ミホと占い師

文字数 4,285文字


「……弟がね、わたしの夫のことが大好きだったの。もし愛情が計量できるものなら、弟の方が私よりもずっと大きく深く、あの人のことを愛してたと思う。どちらももう亡くなってしまったけど、あなたが彼女を見る眼が弟にそっくりだったから、そう思っただけよ」

『妹』ならよくある話かもしれない。
死別した妻の姉妹を後添いに迎えることだって、昔はよくあることだったと聞いたことがある。ともかくひとりの男性、あるいは女性をめぐって兄弟や姉妹が絡んでくることは起こりうる。だが占い師は確かに「弟が」と言った。弟と夫がそうであるからだろうか。自分とアキが同性であるという事実を、この人は何の嫌悪も憂いもなく受け入れているらしい。

さらりと事実を暴かれ虚を突かれた表情のミホを置き去りにして、占い師は私これあまり得意じゃないから食べてくれないかしらと言って、チャーシューを摘みあげてミホのどんぶりに載せた。
「食べましょ」と言って占い師は胸元で小さく両手を合わせている。箸に手をつける前に、ここに来た目的を話してしまいたい。ミホは占い師の胸元にある指先を見て言った。

「占い師になりたいんです。弟子にしてくれませんか」

本気のつもりだ。
今は高校二年生だが、もうすぐ三年になる。その前にクラス替えがあるから、そこでアキとは別のクラスになってしまうかもしれないし、そうでなくても卒業して進路が別れれば、彼女に会うことも叶わなくなる。アキがそんなに占い好きなら、自分が占い師になればいい。そうすればことあるごとに彼女に会って話せるだろう。自分から探りに行かずとも、彼女の方からミホを請うてくれるかもしれないのだ。こんな不埒な理由をさっきみたいに見透かされたら、一笑に付されるだけだろうと思ったが、占い師は案外と神妙な顔をして答えた。


「わたし、修行したことないのよ。だからお弟子さんをとっても何も教えてあげられないわ」
「じゃあ、どうやって占い師になったんですか」
「……なりたいからなった、っていうより、ほかに道がなかっただけよ。若い頃小さな料理屋をやっていたけど、夫と子供に死なれてしまってね。自分も患って、人並みに働くなんてとても無理だった。だからこうやってどうにか食べつないでるだけなの」

自分のどんぶりの上に小雪を散らすように、小さな缶から胡椒を振り出してから、占い師は缶を掲げてミホに向かって小首を傾げてみせた。かける?と問われた気がして小さく頷くと、ミホのどんぶりの上にも白い粉末がちらちらと降る。

「それにね、お家の方はなんて言うかしら。占い師になりたいって話したの?」

缶を小刻みに振りながらそう問いかけてくる占い師の手の甲にはシミが浮き、痩せた皮の下から骨が浮き出している。楽ではない暮らしを乗り越えてきたのであろう手は、どこか自分の母の手にも似ている。
母が自分の進路について口を出してきたことはない。だが気を揉んでいることくらい察しはつく。理由を問われたらなんて答えるべきだろう。アキのことが好きで、只々彼女の側にいたいがための本心を、何と言って繕えば母に許してもらえるだろうか。

家族のことを問われてふと、あなたはと問い返してから、占い師の「夫と子供に死なれてしまって」という声を思い出して、失礼なことをたずねてしまったとミホは後悔する。ごめんなさいと詫びる声を打ち消すのは、微笑みながら食べないとのびちゃうよと言う占い師の声と、どんぶりを差し示す指先で、そこに「口は食べることに使って、耳だけこちらに貸して頂戴」という声が追加された。


……私が今よりもう少し若かった時にね。
お腹にいた子供が死んでしまって、私が病院にいた時に夫が担ぎ込まれてきたの。
世間様に顔向けできない稼業の人だったからね。ヤクザ者同士で諍いが起きれば、否応もなく巻き込まれる。あの人もそうして刺されて死んでしまったわ。よりによってこの世を見ることも叶わず、私のお腹から子が出ていってしまったその日に。あの子が寂しがって父親を呼んだのか、それとも一人にするのが可哀想で、夫が付き添ったのかもしれないわね。

とにかく一晩のうちに子供も夫もいなくなって、私はどうにか退院できたけど、もう身も心もボロボロになってしまってね。家で休んでもちっとも床上げできずに体を壊して、原因もわからないひどい熱が何日も続いたあと、とうとう眼が見えなくなってしまったの。
不思議と落ち着いていられたのは、父が盲だったからかもしれないわ。いつか同じ病気になるかもしれないと薄々覚悟はしていたからね。でもそうだとしたらたった一人でどうすればいいのかもわからない。相変わらず体はだるくて動くこともできないし、あぁ、私もうこのまま死ぬんだろうなって、横になったままぼんやりと思ってたの。

何日くらい経った頃だったか、夢を見たの。
亡くなった弟が夢の中に現れて、腕に白い蛇を巻き付けてるのよ。鱗が眩しいくらいに青白く光ってて、恐ろしいんだけどため息が出そうなくらいに綺麗で、夢の中で震えながら目を逸らすことができなかった。
弟は啞だったからかしら。姿は弟なのに、夫の声で話すのよ。

「これが姉ちゃんのところに行くよ。そうしたら見えるようになるからね」

そう言って、私の手を握ったの。蛇が腕を伝って私の方へ這ってきて、襟足から懐に入ってきたところで汗をびっしょりかいて目が覚めたわ。
見えなくなってからはどこを見ても朝も夜もない真っ暗闇だから、眠っているか起きているかは音や周囲の気配でしかわからない。辺りは静かだからどうやらまだ夜中みたいだけど、その日はいつもと様子が違ってた。……視界の端にぼんやりと薄明かりが見えたの。


光を失い見えるはずのない眼に、薄明るく光る、四角いものが浮かんでるのが見える。
まだ夢の続きを見ているのかと思って辺りを見まわしても、弟の姿も、あの青白く光る蛇もいなくなってて。だけど確かに、目には四角い薄明かりが見えるのよ。

『これが姉ちゃんのところに行くよ。そうしたら見えるようになるからね』

夢の中で弟が、夫の声で話したことを思い出して、這うようにして台所の薄明かりまで行ってみたの。
コンロの側に置かれた箱型の黒い影を触って、手に取って耳元で振るとカサカサ音がした。徳用マッチの箱よ。手探りで一本擦ってみたら、小さな光が見えた。見えることが信じられなくて、もう一本、またもう一本。擦っては炎の放つ光を見て、消えたらまた火を着けることをくりかえしているうちに、窓の外が本当に明るくなってた。一晩中マッチを擦っているうちに朝が来てたのよ。手元にはマッチの燃えかすが山盛りになった灰皿が見えた。

それからは目が元通りにみえるようになって、原因がわからなかった熱も下がって、やっと床上げすることができるようになってね。……その時からよ。ないはずのものまで見えるようになったのは。
誰かと話していると、その相手の後ろにその人の姿が見える。どうして目の前にいる人が、その後ろに立っているのか。最初は何が何だかわからなかった。ようやくわかったのは、後ろに見えているのは、その人のちょっとだけ先の姿だ、ってこと。明日かもしれないし、明後日かもしれない。一週間後か一カ月後か、それはわからない。お客さんには見えたものを伝えるし、話し相手になって一緒になって考える、私のしてる占いって、ただそれだけのことなの。だから、ね? 修行も何もあったもんじゃないのよ。

そういうわけだから、ごめんなさいね。お弟子さんにはできないけど、許して頂戴。
大丈夫よ、あなたと彼女は長い付き合いになりそうだから心配しないで。あなたこれからいろんなところに行って、たくさんの人に会うのよ。そうしたらやりたいことが出てくるわ。それでもやっぱり占いをやりたかったらその後でもいい。十年後でも二十年後でも、まだあなたには時間がたっぷりある。それから占い師になっても、ちっとも遅くないわ。


10
占い師は店主に声をかけるとラーメンの代金を支払う。
店に置かれた小さなラジオから道路補修工事に伴い交通規制が実施されるという告知が流れている。この古い橋にも予算がついて、耐震補強工事をするということらしく、よく見ると屋台の柱に移転のお知らせが貼られて、近々のうちにこの場所での営業を終了すると書かれていた。なかなかいい所が見つからなくて、立ち退き期限いっぱいまでここに居ることになりそうだと店主が言うと、占い師は首を小さく左右に振って、気持ちは分かるけどなるべく早めに退いた方が良さそうよと言った。お互い身軽な商売ですもの。気分を切り替えて、次に行きましょと言って微笑んだ。

「人ごとじゃないのよね。私も河岸を変えなきゃ」
「それじゃ、工事が終わったらまたここで?」
「そうね。……でもきっと戻れないと思う。ご縁があったらまたどこかで会いましょ」

占い師はそう言って、屋台の前でミホと別れた。

それから半月あまりが過ぎたある日、夜半に降り始めた雨が土砂降りになって、たっぷり一日降り続いた。
ミホとアキの住む街も散々降り込められて、ようやく雨が上がった日に、常盤橋が崩落したとニュースが報じた。増水した奔流に押されて橋脚が崩れたものの、幸にも予定していた立ち退き期限より早くに周辺の屋台等が移動を済ませ、通行止めになっていたため、犠牲者はひとりも出なかったという。
アキは占い師のことが気になるようで、水が引いたら様子を見に行こうとミホを誘った。そうだねと言って応じながらも、ミホはどこか落ち着いた気持ちでいられた。あの人はちゃんと分かっていたのだろう。補修工事が始まるより前に橋が崩れることがわかっていたから、ラーメン屋の店主に「早めに退いた方がいい」と言ったのだ。

橋脚の損傷は激しく、もはや補修することも現実的ではないとして、行政は常盤橋を廃止して新たな人道橋を架橋すると発表した。約一年後に新しく架けられた橋は、スチール製の欄干に町のシンボルであるサクラソウがあしらわれ、公募で決まった「みらい橋」という名前のプレートがとりつけられている。人と自転車がすれ違ったらそれで一杯になる小さな人道橋を、その後何度か渡ることがあったが、あの時アキと一緒に、それから一人で訪ね、占い師の話を聞いたそこと、同じ場所に立っているのだとは到底思えない変貌を遂げていた。
あの空間は常盤橋とともにどこかへ消えてしまったのだ。

「きっと戻れないと思う」そう言った占い師には見えていたのだろう。常盤橋と一緒に、この場所全てがどこかへと押し流されてゆくことを。
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