ゴンとトロ

文字数 4,160文字


学校が終わって家に帰ってくると、とりあえずランドセルを置き、ゴンはその代わりみたいにトロを連れて家を出る。それがもう3年続いているゴンの日課で、ランドセルが学生鞄に変わってもなお続けられている。
トロもそれが日課であるとちゃんとわかっているから、ゴンの帰りを心待ちにしているようだ。というよりは散歩に出た先で、ゴンがポケットから取り出して分けてくれる、給食の残りのパンが目当てなだけなのかもしれない。歩いて集落から程近い漁港へと向かう道すがら、トロはすんすんと鼻を鳴らしてあちこちを嗅ぎまわりきながら、たまに鼻先をゴンの手元に近づけては、再び周囲の匂いに気を取られることを繰り返す。そうして散歩の途中でいつも休憩する防波堤に、ゴンが腰を下ろし千切ったパンを口元へ運んでやると、首を傾げて器用に受け取ってみせる。
垂れた耳と尾を揺らしてパンを食べているトロは、漁師をしているゴンの父親が家に連れて帰ってきたものだ。入り組んだ荒磯の連続する海岸線に小さく窪んだ湾があり、どうにか一塊の漁船を係留できるだけの漁港があって、ゴンの父親は朝も暗いうちにそこから漁に出る。漁港の敷地に捨てられていた仔犬を、漁協の職員たちが引取り手を探してまわり、最後に残った一匹を父がトロ箱に入れて連れて帰ってきたのだ。だから名前もそのままトロになった。

「犬種もわからないが、成長すれば何かわかるかもしれない」
トロ箱の底でもこもこと動く毛玉のような仔犬を覗き込みながら、大人たちはそう言ったが、ゴンにはどうでもいいことだった。それを後追いするように、仔犬の丸い身体から手足が伸びて大きく育ち、ゴンの膝丈よりもう少し大きくなった頃には、誰もトロの種別について関心を示さなくなった。
茶色い背中は網元のところで飼われているレトリバーにも似ていたが、色は斑らでブチが浮いている。顔からお腹にかけての白い毛足は柴犬のようでもあり、しかし尾はスラリと伸びて、柴特有のくるりとカールしたそれとは明らかに違っている。厚みのある耳はぺろんと垂れ下がっており、しかも垂れているのは片方だけで、伸びた方をいたずらに折り曲げてみても、指を離せば律儀に立ち上がる。「何々犬のミックス」というラベルすらつかない混ざりっぷりに、大人たちは「成長したら素性が判るかもしれない」という、どこかに淡く抱いていた期待のようなものをさりげなく捨てて、そのことに触れないようにふるまった。
そのうちに本当にどうでもよくなったと見えて、誰もトロの犬種については口に出さなくなった。


そもそもが古くなった魚網を山と積み上げた、その脇に捨てられていた仔犬数匹の、貰われていった兄弟たちの最後の一匹だ。驚くような純血種がそんなところに捨てられているわけもない上に、血統というものが持つプライドや付加価値について、大人たちが詮議することの意味がゴンにはよくわからない。ゴンにとっては出会った時からトロはトロであり、父からの数少ない贈り物であり、体が弱く入院生活をしている妹の代わりみたいに、いつでも一緒にいる弟のようなものだ。

やがてコンクリートの護岸に係留された漁船が見え始め、その道路を挟んだ向かいに3階建てのビルが見える。漁業協同組合と書かれた看板の脇にあるスロープの手すりにトロのリードを結えつけると、ゴンはビルに入ってすぐの受付カウンターに、折りたたまれた古新聞が乗っているのを手に取る。カウンターの中で退屈そうにスポーツ新聞を眺めていた守衛が、ゴンの姿を見て「おう」と声をかけるから、手に持った新聞を頭の横で振ってから足早に出てゆく。これもゴンの日課のようなもので、漁協が開いている休刊日以外の平日は、ほとんど毎日そうしている。職員は事務所に据え付けられた新聞ラックに毎朝配達される新聞を付け替えると、古くなった前日の新聞を取っておいて、午後になると現れるゴンに渡してくれる。最初のうちは職員に声をかけて受け取っていたが、そのうちに面倒になったのか、古いのはここに置いておくから勝手に持って行けと言われて以来、随分前からこうしている。今日もたたまれた古新聞を片手に、もう片方の手にトロを繋げたリードを持って、ゴンは港を出ると磯伝いに、小さな湾を見下ろす崖の上にある神社の参道へと向かった。

参道の両脇を覆う萱の生い茂る薮に、よく見ると人ひとりが通れるくらいのケモノ道ができていて、まずはトロが左右を萱に挟まれたその隘路を、犬橇よろしくゴンを引いて先へと進む。この頃急に背が伸びて、ようやく萱の丈より少し勝るようになったゴンの頭が、石段の上にある神社から見たら、枯草の海原に浮く小舟のように見えるだろう。
萱の薮からまずトロが、引っ張られるようにゴンの身体が抜け出して、突然開けた野っ原に出た。埋もれるように石で組まれた家屋の土台だけが残ったこの辺りは、かつて家が建ち並び、集落になっていたらしい。ゴンが住んでいる集落が以前存在した、その跡地だ。


海の恵みを受けて暮らすということは、時にその脅威に晒されることでもある。集落の古老がする話によれば、高潮のたびに水に浸かる暮らしに業を煮やした先祖が、台地の木立を切り拓いて一塊の土地を作り、そこへ集落を移し始めたのは『元号が明治から大正に変わって、落ち着く間もなく大地震に見舞われて帝都が瓦礫の山になった頃』のことだという。戦後もしばらくはいくつかの長家が建ち並び、何世帯かの住民が暮らしていたが、次第に高台に拓いた新しい集落へと移り住み、今はすっかり棄てられた村に近寄る者もなくなった。かつては家屋が建てられていたであろう四角い屋敷跡も、僅かばかりの野菜を植えた畑地も、今はすっかり薮に埋もれ、集落の家々を縫う路地だっただろう地面は荒れ、轍もとうに植物に呑まれ、あるいはブカブカと湿地になっている。そこを通り抜けて僅かに小高く開けた場所に、一本の薮椿がひょろりと伸びて花をつけ、その隣にひっそりと、木で組まれた粗末な小屋があった。

トタンの屋根にありあわせの板を打ちつけた壁。元は家屋の脇に作られた小さな畑の、農具をしまう為の小屋だったらしい。少しずつ手を入れて、どうにか家のように見えるその戸口を、トロがくんくんと嗅ぎ回っている。

「ロクじい」

ゴンがそう声をかけても、中に人の気配はない。
ふとトロが薮の方に向き直り、立っている方の耳をぴくぴくと揺らした。そのうちに藪を掻き分ける乾いた音がゴンの耳にも聞こえるようになり、現れたロクじいはゆっくりと、いつもの軍手を嵌めた手を挙げてゴンに手を振る。それから近づいて鼻を寄せるトロの顎を掬い取るようにして撫でた。

ロクじいはいつでも両手に軍手をはめている。
それは何が特別ということもなく、作業着を売るような店の軒先に、十組二十枚で束になって売られているような、山吹色の糸で縁をかがってあるごくありふれたものだ。利便のために親指と人差し指の先端が切り落とされた先端から、黒く垢じみているけどどこかほっそりとして、それでいて分厚い爪の貼り付いたロクじいの指が覗いている。もしどこかに置き忘れてもこの集落の人間なら誰のものかすぐに分かる。太いサインペンで大きく手の甲に書かれた「ロク」の文字が、消えそうになるとまた上からなぞり書きすることを繰り返すうちに、極太になって持ち主の名前を誇示していた。


もっともそんな心配は必要ないくらいにロクじいはこの軍手を肌身離さず愛用している。どこかの建築作業現場から拾ってきたのだろうか、甲に飛び散った生コンがそのまま固まってこびりついたその一組が、とにかく一年中ロクじいの両手を覆っていた。
両手ばかりではない。寒がりのロクじいはいつでも着膨れていて、古くなった作業帽を被った上から手拭いで頬かぶりするから、シミの浮いた目元と皺の刻まれた口元の辺り、それと軍手から突き出た指先しか肌が見えない。いつでもそんな姿でこの「かつて集落だった場所」に棲みついている、たった一人の人間だった。
仙人。集落の人間はロクじいをそう呼んでいる。元はこの集落で育ち、若いうちに都会へと出て、いつの間にかここへ戻ってきた頃にはロクじいはすっかり年寄りになっていて、役場が充てがった高齢者向けの公営住宅に一度は入居したものの、結局そこの暮らしに居つくこともなく、気がつけばこの小屋で寝起きするようになっていた。

ロクじいが胸元に抱えた包みを見ると、ゴンは急いで椿の幹にトロを繋ぐ。
水、汲んでくると言って、ゴンは戸口近くにあるコンクリートブロックを積んで作ったかまどに置かれてたヤカンを手に、小屋の背後にある崖下へと向かう。かつて集落の共同井戸として使われていた湧水は今も枯れることなく、いつの頃にか先祖が作った石桶を満たしていた。一番上の桶から溢れた水は二段目の少し低い石桶を満たし、三段目の石桶はかつて牛馬の水飲み場だったところで、今はロクじいの衣類や食器の類を洗う場所になっている。最上段の水をヤカンに汲み上げて戻ると、「イワシの大和煮」と書かれた大きくて平たい空き缶に少し注いで、トロの足元に置いてやった。

火に焚べたヤカンの湯が湧くまでの間、使い古しのアウトドア用品らしいイスが広げられ、背もたれのついた大きいイスにロクじいが、その隣に置いた小さな折りたたみイスにゴンが腰を下ろした。そうして漁協でもらった古新聞を開くと、ロクじいはそれを覗き込んで、ざっくりと見開きを眺める。ロクじいが詳しく知りたがるのは主に周辺地域の情報で、全国紙の大見出しで一面に踊り出るような、政治経済や世界情勢はについては見出しと最初の数行だけで十分だった。自分の住む土地にまつわる情報を基本に、これと、これと、その次にこれと言いながら、読み上げるべき記事を、軍手からはみ出した指でゴンに示した。
目が萎えて細かい文字を読むのが苦手になったロクじいの代わりに、ゴンは毎日ここへ古新聞を持ってきては、記事を読んで聞かせる。読み方を知らない漢字が出てくると、ゴンは棒切れを使ってその字を地面に大きく書き写す。するとロクじいがその読み方を教えてくれる。だから授業でまだ習っていない漢字も、ゴンにはいつの間にか読めるようになっていた。

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