第2話:奈良からの相談

文字数 1,672文字

 近くの鰊御殿「にしんごてん」も見学して、日和山灯台からの素晴らしい光景も眺めてきた。かなり昔の話であるが、この灯台は灯台守としての人生を描いた映画「喜びも悲しみも幾年月」のラストシーンで登場して、一躍有名になったそうだ。

 その後、小樽名物の寿司屋に入り、夕食を食べてから、札幌に帰った。翌日、奈良が、朝電話して来て、見送ると言い、9時過ぎにホテルに来てくれ、千歳空港まで送ってくれた。そして、気を利かせ札幌名物の「白い恋人」の詰め合わせを持たせてくれた。

 そして、帰り際、元気で名と、固い握手を交わして、別れた。1998年の日本は戦後最悪の経済状態に陥った。経済成長は戦後最大のマイナスを記録。企業のリストラ、倒産から失業率は最悪となり、雇用不安が強まった。

 物価下落が企業収益の悪化を招き、不況へと連鎖するデフレスパイラルに落ち込む危険性が叫ばれ、「平成大不況」という言葉さえささやかれた。1998年12月になり、伊勢の勤めるT自動車でも例外では、なかった。

 冬のボーナスが支給されたときに早期退職優遇制度を開始すると社内報に載った。それによると49歳~50歳の早期場合の場合、その時点の退職金が、100%増額され2倍になり51-52歳で80%と減額されていく方式。

 その後、不景気な時には、退職希望する者など少なく、少しでも長く勤めていこうと言う考えの人達が大勢を占め早期退職優遇制度を利用する者は、1人も出なかった。やがて1999年を迎えた。

 1月1日、欧州統合の「深化」の切り札とされる欧州経済・通貨統合の下で、単一通貨ユーロが誕生。欧州連合「EU」各国による財政の健全化など長年にわたる周到な準備が実ったものである。

 これにより国際通貨システムは米ドルとユーロの2大通貨体制の確立に向けスタートを切った。その後、物騒な事件が、ユーゴスラビア連邦セルビア共和国のコソボ自治州で起こった。この民族紛争は、バルカン半島の複雑な民族問題を象徴する出来事となった。

 1999年3月24日から6月10日にかけて行われた北大西洋条約機構「NATO」による「アライド・フォース」連合軍作戦、この間、NATOは、ユーゴスラビア軍や民間の標的に対して攻撃を加えた。

 アルバニア人勢力はユーゴスラビア軍との戦闘を続け、コソボにおいて大規模な人口の流動が、起こった。4月になるとNATOは、コソボへの地上部隊侵攻を検討した。冬装備の準備やギリシャとアルバニアの港湾から侵攻ルートに至る道路の整備には時間が、かかり急いだ。

 フィンランドとロシアが、ミロシェヴィッチ大統領に譲歩するよう説得を繰り返し、それを同意する6月まで空爆は続けられた。この頃、伊勢も仕事を終えると耳鳴りがするようになった。しかし、1晩寝ると回復するので、気にしていなかった。

一方、奈良の方は、1999年の11月頃から、胸水や腹水が、貯まる様になり、定期的に抜く様になったと電話で話した。その時、あまり具合が悪くなれば、早期退職も考えると告げた。やがて2000年が、明けた。

この頃、伊勢は、火、木、土曜の出勤を直属の上司の計らいで火曜と木曜の週2日の勤務にしてもらった。もちろん、奈良の掴んでる上客は、高級車を買える時は、T社の高級車を買ってくれる約束が、伊勢と交わしているために利益が出ていた。

 その頃、伊勢は、土日の休みの日は、疲れて、数時間、昼寝をするようになった。その他、買い物、以外、車を運転することがなくなり、ぐったりしていた。2000年は、企業の不祥事が続発。雪印乳業大阪工場で作られた乳製品を口にした大阪府などの消費者が食中毒症状を訴えた。

 そうして、戦後最悪の集団食中毒事件となった。また、三菱自動車工業は、運輸省への届け出を怠ってこっそり修理するなど「リコール隠し」を行っていたとして強制捜査を受け、世論の批判を浴びた。

 海外では、2000年3月に行われ、プーチン大統領代行が得票率53%で、ジュガーノフ共産党委員長、改革派野党「ヤブロコ」のヤブリンスキー代表に圧勝。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み