それから

文字数 2,765文字


主人が学校から戻った気配を感じたのか、つまらなそうに寝そべっていたトロがついと立ち上がる。だが、憲之はトロの鼻先を撫でるだけで、リードを手にしてはいない。トロ、散歩はあとでね。そう声をかけて自転車に乗って家を出る。
集落の中心地は郵便局と町役場の出張所が並ぶ交差点で、戦後になって道路が整備されたときに、この交差点に集落で最初の信号機がついた。だからここで育った子供たちは皆、信号機の読み方と正しい道路横断の方法をここで学習する。それほど車の往来があるわけでもないのに、憲之の自転車はきっちり二段階右折を経て、郵便局の反対角にある三栄屋酒店と書かれた店の軒に停められた。

酒屋と言ってもそれほど商店のないこの集落にあっては、商品は酒ばかりではなく、ちょっとした食料品から菓子類、小学生が授業で使う学用品の類まで並べられ、小包みの集荷やDPEの窓口まで引き受ける手広さだ。カウンターの上に据え付けられたテレビを退屈そうに眺めていた店番に、憲之はポケットから出した紙片を広げ、シワを伸ばして差し出す。ああ、はいはい。来てるからちょっと待ってね。店番をしている若い男は、写真現像申し込み用紙の複写を片手に奥へと入っていき、店には憲之とテレビのスピーカーから流れてくる貧弱な音声が残された。

ここ数日ワイドショーの話題はもっぱら衆議院の解散総選挙についてで、数カ月前からの首相のコメントは「当分考えていない」だったが、そのうち「まだしない」になり、いつの間にか「解散も視野に入れる」になり、ついに「国民の信を問う」と言い出すと、そこから先は早かった。
衆議院議長が恭しく、ふくさの中の書面を読み上げ「解散いたします」と宣言し、それを受けたバンザイの歓呼が湧き上がる数日前の議場の様子を、テレビは繰り返し放映している。
議会解散となれば自分たちは立場を失い議場を追われるのに、一体何がそんなにおめでたいのだろうと、ぼんやりとテレビを見て思いながら、憲之は店番の戻りを待った。


画面の中では今後の展望について、二人のアナウンサーが政治コメンテーターという肩書きのついた男性に変わるがわる質問を投げかけている。議席の増減や各党の勢力図に、どんな変容が起こり得るかを予測してまとめたボードを捲るという、動きのない退屈な姿をスタジオのカメラが追う。そこへ割り込むように「プレスセンターから最新の情報が入りました」と前置きして、アシスタントアナウンサーが記事を読み上げた。

「北海四区から出馬予定の狩野原義昭議員ですが、本日体調不良を理由に離党届を提出しました。党本部は先ほど受理した模様です。また出馬の予定も取りやめて政界引退を示唆しました」
「これは、予想以上に健康問題が悪化していた、ということでしょうか」
「そうですね。狩野原議員ですが、先月末に地元の遊説先で体調不良を訴えて、以降の予定をキャンセルしていました。その後は体調不良を理由に休職して、公の場には姿を現していませんでした」
「病状などの詳細は今のところ公表されていませんが、政治活動を続けることが難しいという判断でしょうか」
「そうですね。詳細は続報が待たれるところですが、狩野原議員は北海四区の重鎮でしたから、党としても対応に追われることが予想されます」

狩野原義昭。ロクじいに読んだ新聞の記事にあった議員の名前だ。一緒に柿の葉寿司を食べて、漁を手伝おうかと言った時の、ロクじいの「これは儂の仕事だ」という声を思い返す。もう何年も前にあった遠い過去の出来事のような気がするけれど、実際にはまだ半月にも足りない。

「あーあ、やっぱりダメだったのかなぁ」

投げやりに吐き出される声を背中から浴びて振り返ると、店番が縦長の紙袋を手にテレビの画面を覗き込んでいる。画面を見つめたまま憲之の胸元に紙袋を押し付けてくるから、受け取ってレジカウンターの上に中身を取り出すと、プリントされた写真の束から菜津が微笑みを寄越してきた。一緒に写っているクラスメイトらしい子供たちの表情はみな楽しそうで、背景に写り込んでいる医療機器の物々しさが、ちぐはぐなコントラストをつけている。


「今後どのような影響が予想されますか」
「まず改選後の組閣ですね。閣僚級の議員がひとり減ったということは、今後の政権運営と勢力図に関わります。そのほか党県連の推進している複合型リゾート施設の誘致活動には一定の影響が出そうです」

憲之が写真を確認する間もずっとテレビ画面から目を離さずにいた店番が、相変わらず画面を見つめたままで「狩野原議員、やっぱり調子戻んなかったんだねえ」と言ってから、手だけを憲之の方へ向け「コレがさぁ」と言って小指を立ててかざす。隣町にある救急対応病院の名前を口にしてから、あそこで看護婦やってんだけどさ、と言った。

「この人、声が出せなくなっちゃったらしいよ。
口が痺れて、手足が痺れて、一時は呼吸も怪しかったんだけど何とか持ち堪えて、ほかは全部元に戻ったんだけど、口の痺れだけは戻らなくて、退院する時はほとんど喋れなくなってたんだってさ。五体満足でも声が出せないんじゃあ、国会議員を務めるのは難しいよなぁ」

店番がテレビを見ながらそう話すのを聞き流しながら、憲之は現像済みのフィルムを蛍光灯に透かして菜津の顔を探し、プリントとフィルムを照らし合わせて間違いのないことを確認すると、財布を出して支払いを済ませる。何の病気だかわからないけど、恐ろしい話だねぇ。店番はそう言ってお釣りを手渡した。
プリントとフィルムを紙袋に戻そうとして、憲之は写真の束からトロを写した三枚を見つけた。自分で撮った二枚は椿の枝の下で、うろうろと落ち着かないトロを捉えようとしたからか、ピントが甘くぼやけ気味に写っている。三枚目の写真はトロの隣にしゃがんだ自分も一緒に写っていて、くっきりとしたいい仕上がりになっていた。あの時たまたま居合わせた、役所の上着を着た人が声をかけてくれて、シャッターを押してもらったものだ。だがふと自分の足元に、妙なものが写っているのに気づいた。

……蛇だ。青白く光る蛇のような筋が、藪から這い出て憲之の踵近くに寄っている。
画面に入るほど近くに何かが、それも蛇がいた覚えはないし、もしいたとしても普通ならシャッターを切る人が気づくだろう。だけどあの時、撮ってくれた男性はそんな素振りも見せなかったはずだ。これは一体何なのか。紙焼きする際に何か不手際でもおきたのだろうか。本当に蛇なのか。蛇に見える別のものなのか。

棒立ちになって手元のプリントを凝視している憲之に、店番は世間話の続きでもするような調子で「焼き増しはここに枚数を書いて持ってくればいいからね」と言い、フィルムを入れたビニール袋の縁を指さした。




楽天地 ……おしまい……


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み