ママとユリ

文字数 5,428文字


ユリエちゃん、そんなに急いでお返事しなくてもいいんじゃないの? もうちょっとゆっくり考えても大丈夫よ。ママはそう言うけれど、そもそも乗り気ではなかった縁を手放す決定的な理由ができたのだから、これ以上時間をかけるべきではない。

店で働く女たちは上得意を何人か抱えている者もいる。岡場所に通う客の中には店に話をつけて女を請け出し、自分専用の妾として家を持たせたりするが、こんな安い店でそうした身仕舞いをする女がいるわけもない。だが全くいない、というわけでもなかった。ユリを請け出したいと店に話を持ちかけたのは、岬の外れにあるセメント会社に勤める狩野原(かのはら)という男で、チヤが数件を渡り歩いてから花苑にたどり着き、ユリエになったばかりの頃にやって来た客だ。

部屋へ上がるなり自分のことを覚えていないかと聞かれ、ごめんなさいここの店が初めてって訳でもないもんですからと答えると「昔ミヤコって名前だっただろう」と言われて、まだ酒場の女給をしていた頃、店主にあてがわれた自分の名前を思い出した。あの頃は客をとるたびに天井の木目を数えてやり過ごしていた。あの時の視界の端にちらちらとよぎる顔が、言われてみればこんな風だったかもしれない。
ごめんなさいね忘れっぽくてと頭を下げれば、いや、あんな風采の上がらない自分を覚えてなくてむしろ良かったと言って、男はユリに微笑んでみせた。
俺はあの頃まだヒラ同然の社員だったけど、今は事情が違うよと言う通り、きちんとした身形をして、こういう場所へ出入りする客の身形とは到底思えないような、仕立てのいい背広を着ている。姿形だけで見はからえば、そもそも青線なんかに入り浸ることも憚られるようなご身分に見える。それなのに狩野原はユリの抱える客たちの中でも、最も足繁く花苑へ通ってくる上客になった。お客さんほどの人だったらもっと良いところで遊ぶものなんでしょうとユリが言うと、狩野原は笑って、そういうところは肩が凝っていけないね。瀬ヶ崎楽天地くらいが気楽に遊べて丁度いいと機嫌良さそうにしている。


とにかく心付けを弾んでくれる事と、気安くいろんな話をしてくれるので、ユリにとってはもちろんのこと、狩野原は花苑の上得意と呼ぶに相応しい客だった。
その男がユリを請け出したいと言い始めたのだから、悪い話ではない。初めは冗談だろうと思っていたユリはそれとなく話を逸らしてはぐらかしていたが、どうやら本気らしいことは、次第に具体的なことまで口に出すようになってきた狩野原の口調で伺えた。店に借りがあるなら自分が出すし、支度金が必要なら用意するからとまで言われ、しまいには狩野原自身が店の一階にいるママに直談判したらしい。ママの方から事の次第を尋ねられたものの、ユリがあまり乗り気でないことは表情から知れたのか、ママは今すぐ返事しなくていいからと、しばらくの間はユリを自由に泳がせてくれた。だが事ここに及んでは、もうキッパリお断りしておきたい気分だ。

ロクが行方を眩ましてから、もう半月が過ぎようとしている。時間を見つけては探し歩いたが、噂話の中にすらロクらしい人物は上がってこない。警察にも捜索願いを出してみたけれど、結局のところ犯罪者や行き倒れの身元確認の際に情報照会をする程度の話で、積極的に探してくれているわけでもない。そういう意味では警察からなんの連絡もないのは「とりあえずまだどこかに生きている」可能性が高いという、最悪の事態にまでは至っていないと思える程度のものでしかなかった。

狩野原はユリの弟が啞で、その働き口を心配するユリの様子を見るや、自分の口利きでセメント会社に席を用意してあげようと申し出てくれていた。もちろん「請け出しに応じてもらえたら」という条件付きではあったが、ユリにとっては願ってもない魅力的な話だ。ロクが堅いところへ就職してくれたなら、自分ひとり食べてゆけばいいだけの身の上になる。暮らし向きも楽になるだろう。何より仕事を与えられれば、ロクも一人前の成人としての自信がつくに違いない。ただ、上司に狩野原がいる限りは自分がどうやってこの職業に就いたかを、意識し続けることになるのだろう。

贅沢を言える身分ではない。使えるものはなんでも利用して、身を立てていくと割り切るしかない。ユリひとりではそう考えるが、肝心なのはロク本人の気持ちだ。それを確認するまでは、狩野原にもママにも態度を保留していたユリだったが、就労どころか行方知れずになってしまった弟のために、もうこれ以上返事を待たせるわけにもいかなかった。


「ほら、ユリエちゃん。噂をすれば、よ」

ママがそう囁くから店の軒先を見れば、狩野原が立っている。
麻のジャケットにパナマを被った姿は、全くもってこの薄暗い路地ばかりの町に似つかわしくない。長身の男にユリは待ち焦がれた素振りで駆け寄り、肩に寄り添って二階へと続く細い階段へと導いた。二階の廊下にはついさっき客と一緒に上がっていったサツキの派手な善がりが漏れている。囀りもサーヴィスのうちだということは、小鳥も客も織り込み済みだ。

延べた布団の他にはいくらも畳が見えないような小さな部屋。ここでだけの夫婦のように甲斐甲斐しく、ユリは狩野原の上着を脱がせてハンガーに吊るした。
どう伝えればいい。請け出しを断れば機嫌を損ねることは目に見えている。場合によっては二度とこの男はここへは来ないだろう。身請け話に応じてしまえば別の場所に部屋を与えられ、自分はこの男にだけ尽くすことになる。大きな手のひらが襦袢の襟を割って、ユリの乳房を掬い取った。今だってここへ来さえすれば、いくらでもユリのことを好きなようにできるのに。この男の持つ独占欲がそれを許さないのだろうか。
自分のもの。自分だけのもの。他の誰にも触らせたくないから、鳥籠に入れて錠前をかけたがる。どう切り出そうか。それともやはり店から断りを入れるようにしてもらった方がいいのだろうか。悩むうちに時間ばかりが過ぎた。

いつもより客足が鈍いのはこの店ばかりではなく、街全体から人の気配が減っている気がして、ユリは窓枠を見つめて何だか静かねと呟く。狩野原が勤めるセメント工場の、時限ストが数日前に無期限ストに切り替わり、工場はまるで稼働できなくなっているらしい。お勤め先が大変そうねと言うと、狩野原は「俺が何もせず遊んでるように見えるだろう」と言って口角を吊り上げてみせた。轟音が響いて建物が小刻みに揺れる。ガードの上を電車が走って行く音をやり過ごしてから、俺は俺なりに勤めを果たしてるよと言って微笑んで、狩野原は「今夜は工場の方へは近寄らない方がいい」と言った。もっとも、ユリにとって何か用事がある場所というわけでもないのに、不思議なことを言う人だ。まるで寸分先を読んだロクのようではないか。
何かあるのと尋ねると、いや、自分たちには関係のないことさと言ってタバコに火を着け、灰皿を乗せた盆に手を伸ばした。



狩野原の帰宅を見送り、一階のカウンター席に腰を下ろすとママが灰皿を出してくれるから、ユリも指先に小さな火を灯す。ねぇママ、私やっぱり気が向かないの。狩野原さん、いい方だけど私には合わないわ。お店の方から上手にお断りしてもらえないかしら。ユリがそう水を向けるとママは少しだけ黙ってから、仕方ないわねぇ。本当にそれでいいのねと念を押した。

「じゃあお返事は伸ばせるだけ伸ばして、できる限り通ってもらいましょ」

ママの心配事はユリのそれとほぼ一緒で、切れるかも知れない上得意を可能な限り繋いで、少しでも多く金を吐き出させることにもっぱら関心を寄せている。今日も行くのとママに尋ねられ、駅の周りを見て歩くつもりだと返事をすると、あんまり根を詰めすぎてもいけないよ、弟さんが戻ってきても、姉さんが倒れちゃったら元も子もないからねと言って、ビールを入れた冷蔵庫からチョコレートの小さな包みを出して、アザミさんのお裾分けだよとユリに渡してくれる。店での勤めは早めに終えて、ロクを探して歩くことがすっかりユリの日常になっていた。

駅へ向けて歩き、ユリは大きな料理屋の裏手にある路地へと脚を運ぶ。
数日前、厨房の勝手口で休憩していた板前に、通りがかったユリが家出人を探していると話しかけた。板前はまかないらしい握り飯を口に押し込んで、手に持った湯呑みをひとくちあおると、腰掛けていたブロック塀の上へ置いた。路地の奥から向かってきた人の気配に気づいて、そちらに向かって手招きをする。暗闇がモソモソと動いて、物陰から出てきたのは髭に埋もれた顔で垢染みた服を身に纏った浮浪者だった。
驚いたユリが身を固くしているその横で、板前は「爺さん、今日は宴会があったから天ぷらがあるよ」と声をかけ、油の染みた天ぷら紙の包みを手渡す。客が残したらしい海老天の、尻尾がはみ出たそれを受け取った人物は、丸めた背中と頬被りした手拭いから白くなった髪がはみ出ているところを見れば、確かにそれなりの年齢のようだ。へぇ、ありがとうございやす。いつもすいやせん。そう言って頭を下げる浮浪者に板前が、ここら辺に新顔来てないか。まだ若くて口が利けないらしいんだが、そういう奴を知らないかいと尋ねると、さぁ、アタシは聞いたことがないが、仲間内にも声を掛けておきやす。そう言って大切そうに紙包みを抱えて、老人はまたどこかへと去って行った。


「ああいう手合いは案外街のことをよく知ってる。もう二、三日したらまたおいで」そう言われてやってきた料理屋の勝手口から厨房を覗き込むと、この間の板前が、おぉ、待ってたよ姐さんと言って前掛けで手を拭いながら軒へ出てきた。

「あの爺さんがね、少し遠いが漁港の近くを餌場にしている連中の中に、口の利けない若いのが一人居着いてるって教えてくれたよ。ただ、数ヶ月前からいるらしいから、それがお尋ねの人かどうかもわからないがね」

漁港の近くには昔使われていた海女小屋が残されていて、浮浪者が数名そこを寝床に使っているのだが、そのひとつにまだ年若い男が住み着いているらしい。ユリは礼を言って、ママからもらったチョコレートの包みを渡すと、ちょっと待っておいでと言って引っ込んだ板前は、新聞紙でできた小さな紙袋に乾煎りした銀杏を入れて持たせてくれる。まだ暖かい紙袋を手に、ユリは待ち切れない面持ちで駅へと向かった。

ようやくつかんだ手がかりが冷めてしまう前にロクの無事を確かめなくては。バス乗り場で系統番号を調べ、まだ漁港の方へ向かう便があるかを確認しているユリに、誰かが声をかけた。振り返ると立っていたのはヒロだ。
客引きをするには楽天地から離れた場所で、どうしてここにと尋ねかけたが、それよりも先にユリの方からロクの手がかりが見つかったことを報告せずにはいられなかった。

「これから向かうところなの。バスはもう最終便が出てしまったみたいだから、タクシー使うことにするわ」

そう自分から口に出したというのに、ヒロの顔を見た途端、ユリの脚はすくみ、息が詰まる。肺というより胃袋の底を押さえつけられたような息苦しさを覚えた。



このまま自分ひとりがロクを迎えに行ってもいいのだろうか。行って顔を合わせれば、またロクのことを追い詰めてしまうのではないか。いつもいつも、自分の行動を引き金にして、ロクは少しずつユリから遠ざかって行ってしまう。

「……ねぇ、お願い。ヒロさんも一緒に行ってもらえないかしら。あの子、私の顔見たら逃げてしまうかもしれない」
「そうしたいのは山々なんだけど、ちょっと野暮用があるんだ。最終の列車でセメント工場に行かなくちゃならないから時刻表を見に来たとこで」

ヒロはそう言って駅の壁に貼り付いている時計の方をチラリと見る。俺も一緒に行きたいけど、今夜これからは無理だ。場合によっちゃ二、三日帰れないかもしれないが、戻るまで待てるかと聞かれてユリは返事に詰まった。今すぐにでもロクの元へ向かいたいのに、そんなに待てないというのは勿論だが、狩野原が言った「今夜は工場に近づかない方がいい」という言葉を思い出したからだ。

「野暮用、って何のことなの」
「仕事だよ。頭の指示があって」
「今夜、何があるの。近づくなってお客さんに言われたわ」
「俺も詳しいことは知らないんだ」

駅からは工員や物資を運ぶための軌道が、セメント工場のある湾の方角へと伸びている。工場へ向かう最終便が、あと1時間足らずで発車する、ヒロはそれに乗って工場へ行くというのだ。こんな時間に何の仕事があるというのか。今更石灰石を運ぶ人足だなんて、あまりにも不自然だし、無期限ストが始まって今や工場は満足に稼働していないはずではないか。

「俺、足洗うって話しただろ? 頭と談判して、これが終わったら晴れてお役御免になるんだ。そうしたら一日中でもロクを探しに出られるよ」

ね、だからもうあと少し辛抱してくれよ。
拝むようにそう言われてはユリも引き下がるしかない。ロクのことについてはヒロが骨を折ってくれているのを知っているし、家族でもないヒロにこれ以上甘えるわけにもいかない。ユリエさん、少し休んだほうがいいよ。ロクが見つかる前にこのままじゃユリエさんが倒れちまう。ヒロにまでママと同じようなことを言われる程、自分の疲労が滲み出ているのかと思うと、おとなしく言うことを聞いた方が身のためだと思えた。
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