第5話 保険会社の常識?
文字数 7,529文字
■初契約
契約が……取れた。
過去の出来事が走馬灯のように蘇る──という事は一切なく、不思議なもので逆に「どうしよう」と加藤は思ってしまっていた。
何故「どうしよう」と思ったか? というと、加藤は契約が取れればいいな、と想像していた反面、「世の中そんなに上手くいく筈ないよな」と思っていた部分が強く、契約が取れた後の準備を全くしていなかったからである。
(契約書、どうやって書くんだっけ……た、確か、こうだった……かな?)
契約書は幸いにも用意してきている。が、実際に書いて貰うとなると、昔(といっても1ヶ月程度前の話だが)に聞いた事があるくらいで、具体的にどこをどう書いて貰えばいいか分からない。 といっても契約書自体、書いて貰う部分は多くはなく、何とか書いて貰う。
(さて……確か銀行引き落としの紙を書いて貰うんだったよな。……ん? 銀行引き落としの用紙が……ない? し、しまった! すっかり忘れていた……)
「す、すいません、銀行引き落としの用紙を忘れてしまったので、今から至急会社から取ってきますね」
「あ、分かりました」
慌てて会社へ向かう。
自転車で10分ちょっとの距離の場所を3分で──という事はなくせいぜい8分くらいか。 汗だくになりながら、会社に到着。
「ただいま戻りました」
「おぉ、どうだった?」
「契約取れました!」
「おぉ、おめでとう! 契約書を見せてみろ」
勝野に契約書を見せると、間髪入れず怒鳴り声が。
「アホ! 契約者と被保険者の印鑑が何で同じなんだ! 後、ここ書いて貰ってない! 後、面接士の予約は? 後────」
──不備の嵐、だった。
「早く契約書作り直して、もう一度契約書、書いて貰え!」
……契約が取れた喜びは一気に覚め、何故か締め切り間近に契約が全く取れていない焦燥感に似た感情が加藤を覆った。
(また不備だったらどうしよう……)
そんな思いを抱きながら、再び田畑さんの家に。
「すいません、実は契約者と被保険者の印鑑は違うものにしないといけないんですよ。後────」
「あぁ、そうなんですか。分かりました、書き直しますね。あ、ここ間違えちゃった、横線訂正でいい?」
「あ、いいですよ」
銀行引き落としの用紙も書いて貰い、今度こそ完了だ! と思い、再度会社に戻る。そして勝野に契約書をチェックして貰う。 そうしたら、また勝野の一喝が……!
「バカ! 横線訂正の所に訂正印がないだろが! 訂正印貰ってこい!」
三たび、田畑さん家へ。
「す、すいません。一つだけ訂正印お願いします。ここの横線訂正の所に訂正印押さないとダメとの事なんですよ」
「あら、そうなのね。ちょっと待って下さいね──」
今思うと、よくもまぁ怒らずに何度も契約書の訂正等してくれたものだと思ってしまう。 本当に、いい人である。
そして、またまた会社へ。
「おぉ、今度は……ちゃんとマトモな契約書だな。ただ、ミスが多い! お前、これから契約書の書き方、繰り返し書いて覚えておけ!」
まるで小学生の漢字書き取り練習の様に、何度も何度も契約書を書いた加藤であった。 そして加藤が解放されたのは、既に空は赤く染まっていた後であった。
加藤にとっての初契約、少しほろ苦い思い出になってしまった。 実際、暫くの間、契約を取ってくる度に「また不備があって勝野にドヤされるかもしれない」と、ビクビクしたものである。そう、まるで契約が取れなかった方がいいかの様に。
なにはともあれ、加藤の保険営業物語のストーリーが、ようやく幕を開けた。
■勢い
翌日の朝礼、先日の成果が発表される。
「加藤、1.5件修S1202万」
──ジーン……
初めての成果。
思わず胸が熱くなる。
ただ、あくまでもこの程度の数字では注目を浴びる事はなく、他の人達の成果に埋もれる形になる。ズラっと並ぶ、先日の成果発表の数字。 よくもまぁ、これだけ数字が並ぶものだ、と感心すらしたものである。
いつものように、地区へ出向く加藤。
契約を1件取れたという事で、気分的にちょっと大人になった自分を感じながら(笑)
──ピンポ~ン
「は~い」
「あれ? 加藤君、今日は何?」
この田中さんという家へは何度かなじみ活動をしていた事もあり、少なくとも警戒なくドアを開けてくれるようになっていた。
「実は今日、保険の設計書を持ってきました。上からの命令で……」
実は、そのような指示等出ていない。
加藤自身が設計書提示の理由として強引に考えた末の話法である。
取りあえず加藤は過去アンケートを取った際に保険未加入の所に保険を提示してみる事を試していたのである。田畑さんのようなラッキーを再び求めて。
「ん~、確かに保険は入ってないけど、今、私は入れないのよね」
「え? 田中さん、病気なんですか?」
「いや、私、実は先日仕事辞めちゃってね。今、次の仕事探してる所なの」
「あ、それならうちの会社に来ません?」
「──え?」
入社当時の加藤からは想像出来ない程、すんなりと言葉が続く。
「丁度、今うちの会社、社員募集している時期で今日説明会やってるんですよ。良かったらその説明会に来ません?」
「ん~……、行こう……かな」
「では、今日の14時か16時ですとどちらがいいですか?」
「ん~、じゃぁ14時かな」
「分かりました、その時間で押さえておきますね。では、またお迎えに来ますね」
勢いとは恐ろしいものである。
契約が取れたという事で、この時の加藤は「どんな話も上手くいく」という不思議な自信に満ちていた。その為か、スラスラと言葉が。
当然、説明会があるというのも嘘。保険業界というのは常に人を求めていて、入りたい人がいたらいつでも話をし、勧誘するものなのである。
14時と16時という選択というのも嘘。別に四六時中営業部長は営業所にいるので時間なんていつでもいい訳だが、なんとなく時間指定した方が決断を促しやすそうだったので。
営業トークという点でいうと、「2つの選択話法」「丁度今日~という、特別感を持たせる話法」「入社を、ではなく、あえて説明会という事で業界のイメージアップ(?)」という3つの技術を駆使していた事になる。 当然、加藤はそのような事は全く考えてやった訳ではないのだが……
早速、会社に戻る。
「ただいま戻りました! 営業部長、ちょっといいですか?」
「おぉ、加藤。どうした?」
「実は今日、職を探している21歳の子がいましたので、一度話を聞きに来ないかという話をしたら、話を聞きに来るという事になったんですよ。ちなみに元エレベーターガールです」
「おぉ! それは凄い。で、いつ頃になりそうなんだ?」
「それが、今日の14時に来る約束をしてきました」
「お、お前……どうしたんだよ。なんか人が違ったように準備がいいじゃないか」
全くその通りである。ホント、よくもまぁこんな準備のいい活動が出来たものだ。
面談の話を営業部長に伝えた後、さっそうと再度飛び込みにいこうと出ようとすると──
「加藤、ちょっと待て。お前、昼飯はどうするんだ?」
「いえ、俺は今、金欠なので食べない予定ですが……」
「じゃぁ、奢ってやるから、ちょっと来い!」
思わず心で歓喜のガッツポーズ。
そう、加藤は昼御飯をここ暫く食べない事が多く、昼食にありつけるという事自体非常に有り難かった。食事といっても、そこらの牛丼屋みたいな所を想像していたのが……営業部長が選んだ食事処は加藤の想像の斜め上をいっていた。
某有名ホテルのランチ。
味は……分からなかった。
というか、何故こんな所で食べる必要性があるのか? という事だけ、頭の中をグルグル回っていた。
「どうだ、旨いだろ」
「は、はい……」
何故か、ワインまで。
よく昼間からお酒を飲む会社だ……と思いつつ、少し頂く。
「さて、そろそろいくか、元デパガの子を迎えに」
会計へ。
「合計で、11,050円となります」
(──は?)
耳を疑った。
それを驚く様子もなく、ごく当たり前のようにカードで支払う営業部長。 この業界とは、こんなものなのか? 不思議に思ったものである。
そして、先ほどの田中さんを迎えにいき、会社で説明会。
といっても、営業部長がただ話をするだけではあるが。説明会という事で1人では怪しまれるとでも思ったのか、数人の営業職員がサクラとして参加していた。
話終了後、田中さんが一言。
「私、もしかしたら今……非常に大きな人生の分岐点になっている様な気がしてならないの」
まぁ、この業界を垣間見た人は少なからずそういうものである。実はこの彼女、後に加藤の人生に大きな影響を与える重要人物となるのであるが、少なくともこの時はそんな予感は微塵も感じていなかった加藤であった。
営業部長の車にて、送りにいった帰りの車内で、加藤が一言。
「……地区営業って、思わぬ出来事、あるんですね」
営業部長は、言葉を発する事なく、静かに頷いた。
■7月戦前
加藤は6月の初契約が取れた後、更にもう1件の契約をあげる事に成功していた。 ラッキー的な契約で、飛び込みした先の人が「丁度保険考えてたんだよね」と、自身でプランを作成、いともあっさりと契約が取れたのである。
(毎回このような人ばかりだと、非常にラクなのに)
と加藤がその時思ったのは言うまでもない。
通常、生命保険会社の締切り日は24日になる。が、6月の締切りはそれよりも1週間早くなっていた。
本来なら、その月の締切り週という事でバタバタとしている筈の営業所に、全員が集められていた。そして、営業部長の話がはじまった。
「え~、6月の締切り、御苦労さん。今日から実質的に7月戦になる訳だが、第一報の予定を今から聞かせてもらう」
第一報? 聞き慣れない言葉だ。
思わず、勝野に質問する。
「ん? 第一報? まぁ、単純な話、来週頭にどれだけの契約を取ってくるのか? という事だな」
「えぇ? 今日締切り終わったばかりじゃないですか。何故来週までに数字が出来るんです?」
「ばっかだなぁ、お前。7月とはそういう月なんだよ。だから6月はあえて契約はおさえて第一報でドンと出すのがミソなんだよ」
「リーダーはちなみにどれだけの数字を──」
会話の途中で、営業部長が勝野に話を振る。
「勝野、7月第一報の数字は?」
それに間髪いれず答える勝野。
「はい、えーっと、4件4800万です」
その数字を聞いて安心したのか、一瞬ニヤっとしたような表情を浮かべたかと思うと、間髪入れず加藤に話を振る。
「次、加藤。数字は?」
「えぇ? いや、数字と言われても……」
「じゃ、取りあえず1件1200万な!」
全くもって、訳の分からないやりとりが続いていた。
勝野の言っていた数字、実に優秀と言われる営業職員の月ノルマの数字よりちょっと多いくらいであった。
(な、なんなんだ、7月ってのは……そ、そういえば、選出会議たるものに出ていた様な……修S5000万とか言っていたっけ? え?)
ちなみに当時新人である加藤の本来のノルマは低く、修S1500万でノルマ達成というものであった。
──何故、7月に通常月の数倍もの契約をあげなければならないのか……
聞いた答えは「重大月、いわゆるキャンペーン月だからだな」との事であったが……数年たった後にも、この重大月に契約を大量に取らなくてはならない理由というのは見つけだす事が出来なかった加藤であった。
ただ、研修期間中から教わってきた事、上司の言う事は絶対服従──言われたからにはやらなくてはならない。
契約がようやくとれるようになった加藤にとって、いわば無謀とも思える数字が重く加藤の心にのしかかっていた。
「リーダー、どうやったら通常月の数倍の契約取れるんです?」
「そりゃ、単純だ。通常月の数倍動けばいいだけだよ」
……なんともひねりのなにもない、アドバイス(?)を受け、訳の分からないまま、7月戦の準備が行われようとしていた。
幸いにも、丁度先月(といっても本来なら6月なのであるが)にアプローチ(というよりは殆ど相手側から切り出してきた話であるが)していた先から保険入るよという返事を頂き、無謀とも思えた1週間で成果をあげるという事に奇跡的に成功していた。
飛び込み、いわば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」というのはまさしく加藤の事を示し、そこまで多くはないが、相手側から話を切り出してくるという事もそれなりにあったりする。それで加藤は何度助けられた事か。
■飾り付け&決起会?
6月23日土曜日、当然の様に出社命令が出ていた。普段から土曜日の出社を余儀無くされている加藤にとってはいつもと変わらぬ土曜日の筈であった。(土曜日は朝10:00の出社で良いと言われていた。ちなみに平日は8:00までに出社(本来は9:00までに出社なのだが)で、お茶汲みやら掃除等やらされていた)
いつものように10:00に出社、大森支部長がいきなり怒号を一閃。
「遅い! お前、舐めとるのか!!」
「えぇ?」
「7月戦直前の土曜日は男は8:00出社というのを知らないのか!!」
「あ、ごめんなさい、加藤に伝えるの忘れてました」
……勝野の連絡ミスだったらしい。
まわりを見渡してみる。普段と全く違う雰囲気、何故か皆、腕まくりをし、汗だくである。
(……な、何をしている……んだ?)
パっと見、大掃除のように見える。が……何かが違う。
「とにかく、加藤! お前は桑原と買い物にいってこい!」
何が何だか分からないうちに、買い物にいく事に。ちなみに桑原とは加藤より2年先に入った先輩(男)の人である。実に、2人きりになるのは入社以来初めてで、よく考えたら口も聞いた事がなかった。
「せ、先輩。一体なに買いにいくんですか?」
「あぁ、ビーチボールとか飾り付け用のヒモ等だよ」
「──? な、何するんですか?」
「ハハッ、今回はハワイのイメージだとよ」
「????」
全くもって意味が分からない。
とあるデパートに到着。
冗談とさえ思っていた代物をどんどん購入していく。合計費用、実に20万超といった所か。
海の波の音のCD等、一体何に使うんだ?
缶詰めのつめもの50セット?
etc……
訳分からないまま、2時間弱の時間をかけ、買い物終了。
「ただいま戻りました」
「おぉ、ごくろうさん。どれどれ……ん~、いい感じだなぁ。このフサフサは波をイメージしたものだな」
……つくづく何がなんだか分からない。
「さて、今から飾り付けするぞ!」
大森の掛け声により、一斉に部屋の模様替えがはじまった。
2時間近く意味が分からないまま動いていた加藤はとうとう口に出して聞いてみた。
「あ、あの……一体何してるんですか?」
「見れば分かるだろ! 営業所の模様替えだよ!」
「そ、それは分かりますが……な、何故こんなド派手にするんです?」
「今年はまだ地味な方だぞ。そりゃ7月戦だからに決まってるだろが。部屋をド派手にしたら、みんなもやる気になるだろ?」
「は、はぁ……」
なんて強引な理屈なのだろうか……
意味が分かった様な分からない様な感じで手伝いをしていた加藤であった。 ちなみに、この行事は未だに行っている営業所があるという事を付け加えておく。
実に3時間くらいが経過したであろうか。すっかり営業所内は別世界へと変わっていた。壁はブルーの紙を張り巡らせ、海をイメージ。 天井からはビーチボールや魚の浮き輪を吊るし、蛍光灯までカラフルに──
な、なんて悪趣味な……と思わず口に出しそうになったのを必死に腹に納めたのは言うまでもない。
バックミュージックは波の音。御丁寧にも、扇風機の風でフサフサが波のように流れる様な視覚効果まで。
──一体……何の意味があるのだろうか……しかも、20万超のお金を遣って──
どうやら生命保険会社の儀式の様なものらしいのだが、この感覚が理解出来た事は一向になかった。
時間は16:00、これで晴れて解放されるかと思いきや「さ~て、今から決起会やるぞ」という言葉と共に、飲み屋へと。
■決起会?
「じゃぁ、今日はみんなお疲れ様」
「お疲れさまで~す」
ビールを乾杯して飲む。いわば営業所の模様替えは肉体労働に等しかった訳であり、ビールが異様に旨く感じた。
次々と料理が出てくる。いつもながら「ここ、いくらで食べられる所なんだ?」と思う様な場所である。 例えばここなんかは……大きな水槽に魚が泳いでいて、それを刺身にしている様で──
「そういえば加藤、お前第一報はどうなった?」
大森支部長が聞いてくる。昨日なんとか契約を取っていたので、いわば自慢げに1件取れている事を報告すると、予想外の答えが。
「お前、アホか! 第一報で1件だと? ここにおるヤツみんな4件は出来てるぞ!」
「──は?」
「入社時に言っただろ、男は出来て当たり前。他の人の2倍やって当然なんだよ。じゃなかったら、いる意味ないんだよ!」
「──は??」
なんともハードな世界に入ったという事を、否が応でも思い知らされた。 人並みじゃダメだよ、と。
「選出会議でもお前、メシ食べただろう。その分もお前は働かなくてはいけないんだぞ!」
タダ飯を食べれる程甘くないよ、と。 タダ飯を食べたからには、それ相当の成果をあげろよ、と。 そのような事……らしい、当然、この決起会というのも──
「勝野、お前は今年は(修S)2億ノルマな」
「は、はい……」
「加藤、お前は……まぁ新人という事で、ノルマは(修S)1億で許しちゃる」
「……は?」
「ばっか、お前、勝野なんか、最初の重大月の時(修S)2億以上の成果あげたんだぞ! それに比べれば大した事じゃないだろ!」
「は、はぁ……」
選出会議の時言われた数字が修S5000万、今日の決起会で言われた数字が修S1億、倍になっていた。 4件くらいで修S5000万いくかいかないか、という事は要するに8件やれよ、と。
目の前が思いっきり暗くなる。
「お前は他のヤツより、入社以来数字をあげてないんだ! このアホんだらぁが!」
etc……
数多くの罵声(叱咤?)を浴びせられ、加藤が家路に付く時には冗談抜きに退社を決意していた程である。
(何が悲しくてここまで言われなければいけないんだよ! 7月、ドドっと契約あげて、それで辞めてやる!)
なんて言うのだろうか……反骨心と言っていいのかどうかは分からないが、ともかくも加藤のやる気(前向きかどうかは別として)は最高潮に達していた。
いよいよ、7月戦がはじまる。
いわば「地獄の一ヶ月」が。
契約が……取れた。
過去の出来事が走馬灯のように蘇る──という事は一切なく、不思議なもので逆に「どうしよう」と加藤は思ってしまっていた。
何故「どうしよう」と思ったか? というと、加藤は契約が取れればいいな、と想像していた反面、「世の中そんなに上手くいく筈ないよな」と思っていた部分が強く、契約が取れた後の準備を全くしていなかったからである。
(契約書、どうやって書くんだっけ……た、確か、こうだった……かな?)
契約書は幸いにも用意してきている。が、実際に書いて貰うとなると、昔(といっても1ヶ月程度前の話だが)に聞いた事があるくらいで、具体的にどこをどう書いて貰えばいいか分からない。 といっても契約書自体、書いて貰う部分は多くはなく、何とか書いて貰う。
(さて……確か銀行引き落としの紙を書いて貰うんだったよな。……ん? 銀行引き落としの用紙が……ない? し、しまった! すっかり忘れていた……)
「す、すいません、銀行引き落としの用紙を忘れてしまったので、今から至急会社から取ってきますね」
「あ、分かりました」
慌てて会社へ向かう。
自転車で10分ちょっとの距離の場所を3分で──という事はなくせいぜい8分くらいか。 汗だくになりながら、会社に到着。
「ただいま戻りました」
「おぉ、どうだった?」
「契約取れました!」
「おぉ、おめでとう! 契約書を見せてみろ」
勝野に契約書を見せると、間髪入れず怒鳴り声が。
「アホ! 契約者と被保険者の印鑑が何で同じなんだ! 後、ここ書いて貰ってない! 後、面接士の予約は? 後────」
──不備の嵐、だった。
「早く契約書作り直して、もう一度契約書、書いて貰え!」
……契約が取れた喜びは一気に覚め、何故か締め切り間近に契約が全く取れていない焦燥感に似た感情が加藤を覆った。
(また不備だったらどうしよう……)
そんな思いを抱きながら、再び田畑さんの家に。
「すいません、実は契約者と被保険者の印鑑は違うものにしないといけないんですよ。後────」
「あぁ、そうなんですか。分かりました、書き直しますね。あ、ここ間違えちゃった、横線訂正でいい?」
「あ、いいですよ」
銀行引き落としの用紙も書いて貰い、今度こそ完了だ! と思い、再度会社に戻る。そして勝野に契約書をチェックして貰う。 そうしたら、また勝野の一喝が……!
「バカ! 横線訂正の所に訂正印がないだろが! 訂正印貰ってこい!」
三たび、田畑さん家へ。
「す、すいません。一つだけ訂正印お願いします。ここの横線訂正の所に訂正印押さないとダメとの事なんですよ」
「あら、そうなのね。ちょっと待って下さいね──」
今思うと、よくもまぁ怒らずに何度も契約書の訂正等してくれたものだと思ってしまう。 本当に、いい人である。
そして、またまた会社へ。
「おぉ、今度は……ちゃんとマトモな契約書だな。ただ、ミスが多い! お前、これから契約書の書き方、繰り返し書いて覚えておけ!」
まるで小学生の漢字書き取り練習の様に、何度も何度も契約書を書いた加藤であった。 そして加藤が解放されたのは、既に空は赤く染まっていた後であった。
加藤にとっての初契約、少しほろ苦い思い出になってしまった。 実際、暫くの間、契約を取ってくる度に「また不備があって勝野にドヤされるかもしれない」と、ビクビクしたものである。そう、まるで契約が取れなかった方がいいかの様に。
なにはともあれ、加藤の保険営業物語のストーリーが、ようやく幕を開けた。
■勢い
翌日の朝礼、先日の成果が発表される。
「加藤、1.5件修S1202万」
──ジーン……
初めての成果。
思わず胸が熱くなる。
ただ、あくまでもこの程度の数字では注目を浴びる事はなく、他の人達の成果に埋もれる形になる。ズラっと並ぶ、先日の成果発表の数字。 よくもまぁ、これだけ数字が並ぶものだ、と感心すらしたものである。
いつものように、地区へ出向く加藤。
契約を1件取れたという事で、気分的にちょっと大人になった自分を感じながら(笑)
──ピンポ~ン
「は~い」
「あれ? 加藤君、今日は何?」
この田中さんという家へは何度かなじみ活動をしていた事もあり、少なくとも警戒なくドアを開けてくれるようになっていた。
「実は今日、保険の設計書を持ってきました。上からの命令で……」
実は、そのような指示等出ていない。
加藤自身が設計書提示の理由として強引に考えた末の話法である。
取りあえず加藤は過去アンケートを取った際に保険未加入の所に保険を提示してみる事を試していたのである。田畑さんのようなラッキーを再び求めて。
「ん~、確かに保険は入ってないけど、今、私は入れないのよね」
「え? 田中さん、病気なんですか?」
「いや、私、実は先日仕事辞めちゃってね。今、次の仕事探してる所なの」
「あ、それならうちの会社に来ません?」
「──え?」
入社当時の加藤からは想像出来ない程、すんなりと言葉が続く。
「丁度、今うちの会社、社員募集している時期で今日説明会やってるんですよ。良かったらその説明会に来ません?」
「ん~……、行こう……かな」
「では、今日の14時か16時ですとどちらがいいですか?」
「ん~、じゃぁ14時かな」
「分かりました、その時間で押さえておきますね。では、またお迎えに来ますね」
勢いとは恐ろしいものである。
契約が取れたという事で、この時の加藤は「どんな話も上手くいく」という不思議な自信に満ちていた。その為か、スラスラと言葉が。
当然、説明会があるというのも嘘。保険業界というのは常に人を求めていて、入りたい人がいたらいつでも話をし、勧誘するものなのである。
14時と16時という選択というのも嘘。別に四六時中営業部長は営業所にいるので時間なんていつでもいい訳だが、なんとなく時間指定した方が決断を促しやすそうだったので。
営業トークという点でいうと、「2つの選択話法」「丁度今日~という、特別感を持たせる話法」「入社を、ではなく、あえて説明会という事で業界のイメージアップ(?)」という3つの技術を駆使していた事になる。 当然、加藤はそのような事は全く考えてやった訳ではないのだが……
早速、会社に戻る。
「ただいま戻りました! 営業部長、ちょっといいですか?」
「おぉ、加藤。どうした?」
「実は今日、職を探している21歳の子がいましたので、一度話を聞きに来ないかという話をしたら、話を聞きに来るという事になったんですよ。ちなみに元エレベーターガールです」
「おぉ! それは凄い。で、いつ頃になりそうなんだ?」
「それが、今日の14時に来る約束をしてきました」
「お、お前……どうしたんだよ。なんか人が違ったように準備がいいじゃないか」
全くその通りである。ホント、よくもまぁこんな準備のいい活動が出来たものだ。
面談の話を営業部長に伝えた後、さっそうと再度飛び込みにいこうと出ようとすると──
「加藤、ちょっと待て。お前、昼飯はどうするんだ?」
「いえ、俺は今、金欠なので食べない予定ですが……」
「じゃぁ、奢ってやるから、ちょっと来い!」
思わず心で歓喜のガッツポーズ。
そう、加藤は昼御飯をここ暫く食べない事が多く、昼食にありつけるという事自体非常に有り難かった。食事といっても、そこらの牛丼屋みたいな所を想像していたのが……営業部長が選んだ食事処は加藤の想像の斜め上をいっていた。
某有名ホテルのランチ。
味は……分からなかった。
というか、何故こんな所で食べる必要性があるのか? という事だけ、頭の中をグルグル回っていた。
「どうだ、旨いだろ」
「は、はい……」
何故か、ワインまで。
よく昼間からお酒を飲む会社だ……と思いつつ、少し頂く。
「さて、そろそろいくか、元デパガの子を迎えに」
会計へ。
「合計で、11,050円となります」
(──は?)
耳を疑った。
それを驚く様子もなく、ごく当たり前のようにカードで支払う営業部長。 この業界とは、こんなものなのか? 不思議に思ったものである。
そして、先ほどの田中さんを迎えにいき、会社で説明会。
といっても、営業部長がただ話をするだけではあるが。説明会という事で1人では怪しまれるとでも思ったのか、数人の営業職員がサクラとして参加していた。
話終了後、田中さんが一言。
「私、もしかしたら今……非常に大きな人生の分岐点になっている様な気がしてならないの」
まぁ、この業界を垣間見た人は少なからずそういうものである。実はこの彼女、後に加藤の人生に大きな影響を与える重要人物となるのであるが、少なくともこの時はそんな予感は微塵も感じていなかった加藤であった。
営業部長の車にて、送りにいった帰りの車内で、加藤が一言。
「……地区営業って、思わぬ出来事、あるんですね」
営業部長は、言葉を発する事なく、静かに頷いた。
■7月戦前
加藤は6月の初契約が取れた後、更にもう1件の契約をあげる事に成功していた。 ラッキー的な契約で、飛び込みした先の人が「丁度保険考えてたんだよね」と、自身でプランを作成、いともあっさりと契約が取れたのである。
(毎回このような人ばかりだと、非常にラクなのに)
と加藤がその時思ったのは言うまでもない。
通常、生命保険会社の締切り日は24日になる。が、6月の締切りはそれよりも1週間早くなっていた。
本来なら、その月の締切り週という事でバタバタとしている筈の営業所に、全員が集められていた。そして、営業部長の話がはじまった。
「え~、6月の締切り、御苦労さん。今日から実質的に7月戦になる訳だが、第一報の予定を今から聞かせてもらう」
第一報? 聞き慣れない言葉だ。
思わず、勝野に質問する。
「ん? 第一報? まぁ、単純な話、来週頭にどれだけの契約を取ってくるのか? という事だな」
「えぇ? 今日締切り終わったばかりじゃないですか。何故来週までに数字が出来るんです?」
「ばっかだなぁ、お前。7月とはそういう月なんだよ。だから6月はあえて契約はおさえて第一報でドンと出すのがミソなんだよ」
「リーダーはちなみにどれだけの数字を──」
会話の途中で、営業部長が勝野に話を振る。
「勝野、7月第一報の数字は?」
それに間髪いれず答える勝野。
「はい、えーっと、4件4800万です」
その数字を聞いて安心したのか、一瞬ニヤっとしたような表情を浮かべたかと思うと、間髪入れず加藤に話を振る。
「次、加藤。数字は?」
「えぇ? いや、数字と言われても……」
「じゃ、取りあえず1件1200万な!」
全くもって、訳の分からないやりとりが続いていた。
勝野の言っていた数字、実に優秀と言われる営業職員の月ノルマの数字よりちょっと多いくらいであった。
(な、なんなんだ、7月ってのは……そ、そういえば、選出会議たるものに出ていた様な……修S5000万とか言っていたっけ? え?)
ちなみに当時新人である加藤の本来のノルマは低く、修S1500万でノルマ達成というものであった。
──何故、7月に通常月の数倍もの契約をあげなければならないのか……
聞いた答えは「重大月、いわゆるキャンペーン月だからだな」との事であったが……数年たった後にも、この重大月に契約を大量に取らなくてはならない理由というのは見つけだす事が出来なかった加藤であった。
ただ、研修期間中から教わってきた事、上司の言う事は絶対服従──言われたからにはやらなくてはならない。
契約がようやくとれるようになった加藤にとって、いわば無謀とも思える数字が重く加藤の心にのしかかっていた。
「リーダー、どうやったら通常月の数倍の契約取れるんです?」
「そりゃ、単純だ。通常月の数倍動けばいいだけだよ」
……なんともひねりのなにもない、アドバイス(?)を受け、訳の分からないまま、7月戦の準備が行われようとしていた。
※第一報=6月25日に契約を入れる事=その日が正式な7月戦スタート日となる
幸いにも、丁度先月(といっても本来なら6月なのであるが)にアプローチ(というよりは殆ど相手側から切り出してきた話であるが)していた先から保険入るよという返事を頂き、無謀とも思えた1週間で成果をあげるという事に奇跡的に成功していた。
飛び込み、いわば「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」というのはまさしく加藤の事を示し、そこまで多くはないが、相手側から話を切り出してくるという事もそれなりにあったりする。それで加藤は何度助けられた事か。
■飾り付け&決起会?
6月23日土曜日、当然の様に出社命令が出ていた。普段から土曜日の出社を余儀無くされている加藤にとってはいつもと変わらぬ土曜日の筈であった。(土曜日は朝10:00の出社で良いと言われていた。ちなみに平日は8:00までに出社(本来は9:00までに出社なのだが)で、お茶汲みやら掃除等やらされていた)
いつものように10:00に出社、大森支部長がいきなり怒号を一閃。
「遅い! お前、舐めとるのか!!」
「えぇ?」
「7月戦直前の土曜日は男は8:00出社というのを知らないのか!!」
「あ、ごめんなさい、加藤に伝えるの忘れてました」
……勝野の連絡ミスだったらしい。
まわりを見渡してみる。普段と全く違う雰囲気、何故か皆、腕まくりをし、汗だくである。
(……な、何をしている……んだ?)
パっと見、大掃除のように見える。が……何かが違う。
「とにかく、加藤! お前は桑原と買い物にいってこい!」
何が何だか分からないうちに、買い物にいく事に。ちなみに桑原とは加藤より2年先に入った先輩(男)の人である。実に、2人きりになるのは入社以来初めてで、よく考えたら口も聞いた事がなかった。
「せ、先輩。一体なに買いにいくんですか?」
「あぁ、ビーチボールとか飾り付け用のヒモ等だよ」
「──? な、何するんですか?」
「ハハッ、今回はハワイのイメージだとよ」
「????」
全くもって意味が分からない。
とあるデパートに到着。
冗談とさえ思っていた代物をどんどん購入していく。合計費用、実に20万超といった所か。
海の波の音のCD等、一体何に使うんだ?
缶詰めのつめもの50セット?
etc……
訳分からないまま、2時間弱の時間をかけ、買い物終了。
「ただいま戻りました」
「おぉ、ごくろうさん。どれどれ……ん~、いい感じだなぁ。このフサフサは波をイメージしたものだな」
……つくづく何がなんだか分からない。
「さて、今から飾り付けするぞ!」
大森の掛け声により、一斉に部屋の模様替えがはじまった。
2時間近く意味が分からないまま動いていた加藤はとうとう口に出して聞いてみた。
「あ、あの……一体何してるんですか?」
「見れば分かるだろ! 営業所の模様替えだよ!」
「そ、それは分かりますが……な、何故こんなド派手にするんです?」
「今年はまだ地味な方だぞ。そりゃ7月戦だからに決まってるだろが。部屋をド派手にしたら、みんなもやる気になるだろ?」
「は、はぁ……」
なんて強引な理屈なのだろうか……
意味が分かった様な分からない様な感じで手伝いをしていた加藤であった。 ちなみに、この行事は未だに行っている営業所があるという事を付け加えておく。
実に3時間くらいが経過したであろうか。すっかり営業所内は別世界へと変わっていた。壁はブルーの紙を張り巡らせ、海をイメージ。 天井からはビーチボールや魚の浮き輪を吊るし、蛍光灯までカラフルに──
な、なんて悪趣味な……と思わず口に出しそうになったのを必死に腹に納めたのは言うまでもない。
バックミュージックは波の音。御丁寧にも、扇風機の風でフサフサが波のように流れる様な視覚効果まで。
──一体……何の意味があるのだろうか……しかも、20万超のお金を遣って──
どうやら生命保険会社の儀式の様なものらしいのだが、この感覚が理解出来た事は一向になかった。
時間は16:00、これで晴れて解放されるかと思いきや「さ~て、今から決起会やるぞ」という言葉と共に、飲み屋へと。
■決起会?
「じゃぁ、今日はみんなお疲れ様」
「お疲れさまで~す」
ビールを乾杯して飲む。いわば営業所の模様替えは肉体労働に等しかった訳であり、ビールが異様に旨く感じた。
次々と料理が出てくる。いつもながら「ここ、いくらで食べられる所なんだ?」と思う様な場所である。 例えばここなんかは……大きな水槽に魚が泳いでいて、それを刺身にしている様で──
「そういえば加藤、お前第一報はどうなった?」
大森支部長が聞いてくる。昨日なんとか契約を取っていたので、いわば自慢げに1件取れている事を報告すると、予想外の答えが。
「お前、アホか! 第一報で1件だと? ここにおるヤツみんな4件は出来てるぞ!」
「──は?」
「入社時に言っただろ、男は出来て当たり前。他の人の2倍やって当然なんだよ。じゃなかったら、いる意味ないんだよ!」
「──は??」
なんともハードな世界に入ったという事を、否が応でも思い知らされた。 人並みじゃダメだよ、と。
「選出会議でもお前、メシ食べただろう。その分もお前は働かなくてはいけないんだぞ!」
タダ飯を食べれる程甘くないよ、と。 タダ飯を食べたからには、それ相当の成果をあげろよ、と。 そのような事……らしい、当然、この決起会というのも──
「勝野、お前は今年は(修S)2億ノルマな」
「は、はい……」
「加藤、お前は……まぁ新人という事で、ノルマは(修S)1億で許しちゃる」
「……は?」
「ばっか、お前、勝野なんか、最初の重大月の時(修S)2億以上の成果あげたんだぞ! それに比べれば大した事じゃないだろ!」
「は、はぁ……」
選出会議の時言われた数字が修S5000万、今日の決起会で言われた数字が修S1億、倍になっていた。 4件くらいで修S5000万いくかいかないか、という事は要するに8件やれよ、と。
目の前が思いっきり暗くなる。
「お前は他のヤツより、入社以来数字をあげてないんだ! このアホんだらぁが!」
etc……
数多くの罵声(叱咤?)を浴びせられ、加藤が家路に付く時には冗談抜きに退社を決意していた程である。
(何が悲しくてここまで言われなければいけないんだよ! 7月、ドドっと契約あげて、それで辞めてやる!)
なんて言うのだろうか……反骨心と言っていいのかどうかは分からないが、ともかくも加藤のやる気(前向きかどうかは別として)は最高潮に達していた。
いよいよ、7月戦がはじまる。
いわば「地獄の一ヶ月」が。