ユリとロク

文字数 7,087文字


授業中で教員の出払った職員室は人影もまばらで、その隣にある校長室の応接セットに腰を下ろしたユリは、向かいに座った職員の脂の浮いた額を見ている。
ロクの通う中学校から呼び出され、できるだけきちんとした格好をしなければと思って、銀鼠色のスカートに水色のブラウスを着ているもんだから、まるで銀行の窓口係にでもなったような気分だ。応対したのは鼈甲縁の眼鏡をかけた白髪頭で、ロクの担任であり学年主任だと自己紹介すると、まあ、もう察してらっしゃるかもしれませんが、弟さんの出席状況についての話ですと切り出してくる。このままでは進路どころか、卒業にも日数が足りないですよとの言葉を浴びせられ、驚いたユリは俄に返事をする声も出せず、ようやっと声を絞り出した。

「そんな。……そんなはずありません。毎朝登校してます」
「学校には来ていませんよ。ですからご連絡したのです」

ユリは毎日夕方店に出て、翌日の深夜に帰宅している。眠っているユリと入れ替わるように、毎朝ロクがアパートを出ていく気配だけは、布団の中からちゃんと察していた。それから午前中一杯を泥に沈むように眠り、午後になって帰ってくるロクと行き違うようにまた瀬ヶ崎楽天地へと向かう。来春中学を卒業するロクの、進路についての話だと勝手に思い込んでここまで来たユリにとっては青天の霹靂で、しかし考えてみれば確かにいつもと様子が違うことが家の中でも起きていた。ユリは靴箱の底板を外したところに、キャンディーの空き缶を入れている。中身は客からもらった心付け(チップ)だ。
ある時中身を確認したら、どういうわけか現金が増えている。自分以外には知らないはずのそれを、誰かが開けているとするならロクしかいない。しかも減っているならまだしもその逆で、自分の勘違いだと思う方が自然なのだが、どうにも釈然としないままになっていた。


「進路の話だとばかり思っていたんです」
「本来ならそういう時期なんですがね」

傍に置いてある黒い表紙で綴じられた紙束を、担任教師は手にとってパラパラとページを捲り、もうね、早いところは推薦者名簿をまとめてくれってせっつかれてるんですよと言う。中学校には新卒で働き手になってくれる人材を求めて、首都圏の商工会議所や職業安定所が声かけをしてくる。ユリはロクをちゃんとした職につけてやりたいと思うが、果たしてロクの事情を理解してくれる職場を見つけられるのかと不安になる。二人で暮らす家の中では身振り手振りと、小さな黒板に白墨で書き記す文字で意思疎通することが普通だし、ロクは何でも自分でこなすから、身の回りに不自由することもない。だが他の誰かと仕事をするとなると話は別だ。

「耳は聞こえているんです。ただ声が出せないだけなんです」

目も耳も鼻も、他の人と同じなんですから、指示されたことは何でもできます。ユリの声は知らず知らずのうちに大きくなってきている。目の前の職員は小さくため息をついてから、もう一度手元の紙挟みを捲り、ユリの手元に差し出して、小さく記入された文字を指先で示して見せる。[条件:身体及び知的障害者を除く満年齢15歳以上の者]とあって、それを職員はコンコンと指先で叩いた。

集団就職っていうのもね、こう言っては何だが、どこでも同じってわけじゃあないんですよ。私どもの学校は、毎年優秀な生徒を選んで東京の商工会や企業にご紹介してます。長い付き合いのうちに、ここの出身者は優秀だと認めてくださるからこそ、毎年優良企業の求人を寄越してくれるんです。要するに、次年度以降に関わるんですよ。
確かに、小曽根君は成績は優秀だが、それも三年生の春までのことだ。ここにきてこう欠席ばかり多くては、品行方正とは言い難い。今からでもきちんと毎日登校することはお約束いただかないと。


そう言われれば確かにその通りで、ユリには返す言葉がない。
何か欠けているということは、人の何倍も努力しなければ一人分には数えてもらえないよと言っていた父の声を思い出した。

父は冬のある日、ユリとロクを連れて住み慣れた集落を離れ、自身がかつて修行をしていた寺へと向かった。人里離れた山中にある七堂伽藍の大きな寺院の、その側に置かれた庵に行くと、櫂禅坊と扁額のついた堂の僧侶を訪ねた。戸口に出てきた父よりわずかに年嵩らしい僧侶は旅装に汚れた三人を見ると、女人がおるが目を瞑ろうと言って庫裡の裏手にある、塩や味噌を蓄えておくための小屋に案内し、その一角で三人が寝起きできるようにしてくれた。

春まで。春が来たら街へ降りることにするから、それまではここに置かせてもらおう。父はそう言っていたが坊で朝夕の勤めを果たすうちに病を得て、春を待たずに萎れるように亡くなった。喪が明けるまで寺院は二人を居させてくれたが、いつまでも女を置いてはおけない場所なのだろうことを、ユリは何となく察した。ロクのことなら修行僧として、ここに置いておけるがどうかと尋ねられたが、当のロクがそれを嫌がったために、ユリは寺に出入りして味噌や醤油を納めている商人に口利きしてもらい、缶詰工場で働いた。寺男に手伝ってもらって役場へ届けを出し、まだ小学生のロクを缶詰工場の社員寮から近くにある学校へ通わせた。
生まれ育った港町よりも大きくて、人もたくさんいるこの街は、探せば仕事の口はいくらでもあるはずだ。それに、働けばロクのことを医者に診せることもできるかもしれない。

まずはきちんと学校に行かせるところからやり直さなければ。
ユリは家に戻ってロクの戻りを待つ。二人の住む共同住宅「青雲荘」は、名前ばかりが清々しい粗末な二階屋だが、それでも缶詰工場の寮よりはるかにマシだ。玄関もトイレも個別についているから、夜中に出入りしても他の住人に気を遣うこともない。ユリは自分の部屋の扉を開けると、玄関に靴の紙箱が置いてあるのに気づいた。


中身はユリがたった一足持っていた黒革の婦人靴だ。
愛用するうちに踵が潰れてしまったから、お金に余裕のある時に修理に出そうと思いながら、そのままになってしまっていた靴の、若草色をした紙箱が床の上に置かれている。箱を開けると薄紙に包まれた中から、きれいに手入れされた靴が出てきた。潰れてしまったかかとの先端は交換され、石に蹴つまずいて傷がついてしまったところは靴墨で補修されている。靴底の奥で指の形に凹み擦り切れてしまった中敷も、新しいものに敷き直されていた。箱の傍には小さな黒板が置かれ、白墨で「修理に出しておきました」と書かれている。柔らかく揺らぐ、ロクの文字だ。

まただ。この間は台所で使っていた鍋に穴が開いてしまったのを、次の給与が入ったら鋳掛(いか)()に出そうと思っていたら、いつの間にか修繕されていた。ロクに尋ねると『同級生に鋳掛屋の子がいて直してくれた』と説明した。あら、それじゃあお代をとユリが言うと、ロクは曖昧に微笑んで『修行だから無料でいいって』と白墨で書いてみせる。どうやら鋳掛師の子が練習ついでに修繕してくれたらしい。どちらの方なの、お礼くらい言わないとと言うユリに、ロクは要らないよと首を振り、答えようとしなかった。この出来事を同じ店で働く女たちに話すと、アルミニウムの安価な鍋がいくらでも手に入るのに、今時鋳掛屋になろうだなんて子がいるんだねと皆が笑った。そう言われてみれば、確かに不自然な話に思えてくる。

靴の修理はどう見てもそこら辺の素人がしたものとは思えない仕上がりで、履き皺にはきちんと鏝を当てて、崩れた型までも直してある。中敷には靴屋のネームも箔押しされていて、どこかよその修理を専門とする工場ではなく、ちゃんと製造元の職人の手で修理がなされている。これはさすがに『同級生』では説明がつかないだろう。

……ロクはどこかで現金を得ている。
学校に行かずにどこかで小遣い稼ぎでもしているのだ。自分でも手が届く程度の靴ではあるが、それなりに値が張る買い物だったことは憶えている。きっと修理にもそれなりの代金が必要なはずだ。それを支払えるくらいの働きがある、ということなら、学校に行っている暇なんてないだろう。鋳掛屋の話もきっと作り話だ。


※鋳掛け……鍋や釜を修繕すること。またその職人。昭和になって安価な量産品の鍋釜が販売されるようになると廃れた。


いくら待っても戻ってこないロクのことを考えながら、店に出る時間ばかりが迫ってくる。ユリは仕方なく学校に行ったのと同じ服装のまま部屋を出た。

瀬ヶ崎楽天地が近づけば、見知った顔がユリの姿を見て「どこのOLさんかと思った」と言って目を丸くする。『おーえる』さんって何のことだろうと考えながら店のカウンターの奥にある、細長い控え室に入ると、居合わせた他の娼婦たちもママも、ユリちゃんはそういうのも似合うわねェと言って微笑んでいる。

ねぇママ、おーえるさんって何なのと尋ねると、近頃は会社勤めする女性をそう呼ぶんだってさと教えてくれた。それはBGって言わなかったっけ?と応じたのは横で化粧していたスミレさんで、女手ひとつで双子の女の子を育てているお母さんだ。BGって、アメリカでは売春婦のことなんだってさ。だからこれからはOLって呼ぶんだって。そう言ったのは横須賀の米兵相手の店から流れてきたアザミ姐さんだった。じゃあ私たちはBGのままでもいいんじゃないかしら。モモ子がそう言って皆が笑う。何でもいいわよ貰えるもんさえ貰えるなら。好きなように呼べばいいじゃないさ。ケタケタと笑う声に混じる嘆息に、女たちの渡世の意地が滲み出る。
ママは鏡の前に座って自分の顔を弄りながら、鏡越しに顔を覗くユリの視線を捉えてから小さく愚痴をこぼす。ったく、いつの間にこんなに腫れぼったくなったのかしら。こうしてやらないとどこが目玉か目蓋か判りゃしないわ。そう言って目の縁に濃い墨を入れるママの頭上で、電球がやけに強く光った。

「やだ。切れるかしら」
「切れるって思うと切れるわよ」
「思っても思わなくても、切れる時は切れるでしょ」

それからフッと明かりが消えて、ホラやっぱりと女たちはため息をつく。
暗がりの中で「ちょっとぉ、まだ眉毛描き終わってないのよ」と言ったのはフジ子さんだった。


ママが備品の戸棚を探って電球を探すが出てこない。
たとえあっても交換するのには脚立が必要で、そういう面倒を請け負うのはいつだってヒロの仕事だ。すっかり支度を終えていたユリはちょっとヒロさん呼んでくると言ってコートを羽織り、雨あがりの路地へと歩み出た。

暮れかけた夕空にぼんやり浮かび上がる、瀬ヶ崎楽天地のネオンにはもう灯が入っている。
雨上がりには水溜りだらけになるこの路地の、どこに足を置けば泥水を被らずに済むか、もうすっかり慣れた足取りで、ヒロがいつも客引きをする居酒屋を覗き込めば、まだ客もまばらな席を縫って店番が顔を出し、ヒロならまだ来てないよ。詰所にいるんじゃないかと言って場所を教えてくれた。言われるままに薄暗い路地の奥へと潜り込むと、モルタル造りの倉庫の外壁に金属の階段がついた建物が見えた。その2階にある事務所が若衆たちの詰所にもなっているから、そこへ行けば誰かしらいるだろうと店番も言っていたし、ヒロでなくとも電球の交換を頼めるだろう。
金属製の外階段は、ユリの足で甲高い音を立てる。窓から漏れる灯りがあるということは、誰か中にいるのだろう。小さくノックすると人の動く気配がして、ヒロが中から扉を開けてくれた。女たちのはたく白粉が甘く香る部屋から来たユリの鼻には、些かきつく感じられる男臭さの立ちこめた玄関先で、事情を話すとあぁ今すぐ行くと言って備品の棚から電球を探り出す。おい、電球ひとつ持ってくよ。在庫減らしておいてと中で小上がりに腰を下ろしている人影に声をかける。シャツの前ボタンを下まではずして、白い肌をのぞかせていたまだ若い男が、左右の合わせを素早く閉じて顔を背けている。見覚えのある後ろ姿を見たユリはかつかつと踵を鳴らして中へ入った。背を向けて小上がりの縁に腰掛けた男の肩に、手を掛け思い切り手前に引き寄せる。
力尽くで表返しにされ、シャツの合わせを押さえた手が緩んだ。なだらかな薄い胸板に赤い痣を散らした肌を覗かせて、潤んだ視線がユリの視線と真正面からぶつかり合う。

「ここで何してるの!?」

自分の放った金切声に一番驚いたのはユリ自身だったかもしれない。
ロクは目の前に立ったユリと、入り口で一切の成り行きを見ていたヒロを突き飛ばして部屋を走り出る。階段を駆け下りる音だけを二人に残して、ロクの姿は瀬ヶ崎楽天地の闇へ呑み込まれていった。



弟とここで何をしていたのか、ユリはヒロに問い詰める。
ロクがこんなところで小銭を稼いでいるなんて。二人きりの家族として、食べていくための営みをこの街に求めたユリは、ロクにきちんと自分の職業を説明したことはない。建前ばかりが飲食店の「女給」として、次々と名前を変えてきた自分が、家の外ではユリと呼ばれる存在であることを、あえて隠しもしないが説明するわけでもなかった。だが自分自身はそういう身の上でも、ロクがヒロを相手に淫売同然の行為をしていたのかと思えば気が狂いそうになる。ヒロはヒロで、まさかロクの姉がユリエだとは思いもせず、他人の空似と片付けていた自分の浅慮に辟易とした顔だ。嵌め殺しのガラス窓がビリビリと鳴りそうな程、ユリの悲鳴が甲高く震えて狭い部屋に響いた。

「私の弟に何をしてるの。陰間の真似事させるなんてやめて頂戴、まだ子供なのよ」
「陰間なんて言いがかりはよせ。あいつは少し前からここに出入りして、俺の下で働いてただけだ。それにもう子供じゃない」
「あなたロクの何だっていうのよ。あの子まだ中学も卒業してないのよ」
「あいつ寄場で一人前の仕事してたんだぜ? いつまでガキ扱いするつもりだ」

二人のやりとりを途切れさせたのは誰かが階段を上がってくる気配で、花苑の斜向かいにある「モンパリ」を担当しているヒロの先輩格の男だった。「花苑の控え室、電球切れてるってよ。すぐ行ってやって」そう言われたヒロは一階へ降りると、倉庫の土間に置かれた脚立を担ぎ、楽天地へと向けて歩き出した。ユリもその後を追うように店へと戻る。脚立を鳴らして歩きながらユリの歩幅に合わせたヒロが「生まれつきなのか」と言うから、ユリは力なく首を左右に振る。

「……子供の頃は喋ってたわ。それが家の中でしか話さなくなって、そのうちに誰とも口を利かなくなったの」
「医者には診せたの」
「あるわけないわ。そんなお金」

あったって、どこへ診せたらいいのかわからないのよ。
カタカタと脚立が鳴らす金属音と、ヒロの足音をついてくるユリの足がぱたりと止まって、俯いた肩が揺らいでいる。片方を脚立に塞がれて残ったもう一方の腕で、ヒロにできることはユリに寄り添って、するりと地に落ちる肩を撫でることくらいが精々だった。



「とにかく店に戻った方がいい。ロクのことは俺が探すから」

ヒロの言う通りだ。店を空けるわけにはいかないユリはロクのことばかりを考えながら、勤めを終え帰宅するがやはり部屋にロクの姿はなく、小さな黒板にも何の書き置きがあるわけでもなかった。ユリは黒板に「探しています。戻ったらここにいて」と書いて家を出る。道端で潰れている酔客を避け、瀬ヶ崎楽天地を隈なく歩いて人影を探すうちに空は白みはじめて、楽天地のゲートで明滅するネオンの灯りも落とされた。人影が消え、鴉ばかりが朝餉を探して路地を歩き回っている。

ユリがまだチヤだった頃。
ロクは子供らしい甲高い声で喋っていた。「ぷうかぷうか、どんどんが来るよ」そう話し、きゃらきゃらと鈴が転がるような声をあげて笑いながら、チンドン屋の後をついて集落を歩き回った。なんの憂いもなく一日が暮れてゆく日々を、当たり前のように過ごしていたあの場所こそが自分の楽天地であったことを、ユリは今こうして瀬ヶ崎楽天地から思い返して確信する。
あの場所を追われたのは自分のせいだ。ロクが話さなくなったのも、自分のせいだ。そう思えばここでこうして知らない男たちに金で買われ、時には痛めつけられるように抱かれているのも、その罰を受けている気がしてくる。その一方でもしかしたら部屋に戻っているかもしれないと思って青雲荘に戻り、誰もいないのを見ては再び外へ出てロクの姿を探す。何度繰り返してもロクを見つけることはできず、疲れ果てた体を引きずって詰所へ行けば、昨日ロクが座っていた同じところにヒロが腰を下ろし、俯いた顔を持ち上げてユリを見上げると「やっぱり戻ってないのか」と言った。

いつもヒロが顔を出す前に来て掃除を済ませ、ここに座って待っていたロクが今日は来ない。競馬場に行った日も、強引に身体を繋ぎ自分の欲を叩きつけた後にも、それまでと変わらず同じようにここへ来ていたものが今日に限って姿を消していることが、ロクの心中を垣間見せる。あの子もうあたしに会いたくないのよと言って項垂れるユリの横で、ヒロは上着を手に取り立ち上がる。だが不意に矢上の「何故お前がそこまでする」という声を思い出して脚が止まった。ユリがロクを探すことに「家族だから」という以上の理由はいらないが、自分は違う。だが理由を探すよりも今はロク自身を探すことが先だ。説明は後からいくらでも追いつける。

「探してやらないと。このままじゃ戻れるものも戻れないよ」

ヒロはそう言って詰所の階段を降りて、明け切った街へと出て行った。
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