矢上とヒロ

文字数 5,158文字


ヒロのことは最初から『頭数には入れるな』と手下供には言ってあった。
矢上は自分が使う者を三種類に分ける癖がある。まずは一家を固めるのに自分の手足となって動く者。これは言わば一軍で、存外に人数は少ない。次いで二軍は一軍の指示に忠実に従う人足で、とにかく人数を揃える必要のある場面も多いから、この区分にいる者が手下のうちほとんどを占めている。そして三軍は『頭数には入れない』変わり種だ。

自分から任侠をやりたがって集まってくるようなのを、何年も眺めているうちに眼力がついたのか、どの程度続く奴かは初見で見当がつくようになった。結局のところ使い物になるかどうかは続けられるか否かの違いでしかない。ある程度やっていれば自然と力量がついてくるだけの話で、最初から使える人間を抱き込もうなんて虫が良すぎるというものだ。しかし何の因果か、どう見ても向いてなさそうなのに矢上の元へ転がり込んでくる者がいて、そういう手合いは最初っから適当にあしらって追い払うことにしている。だがどうにも判断付きかねるものが三軍で、ヒロはその筆頭格だ。

実家は開業医で地域の中核病院だというし、そこから気まぐれにはみ出した三男坊のことだから、他と毛色が違うのは当然だろう。実の親兄弟と折り合いがつけられずに勘当息子同然の状態で、日雇い仕事を探して寄場に入り浸っていたのが、いつの間にか矢上の下で働く若衆たちに紛れ込んでいた。
ぼんぼんのご乱心ならそのうちに爺やが迎えにでも来て、すぐにいなくなるだろうと思いきや、賭場に出入りして向こうブチを張り、勝った負けたを繰り返している姿は水を得た魚の如くで、よほど鉄火場の水が肌に合うと見える。腕っぷしはそこそこ、要領もまあまあ良い。何より愛想が良くこなれた人付き合いをするから、仲間内の受けもいい。だが育ちの良さが災いしてか、どうにも気迫というものが欠けて見える。
いざというときに力技で押し切ることの多い業界では必須の職能と言うべきだが、どうやらヒロには生まれつき、その持ち合わせがないらしい。矢上の目にはヒロの物腰の柔らかさが不安の種としか映らない。


そのうちに戻るところへ戻る奴だろうから、あまり深入りさせるな。あの優男ぶりなら瀬ヶ崎楽天地の女たちに受けが良さそうだから、店で下働きをする男手として宛てがっておけ。
手下にはそう言って聞かせ、使ううちに読みが当たったのか、瀬ヶ崎楽天地で自分が持っている数軒の店の収益が跳ね上がった。

どうやらヒロの客引きが功を奏しているらしく、女たちからの評判も良くて、何より定着が良くなった。この界隈で同じような売春宿を経営するのは矢上ばかりではない。女たちは借金の返済さえ済めば、少しでも条件のいい店へ移ってゆくから、そこを引き止めるのは経営側の仕事だ。それがヒロを付けてから、連れてきた新入りが慣れる間もなく辞めたがることも減った。忙しそうにしているヒロに、もう一人転がり込んできた変わり種を付けてやってから、店は益々繁盛している。巧くいっているあの界隈のことは手下に任せておけば、矢上自身も普段以上に自分の仕事に専念できた。

近頃は港湾人足の周旋だけでない人集めを頼まれることが増えてきている。戦争が終わり滞った物流も動き始め、復員してきた男たちは止まっていた産業の歯車を再び回しはじめた。普段はそういう男たちに酒や女を売りつけて商いするのが生業だが、矢上のような立場になると思いもよらない方面から声が掛かることもある。船会社に人を集めて送り込むよりも遥かにいい稼ぎになるし、短時間で一度限りの単発仕事なら効率もいい。だがそれだけに内容はあまり気分のいいものではない。

矢上に話を持ちかけてきたのはセメント会社の社員で、元々は瀬ヶ崎楽天地の常連客だ。何でも気に入った娘を追ってこの界隈に出入りし始めたとかで、花苑にいるユリエという女に入れあげているらしい。店のママを通じて経営者につないで欲しいと頼み込んできたから、開店前の店の一階で顔を合わせた。
名刺入れから厚みのあるのを一枚を差し出され、そこに刷られた社章と狩野原という男の苗字を眺めるだけ眺めてから、矢上は名告りだけの自己紹介をして、すみませんね名刺作ってないもんですからと代わりにタバコを差し出す。自分も咥えるとこれ見よがしに名前の彫られた銀のライターで点けた火をすすめた。


「……近頃お忙しいんじゃないですか。こちらとしてはスト歓迎ですがね」

名刺に刷られた社名と肩書きを見て、矢上はそう言い放つ。あんたはこんなとこで遊んでる場合じゃないでしょうとまでは口に出したつもりはなかったが、顔に書いてあるとでも言いたげに「何しろ工場が動きませんのでね、時間ならたっぷりあるんです」と目の前の男が嘯いた。

瀬ヶ崎楽天地に隣接する港、そのゆるやかな湾の対岸には大きなセメント工場がある。石灰石を運び込む貨物船にもセメントを格納するサイロにも、それから門扉の脇にある掲揚台にも、男が示した名刺に刷られたのと同じ社章が刻まれた旗が揺れている。その工場が労使間協議を拗らせて、数カ月前から時限ストに突入しては解除することを繰り返していた。
近々のうちにその「時限」が外れると噂されていたが、もちろん交渉が妥結したわけではない。その逆だ。
一向に軟化しない経営側に痺れを切らした組合が、無期限ストに突入することを宣言したらしい。することもなく昼酒を食らう連中が増えることは、矢上にとっては喜ばしいことだ。だがあまり長引けば遊ぶ余力もなくなる。

「どうにか時限ストで収めちゃもらえませんか。こっちも煽りを喰らうもんで」
「ですから、少々人をお借りしたい。暴力沙汰(あらごと)に慣れた人が欲しいんです。ピ()を破りたいんでね」
「ピケ張りしながら破りもするなんて、ずいぶんお忙しいことで」
「我々も一枚岩ってわけじゃないんです。早いとこ工場を稼働させて一円でも多く稼ぎたい。働く者の懐具合が良くなれば、矢上さんも益々ご盛業となって『三方(さんぽう)よし』だ。悪い話はひとつもありませんよ。その突破口に指南役が要るんです。向こうもこちらも腕力自慢ばかりの職場だが、いかんせん石灰石を運ぶことしか能がなくてね。本職が加勢してくれないことには、時間ばかりかかってヤマが動かんのですよ」

こいつはとんだ食わせ者だ。労組側に送り込まれた経営側の犬が、こっそり土塁を掘り返して内側から壁を崩し、手柄を咥えて戻り主人に擦り寄ろうとしているらしい。

※ピケ……ピケッティングの略。ストライキの際、ストを破って働こうとする人を、就労させないように見張る行為。


九州の炭鉱をはじめ、全国で労働争議が頻発している。小さな暴動が大きな騒乱を生むことに気づき始めた警察は、近頃は些細なことでも倦まずに首を突っ込んでくるようになっていた。
警察が出てくれば当然留置される者も出るだろう。十把一絡げで護送車に押し込められたのを、こちらで受け出すことまで含めて見積もれば、それなりの対価を貰わなければ見合わない。矢上は出し渋る男の足元を見ながら相当に吹っかけて、しかも手付けを半分先に入れろと言って呑ませた。素人なら証文のひとつも取ろうとする額だが、おくびにも出さないところを見ればヤクザ相手の取引に慣れているらしい。タバコ一本が灰になる程度、つまりものの五分とかけずに商談をまとめて、矢上は店を後にした。

事務所に戻ると手下の一人が矢上の顔を見るなり、ヒロの奴が話があるとかで来ていますと言うから、通してやれと言えばこざっぱりとしたジャケットを着た優男が矢上の机の前に立った。まだ二十歳そこそこの若造のくせに、身綺麗にさせれば何でもそれなりに着こなしてみせる。電話の一本もかければすぐにでも、黒塗りの車で執事が迎えに来そうなご身分に見えた。

自分がこいつくらいの年齢だった時は、ニューギニアの密林で蚊柱を避けながら食べ物を探し歩くことで精一杯だった。敵は連合国でも何でもなく、飢えとマラリアと赤痢、それから満足な補給もせず転戦ばかりを要求する司令部だ。ようやっと引揚げ船に乗せられ戻ってきた故郷は焼夷弾で黒焦げにされ、焼け野原を彷徨うことに時間を費やした。軍払い下げ品を闇で動かして日々を食い繋ぎ、不惑が見え始めてようやく興した一家の親柱として今がある自分からすれば、まるで別の生き物のように見える若者が、矢上の目の前に立っている。それでも手下がこういう顔をして話を聞いて欲しそうな時は、何を言い出すかは予想がつく。だからヒロが「今月限りで足を洗いたい」と切り出した時も、矢上はそれほど驚きもしなかった。

「いよいよ爺やが迎えに来たか」
「そんなんじゃないです。……一度家に戻る用事ができたもんですから」


足抜けしなければ済まない程の用事って何だと尋ねるが、ヒロは一身上のことですと言ったきり口を閉ざした。ふん、まぁ良かろう。賭場の貸借が綺麗になってるなら引き留めるいわれはないな。そう言った矢上にありがとうございますと頭を下げると、ヒロはそのままの姿勢で、もうひとつお願いがあるんですがと切り出した。

「ロクを一緒に連れて出たいんです」

ロク。しばらく考えてから、ちょっと前にヒロに押し付けたあのガキかと思い当たった。

「啞の坊やと一緒に足抜けとはなぁ。何ぞ旨い商売でも思いついたか」
「そういうわけではないです」
「説明しろ。理由の如何によっては考えてやる」

何の説明もなしに黙って呑むとでも思ったんなら俺も随分舐められたもんだな。矢上がそう言うと、ヒロはようやく頭を上げて見つめ返した。

「ロクを医者に診せたいんです。親父か、兄貴に診察してもらって、それでダメなら東京の大学病院に紹介状を書いてもらおうと思ってます」
「医者に診せて治るようなもんなのか」
「……わかりません。ですが万に一つも可能性があるならそれを試したい」
「どこの馬の骨かもわからん奴に、何故お前がそこまでする」
「兄分として、自分がやれることはしてやりたいだけのことです」

何てお人よしのお坊ちゃんだろう。
こういう育ちの良さが、焼け野原を彷徨ううちにささくれすら擦り切れて、剥き出しになった矢上の神経に触る。大した慈善家か、それとも何か裏があるのか。この若造はどの程度の覚悟でものを言ってるのか、この際だから教えてもらおうじゃないか。


「お前ピケ破り行ったことあるか」

反応の鈍いヒロに、他の若衆に声かけられたことなかったかと確認すると「『ピケ破り』という単語をどこかで聞いたことがあるくらいで、何のことかわかりません」と答えた。それを聞いた矢上は部下の忠誠ぶりを誇らしく思う。ヒロは頭数に入れるなという自分の指示が、きちんと守られている証左だと言っていい。

「港のセメント屋が時限ストやってるの、お前知ってたか」
「ええ」
「あれが無期限ストになる。ピケ張ってる連中を崩す仕事が入ってんだが、お前行けるか」

ストライキっていうのはな、言ってみりゃ持久戦だ。相手と一緒になって自分も苦しむ戦法だから、そうなると脱落する奴も出てくる。経営側はこっそりそいつらに旨い飯でも食わせて、懐柔して分裂させるのさ。そいで、第二組合なんかを作らせる。その連中がスト破りをして職場復帰しようとするのを、元の組合側はピケって呼ばれる見張りを立てて阻止する。そのピケを破りたい奴らが加勢を欲しがってんだよ。奴さんたちは力仕事には慣れてても、暴力沙汰には慣れてない。そこで俺らの出番ってわけだ。
お前、これにいけるか。何、生きるの死ぬのって大袈裟な話じゃない。バリケードのひとつもぶち壊して、人垣を引っ剥がしてやるくらいのことさ。だが揉み合えば警察も出てくるだろうから2、3日留置されるかもしれんが、請け出しくらいはこっちが手配してやる。最後のお勤めだと思って行けるか? できるんならお前の思うようにさせてやるよ。やることやって戻ったらあのガキぃ連れて、東京でもどこでも行きゃあいい。

まぁ、無理にとは言わないけどな。そう言い終わるより前に、ヒロはわかりましたと返事をした。
悩む素振りも見せずに出した即答を、矢上は無言で転がして少しだけ待ってやる。引っ込めるなら今しかないぞと口には出さずにヒロを見れば、手筈が決まったら教えてくださいと覚悟を固める顔をしている。矢上は一軍の手下の名前を出して、委細は奴から知らせるとだけ言うと、顎で扉の方を指し示した。開けてやったドアからヒロが出ていくのを見送って、やり取りを聞いていた側近が「よろしいんですか」と尋ねた。『頭数に入れるな』という指示を自分から反故にしたことを言っているんだろう。

「卒業記念に派手にやるのもオツなもんだろ。思い出づくりに丁度いいんじゃねぇか」

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