ヒロとロク

文字数 6,387文字


瀬ヶ崎新天地のはずれにある木造モルタル作りの建屋は、1階は土間になっていて、ビールケースや日本酒の、時には洋酒の木箱が積み上がっている。矢上がこまごまと経営するいくつかの店舗では、バックヤードがあまりに狭くビールケースを積んでおく場所もないため、大量に(ほとんどは闇で)仕入れた酒の類をここに備蓄し、在庫が切れるたびに男手が店へと運び入れている。その外壁にへばりついた金属製の階段をヒロは一息に駆け上がり、二階にある事務所の扉を開けた。

ヒロのように店と客とを繋ぐ男衆たちは、暇があれば客引きのために楽天地の中を回遊している。ここには在庫整理をしながら留守番をする自分の手下が一人いるだけだ。入り口にはちょっとした応接セットが置かれ、その奥にはここに出入りする男たちが一息つくための小上がりがあって、その縁にまだ年若い男が一人腰掛けている。ヒロに気づくと立ち上がってペコリと頭を下げるから、おい、サック半ダース用意しろよと言いつけて、自分は事務所の隅にある流し台の前に立ち、蛇口から迸る水を両手に受けて繰り返し顔を洗った。

せっかく巧くまとめた客を横取りされて気分が悪いことこの上ないが、思いがけず現れたユリエが天から舞い降りてきた何かに思えて、ヒロの心中は複雑だ。あの時居酒屋の座敷席で、いい気分になっている男二人組に目をつけて、酒の切れ目を横目に見ながら声をかけた。あれは今思い出しても上々の首尾だったはずだ。


「兄さんたち、ここらで河岸を変える気かい? ……実は近くにいい店があるんだよ。いや俺もこう見えて誰にでも声かけてるわけじゃない。あんたたちみたいな心持ちのいい人を連れて行くとね、女の子たちが喜んでくれるからね。酒っていうのはその人の心根というものを見せてくれるもんだ。飲んで酔ったら繕ったものは大概崩れて剥がれ落ちるもんだが、その点あんた方の漢気と心意気ときたら、イヤ実に見上げたもんだ。こういうのがね、女の子たちが心待ちに待ってる人だってことは、俺はよぉおく知ってるから。あんた方は女の子に好かれて優しくされてさ、女の子は『あぁ、いい人連れてきてくれたね』って喜んで、俺は鼻が高い。三方が丸く収まるなんて、近江商人そこのけじゃないか。こんないい出会いはそうそうあるもんじゃないだろう、えぇ兄さん」

口から出まかせで相手を持ち上げていい気分にさせ、時には哀れを誘うように女たちの不遇を説いて嘆き、どうか人助けだと思って情けをかけてやってはくれまいかと一芝居打つ。今夜の二人組はそこまでせずとも易々と引っかかり、店を出て案内するヒロの跡をついて歩き始めたは良かったが、路地から出てきた見覚えのない男らが三人、寄ってたかって二人の客を駅の向こう側へと連れて行った。

「こいつはここら辺しか知らねえ半端もんだ。俺たちの方がもっといろんな店に顔が効くから、お客さん方の懐具合に合わせて充分に楽しめるよ」そう言って一人がヒロから客を引っぺがして連れて行き、ちょっと待てよと食い下がるヒロを残る二人が腕力でねじ伏せた。躱しきれずに顎に掛かった拳がヒロの口の中を切っていき、鉄の匂いを味わいながら見上げた闇夜にぽかんとユリの顔が浮いて、こちらを見下ろしていた。


自分の顔がどこか熱ってのぼせるようなのは、顎に喰らった一撃は勿論だが、もっと身の奥から湧いて出る熱だ。顔を洗おうと思ったのは何かを洗い流すというよりは、この熱を冷ましてスッキリしたかったからで、それでも両手のひらに汲み取った水に顔を漬ける、その瞬間に閉じる瞼の裏にはユリエの顔と白い襟足が映し出される。立ちあがろうとする自分に寄り添うように身を屈め、ふわりと胸元を揺らすユリエは、きっと店で着ているサテンの長襦袢にそのままコートを引っ掛けて出てきたんだろう。衿の合わせからたちのぼる匂いに包まれ、ただそれだけでヒロはその甘さに当てられて脳髄が沸き返り、それに律儀に反応する身体は真っ直ぐ立つのが難しい有り様だ。

女たちに顎でこき使われるのが仕事のヒロだって、自分が雄であることを忘れているわけじゃない。だが売り物に手をつければどうなるか、ここで半年も暮らせばわかることだ。
数カ月前、ヒロの先輩格だった男が店の女といい仲になり、二人揃って逃げ出す算段をしていたのを、矢上は知っていながらわざと泳がせて、手下を使い駅で捕らえさせた。瀬ヶ崎楽天地へ引きずり戻した上で男の指を落とし、まだ血の滴るような男の指を女に咥えさせ、店の裏口に立つ電柱に吊して晒しものにした。
青線どころかどす黒いまでの黒()に紛れ込んだユリエの白さは際立つようで、ヒロには眩しすぎて直視できない。それがあんな風に天から降ってこられては、泰然としていられるわけがない。どうにかして冷めやらぬものを身に収めようと、顔に水を浴びせているヒロの後ろでは、ヒロの手下である若い男がてきぱきと動いている。

事務所の片隅にある戸棚から、木箱を下ろして男が中に入った避妊具の在庫を確認し、グロスで箱詰めされているそれを開封すると、中から六個の紙箱を取り出す。それからそばに吊してあった紙挟みの在庫表を捲り、カリカリと鉛筆の走る音をさせて残り数を書き入れている。引き出しから取り出した小さな紙袋に紙箱を詰めて、ヒロの方へと向き直ると黙ってそれを差し出した。

※黒線……暴力団が経営する売春地帯。赤線(合法)青線(非合法)の類義。


まだ子供のような輪郭をした頬がほの赤く、黒目がちの目がヒロを見て、またすぐに手元へと落ちる。
一月ばかり前にあてがわれたこの青年の声を、ヒロはまだ一度も聞いたことがない。

ここにはたまにしか姿を見せない矢上が、歳の頃なら十五、六といった坊やを一人連れてきて「お前手下欲しがってただろ。こいつ使え」と言いヒロに押し付けた。日雇いの仕事を貰いにくる男たちに紛れて寄せ場にうろついていたのを、差配の男が拾って矢上のところへ連れてきたらしい。

何を尋ねても声を出さず、首の動きや手のそぶりだけで意思を示す。耳は聞こえているらしく名前を尋ねれば氏名と住所を書いた紙を広げて見せ、その隅に『指示をくれれば何でもします』と走り書きして差配に提示した。建築現場の資材運搬も、港湾の荷役作業も指示を出せば黙ってその通り働くから、人の足りない現場へと回してやればそれなりに働き手になった。余計な口も利かずに黙々と作業をこなすので、雇う側からすれば文句なしだが、いかんせん体力は男一人前にはわずかに劣るため、同輩たちの間では厄介者扱いされて、身の置き場がなさそうにしているのを不憫に思ったのか、差配が違う仕事に就けてやれないかと矢上に進言したらしかった。

細い体をだぶだぶの作業着に包んだガキは、いつもこの事務所でヒロが来るのを待っている。最初は名前も分からずに何て呼んだらいいのか尋ねようとして、ふと男が手に着けている軍手の甲にカタカナで「ロク」と書いてあるのを見て、お前、ロクっていうのかと声をかけると、嬉しそうに微笑んで頷いてみせた。とりあえず備品と酒類の在庫管理を任せ、時には店への配達もさせる。声をかけなくても姿を見せればヒロにくっついて来るもんだから、あれやこれやと雑事を言いつけているうちに、『だんまりのロク』はヒロの手下ということに、周囲の人間も、当のヒロ本人もすっかり慣れてきたところだった。



ヒロは雑事を任せて客引きに専念できるから、以前よりもずっと懐具合は上々で、博打で作った借金も全部きれいに返済し切れたのはロクのおかげと言ってもいい。どうやら景気という、目には見えない上げ潮が自分に寄せてきているようだ。ヒロにはそれがロクと一緒にやってきたように思えてならない。

この間の非番には、ヒロはロクを連れて競馬場へ行った。
仕事だろうと暇つぶしだろうと、ロクはヒロを見かけると、呼びもしないのにあとにくっついて来る。競馬場に初めて来た様子のロクは、物珍しそうに辺りの人混みや馬を眺め、ヒロが手にした競馬新聞の馬柱を凝視して、レースを実況するラジオの音声に耳を傾けている。返事のないことはわかっていたが、ヒロは戯れに「お前もやってみるか」と声をかけた。ひととおりの馬券の買い方を教えてやるが、ロクは自分の財布には指一本触れず、そのくせ新聞に書かれた競争馬の名前を指で順番に指し示し、ヒロに向かって小さく頷いてみせる。

ヒロは自分が初めて兄分たちに連れられてここへ来た時のことを思い出す。何もわからずにいる自分に、兄貴たちは「初陣のご祝儀」だと言って、手堅い馬券を見繕って買い与えてくれた。兄分にしてもらったことは、自分が手下を持ったらそこへ返さなければいけない気がして、ヒロは財布を手に取った。

「最初のひと勝負くらい奢ってやるよ」

そう言ってロクが示した番号で馬券を買ってやり、ロクに渡してやった。
まもなく出走したレースは一塊りの馬群が瞬くうちにゴールして、ヒロの手にあった馬券は宙を舞う。やがて確定した着順を見ているヒロに、ロクがたった一枚買ってもらった馬券を黙って差し出してくる。どうしていいのか分からないような顔をしてヒロに押し返されたそれには、確定した着順と同じ数字が印字されていた。



「……お前、一体どうやって読んでるんだよ」

ヒロは興奮して次のレースもロクの見立てを伺おうとしたが、わからないのか首を左右に振るばかりで、当然声は一言も出さない。数度レースを繰り返し、その度にロクの顔を覗き込んで「どうだ?」と尋ねてみる。大抵の場合は何もわからないと言いたげに首を左右に振るだけだが、突然気まぐれに一頭だけを指し示すこともある。そういうときは他の馬と数馬身の差をつけて、ロクが示した馬が一着になった。
時には複数の馬を、それも馬番の順番通りに指差すわけでもないところを見ると、どうやら時によっては着順まで読んでいる。それがどういう見立てなのか、あるいは何かの法則に基づいているのか、ヒロにはさっぱりわからない。ロクは馬主たちが座る貴賓席の方をぼんやりと眺めては、時折ヒロの手にした新聞の馬柱を指で示してみせるだけだ。だが理屈はどうあれこの小僧を連れた競馬場で、半日が暮れればヒロの懐には元の数倍になった金が溢れ、二つ折りの財布は閉じるのが難しいほどにまで膨れあがっていた。

不思議な福神の来訪に気をよくしたヒロは、いい気分でロクに食事を振る舞った。
幾らかの分け前として儲けた金の一部を小遣いとして渡してやり、女遊びのできる店へと繰り出そうと、お前も来るかと声をかける。どう見ても「したい盛り」の年頃だろうと気を利かせ、ロクを連れて馴染みの店へ上がると、こいつ口が利けないんだけど耳は聞こえてるから。やさしくしてやってよと言って適当な女の子をあてがい、自分は馴染みの女と部屋に吸い込まれた。すっかり楽しんでから帰り支度をしていると、店の番頭がお連れさんなら先にお帰りですよと言うから、あぁそうそれじゃ二人分ねと支払いを済ませようとしたが、番頭が見せてくれたのは「帰ります」の文字が小さく書かれたメモ用紙で、どうやらロクの書いたものらしい。
番頭は「何かご都合がよろしくなかったんでしょう。お部屋にも上がらず帰られましたから、お客さまお一人分でようございます。こちらのことはお気になさらずに、またおいでください」とあくまでも慇懃にヒロに頭を下げた。


言われなくとも店のことよりロクのことが気になって、ヒロはすっかり暮れた夜の街へ足を踏み出す。
ふと歩き出した自分の背後に誰かの気配を感じて振り返ると、バツの悪そうな顔をしてロクが立っていた。どうやらヒロが店から出て来るのを、ずっと外で待っていたらしい。
お前女に興味ないのとヒロが尋ねると、ロクは困ったような顔をして、否定するでも肯定するでもない様子で俯きがちにヒロを見ている。どこかで会ったことがあるような黒目がちの眼で、誰かに似ていると思ったヒロは知り合いの貌をあれこれと思い巡らすのだが、それがどうにも思い出せない。すっきりした直後のはずが、またすぐに生み出された『すっきりしない何か』を抱えたまま帰路に着いた。

そんなことがあった翌日も、その翌日も。
それまで通り事務所へ来るとロクがいて、相変わらず一言も喋らずにヒロのあとをくっついて来る。何か言いつければその通りに、今日だって在庫から必要な分だけを取り出して、紙袋に入れてどこにでも運び出せるように用意してみせ、誰かに似たあの目でヒロを見つめるのだ。紙袋を押し返して「これ花苑のママんとこに持って行け」と一言いいつければ、すぐにでもその通りにするだろう。差し出された紙袋を受け取ったヒロは、潤んだような目をしたロクの顔を覗き込み、ふと気づく。どこかで知っているが思い出せずにいた面差しが、やっと誰のものか分かった。
ユリエだ。ついさっきヒロの元に舞い降りてきた、花苑のユリエに似ている。その途端落ち着きかけた熱が再び沸き返り、どうしようもない滾りがヒロの躰を駆け巡ってゆく。

「なあ、ちょっとこっち来いよ」

ヒロは備品を入れている棚の陰にロクを追い込んで、出口を塞いだ。

「お前本当に男? まさか女?」


まさか童貞どころか、こいつは自分が雄だということすら知らないんじゃないか。何を言っても言い返さないロクを壁際まで追い詰めて、両脚の繋がるところを探るヒロの掌の窪みには、ロクのそこがすっかり嵌まり込んだ。身を強張らせはしても逃げようとはしないロクの背後に回って、服の中へ手を突っ込んで直に触れるそれは、すぐに熱く火照り反り返る。
なぁ、まさか自分でしたこともないとか言わないよな。男の身体がどうなってるか、お前誰にも教わってないのか。背中から絡みついて自由を奪うヒロの腕に、ロクは黙って自分の身を任せている。俺の後ばかりくっついて来やがって、お前そんなに俺のこと好きなのか。だったら俺のものにしてやるよ。ヒロは耳朶の裏に唇を寄せてそう囁くが当然ながら返事はない。その代わりのつもりなのだろうか。ロクは頷いたまま身を捩り、胴に絡みつくヒロの腕に口付ける。ヒロの指先に弄られるままカタカタと身を震わせて、それでも荒い息遣いの他は呻き声ひとつ漏らさないまま吐精した。

「こんだけあるんだからいいだろ、一つくらい」

小さくそう呟いて、ヒロは横に置いた紙袋から避妊具を取り出して、手早く自分のものに被せた。
青草の匂いをさせて滑る自分の掌で、まだ膝を震わせ息を荒くしているロクの、捕えた腰を剥き出しにして探る。まずは指先を、それから避妊具の中で息苦しそうにしている自分を胎の奥深くへと挿しこんだ。普通だったら痛みで悲鳴のひとつもあげるのだろうが、ロクは黙ったままもがく様に宙を掻き、目の前の棚にしがみつく。爪がスチール棚の表面を削ってキシキシと鳴る音と、相変わらず激しい呼吸。ヒロの耳にはそれだけしか届かない。本当に声が出せないんだなと思うと、なぜか自分まで吐息も漏らしたくない気がする。

頼りなく自分をついて回るロクを、何も知らないガキだと嘲りながら、どこか超然としている姿に覚えたこの心情は何なのか。自分でも計りかねる感情をその身に集めて、ヒロは繰り返しロクに突き立てる。骨盤の浮く腰を掴み突き放しては、失うことを恐れて引き寄せることを繰り返す自分の滑稽さに、口元が歪みそうになるのを奥歯で噛み砕く。今ここでロクを支配し虐げているのは間違いなく自分のはずなのに、なぜ焦りにも似た感情で潰れそうになっているのかと思うと、大声で叫び出したくなる。こいつの分まで俺が雄叫びを上げてやろうかという思いがチラリと頭を掠めたけれど、結局は喉の奥で押し潰した呻き声をあげ、ヒロはロクの中へ熱を放った。
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