チヤとマサ

文字数 5,143文字


青物屋の店先にりんごと柿が並ぶのを見て、チヤは迷わずりんごの方を買い求める。
ロクを喪ったのちに来た冬も、また春夏も過ぎて、季節の移り変わりを街に知らせてくれるのは青物屋の軒先ばかりだ。
この頃あまり食欲が湧かず、厨房に立っても料理をすること自体にあまり積極的になれない。とはいえ仕事でありお客さんのためのものだと思えば、どうにかして野菜の皮を剥いたり炊いたり、いつもよりは時間をかけながらでも一品また一品と作り上げる気力も湧く。普段通りなら味見と称してつい食べ過ぎることもあるのに、ここ数日はそんな気も起きずにいた。ただどういうわけかりんごだけは美味しく感じて、それもうらなりの酸味ばかり強いようなものでも、甘いばかりの柿よりむしろそちらを好んで買い求めた。

食欲がふるわなくなるような心配事は、今までだっていつでもチヤのそばにあり、それはほとんど弟のことだったが、そのロクを喪ってからは、ぽっかりと空いた場所をヒロが埋めることになった。
列車に撥ねられてばらばらになってしまったロクの亡骸を、たった一人残された家族として荼毘に付す、その間ずっとヒロは隣にいてくれた。二人きりの小さなお弔いのあと、チヤはかつて父と三人で過ごした寺へ向かい、ロクの遺骨を父のそれと一緒に預けることにした。

瀬ヶ崎楽天地でのシノギから足を洗うと話していたヒロだったが、ロクがいなくなったいま、ここを去る明確な理由は消え失せた。何より手練の一軍から数名まとめて、護送車に詰め込まれたまま崖下に呑まれた矢上の傷心は周囲の想像以上で、みるみる痩せ衰えて目ばかりを爛々と光らせ、その目でヒロを睨みつけては、出遅れたが為にただひとり生き延びたヒロの悪運を呪い、それから有能な手下を一瞬にして失った総領の哀れを見せつけた。残った若衆たちはこのうえ手下を減らすようなことがあれば矢上一家の存亡に関わるとヒロに訴え、当の矢上本人までがヒロに慰留を投げかけ、結局は盃をおろされることになった。
それに対する報いのつもりなのか、矢上はヒロがユリを落籍(ひか)せて自分の元に囲うことにも目を瞑ったし、おまけに自分が持て余していた空き店舗をヒロに宛てがい、バシタに店でもやらせりゃいいと言ってただ同然の値で貸し与えた。そのおかげでチヤは飲食店の並ぶ路地のはずれにある、この小さな店を育てることにかまけていられるのだ。


開店してまもなくの頃、店の裏口に物乞いの姿が見えて、よく見ればそれはロクを探していた時に料理屋の勝手口に現れた老爺で、思わず声をかけたチヤのことをちゃんとおぼえていた。おまけに開店したばかりだと言うと、お祝いだと言って伊勢音頭のくだりを門付けに奉じてくれた。そのおかげかほどなく店は軌道に乗り、チヤより先に客が来て、戸口で店が開くのを待っている日もあるほどになった。

ヒロと二人で喜んだのも束の間、今度はヒロの方が弱りきった顔をして、少しの間店を休んで、里に帰って骨休めでもしてこいと言い出したからたまらない。なぜせっかく客のついたところで休まなければならないのか。毎日のように顔を出してくれる馴染みもできて、ここで休んでしまうとまたやり直しよと、チヤはヒロに言い返した。それに自分には戻れるような故郷はない。それよりヒロの方こそ一度休みをもらって郷へ戻った方がいいに決まっている。

この頃やけに忙しそうにしているのは矢上の信頼が厚い証拠で、それももう以前のような使いっ走りのチンピラとしてではない。周囲から「矢上の腹心」と言われる立場になってからは、かつてのヒロのようなチンピラを連れて仕事をさせたり、小遣いをやったりすることも増えていた。そういう手合いからは「姐さん」と呼ばれるようになったチヤは、まだあどけなさを残したような若衆を見てはロクを思い出し、腹が減っていそうな時はものを食べさせ、ボロを着ていれば小遣いを渡して身綺麗にさせた。そうなると不思議なもので、チヤも矢上を親とした親族の枝のひとつになった気がして、たった一人の家族を喪った自分の孤独と無聊を慰められているようでもある。

今日も戻りの遅いヒロに代わって店にやってくるのは、マサという名の駆け出しで、ロクと同じくらいの年齢と背格好がチヤの気をひく。ヒロもどこか同じ思いでいるようで、何かと重用して可愛がり、自分が忙しくて店に顔を出せない時や帰りが遅くなる時は、決まってマサを使いによこす。チヤはありあわせのもので食事を出してやり、マサが来るということは、今日もヒロは忙しくて帰れないということだと思って悄然とする。うちのひとこのごろ家に寄りつかないのよと呟くようにチヤが言うのを聞いたマサは、口にまだ飯が詰まったまま「姐さん、堪えてつかぁさい。オヤジが肌身離さずなんですよ」と言って頭を下げる。
今や矢上の側近同様のヒロは「弾除けが必要らしい」と苦笑しながらボディーガードのように矢上に付き従い、日毎帰りが遅くなっていた。心配になったチヤがマサに「何かあったの」と尋ねれば、隣がちょっときな臭いんですよと言って、矢上が一家を構える縄張りに隣接する金輪(かなわ)組の名前を出してわずかに眉を顰める。他の客を気にして、マサの声はぐっと低く小さくなった。

「……ずいぶん前の事らしいんですけどね、セメント工場の偉いさんから請け負った仕事の未払いがあるって揉めてんですよ。そしたらあちらさんが金輪組に用心棒(ケツモチ)させるようになったらしくて」



そうこうするうちに店のある路地でボヤ騒ぎが起きた。
店の裏口に誰かが置いたらしい古新聞の束が燃えたが、通りかかった酒屋のご用聞きがすぐに消しとめて大事には至らずに済んでいた。チヤはほっと胸を撫で下ろしたがヒロは益々神経質になり、とうとうチヤに店をしばらく休めと言い出したのだ。
チヤはリンゴを齧りながら、いずれほとぼりの冷めるまで、とりあえず営業時間を短くしようかと考える。今日もそろそろ店に出ようと身支度していると、誰かが玄関を荒っぽく叩いた。戸口に出れば立っていたのはマサだ。あら、どうしたの。お腹空いてるなら店に来れば何か作るわよとチヤが応じると、マサは苛立ち眉間を歪めたままの顔で「宿を取りましたからすぐにそこへ移ってください」と早口で捲くしたてた。

「オヤジが撃たれました。大した傷じゃありませんが、今病院で手当してます」
「うちのひとは」
「無事です。すぐに姐さんを移せって兄貴が」

ヒロの息災を聞いて安心したチヤが、もうすぐ店を開ける時間だから、戻ったら支度するわと言うと、今すぐです。店も休みにしてくださいとマサは強い口調で制した。姐さん、呑気が過ぎます。この間のボヤだって金輪組が裏で糸引いてるんですよと言って、チヤが忘れかけていた名前を口にした。

「狩野原って名前、聞き覚えありませんか。あの男が絡んでると言えば姐さんにもわかるって兄貴が言ってました。港にあるセメント工場の役員です。オヤジとこれ以上揉めるのが面倒になったんでしょう。金輪組を使ってうちを潰しにかかってます。こういう時は細い枝から折られるから気をつけろってオヤジの指示で、皆それぞれ身内を隠してます。姐さんも今すぐ身を隠してください」

狩野原。花苑からユリエを落籍させようとした、あの男だ。
今は店をやめて小料理屋の女将におさまったチヤに、もはや恋心はなくとも募らせるだけの恨みはあるというのか。矢上の一家を片付ける行き掛けの駄賃に、ヒロとチヤまで追い落とすつもりらしい。


チヤはカバンにとりあえず数日分の着替えと身の回り品を詰め込み、昨日買ったばかりのりんごまで入れて部屋を出る。マサのあとをついてゆくと、川の袂にある古びた旅館に案内された。

大正の頃に栄えた温泉街に数軒だけが細々と生き残ったうちのひとつで、古く侘びてはいるものの、手入れされた庭は川を借景にして往時の賑わいを思わせた。通された部屋には濡れ縁があり、そこから庭に出られる作りで、小さな靴脱ぎから配された飛び石が木陰に回り込んでいる。どことなく花苑のママにも似た雰囲気の仲居に、どこに通じてるんですかと尋ねると、川辺に今は使われてない小さな桟橋があって、そこへ出られるんですと教えてくれた。

「昔は川遊びの船がたくさん出ていたそうで。船で宿にお越しになるお客様も多かったもんですから、先々代が船着場を作ったんです。お部屋から直接川に出られるようになってるんですよ」

淹れた煎茶を湯呑みに注いで差し出すと、夕食の時間をいつにしますかと尋ねてくるから、チヤは荷物から持ってきたリンゴを出して仲居に手渡した。食事は要らないから夕食どきにこれを剥いてもらえるかと尋ねると、仲居は心配そうにこれだけでよろしんですかと尋ねる。食事を用意してもらって目の前に並べられても、きっと半分も箸をつけられないだろう。それなら最初からリンゴを齧っている方がいい。

仲居が部屋を出ると急にどっと疲れて、チヤは窓辺に座布団を置き、その横に脇息を置いてもたれかかった。細く開いた窓から、夕食の仕込みをしているらしい匂いが漂ってくる。何かを煮詰める醤油や天ぷら油の匂いが鼻につき、窓を閉めてぐったりと座り込む。
何もせずにいるとロクのことばかり思い巡らせてしまうチヤを、見かねたヒロが「小料理屋をやらないか」と持ちかけてくれて、それからはいつでも店のことばかり考え気忙しく働いていた。それが突然することがない時間の中に放り出されたチヤは、急に自分の体がだるく重たく感じられる。疲れが過ぎているのか目が回るようで、自分の体が脇息にもたれた肘からゆっくりと床板に沈んでゆくようだ。遠くから聞こえる川のせせらぎだけが、チヤの耳を心地よく撫でていく。音に身を任せるうちに日は傾いて、夕暮れが川面を赤く染めた。


手漕ぎの舟で揺られながらゆっくりと川面を下るように、眠りの淵に沈んだチヤを呼び戻したのは廊下からの呼びかけで、ふわふわとした声で返事をすれば引き戸が滑って、盆を手にした仲居が入ってきた。鎌倉彫のぽってりとした盆の上には、切ったリンゴを盛り付けた小皿と、おしぼりが載せられている。座卓に置くと仲居はお茶を淹れながら、ちょっとしたお夜食くらいならご用意できますから、もし何か食べたくなったら帳場にお声がけくださいと気遣ってくれた。
洗面所へ行って用足しをしようと部屋を出ると、配膳のために仲居たちが大きな盆や膳を掲げて廊下を歩き回っている。すれ違った膳から漂う食べ物の匂いが鼻腔を抜けて、胃の腑に落ちた途端肚の底がひくひくと痙攣して、チヤは思わず口元を押さえて手水場に駆け込んだ。ちりちりと喉を焼いて上がってくる胃液を吐き出して、しばらく蹲っているうちにようやく落ち着いて立ち上がれるようになった。

洗面台で口元をすすぎ、そのまま顔まで洗って鏡を見れば、得体の知れない不安に駆られた女がこちらを見ている。だがふとその表情がぽかんとしたものになり、気がつけばそれは確信に変わった。チヤは手櫛で髪を梳き、緩み歪んだ浴衣の襟を直す。
ヒロに会いたい。会って話すことがある。顔を見れば安心できるし、それで覚悟が決まる。ヒロは今頃矢上に付き添って病院にいるのだろうか。今は女の自分が顔を出せるような、生半可な状況ではないことは重々承知だが、それはチヤにとっても同じことだ。マサからヒロに伝えてもらおうかとも思ったが、それではだめだ。自分の口から直接ヒロの耳に入れなければ。

チヤは帳場へ向かい電話を借りると、矢上の事務所へ電話を入れる。うちのひとにすぐ来てほしいとつたえてくれと電話番に言い、部屋へ戻ると剥いてもらったリンゴを食べた。味の濃いものはともかく、白飯くらいならどうだろうか。茶碗に一杯をよそって、梅干しのひとつも載せてもらえれば食べられるかもしれない。いや、食べなければという思いが、リンゴを一口噛み砕くごとに湧いてくる。時間をかけてどうにかリンゴ半分を平らげて、チヤは帳場へと向かう廊下を行く。玄関を通りかかると大きな鎧戸は閉じられ、そのうち一枚に小さく開かれた通用口から、誰かが身を屈めて入り込んできた。ヒロだ。靴を脱いで上がってくるのを待ちきれず、チヤは上がり框の上から土間へ転げ落ちそうになる。土間からチヤを支えたヒロが大丈夫かと言うから、チヤはヒロの耳元に口を寄せて囁いた。

「ややこができたみたい」

ヒロはわずかにぽかんとして、それはまるでついさっき洗面所の鏡で見た、自分の顔と同じに見えたのが可笑しくてチヤの口元が綻んだ。ヒロもつられるように破顔一笑して、そうか。おいでなすったかと言ってチヤのまだ膨れてもいない腹を、手のひらを大きく広げてそっと撫でた。
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