チヤとヒロ

文字数 3,758文字


青雲荘の薄い扉を、誰かが叩く音が響いている。
ロクの帰りを待ちくたびれて、卓袱台に伏したまま眠ってしまったユリだったが、ロクが帰ってきたわけではないことはすぐ気づいた。ロクは鍵を持っているはずだし、そうでなくともこんなに強く扉を叩いたりしない。腫れぼったい目をしたユリが玄関先に立つと、朝早くにすみません、警察ですという呼びかけが聞こえた。
扉を開くと男が二人、部屋に朝日が差し込むのを塞ぐように立っている。それもまたあの時みたいに制服を着た交番勤務が、シワだらけで型崩れした背広姿のもう一人を連れていて、制服の方が「こちらに小曽根碌也さんという方はお住まいですか」とユリに尋ねた。
ええ、と小さく返事したユリはご家族の方ですかと聞かれ、ほんのわずかに返事に詰まる。

家族。ロクはもうそうは思っていないのかもしれない。だが昨夜、ここにやって来てユリの帰りを待っていたことを考えれば、そう決めつけるのはまだ早い気がする。そうですと答えると警察官二人は小さく目配せをして、一呼吸置いたあと私服の警官が切り出した。

「昨夜鉄道事故が発生しまして。踏切から線路内に入った男性が列車に撥ねられて亡くなったのですが、身元の確認をしましたところ、所持品からこちらの住所が書かれたメモが見つかりまして」

気の毒そうな表情の警察官二人に見下ろされたまま、ユリは昨夜のロクの様子を思い返す。頼りなく掠れる声を出しながら、目は決然と闇を見据えてその中へ走り去った、ロクの後ろ姿が目蓋に焼きついている。本人確認をしたいから署までご同行願えますかという声が、うつろになったユリの頭蓋に響いた。
昨日から着ている服もそのまま、どうにか身支度をすませて玄関の扉を出ると、青雲荘に横付けされたパトカーには近所に住む子供達が群がり、大人たちは遠巻きにパトカーを、というよりユリの方を見ている。乗せられた車内には警察無線がひっきりなしに入って来て、気を遣った背広が音量を下げながら、すみませんね消すわけにもいかないもんでと言い訳をするが、どのみちユリの耳には何も入ってこなかった。



警察署に着いてからも人は多く、ざわざわとひといきれを肌で感じるほどに廊下が混み合っている。人の間をすり抜けるように地下に案内され、やっと静かになったのは安置室に入ってからだった。二人の警官の他に白衣が一人立ち合い、監察医だと自己紹介すると、扉の奥へとユリを案内する。ささやかな凹凸に布を被せた寝台が置かれているが、人がひとり載せられているとは思えない大きさだ。監察医はぼそぼそとした声で上半身は比較的きれいですよと言って、台に被っている布を剥いだ。

「係員が言うには、突然踏切小屋へ駆け込んできたそうで。備え付けの発煙筒を持ち出して、焚きながら線路内を走って行ったんだそうですよ。そこへ下りの最終が来たんです。機関士が、煙に気づいてブレーキをかけたが間に合わなかった、と」

ユリは仰向けに寝かされたロクと対面した。
奇妙に歪んだ頸が胴体と繋がって、その上にある顔は痛みを感じるだけの時間もなかったように、ロクが静かに目蓋を閉じていた。

静かだ。もはや何も聞こえなくなったロクに向き合うチヤもまた、その耳には何も届かない。
陽光から遮られた地下室のしじまにいて、薄く開かれたロクの唇の端には産毛が濃くなったような髭が見えている。それはチヤの知らない男の顔のようであり、しかし昨夜自分に掠れた声で『大丈夫だからここで待っていて』と呼びかけてきた男だ。

『ロク』

声に出さずに呼び掛ければ、どこからか幼い頃の弟の声が『チヤ姉』と応えた。そのささやかな交感を掻き消すように「ご家族で間違いありませんか」と警官が声をかけてくる。
ええ。ええ。碌也です。私の弟ですと答え、チヤはようやくロクとの対話に言葉が要らないことに気づいた。

これまでそうだったように、これから先も同じだ。そう思えた途端に灰色をした床が迫り上がり、チヤめがけて蛍光灯の青白い光が降ってきた。立っていられなくなったチヤを支えた背広が、制服に向かって救護室用意しろと怒鳴った声がやけに遠くから聞こえて、それからチヤの体がぽかりと宙に浮いた。


硬い寝台にから見上げる天井は床と同じような灰色をして、そこに制帽の鍔がチラチラと覗くから、ユリはここが警察署だったことを思い出す。白衣を着た監察医がもう少し休んだ方がいいと言ったが、ユリはこの騒々しい空間から一刻も早くロクを連れて帰りたかった。
ロクの亡骸を引き取る手続きが終わる頃には日暮も近づいて、廊下は山吹色の西陽に染まっている。刑事から紹介された葬儀社へと連絡し、ロクを自分たちの部屋へと連れて帰る手配を済ませ、迎えの車が来るのを廊下に置かれた長椅子に座って待つうちに、どこで様子を伺ってここへ来たのか、入り口の階段を上がってきたのはヒロだった。近所の人に聞いて来たんだと言いながらユリの隣に腰を下ろしたヒロはユリよりも青い顔をしている。
言葉少なに踏切から線路に入ったんですってとユリが言うと、遺書はあったのとヒロは呻くように声を絞り出す。どうしてロクが死ぬ必要があるのか。それほどまでに追い詰められていたのか。理解できないヒロに向かってユリは静かに語りかける。

「違う。死にたかったわけじゃないのよ。ロクはあなたに生きていてほしかっただけよ」
「……どうして俺が」
「私が教えたの。あなたがセメント工場行きの最終に乗ってるって。駅に戻っても間に合わないから、先回りして踏切から線路に入って列車を止めたんでしょう。ロクにはあなたが工場にいくのをどうしても見過ごせなかったのよ。行けばどうなるかわかっていたから」

そう話しているのは隣に座ったユリのはずなのに、ヒロの耳にはどこか遠くから響いてくる。どうして見過ごせないと言い切るのか。自分はロクの声が聞きたかっただけだ。そのための自由を得る対価としての仕事を矢上に与えられたことを、なぜそのロク自身が阻むのか。

「見過ごせない、ってどういうことだ」
「それはロクにしかわからないの」

いつもそうだった。ロクにはわかっている。わかっていないのはいつだって自分たちの方だ。


矢上に提示された条件を果たす、そのために乗った列車だった。
それが事故が起き急停車して、ヒロは他の乗客たちと一緒にカンヅメにされ、運行再開を待った。だが簡単に復旧は叶わず、下ろされて鉄道会社の手配したバスに乗り合わせ、待ち合わせ場所にたどりついた時には、約束の時間より2時間も遅れていた。指定された店が閉店していたのはとっくに営業時間を過ぎていたのと、すぐ近くのセメント工場の入り口で、乱闘騒ぎが起きたからだ。
酔漢たちが暴徒となって、工場正門にいた職員たちに殴りかかり、加勢に入った者を巻き込んで暴動に発展した。誰かが投げた石が守衛所のガラスを叩き割り、中に置かれていたストーブからは焼けた石炭が投げ返された。怒号と混乱はやがて駆けつけた警官に封じられて、居合わせた男たちはひとまとめにされて護送車に詰め込まれた。そうして現場に数名の警官と板塀の焼け焦げた匂いだけを残して、静まり返った工場にたどりついたヒロはつまり、全てに置き去りにされたのだ。

これが終われば。これさえ済ませば自分はロクを探しに行ける。それがこんな形でご破算になるなんて。自分を足止めさせたのは、あの踏切で自分の乗った列車に轢かれたのはロクだったというのか。ヒロはとにかくこの不手際を矢上に詫びて、もう一度機会を与えてほしいと頼み込むことしか考えていなかったが、もはやそうする理由も失われたというのか。

「俺は一仕事終えたら、ロクを探す時間が手に入るはずだったんだ」
「……それでもロクはあなたを行かせるわけにはいかなかったのよ」

署内の空気が急に慌ただしくなり、何名もの警察官がバタバタと出入りしている。周辺には新聞記者らしいカメラを持った男たちが車で乗り付けてきた。こんな時くらいそっとしておいてほしいと思うヒロとユリを無視するように、ロビーに置かれた長椅子の周囲は容赦なく誰かの怒号と足音の行き交う気配が渦巻いている。慌ただしく動き回る人壁の中には、さっきまでユリに付き添ってくれていた制服がいて、椅子に座ったユリと目が合うと声をかけてくれた。車の手配をして迎えを待っているところだと言うと、騒々しくて申し訳ないと頭を下げる。たまりかねたヒロが何かあったんですかと尋ねると、警官は苦い顔をした。

「ニュース、お聞きになってませんか。県道沿いの崖が崩落したんです。複数台の車両が巻き込まれた様子なんですが、中に警察車両も混じっていたらしくて」

昨晩港で暴動がおきましてね。逮捕者を乗せた護送車が崩落に巻き込まれて、谷底へ滑落したんです。捜索が出たんですがどうにも山深いところで、救助が難航してまして。そう話す警官の後ろから黒いスーツを着た男が向かってきた。警官にも黙礼するとこのたびはご愁傷様ですと言って葬儀社の名前が入った名刺を差し出してくる。お二方がご遺族様でらっしゃいますかと尋ねられ、ユリとヒロは俯きがちに顔を見合わせる。小さくヒロがうなづいたから、ユリはそうですと答えた。

遺族。自分たちは遺されたのだ。ロクの意思によって。

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