第10話 世界を照らす自由 ポニーテールは挫けない
文字数 3,010文字
すべての疲れた人
重荷を負っている人は私のところへ来なさい
わたしがあなたを休ませてあげます
マタイ伝
二〇二五年三月二十一日 金曜日
レゾリューションResolution<決意>
NY市は、マンハッタン・クイーンズ・ブルックリン・ブロンクス・スタテンアイランドの、五つの「ボロー」と言われる区から成り立つ。
マンハッタンはNYの象徴であり、超高層ビルが立ち並ぶ摩天楼街は、ハリウッド映画でもアメリカを象徴する都市として登場する。五番街やTスクエア等の繁華街には、世界中から観光客が押し寄せる。マンハッタンには百六十万人の多国籍な市民が生活し、「ビックアップル」と称され、アメリカの繁栄のシンボルとなっていた。
雨は止み、ジェイドにもらった傘を座席の収納に納めた。ハリエットはバイクにガスを入れると、埠頭まで突っ走った。
時速八十キロで、バイクでブロードウェイを下って、孤独感を吹っ飛ばした。
マスコミを避け、一人になりたかった。追って来られたところで私は何も知らない! あぁ――そうだ、そこにはマンハッタンホーンがそびえている。禍々しい、巨大な青いガラスの“山”。その威容を見上げて、これが幻ではなく、確固とした現実であると嫌が上にも思い知らされた。
前に自分を追ってきた黒塗りのロールスロイスが地下駐車場へ吸い込まれていく。
フェリー乗り場はマンハッタンホーンの手前に、場所が変わっていた。乗り込むと、ガバナーズ島に建つNYユグドラシルが迫ってくる。敵が巨大すぎて、振り上げたこぶしをどこに振り下ろしたらいいのか分からない。
ハリエットはリバティ島まで来た。絶望感に押しつぶされてはいけない。
一人になって、隣に父の居ない悲しみに涙しながら、ハリエットは白くライトアップされた自由の女神の前に立って、静かに祈った。
一時間近く、真剣に祈り続けた。祈っているうちに、雲間が晴れてきた。このところ、ずっとNYで太陽を見ていない。
NY育ちでボストン在住。高校卒業に、大学入学、父のNY市長選挙……、普段からハリエットはこうして、人生の節目節目に自由の女神へ向かい、祈ってきた。忙しい時はマンハッタンから女神を見つめながら――。二〇二五年三月八日の昼も、父の晴れ舞台の成功を祈ったのだ。
こんなときこそ、いつも女神がそこに変わらず立っていて、ハリエットに寄り添ってくれる。自由の女神は、フランスの方向を観ている。この世界線で消えてなくて、本当に良かった!
「あぁ、女神様、自由の女神様……私をお守りください、私をいつも正しい道へお導き下さい……どうか」
百万ドルの夜景と共に、ドンとそびえ建つマンハッタンホーンが、恐ろしいまでの存在感で自分の視界に入ってくる。水面に、マンハッタンホーンの夜景が映し出されている。ハリエットはそのまま、マンハッタンホーンをじっと見つめた。
スイスのマッターホルンを模した、全長八百メートルのビルの山。鋭い剣先かピラミッドのように、天へと突き刺さる。そして、旧ガバナーズ島の全長一キロにもなる、NYユグドラシル。まさに、バベルの塔だ。
かつては沿岸警備隊の施設があったガバナーズ島は、独立戦争時の要塞になったり、南北戦争時には南軍の捕虜を収容していた。長いこと一般に開放されていなかったが、その後、フェリーが運航された。今は再びロートリックス・グループの私有地となっている。
アレらが建ってから、マンハッタンのスカイスクレーパーはその様相をガラリと変えた。それまではワンワールドタワーのある、ワールドトレードセンター街が、NYの主要なシンボルだった。今もなお、イースト・ロウワーマンハッタンではテック都市化の再開発が続いている。
ニューヨーク湾の景色は激変した。最初見たとき、つい見入ってしまい、一瞬でも「美しい」と思ってしまった自分を今は呪いたい。
(マンハッタンホーン、エリア53。……エリア51なら知ってる。エリア52もどっかにあるってことよね)
敵は強大だ。父はアメリカ政府の裏に秘密の組織があり、この世界を混沌に導く一味だと言った。父を標的にした存在。この町の頂点に、父の暗殺を指示した真犯人がいるに違いない。絶対に許さない。傘を見つめて、社主のジェイド・ロートリックスの端正な顔立ちを思い浮かべる。あの男もその一味だろう。赤毛の若い男。おそらくまだ、二十代後半……。
でも、どうすれば……。資料はすべて失われた。何も残されていない。
このNY市は、間もなくハンス・ギャラガー新市長の独裁になる。すべての真相は、百万ドルの夜景の中へと沈んでいく。
アラン・ダンティカNY州知事、アーネスト・ハウエル、エレクトラ社社長、ヘンリー・マドックス陸将……。そうそうたる名の父の関係者たちは、葬儀以来、一斉に連絡が取れなくなり、ハリエットの前から姿を消した。誰もかれもが……父を裏切った!!
自由の女神が、剣を掲げるジャンヌ・ダルクの姿に代わって見えた。
ずっと女神を見上げていたら、胸に言葉が浮かんできた。
<立ち上がりなさい。このNYを救うために!>
自由の女神が、私に、語り掛けてきた。いや、そうじゃない。これは、自由の女神が――、ジャンヌで――ハリエットで、自分自身だということだ。そんな風に、自分でそう思ったんだ。
「NYを……救う!?」
ためらいが、独り言になって出てくる。
<そうよ、父の無念を成し遂げるの>
「パパの続きを、わたしがやれと? そんな――私は無力よ……私にはできない……」
自問自答かもしれない。
「できる訳ない……」
小柄なハティは一人で巨大な十字架を背負っていた。
<あなたは、地上の天使。私の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している>
女神が、ハリエットにそう告げた。イザヤ書にある言葉だ。
女神はいつも見守ってくださる……。
一人でやるしかない。けれど……一体、どうやって?
ハリエットは途方に暮れた。
<あなたにはこれから、多くの味方が現れる。どんなに困難があっても、その都度、白鳩のロッキーがあなたを導く。そしてあなたは、オリハルコンの光十字と、自身のPMF(サイコ・マグネティック・フォース)に導かれる。だから、何も心配することはない>
「サイコ……何? なんて言ったの――」
ハリエットは、摩天楼の渓谷を旋回する白鳩をじっと目で追いかけた。――この距離でそんなものが見えるはずがない。これは、鳩の視点だった。鳩はやがて、海を渡って、自由の女神の上空まで飛んできた。そこで、自分の視点に戻った。
鳩はジャンヌ・ダルクの魂の象徴だ。火刑に処せられた聖女が亡くなった時、白鳩が飛んだんだ。そう、ハティは鼓舞した。
それらの白鳩の群れが飛んでるのを見つめていたら、一匹近づいてきた。ハリエットが右手を掲げると、鳩は腕にパッと止まった。
白鳩と一緒に居ると、なんだか父がそこにいるかのような気分に浸った。それは、不思議な安ど感だった。かと思うと、スッと飛んで行ってしまう。白鳩は気まぐれだったが、呼べば戻ってきた。それは、ハリエットの“光”だった。白鳩を、父の名のロックから“ロッキー”と名付けた。
「これからも、私の傍にいて頂戴……」
ハリエットは肩に停まったロッキーに微笑んだ。
「もう私は、決してあきらめない。引き下がらないから」