大津と女将

文字数 3,805文字


予想以上の安川の仕事ぶりに、大津は心から満足して労いの声を口にする。
いや、助かったよ。お前を手放すことになった福祉課長が不憫でならないね。大袈裟でなく本当にそう思ったから口に出して褒めたのだが、安川はこちらに視線を寄越すでもなく饅頭を咀嚼している。餡を茶で胃の腑に流し込むのに忙しいらしい安川の長い睫毛を見つめながら、ふと大津は「なあ、貝毒の発生報告入ってたっけ」と声をかけた。

「『貝毒』って、何すか」
「食中毒の原因になる貝が見つかると連絡が来るようになってるはずなんだけど」
「さあ。俺、配属されてから聞いたことないっすね」

貝毒というのは水質に起因して貝が毒素を体内に溜め込むことで、これに侵された個体を食べると食中毒が起きる。発生が確認されれば漁協は採取場所海域の水質検査をして、改善されるまでの間はそこでの漁をしないように告知し、獲れた貝を出荷停止にする。当然保健衛生課にも連絡が来るはずだが、安川の言う通り、大津にもここ数年そうした報告を受けた記憶はなかった。

大津は安川のポケットから献立表を出し、当日の料理を再確認してみる。アワビのお造り、サザエの壷焼き、トコブシと蕪の焚き合わせ。それらを食べているはずの客から被害者は出ていない。やっぱり牡蠣かもしれんなぁ。大津がそう言うと、安川は「これ、食べないんなら貰ってもいいですか」と言って大津の前に置かれた饅頭を指さした。

「たった一個っきりの牡蠣が怪しい、ってことですか」
「まあ、消去法でいくとあれしか残らん、ってことだよ」
「サザエやら、アワビやら、ほかにあれだけ貝食ってんのに?」
「貝毒は二枚貝にしか発生しない。牡蠣以外はみんな巻き貝だろ」
「火入れもしたって板長が言ってましたよ」
「加熱してもダメなんだ。貝毒は煮ても焼いても弱毒化しない」

貝毒には二種類の症状がある。下痢性貝毒は腹を下す程度で済むが、麻痺性貝毒になると顔面や四肢が痺れ、重篤な場合は死亡することもある。死にこそしなかったが、本件の症状はまさに麻痺性貝毒と合致する。だがたった一個の牡蠣は証拠も残さず、被害者の腹に収められてしまった今となっては調べのつけようもない。


帳場から出てきた大女将が、大ぶりの急須から二人の湯呑みに茶を注ぎ足してくれる。

「ご苦労様でございます。年寄りに昔話まで聞かされて大変でしたでしょう」

そう言う大女将もとっくに後期高齢者では、愛想笑いに苦笑が混じる。いやぁ、俺昔話聞くの好きなんですよ。安川がそう言ってそつなく応じるから、大津はやはり福祉課は逸材の流出を嘆いているだろうと思う。本当は町史編纂の仕事がしたかったと安川から聞いたこともあったから、あながちこの場限りの口から出まかせというわけではなさそうだ。

「大火の話は町史で読んだことあるんですけどね。あんまりいい話じゃないから、最低限の記録しかされてないんです。ああいうこまかいエピソードみたいなもの、初めて聴きました」
「そんな大層なもんじゃありませんよ」
「あの火事をきっかけに新居を高台に移す人が増えたそうですね」
「そう言えば、焼け残った辺りはずいぶん後まで人が住んでいましたっけ」

安川はまだ話し足りない様子で、興の向くままに大女将と話し込んでいる。大津は横で聞きながら茶を啜り、板長から貰ったお品書きの裏に、手書きされた仕入業者の名前を眺めている。ふとそれに気づいたらしい大女将が紙を覗き込むと、そうそう、櫂禅坊さんもその近くにお住まいでしたと言って微笑んだ。ご存じなんですかと尋ねると、シワに埋もれた目をゆっくりと瞬いて、女将はうなづいてみせる。
ええ、ええ、櫂禅坊さん。了斎さんのことなら覚えてますよと言った。


私ども、宿屋をやっておりますからね。按摩さんを呼ぶことも多うございました。お客さんはもちろんですが、私の祖父が了斎さん……、櫂禅坊さんを贔屓にしてまして。昔は薬も何も今ほどございませんから、何かといえば按摩と鍼灸に頼るしかありませんからねぇ。まだ集落が海辺にあった頃、今でも神社のお社だけは残ってますけど、石段のすぐ下あたりに長屋があって、そこに住んでらしたんです。
私らが子どもの頃にはまだ電話もありませんから、按摩さんが必要なら誰かが遣いに出るしかなかったんです。よく祖父に頼まれて、私も何度かお迎えに参じました。声をかければ小さな行李を風呂敷で背負って、杖一本で歩いて来てくださいましたよ。見えてないのに躓きもせず玄関を上がってくるのが不思議でねぇ。ひとしきり揉んでもらうと祖父が板場に声をかけて、帰り際に食べるものを持たせるんです。子供が二人いるとかで、食べさせないといけないから、何でもいいから腹の膨れるものを渡してやれというんです。板場の人たちがおにぎりやらお芋蒸したのやら包んでましたねぇ。

のんびりとした話声の向こうから、廊下を歩く音を連れて、話に割って入ったのは板長で、大津の顔を見るや、あぁよかった、間に合ったよと言って微笑んだ。

「やっと思い出したよ。下の名前だけどな。『ロクヤ』だ。ロク、ってみんなが呼んでたから、すっかり忘れてたけど」

それを聞いた大津が「苗字はわかりませんか」と尋ねると、ウーンと唸って再び黙ってしまった板長の隣で、女将が「了斎さん、確か小曽根さんと仰ったわね」と返事を引き継いでくれた。そうだ、確かそうだったよと言った板長が帳場に置かれたボールペンを手に取り、献立表の裏表紙に書かれた「櫂禅坊のロク」の横に「小曽根ロクヤ」の文字を小さく書き込む。
お話を伺いたいんですが、連絡取れませんかと板長に尋ねると、いやぁ、いつも向こうが十日おきくらいに寄ってくれるもんだから、こちらから連絡したことはないんだよ。そろそろ顔を出す頃だから、来たら教えようかと板長が言ってくれたから、大津は自分の名刺にある電話番号に連絡をお願いしますと頼んでおいた。


砂利を敷き詰めた駐車場へ戻り、帰りは俺が運転するよと声をかけようとしたら、安川は小走りに運転席に戻ってしまった。急かされた大津が助手席に収まるとすぐに車を県道へと進める。

「ちょっと、漁協寄って行きませんか」
「あ、ああ。貝毒の件?」
「まあ、それも確認できますし、うまくすれば組合員名簿の閲覧ができるかもしれないでしょう。小曽根さんの連絡先がわかるかもしれない」

午後の陽光を詰め込んだ軽自動車の中で、安川は運転しながらオゾネロクヤ、オゾネロクヤと小声で呟いている。ずいぶん久しぶりに出くわした交差点の赤信号に引っかかり、停止線で車を止めると安川は大津の方を向き「俺、知ってるかもしれません」と言った。

「……って、何を」
「お姉さんです。小曽根さんの。福祉課にいた時、高齢者向けの町営住宅に転入してきた人がいたんですけど、ひと月くらいで『弟と一緒に暮らすことになったから』って言って出ちゃったんです。その人の名前がたしか『小曽根千也』さんでした」

だったらその、一緒に暮らすという弟が小曽根ロクヤ、ということだ。

「何て言うか……、不思議な感じのする人だったんですよ。出身はここだけど、長いこと街で暮らしてたらしいから、ちょっと他のおばあちゃんたちと雰囲気が違うんです。カッコよく言うと超然としてる感じで。悪く言うと「浮いてる」っていうのかな。馴染まないのはお互い様だったらしくて、あんまり交流もないままさくっと出ていっちゃいましたけど」


話すうちに車は漁業共同組合と書かれた板の貼り付いた門を抜け、広い駐車スペースにぽつりと軽自動車が止まる。受付の中にいた守衛が、スポーツ新聞から顔を上げて大津と安川に会釈をした。予約はしてないんですがと言いながら大津が名刺を差し出すと、守衛は職員の詰所に案内してくれる。組合員名簿の閲覧を依頼すると、すぐにもB5サイズの冊子が用意された。ご覧になるのは構いませんが複写はご勘弁願います。そう言われて安川は、念の為に過去の名簿が保存されていたら見せてもらえませんかと頼んだ。渡された過去3年分の冊子にある名簿を、大津と安川は二人で端から順に名前を確認してゆく。だが、どこにも「小曽根」の名前はなく、親類だと思えるような同姓も見当たらない。対応してくれた職員が、茶托を持ってきてテーブルの隅に置くと、密漁者かもしれませんねと声をかけてきた。

「組合員ではない、ということですか」
「ええ。夜間海に入って漁場を荒らすのがいるんです。まあ、ちょこっと獲って家で食べるくらいのもんなら、誰でもやることですけど。ひどいのは稚貝や、成長しきってない小さなイセエビやカニまで獲り尽くしてしまうんで、こちらとしては密漁として被害届を出すんですが。でもここら辺でそこまでやられたっていうのは聞いたことがないですけどね」

組合員ではなく、密漁者。
職員がそう言うのが答えのような気がして、大津は頁を捲る手を止めて茶を啜ることにした。

そうするうちにもうひとつ用事があったことを思い出し、貝毒の情報はないかと尋ねてみる。ここ数年近隣の漁場でも、貝毒の発生はないという返事に安堵しながら、どこかで肩すかしを食らった気分になる。ならば例の騒ぎは一体何が原因だというのだろう。茶碗に手もつけず名簿を当たっていた安川もそろそろ疲れてきたのか、ぎゅっと目を瞑り首を左右に傾けてから大きく息をつくと、手にした冊子をまとめて積み重ねた。

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