第13話 優等生として

文字数 3,438文字

■新人、そして……

 2月初旬。加藤は既にノルマとは無縁の世界に突入していた。

 1月の挨拶回りが予想以上の効果を発揮。1月こそ4件という成績に終わったが、2月に入ってから立続けに保険の話が舞い込んで来て、今の段階で既に6件をマークしていた。(ちなみに当時の加藤のノルマは3件)

 とある夜、珍しく営業部長からの誘いにて、飲みにいく事になった。

「ふぅ、お前ももうすぐ1年になるのか、早いものだなぁ。よく続いたよ……」

席についての一言がこうだった。

「何言ってるんですか、続いて当然じゃないですか。まだ1年ですよ?」

と加藤がすかさず突っ込むのはごく当たり前の話である。

「いや、な。今残っているお前の先輩達でお前の前に入って来た奴、誰か知ってるか? 勝野だよ。勝野は入社4年経ってるのは知ってるよな? じゃぁ、この4年間にお前以外に男が誰も入ってこなかったと思うか? 毎年2人は入って来てたよ。残っているのは誰もいないがな。4年の間で、残ってるのはお前だけなんだよ、実は」

……非常に意外な、が、少し考えてみたら分かるような話を聞かされた。ごく当たり前のようにここにいる加藤、気付くと同期の人達は既に1人も残っていなかった。入社当初契約をいきなりあげていた杉山さんをはじめ、いつ辞めていったのか、何故辞めたのかは不明。ちなみに7月戦の飾りつけの買い物にいった先輩もいつの間にかいなくなって……

(今まで入って来た人達も、同期の人と同じだったのかな?)

保険業界の厳しい現実を少し知った気がした加藤であった。

 さらに営業部長の話は続く。

「正直、お前が今まで通りダメだったら以後男性職員を取らないつもりだったんだよ。が、お前みたいな奴──いや、こういっちゃ悪いがな……だってお前なんぞこんなに保険とれるようになるとは誰も思わなかったからなぁ。そう、お前が残った事によって、また新人を何人か取ろうかと思うんだよ」

「へぇ~、いいんじゃないですか?」

 加藤は半分聞き流すように話を聞いていた。正直、この時は目の前の食事、そしてビールを飲むのに神経を集中していた。いい感じで酔いが回って来ていての、いわば生返事状態である。

 さらにビールを飲む為、ジョッキを口に持っていく。口にビールが注がれ、喉にさしかかろうとした時、営業部長はさらに話しはじめた。

「そこで、その新人の面倒をお前に見てもらおうと思っているんだよ」

「ぶっはぁ~」(ビールを口から吐き出した音)

「で、特例中の特例になるのだが、お前を4月よりトレーナーに抜擢するつもり──」

「ゴホッ、ゴホ……!」(肺にビールが入ったのか、むせている咳の音)

「ちょ……何をおっしゃるんですか、まだ俺、ようやく1年経とうとしている所ですよ、トレーナーなんてとても……」

 大きく、加藤の営業人生が変わろうとしていた。

 実績だけがモノをいう厳しい生命保険営業の世界。数字が取れなければどんなベテランですら収入は保証されない。それは重々理解していた。が、その逆は全く想像すらしていなかった。実績さえあげてしまえば規定さえも覆ってしまう。それも生命保険営業の世界である。加藤の実績は本人は自覚はなかったが、規定を覆すに十分値するものとなっていたのである。

■異動、そして……

 3月、年度末の締めの時期であり、同時に人事異動が発表される時期である。加藤の営業所も例外はなく、異動する人物がいた。専門部(入社3年以上の人達が所属する部署)の支部長の異動をはじめ、なんと大森支部長(彼は育成部(入社2年未満の人達が所属する部署)の支部長)までもが異動となったのである。

 そして、トレーナーを降りる人、退社していく人……これは毎月の事ではあるが、3月という時期が一番このような事が多い時期にあたる。

 加藤は1人悩んでいた。
 トレーナー、いわば「新人指導」の立場に抜てきするという営業部長の意向。自分に一体何が出来るというのだろうか……入社1年で、指導……恐らく自分よりも年下の入社は当面してこないであろうし。

──職選、どう? 私あと2件足りないんだよね……

 周りから聞こえてくる声は、加藤の悩み解決には到底結びつくものではなかった。

 勝野に相談を、とも思ったが、当の勝野は2月下旬より「俺は来月が職選だから、俺の事で精一杯だから、この間は何も言ってくるな」と宣言していたところであった。

 当の営業部長は、というと……同じく年度末の締めという事で、支社と営業所を行ったり来たりを繰り返していた。

 悩む……という言葉は正確ではなかったかもしれない。 あくまでも決定事項であり、加藤にとってそれを受けるかどうかという選択肢は存在しなかったので。

 とにかく、分かっているようで全く分からないトレーナーとしての仕事は何か? という事が全く分からない事が加藤を異様に不安にさせていた。

 3月下旬、ようやく営業部長、勝野達に話を聞けるきっかけが出来た。 今度異動になる人達の送別会を開く事になったからである。

(色々なアドバイスを、聞くぞ)

そう心の中で思っていた矢先、営業部長より呼び出しを受けた。

「おぅ、加藤。いい忘れていたが、こないだの件はまだ誰にも言うなよ」

「──え? どういう事で……」

「お前がトレーナーというのが分かると僻む人とかいたりするから、当面の間は皆には分からないような形を取ろうと思っているんだよ」

「い、意味が分からないです……」

「とにかく、お前は普段通りにしていればいいんだよ。今後の事については改めて話すから、な」

全く意味の分からない話である。何故に秘密事項になるのか? 僻みとは?

──その答えが分かるのは、実に1年の歳月が必要となる事を加藤はまだ知らないでいた。

 送別会……といっても、普段の飲み会に等しい雰囲気が終始続いた。 ただ一つ違った事は、今回このような飲み会にて初めて「割り勘」で出費した事であった。割り勘の料金が──3万円。今まで何げなしに飲み会に参加し、先輩達に奢ってもらっていた加藤にとってはかなりショッキングな出費であった。

「おぅ、加藤。来月からはお前も後輩が出来たら奢ってやらなくてはいけないぞ」

帰り際、大森が伝えた言葉が、直接大森と交わした最期の言葉となった。


■銀行預金残高

 加藤はこの1年間、口座残高を調べた事がなかった。 というのも、普段遣うお金は毎月給料の入る口座より自動振込み扱いにて生活口座としていれており、毎月5万という毎月の「自由に遣えるお金」で普通に生活出来ていたからである。

 いくら給料が入って、いくら残っているのか──皆によく聞かれてはいたが、加藤自身も知らなかったし、知ろうともしなかった。

「おぅ、加藤。お前、車は乗れるのか?」

ふと、勝野に聞かれた。

「車、一台買っておいた方がいいぞ。遠くに営業にいく時とか便利だし、今後必要になってくるかもしれないからな」

「何をおっしゃいますやら。そんなお金持ってないですよ……」

「お前……夜どこか遊びにいったり、何か大きなお金遣ったか?」

「いえ……毎晩勝野リーダーに連れ回さ──いえ、連れて貰っていましたので……」

「……お前、口座残高みた事あるか?」

「いえ……ただ、そんなにないでしょう、1年しか経っていないですし……」

「……お前、給料明細みてるか?」

「いえ……1ヶ月目に見て20万くらいだったので、そう変わりはないか──」

「お前、アホか! 成績とったら銭に結びつくのがこの仕事なんだよ。お前かなり契約とってた筈だから、給料も倍以上ある筈だぞ、一度見てみろ」

「──え?」

 入社以来初めて、給料の入る銀行口座残高を見てみる事となった。……何故か勝野も付いて来た。

「取りあえず、100万以上あったら今日お前の奢りで飲みいくぞ!」

「はは……そんなんないですって」

「じゃ、見てみろよ。なかったら俺が1ヶ月飯奢ってやるから」

 残高を見る。

「……は?」

思わず声が出てしまった。正確には桁が瞬間的に把握出来ず、予想外の数字がズラっとならんでいた。

「どれどれ……おぉ! お前、金持ちじゃん!」

勝野が横から覗き込み、思わず呟く。

「いや……ただ、100万なかったですよ、やはり」

「バカ、お前、桁が違う! 10倍だよ!」

「──え?」

 5,842,562円。

これが残高であった。

 この口座は入社時に作ったものなので、当然それ以前の貯蓄等皆無。 1年足らずで、実に600万近い貯蓄が出来た加藤であった。

──第一章:完──
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