ユリとロク、それからヒロ

文字数 4,530文字

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ユリは家に戻る道すがらにも、ロクの出入りしそうなところを通り、同じ年頃、同じ背格好のひととすれ違うたびに歩速を緩める。だからそれほど遠くないはずのアパートに戻るだけのことに時間を費やした。仕事から戻ったら一緒に漁港まで足を運んでくれとヒロに頼み込んではきたものの、それでも逸る気持ちを抑えきれないユリは、一眠りして起きたら、明日の出勤前に漁港へ行ってみようかと思う。だがロクに会えるかどうかわからないし、もし会えてもまた逃げ出されてしまうかもしれない。

自分とロクとの間にあったはずの絆は、いつの間にか他人同士が言うところの「しがらみ」というものに化けてしまったのではないか。ロクにとって自分はもう振り解きたいだけの相手になってしまったのか。自分なりに必死にやってきたつもりの家族というものが、あまりにも掴み難く脆いことに悄然として、歩幅は小さく、靴音はいつもよりささやかになる。その砂利道を擦るような足音を聞きつけたのだろうか、ユリはようやくたどり着いた自分の部屋の扉の前で、黒い人影が揺らぐのを見た。
家主の帰りを待つように座っていた、黒い塊がゆらりと立ち上がりこちらを見ている。身構えながらも覚えのある人影に一歩ずつ近寄ると、街灯の薄明かりに顔が浮かび上がった。 

二週間会わなかっただけの顔がやけに大人びて、背まで伸びたような気がする。何かを押し殺すような表情のロクは小さく背を丸めてユリの顔を覗き込んで唇を動かした。

嗄れ掠れている上に、蚊の鳴くような囁きではあるが、ロクが何かを話そうとしている。
ロク、あんた声出せるのねとユリは悲鳴みたいな声を出しそうになるが、自分の声でロクの声が消されてしまいそうで、首を傾げて自分の耳をロクの口元に寄せることを優先した。

「…………ヤ姉…。チヤ姉。  ヒロさんは……どこ?」

記憶の中のロクの声はまだ透き通るような子供の声をしていたが、聞こえてきたのは小さいながらも低く響いている。ロクはすっかり男の声色をして、ユリにヒロの居場所を尋ねた。


「さっき駅で会ったわ」

セメント工場行きの最終の下り列車に乗ると言っていたことを、最後まで言い終わらないうちにロクの表情が曇ってくる。あの眼。強い光の中にある何かを観るような半眼。遠くを見るようでいて、すぐそこを見ているような眼差し。それをロクが虚空に向けるのを、ユリはもう何度も見てきた。だから分かる。ロクはまたいつものように寸分先を見ている。そしてそれはヒロに関わることだ。

ロクのように先が見えるわけでもないユリには、狩野原が口にした「近寄るな」という警告が不気味に思い出されるだけだが、不穏の予兆を感じるには十分だった。ロク、何が見えるの。問いかけるユリに視線を合わせようとはせず黙り込んだロクは、ふとチヤの眼を見て掠れた声を出した。

「…………大丈…夫。……ヒロさんは…………必ず戻る…から…………」
「ロク、何か見えるのね。 教えて頂戴、何が起きるの?」
「車には乗せない…………絶対に」
「車?」

『近付いてはいけない。お前たちはここから出てはいけないよ』

父の声を思い出したのはきっとユリだけじゃない。ロクだってあの夜のことを覚えているはずだ。起こりうることを知りながら何もできず、街の半分を焼いた炎のことを。それをきっかけに故郷を追われたことも。駅へと歩き出したロクを追いかけて、ユリの足がもつれる。ロクは立ち止まってユリを支え、耳元で囁いた。

「大丈夫。………ヤ姉は……ここで……待ってて」

そう言って走り出したロクの、背中を追いかけようとしてユリは砂利道に足を取られた。脱げて蹴転がった靴が側溝の蓋に引っかかってようやく止まる。拾いに戻る間もなく、ロクはヒロを探して闇の中へと走り去っていった。


『ヒロさん』

ふと誰かに声をかけられた気がして、ヒロは振り返って雑踏の中にある顔を探す。だがこちらを見ている者はどこにも見当たらず、気のせいだったかと前に向き直った。
終電間近になった駅構内は人影も減ってはきたが、3番線ホームには最終便で工場へ向かう職員たちと、工場付近にある集落の住民が並び、ゆるゆると入線してきた列車が止まるのを待っている。やおら停車位置で開く扉から、いつもなら仕事を終えた工員たちが吐き出されてくるはずだが、列車から降りる人は少ない。それでも三両編成の小さな客車はまあまあの混み具合で、すぐ目の前に空いている席を見つけたものの腰を下ろす気分になれず、ヒロは車掌室の扉の横に立って壁に寄りかかる。傍に座った数名の工員たちはピケ張りのための交代要員らしく、それもどこかで一杯入れてきた様子で、景気付けのつもりだろうか、誰からともなく歌声が上がった。

『起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し 醒めよ我が同胞(はらから) (あかつき)は来ぬ』

朝な夕な石灰石まみれの男たちを運ぶ車内はどこか白くくすんで、触れた指先が石になりそうな気さえする。傍ではヒロと同年輩くらいの男が、もうすぐ産まれる二人目の子が嬶の腹から出てくる前に、この状況が変わるだろうかと呟くように口にして、それを聞いた隣の男が檄を放つ声が響いた。

「変わるだろうか、じゃねぇ。変えるんだ。俺たちが変えるんだよ。今までに誰か俺らの暮らしぶりを楽にさせてくれた奴があったか? 神様やら仏様やらが、俺らに何か与えてくれたか? 何もないだろうが。だから俺たちが自分で取りに行くんだ。欲しいものは自分の腕で捕まえるんだよ」

男たちの腕が靭く漲るのは、体を張って守るべきものがあるからだ。そういうものを持ったことのないヒロだったが、今自分がロクを連れ出すための取引として工場へ向かっていることを考えたら、この男たちと自分の立場も似ているような気がしてくる。

『暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて 海を隔てつ我等 (かいな)結びゆく』

工員たちは団結する。経営側に挑み、時に職域を越え連帯する。だがヒロはただひとりで、ロクを連れ出すための行動に共闘者はいない。矢上の手下に指示されて工場の最寄駅まで向かい、駅前にある食堂の二階に用意された座敷席、今夜はそこに集合する手筈になっていた。矢上の手下が集めた無頼に酒を少々喰らわせて煮詰め、表向きはあくまでも酔漢のいざこざを装い、工場の正門を封鎖する「ピケ張り」の連中に乱闘を吹っ掛けるのだ。



『正門を封鎖するバリケードに十名ちょっと。その奥にある小屋に二、三名が控えているだろう。ひと騒動起きればそいつらと、裏門にいる数人が加勢してくるだろうが、全部で二十人足らずだ。大怪我にならない程度に痛めつけんだよ』

軽い打ち合わせと称してそう説明する矢上の手下は、こっちが危なくならない程度に手加減しろと念を押した。だがもともと何の行き掛かりもない相手に振るう腕が、それほど激するとはヒロにも思えない。
何しろ徒党を組んで襲う相手は自分たちにとって何の恨みもないのだ。ただ矢上の指示で集められた無頼が、矢上の指示によって工場でストライキをしている組合員を襲う。当の矢上にもその組合に何の因果があるわけでもない。どうしてこんなことに自分の手下使うんですかね。ヒロはそうぼやいてみせるが理由は分かりきっている。金だ。矢上は金でしか動かない。

「資本家っていうのはよっぽど『連帯』ってやつが嫌いらしいな。俺たちみたいなヤクザ者雇ってまでバラバラにしたいってんだから。散々吹っかけてやったのに、丸々言い値で呑みやがったから、死人が出ない程度に精々励んでやれ」

矢上はそう嘯いて、景気付けに飲んでから行けと言い自分の札入れから数枚を取り出し手下に握らせた。

「さぞや大金が動いてるんだろうよ。俺たちには大金でも、雇う側からすれば端金かもしれんがな」目の前の男がヒロに対する答えとしてそう説明する。もっと言うなら組合側の要求を呑んで発生する給与よりも、矢上の要求する額を一回こっきり支払う方が安上がりだと踏んだだけのことだろう。ヒロが「こっちの頭数は」と尋ねると、男はヒロを見て、そんな不安な顔するもんじゃないよと言って小さく嗤った。
団体戦ってのは定石があってな。まずは扇子の要石を狙ってそこを叩くんだよ。バラバラに解けりゃこっちのもんだ。頭数なんざぁあちらさんの半分もいれば御の字だろ。警察も出てくるだろうが、そうしたら護送車に詰め込まれてブタ箱かトラ()だが、トラなら翌朝ネコになったところで放り出される。ブタだったら長くて二泊三日だな。それ以上はねえよ。何、カシラが上手いこと計らってくださるから心配するな。


※トラ箱……泥酔者を収容する保護施設。ブタ箱(留置所)の類義。


自分の顔にそれほどの不安が浮いてるとは、ヒロ自身さえ気付いていなかった。
その不安を無理矢理にでも消し去って、次にヒロの中に灯ったのは、これを済ませてから先の手筈を考えることだ。まずは自由の身になってロクを探し出すことに専念する。それから実家へと戻って親父の、それが叶わなければ兄貴の診察をロクに受けさせて、医療的処置の施しようがあるかどうかを見極める。必要だと言うなら東京でもどこへでもロクを連れて出向き、治療を受ける覚悟で談判すれば、あるいは親父も放蕩息子の願いを聞いてくれるかもしれない。出来の良い兄貴ばかりを褒めそやす親に対して小さな反発を繰り返しているうちに、家の敷居を跨ぐことすらできなくなった自分だが、ロクのために必要ならいくらでも頭を下げるつもりだし、たとえ門前払いを喰らったとしてもそれで終わりではない。他に打てる手はまだあると信じて探しに行くつもりだ。

それほどまでにロクに執着し、自分を突き動かすものは一体何なのか。はじめは単なる懐がらみの下心だと信じ込んでいたヒロだったが、ロクがいなくなった日から鉄火場から脚は遠のき、財布の中身を馬券に換えることにも、以前ほど興味が湧かなくなった。それよりもロクを取り戻すことが先だ。いつでも自分のそばにいて、あとをついてくるのが当たり前だと思っていたが、気がつけばヒロの方が後を追うことに懸命になっている。

『俺はお前の声が聞きたい。一言でいい。たった一度でいいからお前に呼んでほしいだけだ。だから俺は自分がやれることをやるけれど、それでもどうしても声が出ないなら、それならそれで構わないんだ。俺がお前を呼べばいいだけのことだから』

そう言った自分の目を、まっすぐに見つめ返してくるロクの顔を思い返し、焼き付けるようにヒロは目蓋を閉じる。まずは目の前の勤めを果たして自由を得て、ロクの居所を掴むのだ。行きたい場所へ辿りつくためにヒロを乗せた列車はホームから滑り出し、歪んだレールに身を震わせながら順調に速度を上げてゆく。

『いざ闘わん 奮い立ていざ あぁインターナショナル 我らがもの
 いざ闘わん 奮い立ていざ あぁ』

気勢を上げる男たちの歌声を掻き消したのは、金属の擦れる甲高い音で、強いブレーキが乗っている全てを前へと突き転がす。立っている乗客たちは手近のものに縋りつき、ヒロも咄嗟に近くの手すりにしがみついた。ようやく停車した列車を取り囲むのは、踏切の警報機がカンカンと鳴らす甲高い音と、明滅する警報ランプの赤い光だった。
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