第1話 入社
文字数 4,552文字
■入社初日
「え~、今から新人を紹介します。新人の人達は前に来て下さい」
4月某日、加藤はとある会社の営業所に初出社した。いや、正確には今日から正社員という形にて働く事になった。
この会社は日本を代表する大手国内生命保険会社であり、売上・規模も他の会社よりも頭一歩リードしている所である。
一見会社名だけみれば非常に大手に就職出来ていいな、と人に羨ましがられるかもしれない。が、実際はいち生命保険職員、生保レディと呼ばれる人達と同じ立場での入社であり、一言でいえば「誰でも入れる業界」なのである。
研修等というものはないに等しく、まさしく「実践で覚えていけ」という感じであり、生き残れるかどうかは本人次第という厳しい業界である。
同期入社にて入ってきたのは自分を含めて5人。当然、加藤以外は全て女性である。生命保険は女性の仕事と言われる通り、同期入社は当然の事、営業所にて男性の人数は数える程しかいなかった。
次々に自己紹介が終わり、ついに加藤の番になった。
「え~、この度働く事になった加藤といいます。……どうぞよろしく、お願い、します」
「加藤、声が小さい! ここまで聞こえん!!」
と、まるで漫才の突っ込みのように間髪いれず突っ込みをいれた人物がいた。加藤の上司にあたるこの男、勝野秀雄という。この男は4年前に加藤と同じように一般営業職員として入社以降、バンバン保険契約をあげまくり、今では指導員という管理職に成り上がった人である。
営業センスは言うまでもなくズバ抜けているものの、過去には何人もの部下をノイローゼにまで追い込んだ恐怖の指導員という噂は既に加藤の耳に入っており、実際にその噂に違わぬ──いや、噂以上のスパルタといって過言ではない厳しい指導・突っ込みが入社前より行われていた。
自己紹介にて要した時間は実際、5人で5分程度であっただろうか。が、加藤にはこの時間が30分にも1時間にも感じられた。そう、加藤は人見知りが激しくかつ、上がり性であったからである。自己紹介、これが終わっただけだというのに、既に加藤は1日仕事を終えたかのような疲労感に襲われていた。
「では、本日の成果発表を行う!」
営業部長が快調に話を進める。
「杉本さん1件修S1200万、杉山さん1件修S500万、町さん1件修S700万、宮田さん1件修S1303万~~」
──?!
疲労感にて眠気に襲われていた加藤はハっと我にかえった。
──何故、彼女達は既に契約をあげている……んだ?
そう、この4人は加藤と同期入社、加藤と同様に今日が初日なのである。 それなのに、契約の成果発表にて名があがっている。
加藤は一瞬驚いたものの、即座に現実を受け止めていた。この結果は生命保険業界では当たり前の事であり、ある程度予想出来た事であったからである。
──そっか……第一基盤契約……か。
※この第一基盤というのは何か? というと、親や子ども、友人・知人の事を示す言葉である。
元々生命保険がとれるようになるまでには非常に時間がかかる為、自分で契約がとれるようになる前まではこの第一基盤契約を取っていきノルマを埋めていけ、というアドバイスは受けていた。彼女達はそれを実践しただけ、である。が、加藤はやらなかった──いや、出来なかった。
生命保険業界に入るにあたり、加藤は入社を渋られていた。生保職員は基本的に誰でもなる事が出来る仕事である。それどころか、生保職員になりたい人を誘って来ればその誘ってきた人の成績にすらなる程だ。会社としては、人材は1人でも多く欲しいのである。
そのような業界にて、加藤は渋られていた。理由は「友人・知人がいないから」である。
何故いないのか?
学生時代、加藤はマルチに手を出し、知り合いという知り合いを潰しまくっていたからである。よって、第一基盤という重要な見込みがないという、いわば一般の人よりもマイナス地点からのスタートを余儀なくされていたのである。
その事は重々承知している筈であった。が、頭では分かっていても実際に契約を第一基盤からあげた彼女達の事が気にならないといえば嘘であり、いわば嫉妬観に苛まれていた。
長い朝礼が終わり、勝野に呼ばれた。
「加藤、お前は他の人達よりもマイナスのスタートだ。……夜はその日のうちに帰れると思うな! そして……今年1年は休みがないものと思っておけ!」
と、一言。
多少オーバー表現だろうな、と思いつつ、これから厳しい日々が自分を待っているのだという事だけはこの時でも認識できた。ただ、現実はオーバーな表現でも何でもない、事実と間もなく気付く事になるのだが。
「リーダー、自分はこれからどうしていけばいいですか?」
加藤は勝野に対して質問した。
学生あがり、当然保険営業等やった事がある筈もなく、何をしていいか分からない状態の加藤にとって、勝野の指示は絶対必須であった。
「ん? そうだなぁ。取りあえずこのアンケートを取ってこい。10枚取るまでは営業所に帰ってくるなよ!」
後述するが、勝野が加藤に与えた数少ない指示らしい指示の1つがこれであった。
「取りあえず何件も飛び込め。身体で覚えろ。それしかお前が生き残っていく道はないからな!」
ごもっともである。第一基盤がない加藤にとって、確かにこの飛び込みにて活路を見い出していくしか方法はなかった。当然、飛び込み経験はある筈もなく、取りあえず基本のみを教わった。
教わった事は以下の通り。
・くわえタバコはするな
・相手の目をみてしゃべれ
・断られたら速攻で会釈して次あたれ
・引き下がるな
ちなみにトークはこれだけ。
「○○生命の加藤です。今度こちらの地区の担当になりましたので1件1件挨拶回りをしています、どうぞよろしくお願い致します」
これだけ言え、余分な事は言うな、と。
まわるべき地区の住宅地図をノートにはりつけ、研修中に作らされた自己紹介ビラを200枚程コピーを取り、アンケート用紙を20枚程用意し、初めての飛び込みをする地区へと向かった。
■はじめての飛び込み
現地に到着。
まずはマンションから飛び込みを開始する事にした。
最上階から、いざ呼び鈴を。
文章にすると非常にあっけないものだが、加藤のこの記念すべきドアノックするまでに要した時間は実に30分。それまでの間加藤の頭の中に断られたらどうしよう、声が震えないかな、等と色々な考えが頭を支配していた。
教えられた唯一のトーク(ただの挨拶だけなのだが)を何度も頭の中でシミュレーションし、心臓が爆発しそうなくらい緊張する中、人さし指を呼び鈴に押し当てた。
──ピンポーン
(と、とうとう呼び鈴を鳴らしたぞ! どんな事を言われるのだ?)
……反応がない。
最初の1件目は留守であった。
一気に緊張感が身体から抜けていき、足下が崩れそうになる。
(と、取りあえず次いかないと……)
隣の呼び鈴を鳴らす。
……ここも反応がない。
(あれ? また留守か)
次も、そしてその次も。なんと、20件連続にて留守であった。
21件目。
「……はい」
──?!
低い男性の声が……! 呼び鈴を押しているので人がいれば当然のリアクションであるが、どうせまた留守であろうという気持ちでいた加藤は大きく動揺し、そして激しい緊張感が身体を支配した。先程何度も頭の中でシミュレーションした一行のみの挨拶すら頭から消え去り、まさしく頭が真っ白という状態に。以下、その後のやり取りである。
「はい、どなたですか?」
「あ……す、すいません。今度こちらの担当になった加藤といいますので挨拶に回っています──」
「うちは結構です」
「……またお願いします」
これが記念すべき飛び込みの最初の応対であった。
頭に血が昇っていて何をしゃべったのか暫く分からない程緊張していた。
取りあえずマンションの屋上に昇り、一息つく事に。
(あ、そういえば○○生命とも何もいわなかったよなぁ。これじゃ断られて当然だよな)
冷静になれば即座に分かるような事でも、現場では分からないものである。 まして今日が初めての飛び込みである加藤にとっては。 頭の中で整理をして、再度飛び込みへ……!
たどたどしくも、呼び鈴を鳴らし続ける事50件をこえる頃──加藤は何とか挨拶だけはしゃべれるようになっていた。
(ふぅ……大分慣れてきたぞ。けど、全然ドア開けて貰えないなぁ。これじゃアンケート取るどころじゃないよなぁ。しかもアンケートを取るだけではなく、その後に保険の契約を取る事になるんだよなぁ。……そこまで出来る様になるのか、俺?)
非常に遠い道のりに感じた。生保業界の離職率が高いのもよく分かる。将来的な不安感が頭を支配──する事は、皮肉な事に勝野のこれまでのスパルタ指導によりなかった。 目先の「アンケートを取らなかったら勝野にドヤされる」という恐怖が加藤の頭を支配していたからである。
■アンケート回収1件目
飛び込みを開始して時間にして3時間程経過── 時刻は15時を回っている。 訪問した件数はマンションを回った事もあり、300件を超えている。が、まだアンケート回収はない、というか未だドアを開けて貰えていない。 都会とはこうも厳しいものなのか。
が、この結果のままでは帰れない。最低でも出ていく時に用意した自己紹介ビラだけでも消化しない事には何を言われるか分かったものではない。
幸いにも(?)、加藤はこのままでは何をされるか分からないという恐怖心が何件も断られたショックを飲み込み、次への出だしを躊躇なくすすめる事が出来ていた。
30分後、事は起きた。
──ピンポーン
「……はい」(ガチャ)
──?!
なんと、ドアスコープ越しにて誰が来たかを確認する事なくドアが開かれたのである。 表札には「田畑」と書いてある。もう少し後の話になるのだが、実に加藤にとって初めての契約に繋がる家がここである。
「今度こちらの地区担当になりました加藤といいます、どうぞよろしくお願い致します。それでお手数ですがこちらのアンケートに御協力お願い出来ませんでしょうか?」
「え? これ書かなくてはいけないの?」
「はい、実は今日、初めての仕事でして、このアンケートを10枚取ってくるまでは帰って来るなと言われているんですよ……」
「そうなの、分かったわ。これ書けばいいのね」
「──! ありがとうございます!」
アンケートが……とうとう取れた。保険に結びつくにはまだ遠い道のりというのは分かってはいるのだが、少なくとも一歩は前進したんだ、という喜びが加藤を包み込む。
その後、加藤は勢いにのった。休憩をいれずに飛び込みし続け、20時までに実に13枚のアンケートを取っていた。
帰社後、アンケートを取った所を見込み台帳に記入、勝野の雑用の手伝いをさせられた後、ようやく退社。 長い長い1日が終わり、家に辿り着いた時は実に夜中1時を超えていた。
『最初の1年はその日のうちに帰れると思うなよ。休みはないと覚悟しておけ!』
布団で横になり、今日勝野が言っていた事がただの脅しではなく事実だったんだという事に気付き、思わず苦笑いを浮かべた。
(とんでもない会社に入ったもの……だなぁ。生き残れるのか、俺?)
「え~、今から新人を紹介します。新人の人達は前に来て下さい」
4月某日、加藤はとある会社の営業所に初出社した。いや、正確には今日から正社員という形にて働く事になった。
この会社は日本を代表する大手国内生命保険会社であり、売上・規模も他の会社よりも頭一歩リードしている所である。
一見会社名だけみれば非常に大手に就職出来ていいな、と人に羨ましがられるかもしれない。が、実際はいち生命保険職員、生保レディと呼ばれる人達と同じ立場での入社であり、一言でいえば「誰でも入れる業界」なのである。
研修等というものはないに等しく、まさしく「実践で覚えていけ」という感じであり、生き残れるかどうかは本人次第という厳しい業界である。
同期入社にて入ってきたのは自分を含めて5人。当然、加藤以外は全て女性である。生命保険は女性の仕事と言われる通り、同期入社は当然の事、営業所にて男性の人数は数える程しかいなかった。
次々に自己紹介が終わり、ついに加藤の番になった。
「え~、この度働く事になった加藤といいます。……どうぞよろしく、お願い、します」
「加藤、声が小さい! ここまで聞こえん!!」
と、まるで漫才の突っ込みのように間髪いれず突っ込みをいれた人物がいた。加藤の上司にあたるこの男、勝野秀雄という。この男は4年前に加藤と同じように一般営業職員として入社以降、バンバン保険契約をあげまくり、今では指導員という管理職に成り上がった人である。
営業センスは言うまでもなくズバ抜けているものの、過去には何人もの部下をノイローゼにまで追い込んだ恐怖の指導員という噂は既に加藤の耳に入っており、実際にその噂に違わぬ──いや、噂以上のスパルタといって過言ではない厳しい指導・突っ込みが入社前より行われていた。
自己紹介にて要した時間は実際、5人で5分程度であっただろうか。が、加藤にはこの時間が30分にも1時間にも感じられた。そう、加藤は人見知りが激しくかつ、上がり性であったからである。自己紹介、これが終わっただけだというのに、既に加藤は1日仕事を終えたかのような疲労感に襲われていた。
「では、本日の成果発表を行う!」
営業部長が快調に話を進める。
「杉本さん1件修S1200万、杉山さん1件修S500万、町さん1件修S700万、宮田さん1件修S1303万~~」
──?!
疲労感にて眠気に襲われていた加藤はハっと我にかえった。
──何故、彼女達は既に契約をあげている……んだ?
そう、この4人は加藤と同期入社、加藤と同様に今日が初日なのである。 それなのに、契約の成果発表にて名があがっている。
加藤は一瞬驚いたものの、即座に現実を受け止めていた。この結果は生命保険業界では当たり前の事であり、ある程度予想出来た事であったからである。
──そっか……第一基盤契約……か。
※この第一基盤というのは何か? というと、親や子ども、友人・知人の事を示す言葉である。
元々生命保険がとれるようになるまでには非常に時間がかかる為、自分で契約がとれるようになる前まではこの第一基盤契約を取っていきノルマを埋めていけ、というアドバイスは受けていた。彼女達はそれを実践しただけ、である。が、加藤はやらなかった──いや、出来なかった。
生命保険業界に入るにあたり、加藤は入社を渋られていた。生保職員は基本的に誰でもなる事が出来る仕事である。それどころか、生保職員になりたい人を誘って来ればその誘ってきた人の成績にすらなる程だ。会社としては、人材は1人でも多く欲しいのである。
そのような業界にて、加藤は渋られていた。理由は「友人・知人がいないから」である。
何故いないのか?
学生時代、加藤はマルチに手を出し、知り合いという知り合いを潰しまくっていたからである。よって、第一基盤という重要な見込みがないという、いわば一般の人よりもマイナス地点からのスタートを余儀なくされていたのである。
その事は重々承知している筈であった。が、頭では分かっていても実際に契約を第一基盤からあげた彼女達の事が気にならないといえば嘘であり、いわば嫉妬観に苛まれていた。
長い朝礼が終わり、勝野に呼ばれた。
「加藤、お前は他の人達よりもマイナスのスタートだ。……夜はその日のうちに帰れると思うな! そして……今年1年は休みがないものと思っておけ!」
と、一言。
多少オーバー表現だろうな、と思いつつ、これから厳しい日々が自分を待っているのだという事だけはこの時でも認識できた。ただ、現実はオーバーな表現でも何でもない、事実と間もなく気付く事になるのだが。
「リーダー、自分はこれからどうしていけばいいですか?」
加藤は勝野に対して質問した。
学生あがり、当然保険営業等やった事がある筈もなく、何をしていいか分からない状態の加藤にとって、勝野の指示は絶対必須であった。
「ん? そうだなぁ。取りあえずこのアンケートを取ってこい。10枚取るまでは営業所に帰ってくるなよ!」
後述するが、勝野が加藤に与えた数少ない指示らしい指示の1つがこれであった。
「取りあえず何件も飛び込め。身体で覚えろ。それしかお前が生き残っていく道はないからな!」
ごもっともである。第一基盤がない加藤にとって、確かにこの飛び込みにて活路を見い出していくしか方法はなかった。当然、飛び込み経験はある筈もなく、取りあえず基本のみを教わった。
教わった事は以下の通り。
・くわえタバコはするな
・相手の目をみてしゃべれ
・断られたら速攻で会釈して次あたれ
・引き下がるな
ちなみにトークはこれだけ。
「○○生命の加藤です。今度こちらの地区の担当になりましたので1件1件挨拶回りをしています、どうぞよろしくお願い致します」
これだけ言え、余分な事は言うな、と。
まわるべき地区の住宅地図をノートにはりつけ、研修中に作らされた自己紹介ビラを200枚程コピーを取り、アンケート用紙を20枚程用意し、初めての飛び込みをする地区へと向かった。
■はじめての飛び込み
現地に到着。
まずはマンションから飛び込みを開始する事にした。
最上階から、いざ呼び鈴を。
文章にすると非常にあっけないものだが、加藤のこの記念すべきドアノックするまでに要した時間は実に30分。それまでの間加藤の頭の中に断られたらどうしよう、声が震えないかな、等と色々な考えが頭を支配していた。
教えられた唯一のトーク(ただの挨拶だけなのだが)を何度も頭の中でシミュレーションし、心臓が爆発しそうなくらい緊張する中、人さし指を呼び鈴に押し当てた。
──ピンポーン
(と、とうとう呼び鈴を鳴らしたぞ! どんな事を言われるのだ?)
……反応がない。
最初の1件目は留守であった。
一気に緊張感が身体から抜けていき、足下が崩れそうになる。
(と、取りあえず次いかないと……)
隣の呼び鈴を鳴らす。
……ここも反応がない。
(あれ? また留守か)
次も、そしてその次も。なんと、20件連続にて留守であった。
21件目。
「……はい」
──?!
低い男性の声が……! 呼び鈴を押しているので人がいれば当然のリアクションであるが、どうせまた留守であろうという気持ちでいた加藤は大きく動揺し、そして激しい緊張感が身体を支配した。先程何度も頭の中でシミュレーションした一行のみの挨拶すら頭から消え去り、まさしく頭が真っ白という状態に。以下、その後のやり取りである。
「はい、どなたですか?」
「あ……す、すいません。今度こちらの担当になった加藤といいますので挨拶に回っています──」
「うちは結構です」
「……またお願いします」
これが記念すべき飛び込みの最初の応対であった。
頭に血が昇っていて何をしゃべったのか暫く分からない程緊張していた。
取りあえずマンションの屋上に昇り、一息つく事に。
(あ、そういえば○○生命とも何もいわなかったよなぁ。これじゃ断られて当然だよな)
冷静になれば即座に分かるような事でも、現場では分からないものである。 まして今日が初めての飛び込みである加藤にとっては。 頭の中で整理をして、再度飛び込みへ……!
たどたどしくも、呼び鈴を鳴らし続ける事50件をこえる頃──加藤は何とか挨拶だけはしゃべれるようになっていた。
(ふぅ……大分慣れてきたぞ。けど、全然ドア開けて貰えないなぁ。これじゃアンケート取るどころじゃないよなぁ。しかもアンケートを取るだけではなく、その後に保険の契約を取る事になるんだよなぁ。……そこまで出来る様になるのか、俺?)
非常に遠い道のりに感じた。生保業界の離職率が高いのもよく分かる。将来的な不安感が頭を支配──する事は、皮肉な事に勝野のこれまでのスパルタ指導によりなかった。 目先の「アンケートを取らなかったら勝野にドヤされる」という恐怖が加藤の頭を支配していたからである。
■アンケート回収1件目
飛び込みを開始して時間にして3時間程経過── 時刻は15時を回っている。 訪問した件数はマンションを回った事もあり、300件を超えている。が、まだアンケート回収はない、というか未だドアを開けて貰えていない。 都会とはこうも厳しいものなのか。
が、この結果のままでは帰れない。最低でも出ていく時に用意した自己紹介ビラだけでも消化しない事には何を言われるか分かったものではない。
幸いにも(?)、加藤はこのままでは何をされるか分からないという恐怖心が何件も断られたショックを飲み込み、次への出だしを躊躇なくすすめる事が出来ていた。
30分後、事は起きた。
──ピンポーン
「……はい」(ガチャ)
──?!
なんと、ドアスコープ越しにて誰が来たかを確認する事なくドアが開かれたのである。 表札には「田畑」と書いてある。もう少し後の話になるのだが、実に加藤にとって初めての契約に繋がる家がここである。
「今度こちらの地区担当になりました加藤といいます、どうぞよろしくお願い致します。それでお手数ですがこちらのアンケートに御協力お願い出来ませんでしょうか?」
「え? これ書かなくてはいけないの?」
「はい、実は今日、初めての仕事でして、このアンケートを10枚取ってくるまでは帰って来るなと言われているんですよ……」
「そうなの、分かったわ。これ書けばいいのね」
「──! ありがとうございます!」
アンケートが……とうとう取れた。保険に結びつくにはまだ遠い道のりというのは分かってはいるのだが、少なくとも一歩は前進したんだ、という喜びが加藤を包み込む。
その後、加藤は勢いにのった。休憩をいれずに飛び込みし続け、20時までに実に13枚のアンケートを取っていた。
帰社後、アンケートを取った所を見込み台帳に記入、勝野の雑用の手伝いをさせられた後、ようやく退社。 長い長い1日が終わり、家に辿り着いた時は実に夜中1時を超えていた。
『最初の1年はその日のうちに帰れると思うなよ。休みはないと覚悟しておけ!』
布団で横になり、今日勝野が言っていた事がただの脅しではなく事実だったんだという事に気付き、思わず苦笑いを浮かべた。
(とんでもない会社に入ったもの……だなぁ。生き残れるのか、俺?)