キスケと女

文字数 4,921文字

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その女はキスケの前に三度姿を現した。
一度目は駅裏にある割烹料亭「松籟亭」の勝手口で、その板場を任されている男が軒先で立ち話をしていた、その相手だ。キスケはいつもこの辺りの店で板場から出た残飯を貰って歩くのが日課で、キスケのような者と喜んで口をきく者はそれほどいないが、この店の使用人たちは皆キスケを邪険にすることもない。それどころかどうせ捨ててしまう客の食べ残しを、箸の付いていないものは除けておいて、キスケのような者が戸口に立てばそれを包んで与えてくれた。
齢八十にもなるという店の大女将は迷信深くて、門()を邪険にして家運が傾き、挙句火災に見舞われて庄屋が身上潰したという、郷里で語り継がれてきた昔話を心底信じきっているらしかった。使用人にまで説いて聞かせているそうで、おかげで食うにあぶれた自分のような者たちもどうにか飢え死にせずに済んでいると思えば、世間では古くさいと嗤われる昔話もそう悪いもんでもない。

板前と話し込んでいる女は何やら人を探しているとかで、どんなことでもいいから、何か手掛かりになるようなことを知らないかと声をかけたらしかった。
板前からたらい回しにそれを問われて、キスケは自分の住む橋の下へと戻り、同じところで雨露を凌いで暮らす仲間に声をかけてみた。松籟亭で貰ってきた天ぷらを分け振舞えば、皆多少は心に留めてくれたとみえて、三日と経たずに仲間の一人から、漁港近くの磯に廃棄された海女小屋に住みついたらしい若い男のことを教えられた。
その若造を見かけて声をかけたのは、同じく棄てられた漁具小屋を作り替えてヤサにしている路上生活者の男で、若造はいつでもそこにいるという訳でもないらしい。見かけるのは大抵朝で、学生みたいな詰襟を着てやって来る。それから小屋に置いてあるらしい作業着に着がえて出て行く。夕暮れ時には戻ってきて、また服に着替えてどこかへと戻ってゆく。寝泊まりをしている様子はないものの、火の扱いが心配になった男が声をかけると、その若造は『ここで火は使わないから、荷物だけ置かせてください』と手にしたメモ帳に書いて見せ、一緒にタバコを一箱差し出してみせる。手刀で拝まれて聾唖者だと気づいた男は、何か事情があるんだろうと察してささやかな賄賂を受けとったそうだ。

※門付……民俗芸能のひとつ。遊芸人が家屋を尋ね軒先で歌舞音曲などの芸を披露し、家主から施しを受けた。



キスケが松籟亭の板長にその話を教えたのはもう二年ばかり前のことだから、それっきりその話はすっかり忘れていた。だがある時駅裏の繁華街から続く飲食店の並んだ小路で、女の方から声をかけられた。
キスケは驚いて、それから松籟亭の勝手口でお会いしたことがあると言われてようやっと気がついた。ここで小さな酒場を切り盛りしているらしい女が、姐さん被りの手拭いを解きこちらに向かってその節はお世話になりましたと頭を下げ、それでお尋ねの人は見つかりましたかと聞けば、弟をさがしていたんです。あれからいくらも経たないうちに戻ってきたんですが、じきに亡くなってしまってと言って俯いた。
悪いことをきいてしまったと詫びれば小さく首を左右に振って「店のあまり物で悪いけれど、良かったら食べてください」と言って南瓜と小豆のいとこ煮を小さな器に入れてよこしてくれた。

一人でやっている店だから、お惣菜を何品か作り置きしてすぐ出せるようにしているのと言って微笑んで、店の扉の奥から、小さな看板を引っ張り出してくる。「楽天地」という店名を紫に白く抜き出した看板に灯りがともると、女の顔が照らされてふわっと明るくなった。うちのひとが店持たせてくれて、どうにか開店に漕ぎ着けたばかりなの。上手くいくといいんだけどと言うのを聞いて、それじゃあとキスケは懐から角が削れた古い扇子を取り出し「目出度目出度の若松様よ」と喉を鳴らす。瞽女(ごぜ※)をしていた大叔母が人に乞われては歌った祝歌をせめてもの(はなむけ)にと捧げたキスケの声に、近所の店からもちらほらと人の頭が覗きこんで祝儀を恵んでくれた。女は百円札を小さく畳んでキスケの手に握らせて、おじさんに歌ってもらったからきっと繁盛するわと喜んで、腰を屈めて何度も礼を言った。

派手さはないが滋味のある料理と、女のもてなしが人気を呼んだのか、それともキスケの予祝が効いたのか。「楽天地」の評判は上々のようで、通りすがりに夕暮れ過ぎた小路を覗けばあの紫色の看板にあかりが灯り、客が出入りする様が伺えた。


※瞽女……遊芸人。盲目の女性数名で構成された一団で、農閑期に農村を巡り歌と三味線を披露する。


キスケが三度目に女と会ったのはその店の裏口で、何やら風体の良くない男二人に挟まれるようにして、女が棒立ちになっていた。男たちはキスケに気づくと、汚いものを避けるような素振りで肩で風を切り歩み去ってゆく。何ぞあったんですかと尋ねれば、女はいいのよ何でもないわと言って惣菜の残り物を包んでキスケに持たせようとしてくれる。てきぱきと手元を動かしながら「うちのひと、厄介事にまきこまれてるらしくてね」と呟くように言った。
この辺りを仕切っているヤクザの若衆が、女の言う「うちのひと」だということは、噂話が漏れてくる裏道ばかりを歩いているようなキスケの耳にはとっくに入っている。数日前にこの小路でボヤが出て、それもどうやら付け火を疑われる不審火だった。心配したキスケが見舞い方々訪ねればこの有様だ。

「危ないから、店畳んで当分身を隠せなんて言うのよ。……そんな場所、どこにもないのにね」

里へ戻れないのは自分や、同じように路上で暮らす仲間ばかりではない。家を持ち店を持って平穏に暮らしていても、帰る故郷を喪失った身の上はいくらでもいるのだろう。キスケはもう何十年も港や建築現場で働いている。故郷の両親はとうに亡くなり、反りの合わない長兄が継いだ家には跨ぐ敷居も座る場所もない。帰る家も迎える家族もないまま、数年前からは県境の大きな河川に架橋された、その下で雨露を凌ぐ暮らしだ。それでもこうして人のいる場所を歩き回って物乞いをして、屑の山から金目になるものを探し出して集め換金すれば、自分の身ひとつくらいなら養っていける。

姐さんどうか身辺と火の元にはお気をつけて。私らのような者でも見回る事くらいはできる。仲間内に知らせて目配りするよう言いましょうと請けあって、キスケは路地をあとにした。
繁華街の路地裏に細く流れる川を伝っていくと、やがて大きな流れに合流する。その河原に架かる橋の下に、端材を集めて作った小屋がキスケの住処で、他にも数名の男が橋脚にもたれるように小屋を作り日々を営んでいる。今日も貰い物を分け合い、柳小路界隈の不審火についての噂話を聞き集める。どうやら縄張りをめぐるヤクザ者の勢力争いが起きているようだった。


そうして日々を河原で過ごすうちに、十一月も半ばを過ぎれば夜風が沁みるような日も増えた。
僅かなりとも暖を取ろうと手持ちの服を重ね、一斗缶に入れた木端に火を入れて手をかざせば、ひとりまた一人と橋の下の住人たちが寄り集まってくるから、場所を譲り合って火を囲む。ここに住む者たちは皆、分け合えば余り、奪い合えば不足することを知っている。水音と、静かに流れる川のせせらぎの向こうから、ふと小刻みな足音が混じるのが聞こえてきた。誰かが川縁を走る、川砂利を踏み鳴らす音が近づくのに気づいたキスケは振り返った。
一斗缶めがけて駆け込んできたのは気を使わない格好をした女で、キスケの顔を見ると「おじさん!」と叫んだ。いつもは着物に割烹着をつけた姿しか見たことがなかったから、すぐには誰だかわからなかった。だが声は小路にある料理屋「楽天地」の女将で、それから女は裸足だった。

女はキスケが暮らす川沿いに建つ、古い船宿の名前が染め抜かれた浴衣姿で、薄紫に凍えた唇を震わせている。早くこっちへ来て火に当たれと言って場所を開けてやると、一緒に火に当たっていた盲の男が、おやまた誰か来たぞと言って、あんたの連れかいと女に声をかけた。
すっかり日の暮れた川辺は闇に覆われて、橋に灯された微かな照明の灯りだけでは辺りの様子は見えない。だが次第に複数名の足音が聞こえ、そのうちの数名が草陰を探るようにしながら火に向かってくる。焚き火の炎に照らし出されたのはまだ年若くきつい人相をした男たちで、キスケの目には人というより獲物を狩り出そうと藪を這い回る獣にしか見えない。人である証拠のように、男が火を囲んでいるキスケたちに声をかけてきた。

「爺さん、こっちに女ぁ来なかったか」

焚き火を囲む数人は互いに小さく首を動かし顔を見合わせるばかりで、だれも答えようとしない。
口火を切ったのは盲の男で、白く濁った眼球をあらぬ方向へ向けながら、今夜はあんたたちの他に足音はないねと言ったその時、傍の藪ががさがさと音を立てて揺れた。
追手の男が藪を睨んで向かおうとすると、盲の男は「ああ、それは四つ足だ。目開きには人と同じに聞こえるかも知れんがね」そう言い終わらないうちに野良犬が飛び出して走り去ってゆく。
橋の下に並ぶリンゴ箱やがらくたを積み上げて作った小屋に近づくことを忌むように、男は他の手勢に紛れて捜索に戻っていった。
ほう、五人もいるのか。なかなかの大捕物だねと、盲の男は足音だけで人数を判断して、それから小屋に向かってもう良かろうと声をかける。並んだ小屋のひとつから、浴衣姿の女が顔を覗かせ、キスケは自分の持ち物の中から薄汚れた草履を出し、それよりは比較的マシな汚れ方の綿入れ半纏を女の肩に掛けてやった。


よぉ、キスケさん。あんたも隅に置けないね。この綺麗所はどちら様だいと、火に当たっていた四十がらみの男が尋ねるから、柳小路の楽天地の女将さんだと答えると、また別の男が火にかけていたやかんから白湯を注いだ湯呑みを女に手渡して、あぁ、あそこのはどれも旨かったなぁと焦がれるような目を宙に向けた。皆キスケの貰ってくる料理を分け合ったことのある者ばかりで、あの里芋と烏賊の焚き合わせは旨かった、きんぴらの胡麻が擦り胡麻で、品が良くって俺好みだと、口々にその料理を讃え、味を思い出すように闇夜を見上げた。

ふと誰かが柳小路は何やら物騒なことになってるねと話し出せば、近頃破竹の勢いで縄張りを拡大している金輪組と矢上一家の対立を噂しはじめる。あそこは矢上一家のシマだったんじゃないかと誰かが言えば、さっきの男たちに金輪組の手下が混じっていたねと応じる。さっきの獣じみた連中は女将、あんたに用事があるんだねと盲が言うと女はうなだれて、ごめんなさい、ここにいてはご迷惑ですねと応じた声にカチカチと歯がぶつかる音が混じる。体調がすぐれないのだろう、立っていられずにしゃがみ込んだ女を、キスケは支えながら自分の小屋へ連れて行った。汚れた布団の上にせめてものつもりで、洗ったばかりの風呂敷を敷き、もう動けずにうずくまるばかりの女を寝かせると、狭い寝床に女の小さな体がすっぽりと収まった。女が歩いたあとには小さく血溜まりができて、どうやら裸足で河原を走るうちに傷を負ったようだった。キスケはやかんの湯で湿した布で傷を拭い、いつも自分がそうするように土手で取ってきた蓬の汁を血止めに塗った。

「……ごめんなさい」
「なんの。少し休めばようなるでしょう。ここなら追手にも見つかりませんよ」

何か食べるものを探してきますからと言って、キスケが小屋を出ようとすると、女のか細い声が「お願いがあるんです」と訴えた。

「明日、朝になって日が昇ったら、いつか教えてくださった海女小屋へ連れていってもらえませんか。弟らしい人物が出入りしていたっていう、そこへ」

女は熱を出したような赤ら顔で、薄紫の唇から絞り出されるような声をしながら、目は黒く光り強い意志をもってキスケを射抜こうとしている。あれからずいぶん経っているから、今はどうなっているかわかりませんよと言うが、それでもいいからと懇願されて、キスケはそれじゃあ明日の朝までに具合が良くなっていたら、お連れしましょうと請け合った。
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