
 トレーナーとは何をするのが仕事か? といったら、いわゆる新人指導、そして支部補佐である。

 加藤の場合はかなり特殊な事情もあり、比較的自由に営業に出る事が出来てはいたが、本来は自分の成績ではなく「営業所への貢献」を第一に考えなくてはならなかった。


「先生~、今日もちょっと教えてね♪」

 前回の事がきっかけで、急激に加藤の所へ押し寄せる人が多くなっていた。営業所の中では数少ない男性であり成績も優秀、そして営業所で一番若く、穏やかな口調で丁寧な説明──今まで加藤の元へやってこなかったのが不思議だったかもしれないが。

 営業部長に「このような感じで最近身動きが取れないんです」と相談したら、加藤にとっては意外な答え、「それはいい事だ! 元々お前の仕事は指導だからな。お前は若すぎるという事もあってトレーナーを前面に出すのは控えていたが、そりゃ杞憂だったな」と。

 営業部長への相談後、加藤の元へと押し寄せる人の数は倍近くになっていた。どうやら営業部長が「分からない事は加藤に聞いてくれ。親切に教えてくれるぞ」と皆に言いまわっていたのが原因らしかった。

──そして2月初旬のとある日、とうとう皆公認(?)のトレーナーとして発表されてしまった。


「まぁ、今までは試験期間的にトレーナー職をやって貰っていたが、今日からはみんな、加藤を男にしてやってくれ。もしかしたら最年少で将来営業部長になる奴かもしれないからな、ははは」

 誰かしら不平不満の顔を浮かべるか──と思いきや、意外や意外「まぁ、当たり前だよね」という様な顔を浮かべている人達が大半であった。

「加藤リーダー、これからもよろしくね♪」

 一体どれくらいの祝福の声を聞いたであろうか、ここに正式な形での加藤トレーナーが誕生しようとしていた。祝福……一般的に出世街道という言葉で表すのならば、トレーナーというのは出世コースに値する。給料自体が歩合中心ではなく、固定給中心となり、やがては支部長、営業部長、支社長というようにステップアップしていく為の一段階なのである。(ちなみにトレーナー職となって初めて「本社の社員」扱いになる。それまでは「職員」扱いに過ぎない)

 加藤は実質上1年でトレーナーになれたという事を考えれば、これ以上の最短の出世はないであろう。もしかしたら、多くの人が憧れる立場になるのかもしれない。いわゆる管理職、ノルマとは比較的無縁な立場(給料面においてはある程度保証されるので)になる訳なのだから。

 加藤はトレーナーという立場は4月より経験していた。が、それまでは比較的自由に動ける「いち営業マン」という立場でいられた。が、この日を境に加藤の行動パターンは大きく変わる事となった。1週間のうち4日は営業所に缶詰めで皆の指導(相談役)をする事に。唯一の残りの1日は半日は他の営業職員の人の同行……実に1週間のうち自由に動ける時間は半日だけ……という状態になってしまっていた。

(このままだと……営業をしなくなる日というのが近い将来訪れるんだろうな……)

 2週間が経過、当然ながら加藤は実働はしていなかった。これは当然の事で、いくら営業にある程度慣れていたからといって1週間のうち半日しか動けなくて保険が取れる程、甘い世界ではないのである。

(あぁ……契約取れてないや……というか、この状態で契約が取れる訳ないじゃないか……取りあえず営業部長に相談するか)

が、その旨相談してみると……

「お前……それはとても羨ましい事じゃないか。自分の動きが出来ない程皆が加藤の指導を望むなんてトレーナー名利に尽きるというものだよ。指導、支部補佐がお前の仕事になる訳だからな。これからは毎日飛び込み営業はしなくてもいいんだぞ。毎月ノルマに追われなくてよくなるから、お前もラクだろ? 給料自体、固定給に近いからな。この調子でドンドン指導していってくれ!」

という返答が。

(確かに毎月のノルマに追われないというのは気がラクだけど……何か調子狂うなぁ……ま、新しい仕事という事だよ……な)

加藤はなんとか気持ちを切替え、また業務に戻った。


 1ヶ月が経過。
 当然ながら、加藤は契約を1件も取る事なく1ヶ月を終えていた。

(あぁ……とうとう1件も契約出来なかった……というより、この1ヶ月で何人の人と会う事が出来た……んだ?)

 2月24日の締め切りの日、加藤は各個人の成果が掲載されているホワイトボードをボーっと眺めていた。

(いつもなら、締めの日はニンマリしていたり慌てていたり……してたよな……)

加藤の所のゼロという数字が重くのしかかる。

(が……もうここの数字を気にしなくてもいい……というか見てもしょうがなくなる……んだよな……)

──○▼★※‥最後の日、悔いのないよう締めくくろう…○×▼※……

 いつもボーっとしながら聞いている朝礼がなお一層ボーっとしている為、内容は全く頭に入らない。まぁ、成績取ってこいという類いの話には間違いないのであろうが……

 誰もが話半分、半分眠ったような顔をして聞いている朝礼の最中──一種の緊張感をもたらす人物がドアから入って来た。

「すいません! 朝、直行してたので遅れました! あ、取りあえず1件取って来ましたので数字追加しておいて下さい」

 皆の視線がドアの方へ向く。誰が見ても「お前、寝坊だろ……」と思える顔をして入って来た人物──かつての加藤の上司、勝野である。

「お……そうか、御苦労。今度からは連絡いれて遅刻しろよ……」

 そう、営業の世界においては「成績を取って来たものが正義」なのであり、成績を取って来れさえすれば、ある程度の遅刻も許されるのである。恐らくは昨日夜にでも契約を取って、そのまま飲みにいって朝起きれなくて遅刻した──とは誰もが想像する所ではあったが、誰1人その突っ込みを入れなかった、いや、入れさせなかった、勝野の圧倒的な成果によって。

(あぁ……もう勝野リーダーと成績の競争も出来ないんだよな……)

 勝野の成績ボードを見て、何とも言えない気持ちに陥る加藤であった。


「お? 加藤君~、今月ゼロじゃない~。どうしたのかな~? 俺? 今月は苦戦してるよ~~。たったの10件しか取れなくてさ~。気抜いてたらすぐに誰かさんに抜かれちゃ──って、お前はもう数字追わなくても良かったんだよな、ははは~」

 勝野が冗談まじりに加藤にちょっかいを出して来る。恐らく加藤のリーダー昇格を聞いてある意味一番複雑な気持ちだったのは勝野であったであろう。元部下の出世は喜ばしい事ではあるが、同じ土俵で勝負出来る相手がいなくなってしまう訳で……

「そうだよな……お前はもう指導に回ったんだよな。じゃぁ、最後の俺の役目……お前のお客さんの所に挨拶回りに付き合うか。満足にお前、お客さんの所にもう回れないだろうからな。まぁ出世だから、皆、納得してくれるよ」

 少々悲しそうに語る勝野の言葉に、加藤は思わず涙が出そうになった。

「勝野リーダー……出世って何です……か? 確かにトレーナーの仕事はやりがいもありますし、給料も保証されてますし……将来は営業部長や支社長という出世の可能性も開けて来る魅力的な立場とは思いますが……ただ、俺が本当にしたい事は何か? という事を考えると……営業の仕事、飛び込みして……お客さんと出会う事になるんです。……おかしいですか、俺……?」

「……まぁ、他のヤツが聞いたら、アホか! って言うだろうな。管理職になれるヤツはそういないし、なりたくてもなれないヤツのが圧倒的に多い訳だしな。地位を放棄して営業に戻るなんてヤツは、1人しか俺は知らんな。ま、そのバカがお前の目の前にいるんだけどな、ハハハ」

 そうであった。
 勝野は元々トレーナーの立場を放棄して営業に戻った人物だった。理由はただ一つ、「営業がしたいから」という強い希望からであり、去年の加藤には理解は半分程しか出来なかった。──が、今ならばその気持ちが痛い程、分かる。

(俺も……勝野リーダーみたいにスパっと営業に戻れたらな……)

──その思いは、意外な事から決心へと変わる。

■確定申告

「おい、加藤。お前……そういえば確定申告ってどうしてる? 税理士に丸投げ?」

 朝、隣に座る勝野が何かの作業をしながら話し掛けて来た。

「──へ?」

 聞き慣れない言葉を聞き、思わず間の抜けた返事をする加藤。

「……もしかして、お前確定申告やってない──あ! ごめん! すっかり教えるの忘れてた! うわ~、ホントごめんな~。今日夜飯奢るから、それで勘弁な。ホント、すまん!」

 今までここまで下手に出て謝り続ける勝野の姿を少なくとも加藤は見た事がなかった。それが加藤を恐ろしく不安にさせた。

「……あ、あの……意味が分からないんですが……何か重要な事で──」

「ホントなら去年入社時にでも教えるべき事だったんだけどな。正直お前は数ヶ月で辞めると思ったし……俺の下に入って来た男が1年以上続いたヤツ、お前だけだったし。それはお前も分かるだろ? 名前忘れちまったけど、何人かお前が面倒みようとしてたじゃないか」

「はぁ、まぁそれは確かに。で……何を教えて貰ってなかったのですか?」

「いや、最初に言った確定申告の事だよ。ほれ、今俺はそれの為に領収証の整理をしてるんだよ」

「──え? もしかして税金を納めなくてはダメで俺、去年納税してなかったという事になるんですか?」

「あ、いや……その逆なんだよ」

「──え? 逆?」

「俺達営業職員というのはいわば個人事業主みたいなものだろ?」

「はい、確かに契約取ってナンボの世界で固定給というものではないですよね」

「で、それは給料だけではなく、ホントに個人事業主みたいなものなんだよ」

「は、はぁ……」

「で、お前給料明細って見た事あるか?」

「は、はい。入社時に数度だけ。ただ、あまりの給料の低さに唖然としてそれから明細は落ち込むから見ない様になりました」

「……じゃ、殆ど中身の詳細は見ていない……みたいだな」

「は、はい……」

「ま、俺の給料明細で説明するよ。例えば、ほれ。色々差っ引かれているの分かるか?」

「は、はい。詳細は分からないですが、色々引かれてるのは分かります」

「まずな、最初に経費とか関係なく税金が差っ引かれてしまうんだよ。が、うちらは経費が案外認められているから、年間所得から経費を差っ引いたものを本所得として申請出来るんだな、これが。まぁ、交通費とか交際費とか、色々差っ引ける訳だ。他の人はどうしてるかは知らんけど、大体収入の50%程度まではどうにか経費にぶち込めるんだな、経験上」

「……な、なんとなく分かります。つまり、1000万の収入があったとしてそれから差っ引かれる税金、経費で500万落としてその引いたものから差っ引かれる税金の差額が申請したら戻って来る……という事……ですか?」

「そうそうそう、中々理解いいじゃないか」

「で……去年は俺、その申請していなかった……と」

「そうそうそう……ごめんな~、すっかり忘れてたよ……」

「……案外の額、戻って来たんじゃない……です?」

「……ま、1回のボーナス分くらい……上手くいけば……って、そんな細かい事気にするな! お前ならこれから十分それくらい取り戻せるって、はははは。よし! 今回だけは俺がその確定申告手伝ってやる!」

「──! ありがとうございます。で、何すればいいんです?」

「──あ! お前……領収書取るクセつけてあるか?」

「は……喫茶店程度ならば……」

「わちゃ~……こりゃ厳しいな……ま、どうにかやってみるか。お前、これからどんな領収書でもいいから自分の名で取るクセつけておけよ。いわば銭だからな、これ」

「は、はい……」

 細かく計算すれば、数十万程いわば損した話である。が、幸か不幸か、加藤は給料明細どころか銀行の通帳記入すら滅多にしない程無頓着であったが為、あまり気にする事なく、話を流していた。

■トレーナー職の給料

「取りあえず去年の給料明細全部持って来いや。どうせロッカーの中に全部埋まってるんだろ?」

「……よく分かりましたね」

「バカ! これでもお前のトレーナーやってたんだぞ。お前の行動パターンくらい読めるわ! 後、一番上の引き出しに領収書関係とかぐっちゃぐちゃに入れてあるだろ。それも全部出せや!」

……まるで加藤のロッカーや机を物色した事でもあるのか、という程勝野の読みは完全であり、ロッカーや一番上の引き出しは様々な紙が充満していた。それを全て勝野に渡す。

「さ~て。お前の2年目の給料は、と。大まかな数字から推測すると、今年は1500万超えたかな~、カトちゃんに何奢ってもらおっかな~♪」

……まるで自分の給料明細を見るかの様に、嫌に上機嫌である。まだ封を破っていない給料明細を手際良く一気に破り捨て、1枚目をみた瞬間、勝野の顔色が変わった。

「おい! お前……いつからトレーナーになってるんだよ!」

「あ、い、いや……」

 よく考えたら4月から加藤がトレーナー職という事を知っているのは営業部長と支部長の2人くらいであり、営業所内でも秘密の事ではあった。普段の業務からはまず分かり得ないごく普通の活動をして来ている加藤であるので、誰にも分かり得ない事ではあった。が、給料明細では一目で分かる──という事をすっかり頭から抜けていた。

「実は────」

 加藤がトレーナーになるまでの話を流れを追って説明する。全ての話が終わった後、少々溜息交りで勝野が語りはじめた。

「お前……俺が何でトレーナー辞めたか話したよなぁ。指導で銭貰うよりも、自分の手で保険取って給料貰った方がいいからって」

「はい……」

「まぁ……給料の仕組みをまともに教えてこなかった俺が悪いか……いいか、よく聞けよ。営業の場合は、自分が取った数字が全てだ、それは分かるよな? トレーナーの場合はあくまでも自分の数字は一部でしかなく、チーム全体の数字になるんだよ。それが給料に反映してくるんだよ。だから、同じ数字を取るだけだったら当然営業のが断然良くなる訳。ここまでは分かるな?」

「は、はい。大まかには」

「トレーナー職のメリットとしては、ある程度の固定給が会社から出るんだな。ま、500万から600万くらいはあるんじゃないかな。だから、鳥居トレーナーみたいに保険があまり取れない人なんかはメリットは大きいんだろうな。が、俺とかお前くらい保険取って来るようになると話がガラっと変わって来るんだよ。トレーナーは数字が乗って来ないから、どう頑張ってもせいぜい1500万程度にしかならないんだよな」

「って……そんなにあれば十分じゃないで──」

「バカ! ホントに、なんでお前が保険取れるのか不思議だよ。いいか、この2年の数字を今後も取り続けたら……お前は優に年収3000万以上はいけるんだよ!」

「──え?」

「で……今お前の給与明細ざっくり見たけど……目安550万あるかないか……か。下に人ついてなかったしな、お前。……トレーナーやってなかったら、今年2000万プレーヤーになれてたかも……な」

「──え??」

 あまりの衝撃に思わず目が点になった加藤。この時点で確定申告の事はすっかり忘れていた。まさか、そんな給料の仕組みだったとは、と……

「一言俺に相談してくれれば、細かい話教えてやれたんだがな……まぁ、今後の事考えたらお前、トレーナー降りろや。固定給に納まる器じゃないだろ、お前は」

「そりゃ今の話を聞いたら、トレーナーで残る理由がないですよ。元々、俺、営業ができなくなる事に未練ありましたし。ただ、何か非常に言い出しにくい雰囲気になってません? 正式発表から1ヶ月しか経ってないですし……もうちょっと時間置いた方が──」

「そんな悠長な事言ってたら、絶対抜け出せなくなるって。来月にはお前のチーム作る気満々みたいだし。それに営業部長、お前を抜擢した事を自慢げに他の営業部や支社で話してるみたいだぞ? 今月中に辞めなかったら、お前は二度と営業に戻れないって」

「……辞めるって言って、怒られないですかね?」

「ま……俺が営業部長だったら、怒り狂ってお前を半殺しくらいにはするだろうな……」

「うぅぅ、やっぱそうですよね……でも、これが3ヶ月後だったら半殺しじゃ済まないですよね……港に沈められるかもしれないですよね……だったら、まだ半殺しのがマシですよね……腹くくるしかないですね……明日、きっぱり言います!」

「お! お前も成長したじゃないか。けど……本当にいいのか? 二度とトレーナーになれないかもしれないぞ? 立場もかなり悪くなると思うぞ?」

「はい……覚悟は出来てます!」


──皆に公表されてわずか1ヶ月……加藤は営業に戻る事を心に堅く誓っていた。
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