ロクとチヤ

文字数 4,117文字


その海女小屋はまだそこにあって、枯れ草に覆われたままの扉は固く閉ざされていた。
チヤはまともに立って歩けないような有様で、それでもキスケに頼み込んでここまで案内してもらい、ようやくロクの元へ辿り着けた気がする。枯れた蔓草で塞がれた扉を開こうと、縋り付くように蔓を掴んで引き剥がすのを見かねたキスケが、着ていた上着を脱いで敷き、ここに座っていなさいと言ってチヤを休ませてくれた。こんなこともあろうかと腰に下げてきた鉈を振い、キスケが枝を払ってくれるのを、チヤは熱でぼやけた視界で見守ることしかできずにいる。やがて出てきた扉をメリメリと鳴らして開くと、中はすっかりがらんどうで、丸めた筵が置いてあるだけだった。キスケは刈り取った枯草を小屋の中へ運び一角に敷き詰めて、その上に筵を広げて簡単な寝床を作る。それからチヤを呼び寄せて、その上に寝かせてくれた。

チヤがヒロを宿に呼んで、子が出来たことを喜び合ったその数日後の夜、夕飯時を過ぎてうとうとしかけたチヤを叩き起こしたのは、誰かが旅館の廊下を走る足音と怒号だった。
細く開けた扉から顔を覗かせると、部屋へ向かって走ってくるのはマサで、チヤと目が合うなり「姐さん逃げて」と大声で叫ぶ。後から追ってきたのは数名の男たちで、マサは部屋に近づけまいとして廊下で踏みとどまり揉み合いになっていた。泳がされ、跡をつけられていたのだろう。ヒロとマサの他には誰にも知られていないはずの、チヤの居場所が露見してしまったのだ。

チヤは何もかもをそのままにして部屋の窓から外へ飛び出した。庭に降り、備え付けてあった下駄を履いて出たものの、走りにくくて音ばかり甲高いそれを履くのはあきらめて途中で脱ぎ捨てた。裸足のままで仲居に教えられた船着場の跡へと出ると、そこから石塀を伝って河原へと走る。
どこへ。どこへ逃げたらいい。自宅も店も張られているから当分ここにいろと言われていた、その宿も追われた。街へ出れば金輪組の息のかかった者がどこにひそんでいるかわからない。捕まれば狩野原に引き渡されて、自分は換金されるだろう。あの男はいつだって欲しいものを金で手に入れてきたではないか。自分が売っていたものはひとときの人肌のつもりが、チヤはいつの間にか金で身柄を取引される対象になっていた。



逃げなければ。自分が捕まればヒロの身にも禍が及ぶ。
おまけに自分はもう一人ではない。二人分の命を抱えているのだ。川辺の石は容赦なく足を刺し、流れに打ち寄せられた瓦礫は罠となって行手を阻む。裸足で走るうちに何かを踏み抜いたのはわかったが、チヤの体は痛みを感じるよりも、よろけながらでも足を止めずにいることを優先させた。

ロク、ロク助けて。
きれぎれの呼吸を繰り返しながらチヤが呼びかけた相手は他の誰でもない弟で、それはロクを喪ってからずっとチヤを支え続けている祈りだ。闇夜を走り続ける視界の端にをふと光を感じ、見上げると秋深まった夜空に冬の星座が浮かんでいる。あのどれかにロクがいて、自分とヒロを見守っているはずだ。気づくと随分低いところにも赤い星のような光が見えた。だがささやかに明滅するそれは星とは違う輝きを放っている。
……炎だ。誰かが河原で火を炊いている。その灯りに吸い寄せられるように走り、火を囲む浮浪者たちの中にキスケの顔を見つけた。

キスケと一緒にいた男たちはチヤのことを小屋に隠し、追手をやり過ごしてくれた。キスケは気分の悪くなったチヤを介抱し、足の傷を手当して自分の寝床まで譲ってくれる。浴衣一枚で川縁を走り続けたチヤは熱も出ているようで、キスケに礼を言おうにも横臥したまま、体を起こすことすらできない。

しばらくここで休むといいと言ってくれたキスケの厚意は嬉しかったが、これ以上の迷惑はかけられない。チヤは自分が金輪組に追われていて、ここにいればきっと皆に迷惑がかかるだろうと伝えた。キスケは黙ってそれを聞くと、声を低くして「このまま橋の下にいれば、今はみつからずともいずれ誰かに密告されるだろう。残念だが、ここにいる皆があなたを売って金にしない保証はどこにもないんです。それに、ここにいるのは私のような年寄りばかりじゃない。欲に身を任せて何をするかわからない者もおる」と言った。
その「男の欲」で稼いできた自分が、キスケの心配を理解するのには数秒も要らなかった。


そうして橋の下を逃れ、海辺の侘び荒んだ廃屋に転がり込んだ。キスケはあとで食べるものを持ってくるからと言い、海女小屋を出てゆく。帰る前に被っていた帽子を脱いでチヤの頭に被せ「女だと知られたら、どんな目に遭うかわからないから用心に越したことはない。外に出るときは髪を隠して、男のように見せなさい」と言った。

湿っぽい筵に伏せったチヤは、ひとりぼんやりと薄目を開けて微睡んでいる。
傷を負った足は力を入れただけで痛み、疲れから来るのだろう熱で視界がぼやけるが、すべてが簾越しのように感じられ、それが今のチヤにとってはむしろ好都合かもしれなかった。潮風が吹きつけてひゅうひゅうと鳴る音も、板塀から漏れる日差しだけが光源の薄暗闇も、この世ではないどこかを眺めているようだ。
ふと物音がして、誰かが扉を叩いているのかと身を固くしたが、よく聞けば音は上から鳴っている。どうやら小屋の屋根をカラスが歩いているらしい。こつこつと乾いた音が降ってくるのを筵から見上げるうちに、屋根を支える梁に何か白いものが載っているのに気がついた。チヤは柱にすがってようやく立ち上がり、キスケが置いていった鉈の鞘を掴んで柄の先で押し上げてみる。何度か繰り返すうちに少しずつずれて、そのうちに一抱えの白いものが地面へと落ちた。……白い布のかたまり。見覚えのある布地の学生鞄だ。

間違いない。ロクが使っていたものだ。
父と三人で集落を出た夜、ロクが自分の身の回り品を詰めて重たそうに肩から下げていたそれの、口を開くと衣類や日用品が出てきた。どこかから貰ってきたのだろう、胸に見知らぬ社章が刺繍された使い古しの作業着と、手首に大きく「ロク」と名前が書かれた軍手が数組。ロクは毎朝ここへ来て、制服から作業着に着替えて日雇い仕事を貰いに行っていたのだろう。
給与が入っていたと思しき茶封筒の束には、三年前の日付が入った明細書まで残されていた。一緒に束ねられた封筒のひとつには「千也姉の分」と書かれ、中には幾らかの現金と日付の古い領収証があり「靴修理代/甲革補修・化粧替え・中敷替え」と細目が書かれている。チヤの靴を修理したときのものだろう。
熱が酷くなってきたのか、寒気を感じたチヤはロクの鞄から出てきた作業着に袖を通した。三年の時を過ぎて埃臭くとも、どこかにロクの温もりを感じて、チヤは剥き出しの梁を見上げ声もなく語りかける。

『ロク、やっとここに来れたわ。……お願い、少し休ませて』

あぁぁという声が屋根から響く。それから微かな羽音を残して烏が飛び去って行った。



それから先のチヤの記憶は途切れ途切れで、食べるものや身の回り品を用立てて運んでくれるキスケの気配でどうにか意識を保っているような有様だった。
ヒロは今どうしているのだろう。夜が明けたら様子を見に店までもどってみようと思いはするものの、翌日になってみれば昨日よりも身体は重く、まっすぐ歩くことすらままならない。翌朝になって意を決したチヤは体を引きずるように小屋を出る。市街へ戻って自分の店へどうにか辿り着いたものの、入り口は戸板を打ち付けられて出入りができないようにされていた。どうやら建物ごと金輪組に押さえられてしまったらしい。もう入ることもできなくなった店を路地の奥から遠巻きに眺めるうちにふと気づけば、矢上が担ぎ込まれたという病院はここからそう遠くない。そこへ行けばヒロが付き添っているかもしれないし、少なくともどこへ行けばヒロに会えるか手掛かりくらいみつかるだろう。そう考えたチヤは病院へと向かった。
這うようにしてたどり着いた病院の、受付にいた人がチヤを見るなり大丈夫ですかと言って車椅子を持ち出してくる。顔はあまりに青白く、紫色の唇が震えているのを急患の来院だと判断したのだ。

違います、うちのひとがここの入院患者の付き添いをしてると聞いたから、会いにきただけなんです。そう言おうとしているのに、自分の口からはしゅうしゅうと吐く息のか細い音しか出ない。しゃがみ込んだチヤを見た看護婦に抱き抱えられるようにして車椅子に腰を下ろせば、途端にチヤの意識は薄れ、それからすぐに診察台に移されたこともまるで気付かなかった。

目覚めると近くにいた看護婦に「今先生呼んできますからね」と声をかけられた。
やがて入ってきた初老の医師が、お腹の赤ん坊は死んでいたから、処置をしておいたという旨を伝えられ、そういえばぼんやりとした意識のうちに、看護婦が銀色の膿盆に載せた何かを運び出しているのを見た気がする。半分液体のような、ぬらりと赤黒い胞衣とも何ともつかない塊。あれが自分とヒロの子だったはずのものなのか。あまりのことに呆然として、それから自分がここへ来た目的を思い返す。

……ヒロに会いたい。会って自分の口で伝えなければ。
振り絞るように身を起こそうとすると、まだ動かない方がいいですと言って看護婦は入院の手配をしますからと告げる。それなら都合がいい。矢上が何号室にいるか調べてもらおう。そこにヒロがいるかもしれない。看護婦に声をかけようとして息を吸えば胎の底はキリキリと痛んで、チヤが声を出すことを阻んでみせる。
その時俄に緊急外来が騒がしくなった。到着した救急車から運び込まれている寝台に貼り付いて、聞き覚えのある声が泣き喚いている。兄貴、兄貴と狂ったような金切声をあげる男を看護婦がお静かにと言って叱りつけ、待合室の場所を教えている。この声が兄貴と呼ぶ人のことを、チヤは一人しか知らない。
マサが振り絞る悲鳴が次第に遠のいてゆく。マサを置き去りにするわけにはいかないのに、自分の体がどこかへ静かに沈んでいくようで、チヤは抗うようにシーツを掴んだまま、生温い薄暗がりに呑み込まれた。
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