第27話(第5章第1節)
文字数 12,423文字
「このあたりか、よく見えないのだが。」
蒔の指示する通りに、透は待ち受ける穴へと鉄棒を挿し入れていった。
人気のない昼下がりの塗り小屋に、二人の息遣いだけが響いている。盆を過ぎるとあっという間に太陽の差す刻限は短くなっていったが、残暑の蒸れた空気が締めきった室内に淀んでいる。
「良い感じです…。」
蒔の眼にもじっとりと熱がこもって来る。
がりっと手ごたえを感じたところで、透は手を離した。
「あ。」
思いを遂げたように蒔は小さく声を出すと、透を見上げてくる。その眼差しに応えて、透も満足げに笑みを浮かべた。
がらりと戸が開いた。
「先端の細工については、だいぶ見当がついたんじゃないのか。」
作業着に付いた木端を払いながら、粂太郎が這入って来る。
「ええ。押し入れるほどに先端が開いていくように切れ込みを入れてみたんです。」
「すっかり慣れたものだな。やはり鉄山の鍛錬の賜物か。」
「みな手伝ってくれるので。おれだけの手柄ではないですよ。」
透は謙遜するが、須弥山儀の中心に挿す鉄輪の制作がここまで首尾よくいくとは思っておらず、快哉を叫んでやりたい気分だった。
福岡で買った鋳型を使い、一から鋳造を試行してみて二か月ほどが経過したが、最初は小屋の中の掃除から始めて、窯を再建し、精錬された鉄を仕入れ、鍛えて、鍛えて…。
鉄山で扱っていた銑鉄と違ってできるだけ純度の高いものを使ったので、温度管理などは透ひとりの手にも賄えるものだったが、鋳型に焼けた金属を流す作業には危険も伴うし、やはり手伝いの手や目は欠かせないものだった。
「ちょうど、おれの方もいいのが出来たよ。見に来てくれ。」
粂太郎に誘われて、隣の木地小屋へと移動する。こちらも閑散として轆轤を回す木地師たちの気配はない。
「みな、山に行っているのか。」
「毎年のことです。盛漆の最後ですから、掻き取った後で、一気に実を取りに行くんです。藩政時代は盛岡や福岡からも武家や人足がおおぜいやってきていたんですが。」
「殺し掻きで実はもう採らないからな。」
粂太郎が彼の顔の印象を決めるその太い眉の形を歪めてそっけなく言った。
「それでも砂屋は、出来る限りは蝋作りを続けるつもりだって、姉さんは。」
蒔が気を取り直すように言った。
(姉御か。無事でよかったが。)
二か月前の五日市で滴が透の腕の中で喪神したあと、三光屋の手の者は親切に宿まで連れ帰ってくれただけでなく、浄法寺まで担ぎ帰る人足を手配し、透と交替で四里の道を遡上するまで目を配ってくれた。驚いて迎えた粂太郎や蒔に対して三光屋の家人は、「なんの、大事がなくてよかった。しばらくは大人しく養生なさることです。」と言い残して去って行った。
(暗に余計なことはするなと釘をさしていったとも言えるが。)
正体を取り戻した滴は相変わらず賑やかに指示を飛ばしているようだが、自分で動くことは控えるようになったという。しばらくは朱夏がそうした采配の伝令役のようなことをしていたが、最近になって滴の部屋の間借りを止めて、屋敷からも出て行ったようだった。それで今は、天台寺の庫裡に起居しているらしい。
盛漆の掻き取りで遅くなることも多く、妊婦の体調を気遣って退いたとも見えるし、天台寺の空気が余程気に入ったとも見える。そのあたりの機微を朱夏に聞くと、「あんたらが雑魚寝をしているのに、わたしだけ贔屓をされているようで気が引けるからね。」とだけ言っていた。多分それも本当なのだろうが、それだけではない事情があるのかもしれない。石段の上に所在する天台寺を駆け下りて、また山を登って砂屋の漆林まで通うのは、距離的にも心理的にも遠ざかることになり、毎日の生活が大変になるだろう。
(まあ、あいつがそれでいいなら、おれがなにか言うことではないが。)
「さて、これだ。」
粂太郎が掛けていた布を払うと両手を広げる。
「わあ、これは。」
蒔が昂奮したようにその台座へと駆け寄った。ぺたぺたと表面の手触りを確かめている。
太鼓のような円柱形の土台の上に、四海の波立ちを模式的に図したように、麻布が襞を作っている表面が、円形の枠をはみ出さずに象りながら、透の腕のひと抱え以上の大きさで坐している。
「ずいぶん大きいな。」
巨木を細工しなければならないほどの大きさは見たことがなかったので素直に驚嘆した。近づいて熟覧すれば、縦横の糸がきめ細かく織られた隙間に下地が塗されただけの出来たてと見えた。
「襞の凹面をどう繋ぐか、苦心したよ。」
二人の反応を見て、粂太郎が会心の息を吐いている。
「麦を使ったんだ。」
「へえ、そりゃまた贅沢だな。」
透漆に麦を混ぜて接着剤とする。ここに来た当初はこうした高価な原料の景気のよい使い方に反感にも似た感情を抱いたこともあったが、段々と感覚が慣れてしまったようだ。
「しかし、柔らかい布地に鉄棒を挿し入れても、型崩れをしないのか。」
「漆を塗れば問題ありませんよ。木地よりも丈夫なくらいです。」
蒔が答える。
「これで、台座は出来た。鉄棒も出来た。あとは、塗りだな。」
粂太郎があとは任せた、といった風情で蒔の方を向いた。
「色か。」
透たちがここに来た当初から蒔が悩んでいた問題、それが朱漆の赤をどのように出すかということだった。天台寺の僧侶たちが手を引くと決めていったんは頓挫したかに見えたが、朱夏や檀家たちの意思もあって、ここまで漕ぎ着けた。
須弥山儀が表現したい世界観とやらはよくわからないが、弁柄を顔料として出す赤では清澄さが足りないという。曼荼羅を読み解いている朱夏がそう教えてくれた。それは蒔が先代の天台寺の住職から聞いていた話とも一致するらしい。
「やっぱり鹿角へ、行かなければならないですね。」
蒔が窓の外を眺めながら呟いた。集落を押し潰すように迫る山並みの斜面の、その向こう側を見とおそうとする視線だった。
弁柄よりも明るい赤。それは蒔の憧れる正倉院の宝物に知恵が秘められている。奈良の椀物の多くは今でも、
「鹿角に行けば、辰砂が採れるのか。」
「分かりません。昔は少しばかり採掘していたと聞いているのですが、最近はどこもかしこも鉄を採っていますから、わざわざ人手をかけて採るほどのものと思われているのかどうか。」
「鹿角はもともと南部領だったが、戊辰のいくさに負けて、久保田の領地になっちまったからな。行き来するのも面倒だ。」
粂太郎が頷いた。
そういう時こそ、豊和のような行商人をうまく使って、以前夜光貝や鼈甲を調達した時のように辰砂の詮索ができれば良いのだが、豊和も含めて、あるともしれない高価な原料を託すほど信用のおける商人は最近ではめっきり姿を見せなくなってしまっている。
とはいえ、ここまで工夫を重ねて制作を進めてきた須弥山儀に、満足のいく朱色が塗れなければ画竜点睛を欠くとみなが考えていた。
「今晩、姉さんに相談してみます。」
蒔が思い切ったように言うのを粂太郎は顎を掻きながら聞いて、
「いいかもな。透、おまえもついて行ってやれよ。」と持ち出した。
「え。ふたりでか。」
「ぞろぞろ行っても仕方ないだろう。肝煎りの通行証があれば県境は越えられるだろうけど、あまり大勢になると睨まれかねないからな。」
「しかし、いいのか。」
動揺するように蒔の方を見ると、蒔の方も上目づかいに透の方を見ているのと、視線が交差した。
「わたしは、そんなつもりではなかったのですが、でもそれなら心強いです。」と顔を赤らめている。
「だからそれも含めて滴に相談するんだろ。おまえも後で滴の部屋に行けばいい。」
「鉄棒も目処がついて、今日はゆっくり休みたいと思っていたところだけどな。」
そっけない口調を装ってみたが、心は裏腹に沸き立っていた。
(蒔と二人で、鹿角にか。)
「だったらとりあえず鉄棒のこと、おまえの口から滴に報告してやればいい。あいつも楽しみにしているからな。」
粂太郎はなぜかしつこかった。だが透にはそれは大いに心地よかった。
「分かった。じゃあひとっ風呂浴びたら、母屋へ行くよ。」
「お待ちしています。」
蒔は目をそらすと、先にさっさと母屋へと帰ってしまった。
先代の座主が起居したと見える庫裡の書斎を、朱夏は拝借することにした。ここには三陸の月顕寺にあったのと同じように、紙や筆が幾ばくか仕舞われている。寂景の手によって整理されたときに、こうした僅かな資産が中尊寺に引き上げられることなく残されたのは、朱夏にとって幸いだった。
「桃源郷なるかと我はその山里の情景をとらえり。」
「我の育ちたる断崖の郷に川は見えず、かくのごとき川ある里の美しきを知らず。」
「鉄の染みたる味する海こそ我の育ちたる情景なれば。」
「ゆえ、川ある里の香り立ちたるは桃の実の熟すがごとくなり。」
(・・・ああ、まどろっこしいな。)
どうして文章を書くときには、話すように書いてはいけないのだろう。月顕寺の宗門帳や鉄山の帳簿ばかりに腕を振るってきた朱夏は、自分は決めごとに従って文字を並べるのは得意だと思っていた。だが、いざ無機質な記録ではなく、天台寺や、浄法寺の里の情景を自由に生き生きと描写しようとすると、どうにも筆が進まない。
「里より少し離れたる川の対岸の山腹に古刹あり。天台寺と呼ぶ。」
「古刹の神木は桂なり。またその根には泉が湧けり。」
「ううん。」
だからどうしたのだ、という文章しか書けず、朱夏は頭を抱えて一人で唸った。
「朱夏、入るよ。」
表で
ゆう
の声がしたので、顔を上げて筆を置いた。「茸を採ってきた。適当に火を通して食べると良いよ。」
籠を抱えて手拭いを被った女が障子戸を滑らせた。朱夏は振り返り、ありがとうと返事をした。
須弥山儀を作らないのか、作ろうと朱夏に進言してくれた檀家の娘である。天台寺に移り住みたいと朱夏が求めたとき、「そこまでしてもらわずとも」と遠慮した風を見せながら、暗によそ者を警戒し、余計な手間を増やすなと渋る檀家たちの中で、ゆうは味方に立ってくれた。
「観音さまのお世話をすると言いながら、結局わたしたちはできていないじゃないか。」
中尊寺から来ると言っていた兼務座主が見回りに来る気配すら見せない中で、流れ者とは言っても現実的に天台寺の再興に心を寄せ、仏の管理をする労働力は確かに必要だっただろう。
だがゆうはそれだけではなく、何事かも定まらないようなことをして机にかじりついている朱夏を訝しむこともせずに、こうして差し入れをして気遣ってくれもする。
「茸狩りをしていたら、背の高い男を見かけたんだけど。」
向かい合って茶を飲みながら一服していると、ゆうがそんなことを言った。
かちゃかちゃと音をさせながら天台寺の神木の森を闊歩していたというその男の風貌には、朱夏は覚えがあった。
朱夏は首を左右に傾けて肩を揉み、そばに置いた新聞を取り上げて目を落とした。
「何か、書いてあるの。」
文字の読めないゆうが、男に関係があるのか、と尋ねてくる。
「新政府が地租を課すという話を、この間福岡の代官所へ行ったときに聞いたのですが、夏の間に、国内での廃藩置県が完了して、ようやくその準備が出来たと。」
「それじゃ、入会ができなくされていくってこと。」
「国中の土地が、誰かのものとして管理されることになる。砂屋の立場で見れば、木地師の連中に山を荒らされないですむようになる。天台寺の立場で見れば、曖昧な手順で召し上げられていたようになっていた山を、取り返す機会になるでしょうか。今度の測地もそのための一手になるかもしれません。」
朱夏は予定されている測地について、ゆうに説明してやった。
「今より却ってぎすぎすしたことにならないといいけどね。」
確かに、代官所が前向きに話を進めていると聞いて、そんな感想をもつのは無理もない。役人が嬉々として進める話にろくなものはないからだ。
もともとそのことで滴に相談をしようと思って、晩にでも砂屋に顔を出そうと思っていた。
今度の測地には朱夏が
それで最近は、山の中を歩き、境界が分かるように植えられた
「大男というのは、おそらく旗屋の食客の風陣という者でしょう。官民境界の確定だけならば旗屋の入る筋合いはないはずなのですが、この間は連判状をとりまとめて、嘴を入れようと色々と企んでいるようです。」
「それじゃあ、様子を見に行くかい。さっきの場所まで案内するよ。」
腰を浮かせたゆうに釣られて朱夏もその気になりかけたが、今から山に入っても、もう風陣はとっくに立ち去っているような気がした。
「いえ、行ってどうなるものでもないでしょうから、勝手にさせておきましょう。」
投げつけるようにして新聞を床に置いた。
「朱夏、この絵は。」
ゆうがその新聞の一面を指し示した。達磨だか大黒だか分からない人間が腹のあたりを押さえて苦しんでいるような絵図だった。
「置き薬か何かですか。商品を宣伝しているようですね。」
朱夏は広告の文字を読んでやった。
「新聞の配布はひろくされていますから、ここに書いておけば色々な人に伝わるきっかけになる。その代わり新聞社は銭を取るということでしょう。」
「そう書いてあるんだ。読み書きが出来ると、便利だろうね。」
ゆうが感嘆したように言った。
「ええまあ。でも善し悪しかも知れません。気に入る文章が書けずに悩むこともありますし、色々と面倒な仕事を頼まれてしまうこともありますから。」
滴に何くれとなく指示をされるのは、頼りにされているという手応えもあるが、家族の悩み事を引き受けさせられているような重圧もあった。
「それは贅沢な悩みだよ。わたしらも煙草づくりだけやって、たまに殿様が来たときにお世話をしていれば済んでいたけど、世の中がそれだけじゃあ駄目なように変わってきているのはなんとなく分かる。」
「読み書きを、学びたいということですか。」
「わたしはもういいかもしれないけれど、妹たちや、これから子どもなんかもできたらさ。朱夏、教えてやってよ。」
「わたしが教えるのですか。」
意外なことを言われた気がしたが、よく考えると満更冗談と言うこともない。既に自分が、先達から学ぶばかりの年齢ではなくなり始めていることに気づかされた。
鉄山で、読み書きが出来たことによって掛屋に取り立てられた。それによって山に木を切りに入っていた慶二たちと分断されて気持ちが離れてしまったような苦々しさを感じたことを思い出した。あのときは自分の置かれた立場を説明できない事情があったが、今、父の書物を読んで得た知識を思い出したり、天台寺の景色を観て感じたままを文字にしたりして伝えることで、より多くの人々と心を通わせることができる、そんな可能性を感じて、思わず照れ笑いをした。
「せっかくがらんどうになった寺があるんだから、ここで教えてくれよ。まずはお経を読もう。ありがたいお経を、先代さまは分かりやすく教えてくれたけど、やっぱり自分の力で読むことで、仏の教えに近づけるんじゃないかな。」
「いや、読めると言うことと中身を分かると言うことは、全然違いますよ。そんなに何でもかんでも期待しないでください。」
そう言いながらも朱夏はすでに、あれこれと伝えたいことを構想し始めていた。
(信仰は、人の数だけある。本当にそうだ。)
そして様々な人の信仰や考え方に触れることで、思っても見なかった方向に自分の思考や行動までも影響を受ける。それは本当に楽しいことだと朱夏は思った。
透が襖を開けると、滴は布団から半身を起して新聞を読んでいた。
「珍しいね、あんたが独りで来るのは。」
「加減はどうだ、姉御。」
「寝てる方が楽だね。自分がこんなになるとは、情けないよ。」
「女は大変だな。しかし、あと何か月かの我慢なんだろう。」
「えらく優しいじゃないか。」
滴は嬉しそうに言った。いたわられる側の身になって、素直にいたわられるということが少なかったのかもしれない。もっと夫の粂太郎に甘えればいいのだと思うが、木地師の腕に曇りを持たせたくないのだろうか。
「須弥山儀の鉄棒だが、上手くいったよ。」
「ああ、さっきとうちゃんから聞いたよ。良かったじゃないか。わざわざそれを言いに来てくれたのかい。」
「いや、おれは付き添いで。」
蒔の方が先に来ていると思ったので、特に話すことも考えていなかった。あっという間に場が持たなくなってしまって、もぞもぞと動いていると、どたどたと廊下を歩く音が聞こえてきて、ようやく蒔が来たと思った。
「開けるぞ。」
透は滴に目で了解をもらって、中から襖を開けると廊下に首を出した。
「透じゃないか。」
奥向きの蒔の室の方を向いて出した顔の、反対側から声をかけられた。
振り返ると朱夏が塩昆布をかじりながら立っている。
「どうしたんだい、朱夏。まあ入りなよ。」
部屋の中から滴が呼びかける。朱夏は塩のついた手を払うと中に入り、透の隣に腰を下ろした。毎日山に入るうちに肌はこんがりと焼け、手指の先は黒く節くれだって、すっかり漆掻き職人の顔になっている。
「天台寺はどうだい。」
滴が尋ねる。少し前までは朱夏もこの室に起居していたはずだが、今は天台寺に移っている。今日は滴に呼び出されたのだろうか、久々に出戻ってきたような格好になっている。
「檀家の方々が面倒を見てくれて、意外と快適ですよ。本堂も庫裡も、まだまだ手を入れるところがありますから、時間がいくらあっても足りないかな。」
「毎日漆林に通うのは大変じゃないのか。」
透も思わず口を挟んだ。
「それはそうだけどね。」
朱夏が笑うと、白い歯が黒く焼けた顔と対照的に輝いて見えた。
「天台寺の四季折々の景色を文章に書いたり、歌を詠んだりしてみたらどうかなと思ってるんだ。」
「歌なんか詠めるのか。」
透は驚いて言ったが、朱夏の漢籍の素養は今までの交流の中で良く知っている。別段不思議でもないな、と思い直した。
「そろそろ測地だからね。」
滴の言葉に、朱夏は頷いた。入会地の境界の話か。朱夏はここにきて半年もたたないうちに、すっかり信頼を得るほどの働きぶりのようで、改めて舌を巻いた。
「図面が整ってきたので、目を通して貰おうと思ったのですが・・・」
「はやいね。助かるよ。」
滴は畳んだ紙を朱夏から受け取ると、にやりと笑みをこぼした。
そうした滴の計るような視線を、しかし朱夏は正面から見返すのを避けているような違和感があった。
福岡の宿屋で朱夏と二人で話した時、透は思わず内心の深いところを曝してしまった。そのことは後悔していないし、朱夏に話が出来て良かったとも思った。
しかし同時にあのときは、自分の知らない所で滴と蒔の姉妹と、朱夏との間の関係が、一筋縄ではいかないものになっていることにおぼろげながらも気付き始める機会となった。
朱夏からは、「あんたとわたしは何でもないと、蒔どのに伝えるんだね。」と助言を受けたが、そんなことを自分の口から上手く伝える技巧を自分は持っていない。そう思って打ち遣ったままに何か月も過ぎてしまっている。それに、一緒になって須弥山儀を作るときに、そうした話題を出すきっかけなど表れてこないのだ。
翻って滴と朱夏。あまり考えたことはなかったが、同室に起居しているたのだから話をする機会も多かっただろうし、考え方も似てきて、仲は良いのだろうと気楽に想像していた。いまの言外のやりとりは何だったのだろうか。
朱夏は頭が良い。少なくとも人を見抜く力は自分よりも優れているのだろう。度胸もある。鉄山では散々に助けられた。だが下手に知識が豊かなせいで、あれこれと考え込んで、現状を一歩引いて眺めるようなところがある。滴には、それが物足りないのかもしれない。
「姉さん。」
室の外から蒔の声がして、返事も待たずに襖が滑らされる。このあたりの息は姉妹のものである。
蒔はそこに朱夏が居るのを見つけて一瞬目を丸くしたが、すぐに無表情に戻った。
「透、もう来ていたのですか。」
「あ、ああ。」
蒔も風呂に入ったのだろうか。薄い夜の着物の隙間から白い肌が露出して艶めかしい。帯に差した匂い袋から、透が嗅いだ事のない良い匂いがした。
「今日は、何かお話があるのですか。測地の話は、また出直してきましょうか。」
朱夏が首をかしげて言った。賑やかに透や蒔が現れて、どうしたことかと困惑しているのだろう。別に酒宴を開こうという雰囲気でもない。
「いや、別に構わないだろ、蒔。透と一緒に来たってことは、須弥山儀の話かな。それなら、朱夏だって満更場違いってことはないさ。」
話を振られた蒔は、朱夏を無視するように宙を睨んでいたが、次第に目の焦点を滴へと合わせて、須弥山儀の完成が近付いていること、画竜点睛のために鹿角へ行きたいといった話を淡々と説明した。
「透と二人で、行ってこようと思うのだけれど。」
そのことを表明する時だけ、肩に力が入っていたような気がした。
朱夏は黙って後ろ髪を掻きながら話を聞いている。
「ばば様のところに行くのかい。」
滴が一言応じた。
「そのつもりです。」
「ん、縁者がいるのか。」
透は尋ねた。それは初耳だった。
「ええ。おっ母がいなくなってからすっかり足が遠のいてしまいましたけれど。そういえば、明治になってからこちらは、一度も行っていませんね。」
「山桑の椀、持って行くんだろ。」
「うん、ようやく渡せるね。」
(くだんのあの椀か…。大事にしていたのは、祖母上に渡すためだったということか。)
透は蒔を背に乗せて浄法寺街道を馬で駆けたことを思い出した。
「しかし、そんな家におれがのこのこと行って泊めてもらうわけにいくのか。別に宿を取った方がいいのだろうか。」
「いえ、ばば様の宅は、そう広くはないですが、二人や三人でいって足を延ばすくらいの余裕は確か…」
蒔はそこまで言って、初めて気づいたように黙り込んだ。
「確かあの家は一間で、間仕切りも何もあったもんじゃないからね。確かにあんたのいうように、何かと差し障りがあるかもしれない。かといって鉄山に人が大勢来ている状況じゃ、宿なんてとれないだろうさ。」
「だったら、冬になるまで待つか。それなら、鉄山の人も少しは減るんじゃないのか。」
「だめですよ。雪が降り始めれば、鹿角までの行き来は難渋することになりますし、第一行ったところで丹を分けてくれないか、なんて頼めるような行商人たちと会う機会も多くはとれないでしょう。」
「それなら、わたしが同行しましょうか。いえ、同行させてください。」
朱夏が腕組みをして身体を左右に揺らした。
(なるほど、それもありか。)
それなら、家人を道連れにして来た、という位置づけがはっきりとし、気兼ねの必要が薄くなる。それに若い娘の旅ならば、世話をする女の連れが要る場面も生じるだろう。二人で行くという高揚の梯子を外されたようで拍子抜けしたが、それはそれで緊張せずにすむか、となぜかほっとするところもあった。
だが蒔は見るからに不愉快そうな表情をしている。
「姉さん。ばば様はそんなことをうるさく言う方ではないはずです。須弥山儀の素材の話なのだから、塗り小屋の者だけで行けば十分です。」
「わたしは、もし許されるならぜひご一緒したいです。至らぬ身ですが、身の回りの役には立てると思います。」
滴が何か言うより早く、朱夏が率先して売り込みを始めたのは意外だった。
「うん。」
髪を逆立てた蒔を鎮める様に滴は唸った。
「まあ良いんじゃないかな。朱夏、蒔のことを頼むよ。」
滴もまた、朱夏の強い調子にやや困惑したようだったが、結局はその申し出を容れて、結果的に場をとりなした。蒔は仕方なさそうに目を伏せた。
透はその時、滴の目が憂いを帯びていることに気がついた。
この目である。この姉御は口も達者だが、ときどきそれ以上に饒舌に目で語る。
朱夏のことを蒔よりも気の合う妹分として親しく面倒を見、期待した役割を果たすよう求めながらも、もっと複雑な何かを秘め隠しているような眼差しだった。
だが朱夏は、それに動じることなく、涼しい顔で室内の三人の様子に等しい度合いで目を配っている。
「ありがとうございます。遅くなりましたのでこれで。」
「すまなかったね。図面には、目を通しておくよ。」
透もまた、三者三様に喜怒哀楽を浮かべる女たちの顔色を計っていた。
鹿角行きの話がついた後で、滴は「ちょっと、話がある」と蒔を室に残らせた。
透は、見送りはいらないという朱夏に無理やり追いすがるように、一緒に天台寺までの道を歩いた。
「そうはいうけどな。夜は獣も出て危ないだろう。」
照れ隠しに言うと、朱夏は目を丸くして、そのあとで声をあげて笑った。そんなにおかしなことを言っただろうか。
川沿いの道は暗く涼しく、叢からはりりりと虫の音が聞こえる。
「おまえが、自分から鹿角に行きたいなんて言うとは、意外だったよ。」
「蒔どのと二人が良かった?」
朱夏は先程とは変わって、表情豊かに透の方を見ている。
「からかうなよ。」
少し沈黙が流れる。
「毎日山から山を渡っているだけじゃ飽きてくるだろう。たまには旅をしてみたくなったっていいだろう。」
「なんだよ。さっきは忙しそうなことを言ってたじゃないか。」
朱夏は天台寺へ引っ越し、忙しく仏事に没頭していると勝手に考えていた。だからと言って別に俗世と縁を切ったわけではないが、なんとなく自分の欲望をはっきりと物申す態度は、朱夏にはそぐわないような気がした。
「そういうことにしといた方がいいんだ。」
朱夏は謎のようなことを独りごつ。
「おまえ、まさか姉御と仲違して出て行ったのか。」
透は心配になって訊いてみた。
「そうじゃないよ。なぜ。」
「さっきの雰囲気を見ているとな。おまえ、蒔にはずいぶん目の敵にされてるし、姉御はそれを分かってないのか。なにか嫌なことでもあったのか。」
「そうじゃないよ。むしろ逆だ。お寺にいるのが、やっぱりわたしには楽しいんだよ。三陸にいたときから、すっかり線香の匂いが染みついてしまったかな。」
朱夏は、いったんはそう言って否定したが、
「でも、そうだね。砂屋ではわたしはなんだか、いまだに馴染めないでいるようだよ。きっと、わたしを使いこなそうとして、でも女をうまく家に囲い込む方法が分からないんじゃないかな。」
「囲い込む、というのがよく分からないが。砂屋の仕事をする以上、それに専心するのは当然だろう。」
やはり翻って暗に透の不審を認めるようなことを言うので、焦ってしまった。
しかし、家人として働くということなら、朱夏は既に人並み以上に働いているのではないのか。
「滴の姉御は、粂太郎どのを婿に迎えて、砂屋の職人として囲い込んだ。そしていまあんたを囲い込もうとしている。」
「なんだって。」
益々訳が分からない。
「鉄棒を完成させたんだろう。夏に福岡に行った時、姉御はそれをあんたに期待していた。」
「そんな話を、あの時もおまえとしたかもな。」
「だったらひとまず及第と言うところ。だけどまだ蒔どのと二人で旅の道中に出すまでには至っていない。」
「おまえ、よく見てるんだな。」
複雑な気分だった。確かに鉄棒を完成させたことで、砂屋に貢献できたような歓びは感じていた。だがそれによってすぐに蒔とどうこうなろうと考えているわけではない。まずは須弥山儀を無事に完成させて、そうしてからゆっくりと考えればよい話であって…。
「それは、ずっと同じ部屋に住んでたからね。姉御以上に、わたしの頭は姉御のようになってしまったかもしれない。だけど、わたしはわたしだ。」
透は困惑した。朱夏はこのような斜に構えた言葉を連ねる娘ではなかったと思う。滴とはまた違った形でさっぱりとしているし、内心の思索は深くても、それを言葉にするときは端的に必要なことだけを放ち、こういった拗ねた感情を込めることはなかっただろう。
(いや、あのときはそうだったか。)
一緒に鉄山から逃げる時、早池峰神楽を聞いているときの朱夏は、希望を見失って世を拗ねて自暴自棄な態度をとっていた。
だが今、朱夏の世界は、すでにこの砂屋のみに留まらずに広がっている。滴が家人を司る立場として、砂屋の事業への忠勤を求めるのにも義理立てしながら、朱夏はそればかりではなく天台寺の四季に心を移し、その営みに寄り添って表現することに意義を見いだしつつあるように見える。
たった今の話も、どこまでが朱夏の本音だったのか、明確には分からなかった。
鉄山に居た時は、この娘が男だった時には。そんなふうに感じたことはなかった。だがそれは男同士の関係と、男女の関係が質的に異なっていることの投影なのか、単にふたりをとりまく環境が変わったからなのか。
「ここまででいいよ。これ以上奥まで来ると、あんたも帰るのが遅くなる。」
安比川にかかる橋のところまで来た時、朱夏は別れの言葉を告げて山の中へと消えていった。人の気配が消えると急に、川の流れる音が大きく聞こえ始め、暗がりの中で見えないその流れが朱夏と自分との間を隔てる淵となっているような、奇妙な妄想にとらわれてしまった。