憲之と菜津

文字数 4,761文字


「お兄ちゃん、日に焼けたね」

妹の菜津にそう言われ、驚いて病室に設えられた洗面台の鏡を覗くと、浅黒い肌をした男子がこちらを見ている。それにひょろりと伸びた背丈が、自分自身を見たことのない同級生を見るような目で見てしまった理由かもしれない。異性の目を気にして鏡を覗くような習慣が身についていない憲之にとって、憲之自身が自分から一番遠い存在とも言えた。
昨夜俄かに菜津の病状が悪化して、連絡を受けた母が朝から病院へと向かい、憲之も学校の授業が終わってからすぐに菜津の病室に向かった。昨夜からの熱もすっかり下がったようで、今は機嫌良さそうにベッドの縁に腰かけ、母に甘えている。

『妹のことなら心配ない。この気圧にやられているかもしれんが、じきにおさまる』

今朝、ロクじいがそう言った。だからきっと大丈夫だ。そう思えたからそれほど心配せずに落ち着いていられた気がする。事実持ち直した菜津が今目の前にいるのだから、やはりロクじいの言った通りになった。

母は自分には目もくれず、妹の髪をブラシで梳いて三つ編みを作っている。慣れた手つきでおさげ髪の先端を小さなゴムで留めながら、お兄ちゃんにお願いがあるんでしょうと促すと、菜津はベッドの脇にある引き出しから、レンズ付きフィルムを取り出した。これ、現像してほしいの。フィルムが残ってるからトロを写して。そう言って差し出された緑色をした長方形の、隅についたカウンターは「3」のところで止まっている。
体調の良いときには医師の許しを得て、一時帰宅ができる。菜津は家でトロと遊ぶことを無上の喜びにしているが、神経質な母にはトロが雑菌の塊にしか見えないようで、免疫の下がった状態の菜津が触れることを禁じた。代わりにと与えられた犬のぬいぐるみを枕元に置いて、それでも満足いかなかったのだろう。病院の中にある学校のクラスメイトたちと、お誕生日会をしたときにレンズ付きフィルムで写真を撮った、その残りでトロの写真が欲しいというのだ。



「マナちゃんが転院しちゃったから。お手紙を書いて、写真も送ってあげるの。プリント、L版でもこの封筒にはいるかなあ。」

マナちゃんが『バニバニー』大好きだからどうしてもこれで送りたいの。そう言って菜津はうさぎのキャラクターがあしらわれたレターセットを、教科書やノートを入れている手提げから取り出す。レターセットの中から派手なピンク色の封筒を引っぱり出して、憲之の目の前に掲げてみせた。
封筒の隅で前足を上げている、左の耳が折れたピンク色のうさぎ「バニラ」と、右の耳が折れたスカイブルーのうさぎ「バニール」。どうやら二匹揃って「バニバニー」というキャラクター名らしい。
大丈夫だよ、もし入らなかったらお手紙と写真がまるごと入る、おおきい封筒を用意するからと憲之が言うと、菜津は素直に頷いて、トロの写真、マナちゃんにも送ってあげるから2枚ずつ現像してねと念を押した。

病院から帰るバスの中で、憲之は母とふたり並んで、バスの一番後ろの席に座る。数日前に病院から、菜津の容態が安定しないことを知らされてからの母は、いつもどこか上の空だ。自分の方を見ていながら別のことを、おそらく菜津のことを考えていて、それを隠そうともしない。娘の病状についての憂いを隠す必要があるわけないのだが、遠慮なしにそれを投げつけられることに、最初は不安を感じた憲之も、いつのまにか母のそんな様子に慣れてきている。
ふと思い出したようにバッグから財布を探って、千円札を数枚出すと、現像代として憲之に渡し、母は「お釣りはおこづかいにしていいよ」と言った。24枚撮りの現像代。マナちゃんの写った写真とトロの写真は2枚ずつ焼き増しするとして、お釣りは幾らもないだろうと考えていると、全部一枚でいいからねと母が付け足した。

「焼き増しは? 友達に送る分も、って菜津が」
「……亡くなったんですって。マナちゃん」

そう言ってほんの一瞬憲之を見やってすぐ、母はバスの窓から外を流れる街路樹の方へと視線を移した。



転院、というのは院内でよく使われる方便だ。症状が重篤になって、治療を止め終末期医療を施す施設へ移ることも、ここでは転院という表現で濁される。「さっき他の子のお母さんから聞いたの。菜津よりも病状は落ち着いていたはずだったのに」窓の外を見たままでそう言った母は、小さく瞼の縁を湿らせている。訃報が余計に母を苦しめているのだろう。何をしていても菜津のことばかりになるのも無理はなかった。菜津の中にまだマナちゃんが生きているなら、憲之にはそれに付き合うことしかできない。

「やっぱり焼き増しして、菜津に渡した方がいいよ。手紙を書くつもりでいるだろうし」
「……でも、ご遺族に送るわけにいかないでしょう」
「手紙を預かって、送ったことにしておこうよ」

バスの外はいよいよ風雨が強まって、雨粒がばちばちと音をたててガラスに叩きつけられている。今朝まだ明けきる前の早朝にロクじいの小屋を訪ねた時は、まだそれほどでもなかった低気圧のうねりが、海から離れた場所でも強く感じられた。新聞の休刊日が重なったのは幸運だったかもしれない。ロクじいはいつも地面に打った杭にロープを繋ぎ、屋根を覆ったブルーシートごと小屋を地面に括りつける。そうやって今日も時化の一日をやり過ごしているだろう。

傘を風に弄ばれながら家に戻ると、庭の隅に置かれた小屋の中で縮こまっているトロを、玄関に連れてきて家に入れる。菜津から預かったレンズ付きフィルムを持ち出して、落ち着かない様子で土間を歩き回るトロを撮影しようとしたが、薄暗い玄関灯の光ではぼやけてしまいそうで、結局あきらめるしかなかった。犬小屋の床に敷いてある古くなった毛布を持ってきて、土間に敷いてやるとトロもようやく落ち着いて、その上に身を丸めておく気分になったようだ。
今夜一晩、この時化をやり過ごせばいつもの空が戻ってくるだろう。天候の回復を待って明るい場所で撮った方がいい。数日前からこめかみの奥で疼く頭痛の波が、打ち寄せてはおさまることを繰り返すうちに、次第に遠のいてゆく。時化のたびにやってくるこの頭痛は、いつも嵐が来る直前までが酷く、天気が荒れ始めると次第におさまってゆく。いつも通りに過ぎ去りつつある頭痛の暴風をやりすごして、外の気配に耳を傾ければ、海からの風がガタガタと雨戸を揺らしている。その音を聞きながら、憲之はロクじいの声を思い出していた。


「……母親も妹も、いずれお前がひとりで支えることになるやも知れんが、自分の感覚を信じていれば道筋が見えるだろう」

ロクじいの言葉が頭痛の波に打ち上げられ、浜辺に横たわっている。何を意図して発した言葉だったのか、いくら考えても憲之にはわからない。そもそも今朝のロクじいはいつもと様子が違っていた。

この頃ロクじいがやけに小さくなった気がするのは、自分の背が伸びているからなのか。それなのに獲物を入れた魚籠を、肩から提げて背負う姿は力強くて大きく見えた。いつもなら膝まで、深いところでは腰あたりまで海に浸かり、仕掛けた網に掛かった魚介を集めるのだが、あの様子だと素潜りをしてきたのだろう。荒海が魔物のような口を開けている磯へ一人で降りて、それをやってのけるのが無謀であることくらいは憲之にも理解できる。海の恐ろしさが骨身に染みている父を含めた漁人たちは、時化の海には決して近寄らない。それでもロクじいが無事だったのは単に運が良かったか、そうでなければ並ではない技量の持ち主だということだ。憲之は自分の知るロクじいが、複雑な多面体のほんの一面だけだったと気づいて、それがどこか空恐ろしく思える。
憲之は人がロクじいを「仙人」と噂することが嫌いだ。よく知らない相手を知ろうともせず、自分の知っている適当なイメージを重ね合わせて分類し、遠巻きに愉しむだけの大人たちを軽蔑し、あるいは呪いさえしていたが、今になってそれがそのまま自分に跳ね返ってきそうではないか。知ったつもりになっているロクじいという存在を、自分は何一つ理解していない。そう思った瞬間、皆はロクじいのことを恐れているのだと気付く。海辺に暮らすひとりの老人がただならぬ者だと勘付いて、畏れをなしているのかもしれない。

憲之はロクじいが言った「この磯は今日からお前のものだ」という声を思い出しながら、風が雨戸を揺らす音を聞く。嵐が人の何かを狂わせることなどあるのだろうか。ともかく今朝方のロクじいの言動は、何から何まで計りかねることばかりだ。
明日はまたいつものように、放課後は新聞を持って小屋へ行く。嵐の翌日はいつもそうするように、ロクじいは波打ち際を片付け、何かに使えそうなものを見つけに海へ行くんだろう。自分もそれに付き合うつもりで、憲之は時化の夜をやり過ごした。


翌朝を待たずにおさまった風は低い雲を連れ去ったようで、青空の高いところに掻き傷のような雲だけが残された。授業を終えトロを連れて漁協へ向かう道すがら、どこからか吹き飛ばされてきたらしい発泡スチロールのトロ箱が、車に轢かれて白い粉末になっている。降り込められた翌日のトロはいつも、二日分を待ち焦がれたように憲之のリードを持つ腕をぐいぐい引っ張った。漁協へ行きいつものように日付の古い新聞を受け取ると、早々に藪へと向かう。
いつの間にか薮よりも頭ひとつ分成長した憲之が、トロに先導されて笹藪を分け入ってゆく。少し進めばみえてくるはずのロクじいの小屋の屋根が、どういうわけか今日に限って見えてこない。そのまま藪から抜けたトロに引かれ、続けて憲之が藪の壁を抜け、開けた土地へ放り出された。

……ない。
ロクじいの小屋はどこにも見当たらず、崖下めがけて開けた草むらには、何の建造物も見当たらない。
何もない草っ原にひょろりと一本、見覚えのある藪椿が風を受けて、枝先を微かに揺らしている。いつもトロを繋いでいた枝は強風にもぎ取られ、その横にあったはずの小屋は跡形もなく消え失せ、よく見ればトタン板やベニヤの合板、見覚えのある船の屋号が印字されたトロ箱が、木っ端になって辺りに散りばめられていた。唯一変わりのないものは、小屋の戸口にブロックを積み重ねて作られたかまどだけで、いつものように黒く煤けているが、左右に渡してあった金網も、そこにいつでも載っていたヤカンもどこかへと吹き飛ばされたのか影も形もない。ふとつま先に当たって転げていくのは、いつもコップ代わりに使っていたカップ酒の空き瓶で、ラベルの裏側で微笑む女性の顔が、雨にふやけて歪んでいる。

ロクじいは強風対策をしたはずだ。だが施したそれが完全ではなかった、ということなのか。
……いや、違う。
足元に残された杭に、ロープの切れ端が絡みついていて、その切断面の鋭さが、誰かが刃物で一閃のうちにそれを断ったことを示していた。ロクじいだ。他の誰がそんなことをするものか。いつも藪を漕ぐ時に腰からぶら下げていたあの鉈で、小屋と地面を繋いだロープを自分自身の手で断ち切る様が目に浮かんだ。
「今日からこの磯はお前のものだ」とは、自分はもうここに来ることはない、という意思表示であり、それがロクじいの別れの言葉だというのか。トロが誰かを探すように辺りを嗅ぎまわって歩こうとするのを制する気にもなれず、憲之はリードを引かれるままに足を踏み出した。

高潮を被りぬかるんだ野を歩きながら、ふと口からこぼれ出るのはロクじいを呼ぶ声で、きっともうここにはいないと分かっていながら、それでも口を噤んだまま歩くことができない。トロを連れ、二人で獲物を獲りに行った磯や藪。憲之は思い当たるすべての場所を巡礼するように歩き回る。ロクじいのことを呼びながら。


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