ゴンとロクとチヤ

文字数 5,541文字


ゴンは布団の中で小さく寝返りを打っている。昨日の夕方、ロクじいのところで感じた眉間の奥の鈍い痛みは、強弱をつけながら揺らいで、それでいて次第にはっきりと分かりやすくなってきている。その不快感だけでない不穏なものを感じて、眠りはどうにも深くならない。いつもなら深夜のうちに漁に出る父と兄も、船の定期検査のために漁は休みで、家の中は静まり返っている。二人を、というより母を起こしたくなくて、ゴンはできるだけ静かに床を離れた。

母は入院している妹につきそうために、毎日病院に通っている。妹が心臓に疾患を抱えて生まれ、健康な体で産んであげられなかったことを負い目のように感じているのだろう。このところ妹の具合があまり良くないようで、体調が良ければ許される一時帰宅も、もう半年も医師の許可が下りずにいる。憔悴する母の、せめて睡眠時間くらいは確保しておきたいゴンは、玄関には出ずに自分の部屋の窓から、昨夜のうちに隠しておいた靴を履いて外に出る。どうやら巧くいったようで、そっと立ち止まって様子を伺えば家の中は静まり返って、なんとか両親にも兄にも気づかれていないらしい。

しかしトロだけはゴンの気配を逃すまいとして、小屋から這い出してひとつ大きな伸びをすると、首輪を鳴らして身震いする。みんなを起こしてはいけないと分かっているのだろうか。ゴンの方を向きはするけれど鼻ひとつ鳴らすでもなく、ただ尻尾だけをふわふわと左右に振ってゴンの気を引こうとしていた。
一人で行こうと思っていたのに「連れて行かなければ吠えてやるぞ」という脅迫めいたものを感じて、ゴンはトロの首輪をリードで繋いで歩き出す。トロはいつものように港に向かって行こうとするが、まだ人の気配すらない漁協に、新聞をもらいにいくには早すぎる。ゴンはまっすぐ海辺の藪に囲まれたロクじいの小屋へ足を向けた。


夜明け間近の空がつくる薄明かりの下、沖からは生ぬるい風が吹きつけて、岩場に波飛沫を散らしている。天気予報が言うよりも早く低気圧が沖から近づいて暴れているらしい。こんな日に磯に出たりすれば慣れた者でも波に脚を取られてしまう。崖の上で足でも滑らせれば、それこそ誰かが捜索願いでも出さない限り見つけてもらえないだろう。ロクじいの身に何かあったら、すぐにでも助けを呼びに行かなければならない。漁をとりやめて小屋にいてくれたら。徒労で済むならその方がいいと思いながら、ゴンがロクじいの住む小屋のベニヤ板で作られた扉の前に立つと、ドアノブ代わりの取手には自転車用のチェーンロックが巻き付けられていた。

扉の外にあるダイヤルロックは、内側からは施錠も解錠もできないはずだ。これはロクじいが外出するときの施錠方法であり、つまり不在であることの証明と言えた。それでも念のために扉を叩いてロクじいを呼んでみるが、応えるのは海から吹きつけてくる風ばかりで、やはり扉の中からは何の気配も感じられない。
ロクじいが魚介を獲りにいく場所は数箇所あるが、旅館に頼まれたものを獲るのはいつも、神社の崖下にある磯だ。ロクじいが手作りした手すりとロープを伝って降りるあの入江は、ロクじいとゴンだけが知る漁場だが、磯へ降りるときの難易度が高い。天候が悪ければ尚更だ。

ゴンはトロを連れて神社の方へと向かう。本殿へ向かう石段を通り過ぎて、脇にある獣道、その先にあるロクじいの漁場へ行こうとした時だ。潮風のつくるうねりとは違う動きで微かに枝が揺らいだ。トロが藪に向かい低く身構えて唸りをあげ、それが咆哮に変わったのを合図に、藪の中から人影が歩み出てきた。

小さく屈んだ体は、たった今潜ってきたばかりなのだろう。濡れた体に服が張り付き、長い髪はまだ潮水を滴らせている。いつも帽子の中に収められている髪が思っているよりずっと長かったことに驚きながら、ゴンは藪から出てきたロクじいの手元を見る。ナイロン網でできた大きな魚籠には、見たことがないほど型のいい獲物がおさめられていた。



「無事でよかった。海が荒れてるから心配だったんだ」

とりあえずロクじいの無事を確認できたことで安心したゴンだったが、ふと耳に低い唸りを感じた。沖からの風が岩場を鳴らす音かと思ったが、違う。もっと自分に近いところからの唸りは足元から聞こえてくる。トロだ。地を這うように身構えて、低く唸り続けるトロの、目と耳の先にはロクじいが立っている。いつもならロクじいに尻尾を振り鼻先を寄せていくはずのトロが、見たことのない動きをしていることに戸惑ったゴンは、咄嗟にリードを持つ手に力を込めた。
唸りの先にいるロクじいの姿は何故かいつもより大きく見えて、手に提げた魚籠もまた獲物で大きく膨れている。ロクじいはそれを大きく振り上げるように肩に回して背負い直した。
鮑、トコブシ、サザエ。それにしっかりと太った伊勢海老が網目の向こうで身じろぎしている。ゴンの目を引いたのは、普段見かけたことのない岩牡蠣で、殻の大きさ通りに身が詰まっていたなら立派すぎるほどの逸品だ。

「ここで牡蠣を獲るな」ロクじいはゴンと一緒にここで漁をするときに、毎回そう言っていた。それが今日に限って獲ってくるということは、店に売るためのものだということなのだろうか。それより黙ったままでゆっくりと小屋へ戻ろうとするロクじいに、相変わらずトロは身構えたまま、いつでも飛びかかれると言わんばかりに脚のバネをたたんで低い唸りを響かせている。

「おい、お前の名前は何ていうんだ」

出し抜けにそう尋ねてくるから、ゴンは驚いてロクじいの顔を見た。ほとんど毎日のように顔を合わせているはずの自分のことがわからないのだろうか。


「ロクじい、どうしたの。ゴンだよ。忘れちゃったの」
「そうじゃない。ゴンはお前のとこの船の名だろう。お前の本当の名前だ」
「……憲之」
「そうか。じゃあ、憲之。この磯は今日からお前のものだ。だが忘れるな。ここで獲っていいのは儂と一緒に獲って食べたことのあるものだけだ。他のものはたとえ獲れても食べてはいかん。煮ようが焼こうが、それは口に入れてはならんものだ」

そう言ってロクじいはゆっくりとゴンの目の前を通り過ぎ、小屋へと向かった。
どうにか明けきったらしい空は低く雲が垂れこめて、今にも雨粒を叩きつけてきそうだ。ロクじいは浜から汲み上げた潮水を満たしたトロ箱に魚籠を沈めて、それから小屋に置かれた箱からロープと杭を持ち出すと、小屋を地面に繋ぎ止める。台風や大時化にはいつもそうやって凌いできたのを知っているゴンは手伝おうとするが、ロクじいはゴンが手に取ったロープを取り上げて、じっとゴンの、というよりはゴンの背後にあるものに目を凝らした。

「妹のことなら心配ない。この気圧にやられているかもしれんが、じきにおさまるだろう。……母親も妹も、いずれお前がひとりで支えることになるやも知れんが、自分の感覚を信じていれば道筋が見えるはずだ。だがそれもまだ先のこと。今はとにかく家へ戻れ」

妹の体調が良くないことを察したように突然そう言われ、ゴンは自分がいつそんな話をロクじいにしただろうかと思う。それともどこかで噂話でも耳に挟んで知ったのだのだろうか。この狭い集落で起きることは、些細なことでもすぐに知れ渡る。そう思えばなんの不思議もない。
それにロクじいが言うように、そろそろ戻らなければいけない時間だ。登校時間が近づいているゴンは「昨日は休刊日だから、今日は新聞がないよ」と言うと、トロのリードを結えつけた椿の幹から解いた。

また明日新聞持ってくるから。
そう言うゴンに、ロクじいは黙ったまま片手を挙げるだけの返事で応えた。


ロクじいは時化に備えて小屋の周囲に杭を打ち、小屋の屋根に覆い被せるようにしてロープを渡して杭に結えつける。失くしたら困るものはカバンに詰め込み、それを枕にして数時間の仮眠を取った。昼になる前に獲物の入った魚籠を提げて、頼まれていた旅館の板場へと向かう。強くなり始めた風に向かって前屈みで歩くロクじいに、チヤが囁きかけた。ロク、何をする気なの。呼びかける声を無言で聞き流せば、それが答えとばかりにチヤが険しい声を出す。

「復讐なんてやめて頂戴」
「……なぜ? ヒロさんを殺したのはあいつだ」
「やったのは本人じゃないわ。何の証拠もないことよ」
「その証拠を残さないために金輪組を使ったんだろ。おまけに複合型リゾート施設だって? そんなもの造られたらここでの暮らしは終わりだ」
「また探せばいいのよ。自分たちが暮らせる場所を探しに出ましょう」
「チヤ姉、あいつに狩られたことも忘れたのか? あの男が追手をかけたりしなければ、お腹の子も流れずに済んだかもしれないのに!」
「……それでもだめ」
「まさかあいつに情があるなんて言わないだろうね」
「そうじゃないのよ」
「たとえ姉貴が許しても俺は許さない」
「ロク、聞いて。誰がいつどうやって死ぬかを決めるのは人の仕事じゃない。人ではない何かが決めることなのよ。それをすれば、お前も狩野原と同じ獣になり下がるってことなのよ」
「あぁ、ケダモノ上等だね。爪も牙もなくたって立派に本懐遂げてやるよ」
「ロク!」

チヤの悲鳴を封じ込めるように手に提げた魚籠を背負い直し、ロクは板場の勝手口を叩く。出迎えた板長は早速中身をざるにあけて感嘆の声をあげた。

「いや助かったよ。予報より早く時化てきたし、漁に出るのも難しいだろうと思ってたから、こんなに型のいいのが手に入るとは思ってもみなかった」

広げた手のひらを全部覆い隠すほどの大きな鮑を手にして、板長は相好を崩す。ロクじいはざるに上げられた貝の中に、たったひとつだけ紛れ込んだ牡蠣殻を手に取った。

「ひとつしか獲れなかったんだが、地物をぜひ狩野原先生に食べてもらいたくてね」

ほう、と声を上げた板長がちょっと待ってろと言って板場へ向かうと、牡蠣ナイフを手に戻ってくる。ペンチで割った殻の隙間から刃先を入れゆっくりと前後させ、蓋が開くと中から盛り上がるように乳白色の身が姿を見せた。

「あぁ、これは見事だな。蒸してやったらいい先付けになる」

板長は満足げな笑みをこぼし、恭しい手つきで掌にのった牡蠣をざるに移し替える。それからいつものように謝礼の入った封筒と、まかないの折を包んでロクじいに持たせてくれた。


いよいよ風の強まった街を通り抜け、小屋へと戻ったロクじいは、海からの風で軋る柱の音を聞きながら、やかんに作った茶を注ぎ、貰ってきたばかりの折を開く。中から出てきたのは縮緬じゃこと山椒を炊き合わせたおこわを俵に握ったおにぎりだ。

「これ、私もよく作ったわ。ヒロの好物だったのよ」
「そうだったね。なんでもよく食べて、よく笑う人だった」

分けあう相手のいない、三つ入ったおにぎりのうち二つを食べる。コップに残った茶を啜りながら、牡蠣、食べるかなとロクがぼやくと、板長が刑事に囲まれてたの、あなたも見たでしょ、とチヤが答える。
確かにロクにも見えた。大ぶりの鮑を手にして満面の笑みを浮かべた板長の後ろに、背広を着た男たちに事情を説明している様子の本人の姿があった。自分の奥底に滾る復讐心を果たすためには介錯人が必要だ。そう遠くない未来、ちょっとだけ先の板長の姿にその思いを託す。報復のための小さな礫はもはや自分の手から放たれ、成就を待つばかりになった。
姉を買った男。矢上一家を使いストを襲わせて、その矢上のことも金輪組に追わせた男。矢上ばかりかチヤまで狩ろうとした男は、セメント会社の役員から順当に成りあがり、地方議会につま先をかけて国会へと上りつめていた。もう全部終わったことなのよと自分を宥めるチヤの言う通りだ。あの代議士が死んだところで、ヒロも、チヤとヒロの子も取り戻せない。だからと言って目の前を通る狩野原を黙って見過ごすこともできない。沖から吹きつけて荒れ狂う風はそのままロクの心中のようで、自分自身をも吹き飛ばしかねない。ロクを良心の岸辺に繋ぎ止めるのは、身体は姉からの借り物であり、労るべきものだという事実だけだ。

海からの風に揺さぶられる小屋は、ますます大きく軋りをあげる。ロクはどこへ行こうかとチヤに尋ねた。
海辺の町がいいわと答えたチヤは、たまには私も客の相手をするから、占いを欲しがる人の多くいそうなところがいいかもねと言った。弟の狼藉に呆れる口調ではあるが、それでもここへ来たばかりの頃よりは姉の口数も増えている。ロクはせめてそのことに満足し、産土(うぶすな)に感謝を込めて足元の土を掘り起こす。小さな穴にひとつ残ったおにぎりを入れると埋め戻した。
カバンを背負い小屋を出ると鉈を取り出す。豚革でできた鞘から抜き身を下げて、小屋と杭を繋ぐロープにあてがい、ピンと張りつめたそれめがけて、ロクは振り上げた鉈を一息に振りおろした。強風に耐えられるよう、今朝自分の手で地面に打った杭で小屋を繋ぎ止めたロープは、張りつめた分だけ切れた反動で跳ね上がり、風に煽られ揺らいでいる。(もやい)を解いた船が沖に漕ぎ出すように、チヤとロクはゆっくりと歩きだした。高潮で上がった海面は堤防を超え小屋に迫る。沖からの風に吹かれた波は二人の靴底を浸し足元を攫おうとしてくるが、よろけながらもその歩みが止まることはない。

楽天地は不変ではない。昨日までの楽天地が、明日もそうだとは限らない。自分たちの棲み暮らす場所はいつも、時に合わせて姿を変える。それならば次の楽天地を探すまでだ。生きてゆくことはそれを探し求めることの繰り返しで、チヤとロクは今日またひとつの楽天地を後にする。二つの魂を宿したひとつの身体が、吹きつける潮風の中をゆらりと歩み去っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み