チヤと了斎

文字数 5,668文字


集落の中で『按摩の子が病気になって口が利けなくなった』という噂話が広がり、チヤが中学校の卒業を控えた冬頃には、ロクはすっかり家の中でも無口になった。

とはいえ何も話さないわけでもなく、父親からの問いかけにはきちんと答えたし、家事についてはチヤの手伝いをする都合上、必要最低限の会話はしている。話さないから『何も見なくなった』と言うわけでもないらしいことは、相変わらず突然何かに心を奪われたようにぼんやりとして、それから心配して様子を見ているチヤの方を向いて、何でもないと言うように首を左右に振って見せる様子で窺い知れた。
どこまでのことが見えているのか。ロク本人が口を閉ざしている以上、チヤにも父親にもわからない。だがもうロクも慣れてしまって、見たものに一々驚いたり慌てたりすることもない。突然見えるようになったのと同じで、突然また元に戻ることだってあり得るだろう。チヤがロクの状態について、無理してでもそう楽観することに慣れはじめた頃のことだ。

その夜チヤはいつものように、床につく前に家の戸締りをしていた。
とはいえそれほど広いわけでもない長屋の、玄関の戸口と縁側のついた窓くらいしかないそれらを確認して、それから床についているロクの様子を見た。数日前から咳き込みはじめて、今日は学校から帰ってくるなり寒い寒いと訴えて布団に包まったきり出てこない。夕食を済ませる時だけ這い出して、粥を二、三口啜りはしたものの匙を握ったままぐったりとしているから、薬を飲ませ早めに床を延べて寝かせていたのだ。
起こさないように指先で頬に触れると、どうやら熱は下がったらしい。じっとりと汗をかいているロクの首を持ち上げて拭いてやると、すっかり湿気った枕に汗染みが浮いている。寝巻きも着替えさせた方が良さそうだと思ったチヤが起こそうとして声をかける、その息を吸い込んだ瞬間にロクの目蓋が開いた。薄暗がりの中で光るロクの瞳はぬらりとしてどこを見るでもなく、それから急にチヤの目を射抜いた。

「……チヤ姉、火事だよ。学校だ。小学校から火の手が上がってる」


そう言ってロクはふらりと立ち上がると、またあの時みたいに草履も履かず外へ出て行こうとする。チヤの止める声も聞かず走りでたロクは、あの頃よりもぐんと背が伸び脚力もついて、チヤには簡単に追いつくことができない。ロクよりも寸分遅れてたどり着いた真夜中の小学校は人の気配もなく、もちろん火の気配もなく静まりかえっている。ただ息を切らせたロクとチヤだけが、閉ざされた門の前で校舎を見つめているだけだ。

校庭の端に立つ国旗の掲揚台を指差して、燃えるよ。あそこから西が全部燃える。ロクはそう言って指を動かしてみせる。掲揚台の東側には百葉箱がポツリと建っているだけで、そこから西へと木造校舎が伸びて、その先は道ひとつで隔てられた平地に人家が軒を連ねている。
見たものを告げるロクの声は震え、歯の鳴る音が混じりはじめた。ようやく下がったはずの熱がまたぶり返してロクの身体を灼きつける。チヤがどうにかなだめすかして弟を家へ連れ帰ると、戸口に父親が立っていて、帰ってきた二人を家へ招き入れた。

すっかり冷たくなったロクをまだ温かい自分の布団に寝かせて、脈を取り呼吸を見ると「鍼も灸も必要なさそうだね」と言って布団を掛ける。土間の隅に置かれていた通い徳利に湯を沸かし入れ、布で包んだものをチヤに作らせると、ロクの布団に入れるように言いつけた。ロクはそれに絡みつくように抱きついて「父さん、火が出るよ」と繰り返す。半分は父親、半分は按摩の顔をして、まずはお前の内の火を消すのが先だと櫂禅坊了斎が言った。ロク、大丈夫だよ。私が様子を見てくるから。火が出たらすぐみんなに知らせるからね。そう言って部屋を出ようとしたチヤを、了斎は押し止めた。

「やめなさい。近付いてはいけない。お前たちはここから出てはいけないよ。ロクのことは私がみるから、チヤももう寝なさい」
「でも」
「いつ起きるかわからない火事を、お前がずっと見張るつもりか」

確かに父の言う通りだ。
ロクはいつも寸分先の現実を見ている。だが、それがいつ現実のことになるのかは誰にもわからなかった。

10
ロクが見た火が現れるのは、明日かもしれないし数日後かもしれない。
今夜はまだ火が出ていないと思えるのは、集落にある火の見櫓が半鐘ひとつ鳴らしていないからだ。それとも今、もしかしたら誰にも見つけられないまま小さな煙が上がっているのかもしれない。チヤは焦るような気分のままで、父の言う通りに布団に入りはしてもまんじりともせず、結局東の空が白む頃まで寝付くことはできなかった。

翌日の夜、チヤは父とロクが眠りについた後に床を抜け出して、小学校へと様子を見に行った。相変わらず学校は人の気配もなく、火が出るなんてとても信じられない様子でそこに建っている。チヤはしばらく学校の周りを歩いて、一番近くまで校舎に近寄れる辺りへと行き、何か様子が変わっていないかを伺う。小一時間ほどそうして、またこっそりと自分の床へ戻る。チヤは自分なりの「夜警」を、風の強い夜は不安に恐れながら、小雨の降る夜であっても気を抜かず、数日の間繰り返した。

ロクが見たものは全てが現実になっているのか。それはチヤには、というよりロク以外の誰にもわからなかった。ロクが見たもの全てをチヤや父に報告しているとは限らないのだし、本人だって全てを記憶しているのかもわからない。ただ今まで、ロクが口に出したことは必ずその通りになった。だが数日経っても小学校が火事になることはなく、チヤはこれが初めての「はずれ」かもしれないと思い始めた。もしそうならそれに越したことはない。むしろそうであってくれたら。チヤは布団の中であれこれと思いを巡らせる。父とロクが寝静まるのを待ちながらうつらうつらとして、ふと物音で目が覚めた。

……どのくらいの時間だったのだろう、眠ってしまっていたらしい。
障子の向こうに黒い影が見えて、父が土間に立っているのだと気がついた。父はチヤが起きてきた気配に気づいて、細く開いた戸を閉めて(かんぬき)をした。

「匂うね。……火だ」

父親は了斎の声になってそう言うと、お前たち、誰にも言ってないねと念を押す。ふと見れば隣で寝ていたはずのロクも目を覚まし、布団の上に正座して、父親の問いかけに黙って頷いた。


11
了斎の眼は光を映さない。だからだろうか、他者よりも早く音と匂いを捉えた。チヤは土間に降りて首だけを玄関の外に出してみる。長屋は静まり返って何の気配もない。だが微かに、何かの焼ける匂いが夜風に混じっている。誰かに知らせなくちゃと言うチヤに、もう気づいているようだと言った父の言葉のすぐ後から、遠くに半鐘の鳴るのが聞こえはじめた。
外は季節外れの東風が吹いて、鎧戸を揺らしている。火は煽られて炎になり、近くにある燃えるものも燃えないものも、皆一旦は味見するように舐め、それから貪欲に呑み込んでゆくだろう。ロクが見たであろう景色を、盲目の父了斎は瞼の裏に視る。長家の戸板が音をたてて揺れ始めた。火事場旋風だ。
その音に起こされたのだろう、長家の住民たちが動く気配がする。了斎がカタカタと震えるチヤとロクの肩を抱いて宥めていると、忙しい足音の後に戸口から大家の声がした。

「了斎さん、了斎さん。火事だよ。小学校が火元だ」

チヤが飛び出して戸口に出ると、寝巻き姿の大家さんが立っている。学校からは離れているし、こっちは風上だから心配ないと思うけど、もしものことに備えておいてくださいよ。そう言って棚子の一件一件を回っている。消火の加勢なのか、単なる野次馬なのか。路地を行き交う人の気配が止まないままに夜が明けた。

翌日、小学校は休校になった。
多くの生徒が延焼した住宅に住んでいたため、授業どころではなかったのだ。チヤがロクと一緒に様子を見に行くと、広い校庭は国旗の掲揚台と百葉箱だけを残して、そこから西は瓦礫の山になっている。何かの焼け焦げた匂いとまだどこかで燻っている煙が周囲を漂い、それが校舎から西側にある住居の並ぶあたりまで続く。チヤが生まれる前年に港を襲ったという『空襲』というものは、あるいはこんな感じだったのかもしれない。そうチヤに思わせるほど、火は容赦なくチヤとロクが住む漁師町の半分近くを焼き払った。

12
チヤの住む長家は何の被害もなかったが、炊き出しをしたり、焼け出された被災者が仮住まいを求めて引っ越して来たりと、数日の間は慌ただしく過ぎて行った。それがようやく落ち着きかけた頃、物干し台で洗濯物を干すチヤは、外から声をかけられて手を止め、路地を覗き込んだ。

「チヤ、お客さんだよ」

隣のお内儀が背負った子の、甲高い泣き声の後ろから、男が二人こちらを見上げている。一人はいつも駐在所にいる警察官で、もう一人は見知らぬ背広姿だ。戸口に降りたチヤが扉を開けると、お父様はご在宅かと言い、それを聞いていた了斎が土間へ出て、二人を玄関へ迎え入れる。制服を着ている方が、俯き加減で耳だけをこちらに傾けている了斎に向かい、自分は巡査の八須(やす)(かわ)ですと言って敬礼し、同行は逢津(おおつ)警部補だと紹介した。それから少し話を聞かせてくれるかと言って、長身を屈めて問いかけた。

「先日の火災の晩、どちらにおられましたか」
「ここで、家族で寝ておりました」
「ご家族は何名で」
「娘の千也と、その弟の碌也、私の三人でございます」
「確かに当夜はこちらに三人揃っていたと」
「はい。間違いございません」

いや、お気を悪くされたら失礼。あの火事ですがね、どうも付け火の疑いがあるとかで。通り一遍の捜査はせにゃあならんのでお伺いしたまでです。駐在はそう言って立ち去ろうとしたが、背広姿の方が軒に吊された『鍼灸按摩承り候 櫂禅坊了斎』の板を一瞥し、本当に三人ともここにいたのかね。失礼だがあんたぁ、座頭じゃあないかと言って、傍に立っているチヤを睨めつけた。

「ここの娘が夜中に小学校の周りをウロウロしてたって証言があるんだよ。あんたが知らないだけじゃないのかね」

13
「……ならばこちらにも証人がおります。丁度いい、今路地を歩いてこちらに参ります。駐在さん、戸を開けてくださいませんか」

警官が引き戸を開けると、長屋の路地を歩いていたのは大家さんで、了斎は土間の中から声をかけて呼び止め、中へと引き入れた。外から微かに聞こえる誰かの足音を、その癖だけで大家だと聞き分けたのだ。

「大家さん。火事があった夜、私どもの家に声かけに来てくださいましたね」
「ええ。伺いましたよ」
「三人揃っておりましたこと、覚えていらっしゃいますか」
「ええ。ええ。了斎さん。チヤちゃんが戸を開けに来てくれましたね。それから、座敷にあなたとロクちゃんがいらした」

それを聞いた背広は駐在と顔を見合わせて、またご協力願うかもしれませんが、今日のところはと言い残して去っていった。訪問者が去った土間で、チヤは了斎に「本当のことを教えておくれ」と言われて、夜毎に不審火がないか確かめに小学校へ行ったことを話した。おそらくその時の姿を集落の誰かに見られていたのだろう。事ここに及んで初めて、父がロクに「誰にも言わないように」と釘を刺した理由がわかりはじめた。自分が何かとても悪いことをしたと気づいて、チヤが父に詫びて項垂れると、父は何も言わずチヤの頭を撫で、ロクと一緒に身の回りのものを整頓しておきなさいと告げた。

ロクは何も言わず、数少ない自分の持ち物である教科書や筆箱の類を揃え、大きな布製の鞄に詰め込んでいる。強張った表情で動けずにいるチヤに、父親は行李を出しておくれと言って、柳の枝で編まれた籠のようなそれに、鍼灸の道具を一式と、自分と子供達の着替えを詰めた。父さん、どこへ行くのとチヤが尋ねると、了斎は「どこへも行かないよ、もしもに備えておくだけだ。いつも箪笥から出しているものを、当分の間はこの行李から出して使うだけのことだよ」と応えた。

14
皆誰でもこの先を考えて、今するべきことを決めている。
ロクにはもう少しだけ先まで見えていたとしても同じことだ。もしかすると父も、口には出していないだけで、ロクと同じ「少しだけ先」を見ているのではないだろうか。

それから数日の間は了斎の言う通り、小さくまとめられた荷物から身の回り品を取り出して使っては、またそれを箪笥ではなく鞄にしまうような日が続いた。
入れ替わりに起こりはじめたのは学校や長屋の住民たちが、チヤやロクを遠巻きにし始めたことで、まず了斎のことを頻繁に呼んでくれていた旦那衆から、按摩の声が掛からなくなった。仲良しだと思っていた同級生たちがチヤとは口を利かなくなり、ロクに至っては何を言っても言い返せないだろうと「お前の姉貴が付け火したんだろ」と面と向かって放言された。学校だけでなく、もうとっくに家の中でも誰とも口を利けなくなってしまっていたロクは「違う」の声が出せない代わりに相手に向けて両腕を突き出し、それが発端となって教師が数名がかりで間に割って入るほどの乱闘騒ぎになった。

長屋の路地にも不審者の影が入り込み、闇夜に紛れて郵便受けには泥が詰め込まれ、チヤが拾った種から育てていた椿の鉢植えも、軒に置いてあったものは皆戸板に叩きつけられた。玄関の引き戸に嵌まったものも便所の小さな明かり窓も、ガラスというガラスはみな石を投げつけられ粉々にされた。了斎は大家に詫びを入れ、これ以上のご迷惑はかけられないと告げる。もうチヤもロクも、父がこの後どうするかがわかっていた。

了斎は大きな風呂敷で包んだ柳行李を背負い、片方の手で杖を握る。もう片方の手はチヤの胴に結えつけた腰紐の端を持ち、自分の鞄を肩からかけたチヤを先導にしてゆく。その後ろを俯いたロクがついて歩く。降り始めた今年最初の雪が止み、凍りついたように光る月が辺りを照らす中を、小さく連なった三人の影が漁師町を背にして、街道に向けて歩いて行った
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