ユリとヒロ

文字数 4,609文字


ささやかな電灯の光をてらてらと反射させる着物の、前を合わせ腰紐を結ぶ。
襟元に指先を差し込んで直しながら「ねぇ、またいらして」と話しかけるユリの声を、電車の通過音が掻き消してゆく。ガード下の安普請で、しかも二階屋では建物も容赦なく揺れる。音ばかり大きな四両編成がのろのろと、ようやくユリの頭上を通りこしたところで、枕辺に置いた懐紙入れから小さな紙の札を出して男に渡した。小口を赤く染めた切符くらいの大きさの紙片には「ゆ利ゑ」とあって、百合らしい花の絵が刷られている。男は黒革の札入れにそれをしまうと、代わりみたいに数枚取り出した札を渡してきた。ユリはそれを懐に入れるとすぐ壁にかけられた背広を取り、男の背後に立って袖を通させた。

さっきまではユリの身体の上でだらしなく揺れる肉の塊だったが、着るものを着ればそれなりの格好がついて、男は細い階段を降りて下界へと向かう。この建物を出れば仕事帰りの酔客、この街を出れば残業帰りの勤め人、自宅へ戻れば誰かの夫で、誰かの親に戻るであろう男を一人送り出し、ユリは1階にある小さなカウンターだけの飲み屋を覗き込む。
入り口に置かれた看板には毒々しく濃い牡丹色に「花苑」の屋号が白く抜き出され、中に仕込まれた電灯の劣化に合わせて明滅している。三人しか座れないカウンター席に誰もいないことを確認してそこへ腰掛けると、カウンターの中にいたママが灰皿を差し出してくれるから、ユリはタバコに火をつけて一服した。それほど好きなわけではないけれど、煙に目を瞬かせながら、指先に灯る小さな赤い光を眺めるのがユリのささやかな愉しみだ。

ねぇユリちゃん、それ吸ってからでいいから、ヒロちゃんに声かけてきて頂戴。避妊具(サック)の在庫が切れそうなのよとママが声をかけてくるから、先端の火玉を器用に灰皿に落として、ロングコートに身を包む。客足の途絶えている今のうちに行っておこうと、ユリは派手なサンダルを引っ掛けて店の外へと出た。


ユリのいる店の隣はそっくり同じような作りで、そのまた隣も似たような、小さな間口に狭いカウンターを設えたその中に女性が立っている。年増から大年増といった齢のわりには艶のある赤い唇が愛想を言い、椅子に座った客に酒を提供するが、ほとんどの店はビール程度のものしか置いていない。それもそのはずで、ここらで看板を掲げている店は皆飲食店のふりをした風俗店だ。どこもカウンターの脇に小さな階段があり、二階には小さな廊下でつながった小部屋が並んで、四畳半にも満たないそこに女がひとり、布団と一緒に備え付けになっている。一階のカウンターは要するに待合所であり、ビールはそのつなぎとしての需要でしかない。
「花苑」にはユリエをはじめ、モモ子やサクラにあやめと、花の名前で呼ばれる女たち、斜向かいの「モンパリ」にはマリアやミシェルといったハイカラな名前を名乗る女たち。それぞれ表向きはバーの体裁を繕っているが、それぞれの店の脇にある、細い階段を上がった小部屋ですることは、詰まるところ皆同じだ。

鉄道ガード下の、いわゆる青線と呼ばれるこの街に、男たちは吸い寄せられるようにやってくる。最初からここへ直接来る者と、表通り、と言ってもここと似たり寄ったりの路地に飲み屋ばかりが並ぶ通りの店で、客引きに引っかかって連れて来られる者の二通りがいるのだが、その客引きをしているのが、ママの言っている「ヒロちゃん」だ。
ヒロはこの界隈で数件を束ねている矢上というヤクザに任されて「花苑」の客引き兼用心棒をしている、数名の男手のうちの一人だ。店の備品に不足があればそれを調達したり、時には女たちの世話を焼いたり、愚痴を聞くことまで仕事に含まれているから、夕暮れ時から深夜まで、気の休まる暇もなさそうだった。

夜道を歩く酔客を躱しながら、矢上が経営している縄のれんのかかった酒場に向かい、引き戸に嵌った磨りガラスの上の方にある透明なところから中を覗くと、店内は客ばかりでヒロの姿は見当たらない。ユリの姿を見つけたらしい前掛け姿の女将さんが、戸口から首だけを外に出し、ヒロさんならさっき客を連れてそっちぃ行ったとこだけど、行き合わなかったかいと教えてくれた。違う道筋で行き違いになったのだろうか。髪に絡まる縄のれんをよけて店の軒を出ると、駅の方で小さな人だかりができていた。


そのうちバラバラと解けてゆく人混みの、その真ん中に座り込んだ男の姿が見えた。
ヒロだ。ユリが駆け寄ると俯いていた頭をようやく持ち上げて、あぁ、どうしたのユリエさん、と言った直後に顔を横に向けて血の混じった唾を地面に吐き出した。どうしたの、はこっちのセリフだろうとユリは思ったが、探してたのよママからお使い頼まれてと言って、よろよろと立ちあがろうとするヒロを支える。そうしながら唇をヒロの耳元に寄せて『サックが足りないの』と小声で付け足す。あぁ、はいはい。あとで持って行くからお店に戻りなよと言って、ヒロは米軍払い下げ品らしいカーキ色のズボンについた土埃をはたき落とした。

「やだ、ケンカしたの」
「客横取りされて、黙って見てられるか」

どこの店も同じような客引きを使って、客を店まで連れてくる。ヒロも飲み屋の座敷席で捕まえた男二人組を連れて花苑へ向かう途中に、他所の客引きに絡まれて揉み合いになり、多勢に無勢で押し負けたらしかった。

「いいんだ。もっと羽振りの良さそうなの捕まえてやるから。ユリエさんが骨抜きにしてしゃぶり尽くすには、ちょっともの足りないような客だったし」

ヒロはそう言って目を細くして笑い、その姿が狐に見えたのは、葡萄を採りそびれて「あれはまだ酸っぱいんだぜ」と言った昔話を思い出したからかもしれない。スッとした細身を立て直すように立ち上がり、楽天地まで送るよと言ってヒロはユリを伴って花苑が店を構える小路へと足を向けた。

この頃ヒロは熱心に客引きをしている。
以前はそれほど客のいない時間には、店でぼんやりと客待ちをするユリと話をしたり、暇な時には将棋を指したりすることさえあったのに、近頃はちょっとの隙も惜しんで客を引き、場合によっては駅の方にまで客を探しに行ったりしているらしい。だが客引きにも縄張りというものがある。自分の店から離れたところで派手に客引きをするのは諍いの素にしかならない。ヒロが客を奪われたのは、どうやら駅近くを縄張りにする客引きに顔を覚えられ、意趣返しされた結果のようだった。


「駅前の連中に顔が売れちゃってるんじゃないの」
「もういいよ。あとちょっと稼いだら、俺ぁ足洗うつもりだから」

店の1階にいるママはつい最近になって入れ替わったばかりで、毎日のように顔を合わせてもまだ心を許して話せる相手とまでは言えない。店の女たちは頻繁に入れ替わり、時には警察の一斉摘発に引っかかってまとめて留置所送りになることもある。この店に来た時からあれこれとユリの世話を焼いてくれたヒロとは一番長い付き合いで、気心が知れている間柄だ。そのヒロがどこかへ行こうとしていることに、驚いただけでなく小さく傷ついたが、すぐにそんなものだと思い直した。ここはかりそめの人付き合いを積み重ねてできている街だ。寸の間を共にして、また散り散りになってゆく。結んでは解いての繰り返しで、長く居続ける人は少ない。ユリだって店と名前をひっきりなしに乗り換えてきたのだし、花苑に来てまだ1年も経っていない。いつまでも続けるような稼ぎ方ではないことは、ヒロでなくてもここで凌いでいる誰もがわかっていることだ。

早くに親を亡くし、まだ小学生だった弟を養う必要があったユリの、初めての職場は缶詰工場だった。
ユリが幼い頃暮らした漁村では、獲れすぎた魚は皆に配り、時には畑の肥やしになるのが精々だったが、ここでは大量に獲った魚を水産加工場で缶詰にする。どんなものでも残さず現金にすることで、それが資本になっていく。会社は日毎月毎に収益を上げ工場を拡張してゆくが、肥え太るのは会社ばかりで、働いても働いてもユリの手元に渡る金は少ない。缶詰工場が機械を導入し、人が要らなくなったのを機に「あっちはもっといい給料を払ってくれる」という噂を聞いて、次の仕事に選んだのは造船所だった。

近隣の漁港を相手に、造船と漁具の販売をする店の工場はいつも賑わっていて、ユリは工場の片隅で重たい網を担ぎ上げては広げ、数人がかりで破れやほつれを見つけてはそこを繕うことで給料を得た。だがそこでも渡される労賃は缶詰工場と幾らも変わらない程度のもので、弟と二人で暮らす狭い部屋の家賃を払うと、手元には幾らも残らない。時には家賃が足らずに支払いを待ってもらうことを繰り返しながら、昼は工場で、夜は港近くの盛り場で酒場の女給をして稼いだ。だがそれもほんのひと月だけのことになってしまった。ユリの所属していた魚網の修繕を受け持つ部署が、ある日丸ごと廃止されてしまったからだ。


じわじわと修繕作業自体が減ってきたのは、ユリも何となく気づいていた。それまでよりも丈夫でほつれの出ない、化学繊維で作られた魚網が普及してきたからだ。今までのような手間も格段に減る魚網の出現によって、ユリの仕事も消えてしまった。酒場の女給だけで食べていく身の上になり、店から給与の前借りをして、果ては借金を繰り返すしかなくなった。返済の目処も立たないユリに店主が持ちかけたのが、酒場の近くにある小さな店の二階で客を取ることだった。

初めは気が乗らなかったが、そうしないでも借金を返せるアテはあるのかと尋ねられたらぐうの音も出ない。一月だけのつもりで小部屋の住人になり、楼主にミヤコという名前をつけられて客の相手をした。
最初の客は楼主が旧知の得意客で、朝鮮特需で大いに膨れたセメント会社の社員らしかった。とにかく若い娘を好み、店に新しい娘が入るたびに最初の客として、通常の数倍の金をポンと払って廓に上がる、四十絡みの男だ。自分の腹の上で揺れている男の、頭の向こうに見える天井板。ユリはその木目を細かく数えることに集中して、全身を探られる気味悪さを誤魔化してやり過ごす。すると漁網を繕って得る給料とたいして差がない額の金が、たった一晩のうちに手に入った。そこからはあっという間だ。
数ヶ月働いては河岸を変え、また別の店へと移る。ミヤコがアカネになり、ヤエコになり、数カ月前からはユリエ。それでもユリエになってからが一番長いのは、羽振りのいい客に恵まれて心付けをもらえることと、退屈しのぎに話し相手になってくれるヒロがいたからで、そのヒロが欠けてしまうことがユリには決して小さくない痛手だ。それでもヒロが選んだ道があるというなら、気持ちよく送り出してやりたいと思う。

「……寂しいけど、ここは居たら居ただけ削られていく所だもん。長居するとこじゃないわ」

ヒロはユリの声を聞くと俯きがちに微笑んで、他の姐さんたちには内緒にしてよ。ユリエさんだから話したんだからねと釘を刺した。

瀬ヶ崎楽天地と書かれたネオンがジリジリと唸りながら二人の顔を照らしている。このアーチから先がヒロとユリの職域で、のぞきこめばもうすぐそこに花苑の看板が光っているのが見えた。
じゃあユリエさん、ここでね。ママにはすぐに持っていくからって伝えて。そう言ってヒロは薄暗い路地の奥へと走り去って行った。
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