大津と憲之

文字数 3,284文字


目算が外れてすっかり落胆したらしい安川の、駐車場に戻る足取りは出発前の大津よりも重く気怠い空気をまとっている。お疲れさん、もう十分だよ。あとは俺がまとめて記録すればいいだけだ。そう言って労うも安川の気分は晴れない様子で、素直に車に戻ろうとしない。

「センパイ、ちょっと散歩しませんか」

安川が指差す先に、船が渓流された漁港があり、その先に小さな浜辺が見える。夕暮れ時も近づいて、住民らしい人影が思い思いに海辺を散歩する姿が見えた。

砂浜に二つの足跡を並べて、大津は安川のあとを付き従うように歩く。この間の嵐で打ち上げられたのだろうか、岩場には木片や木箱や何かのパッケージだったらしいビニール袋がごちゃごちゃと固まって打ち上げられている。かつてどこかで何かを支え、あるいは包み、使命を終えたものが一緒くたになって、これまで自分のしてきたことや元いた場所を囁きあい、教え合っているように見えた。
何だかスッキリしないなぁと大津がぼやくと、歩くうちに機嫌が治ってきたのか、安川は案外明るい声で、俺は楽しかったっすよ、センパイと海辺で散歩もできたしと言いながら、どんどん歩みを進めてゆく。どこまで行くつもりだよと言って安川を引き留めながら、心地よい潮風に身を晒していると、大津もまだ帰りたくないような気分になってくる。

「あ、あれ」

安川が指差した先には斜面を這い上がる石段があり、一番上に茂る樹木の陰に小さな鳥居と祠の屋根が見えた。

『……まだ集落が海辺にあった頃、今でも神社のお社だけは残ってますけど、石段のすぐ下あたりに長屋があって、そこに住んでらしたんです……』

大女将の嗄れた声を思い出している大津を、歩みを速めた安川が呼んでいる。センパイ、ちょっとあそこまで行ってみましょうよと言われて、早足にするとようやく追いつけた。いいっすねー、こういう遠足みたいなの久しぶりです。職務時間中だということをまるっきり忘れたかのように安川はそう言い放ち、サクサクと石段を上り始めた。


最上段から眺める景色は格別で、視界の下半分が紺碧の海原に染められている。対岸にある山の稜線で区切られた上半分は空色で、幾筋かの雲が長く尾を引いていた。目の前に広がる景色の中で、人の営みによるものは幾らも目につかない。見えたとしてもとても小さく、ここでは海と、滴るような緑に茂る樹木、褐色の岩肌に打ち寄せる波の白さだけが世界を構築している。複合型リゾート開発の候補地だと言われれば納得のいく、圧倒的な天然が支配する眺めだ。
遠く沖に浮くタンカーの、動いているのか留まっているのかすぐにはわからないそれを、安川と二人で見つめていると、ふと表情を固くした安川が低い声を出した。

「……密漁者、ってことは、漁協に通報した方がいいんですかね」
「通報って、小曽根さんを?」
「ええ。自家用だけでなく板場に販売してるとなると、営利目的になるのかと」

本人から事情を聞いて、密猟を認めるならまずは警告、ということになるのだろうか。それともいきなり警察沙汰になるのだろうか。いずれにせよ、自分たちにその権限はない。何だかややこしい話しになってきた。藪蛇になる前に引き返した方が身のためだろう。

「必要なら情報を融通するくらいのことはするけど、積極的に通報まではしなくていいんじゃないかな」

大津としては、小曽根ロクヤという人物に接触して、貝を獲った場所を聞きたかっただけだ。もし貝毒が発生したなら、保健衛生課としては漁協に知らせて採取海域の水質検査をする必要がある。毒素を含むプランクトンの発生が収まるまで禁漁期間を設け、出荷停止などの措置を取らなければならない。だが今のところ貝毒発生の可能性は低そうだ。
小曽根ロクヤという人物の置かれた状況が、合法なのか、それとも非合法なのかは他の役所が判断することだ。自分は自分の仕事に専念すればいい。どうやら安川も同じ意見の様子で、固まったように見えていた表情がゆるんで、それが大津を安心させた。


タンカーが沖の島陰に重なるのを見届けて、そろそろ帰るかと声をかけると、安川は渋々といった様子で小さな石段を降りはじめる。下り切ったその脇にある藪に、ほんのわずかな獣道を見つけた大津は脚を止めた。爪先を差しこみ、左右に茂る草を踏み分けると微かな道筋が藪の奥へと続いている。高潮から逃れるために、かつてここまで広がっていた集落は時間をかけて高台へ移転した。女将の話に出てきた神社がここだとすれば、櫂禅坊の棲家があったのはこの辺りということになる。大津にはこの微かな路が、とっくに棄てられた集落に向けて、誰かが往来している証拠のように見えた。

「獣道か」
「人がつけてるかもしれませんよ」
「どっちだろう」
「どっちでも同じです。足が二本か四本かの違いだけでしょう」
「そう簡単にけだもの扱いされるんじゃたまらんな」
「先輩は人間に期待しすぎですよ。霊長類だなんて恥ずかしい呼称は撤回すべきだと俺は思ってますからね」

藪の中にこの僅かな筋をつけているのは人なのか、それとも獣なのか。考えるより先に藪へ分け入ったのは安川の方で、ガサガサと葉擦れを鳴らして進んでゆく。おい、いい加減にしとこうぜと声をかけるが、先をゆく安川の「先輩、疲れたんなら車に戻っててください」という声を追いかけて、結局大津も藪を進んでゆくことになる。突然視界が開けて、体が広い野っ原に放り出された。

藪を抜けた先に広がっていたのは草の生い茂る平地で、確かにかつて家屋の土台だった様子の高まりと、人の往来があったと見える路には、車輪がつけた轍らしい凹凸が残っている。その草原に所々トタンやベニヤ板の類が散らばっており、ひょろりと一本の藪椿が枝を伸ばしていた。隣には犬を連れた男子が立って、突然の来訪者に驚いたようにこちらを凝視している。公園とも広場ともつかない雑然とした野っ原で、中学生くらいに見える男子は、どうやら犬の散歩中らしかった。


こんにちは。お散歩中かな。
気安くそう声をかけた安川に、うなづいただけで返事をした男子の手には、レンズ付きフィルムがある。怪しい人物ではないと判断したのか、大津と安川に背を向けると、椿の幹にリードで繋いだ犬と向き合った。どうやら写真を撮ろうとしているらしい。トロ、じっとしてて。そう声をかけているが、犬は突然藪から現れた人間二人が気になるのか、ウロウロと動いてシャッターチャンスを作らせてくれない。

「シャッター押そうか。一緒に撮ってあげるよ」

安川がそう声をかけると、最後の一枚なんですと言ってレンズ付きフィルムを差し出してくる。責任重大だなという大津の声に微笑みで答えて、安川は樹の下にしゃがんで犬と並んだ男の子にレンズを向ける。落ち着きなく動き回る犬を宥めるように、男の子の腕が犬の体を包んで、ようやく動きを止めたあたりでシャッターを切った。じりじりと音を立ててダイヤルを回し、安川はフィルムを巻き取って男の子に手渡す。ぺこりと頭を下げて受け取ったカメラを着ていた上着のポケットに突っ込むと、リードを解き犬を連れて藪へ向かう。大津と安川がさっき出てきたばかりの、藪の窪みに吸い込まれる直前に、ふと振り返って声をかけてきた。

「おじさんたち、ロクじいに用事?」
「ロクじい、って?」
「ここに住んでたおじいさん」

小曽根ロクヤ。大津と安川が、互いの瞳の色を見た。

「……えっと。その「ロクじい」って人探してるんだけど、どこにいるか知らないかな」

その声を聞いた男子はまっすぐに大津を見返すと、知らない。どこか行っちゃった。たぶんもう戻ってこないよと言って、藪に吸い込まれてゆく。えっ、ちょっと待って。ガサガサと藪を掻き回す音を鳴らして、少年と犬が去ってゆく後を追って藪を抜け、大津は神社の参道にまで戻った。だが辺りをいくら見回しても、そこにはもう誰おらず、犬の気配もない。

やれやれ。この道をつくったのは人と獣の両方だったみたいですね。
大津の後を追って藪から出てきた安川はそう言うと、自分と大津の上着にくっついた枯葉を払い除けた。
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