第6話(第1章第4節)

文字数 15,514文字

「久保田へ行くのに、なんで国見峠をいかんかったんか。」
「そりゃあれだろ、仙台様と南北から挟み撃ちにする心算だったんだろ。」
「まあ済んだことをいうても仕方ないわ。」
「殿様はどうなるんじゃ。」
「まさか殺されはせんだろう。」
 その年の秋から冬にかけて、南部領内のどの村もこうした話題でもちきりだった。海岸沿いの防備をしていた男たちが次々に村に戻ってくるのと同時に、役人たちが忙しく村を訪れ、肝煎りの旦那衆と何か相談をしては何日か逗留して、また帰って行った。その中には、西国の侍たちだろうか、風貌や話し方が盛岡や仙台とは異なる者たちも多くいた。
 朱夏は今日も月顕寺に詣でていたが、嶺得はどこかに行って、寺は無人だった。帰る途中、石段の下にいた見かけない男たちが、境内の方を指さして話していた。村の男になにやら尋ねている。不吉な感じがして、家路を急いだ。
 家に帰ると慶二が来ており、床から半身を起こした母と雑談していた。母の塩梅は、今日はかなり快いようだ。
「うちのおっ母が、持ってけって。」
 朱夏に気づいて慶二が指さしたところには、大根が二、三本置いてあった。
「悪いね。」
「いいさ、うちのおっ母は、朱夏に親切にしていれば兄ぃが帰ってくると思ってるんだよ。こっちこそ付き合ってくれてありがとう。」
「おっ母に滋養の付くものを食べさせてあげたいから、ほんとにありがたいよ。」
 朱夏は溜めてあった水で軽く足を洗いながら礼を言った。
「今日はしごとはないのかい。」
 自分を待っていたのかと思って訊いてみた。
「ここんところひっきりなしに侍が出入りしていて、旦那様方も漁どころじゃないみたいだね。」
「しかし働かなければ、みな食べていけないだろう。」
「うん、そうなんだけど、しばらくはご視察の付き添いとか、身の回りの世話とか、なにかと人手がいるらしい。」
「なにをご視察しているのか知らないけど、迷惑な話だよ。」
 朱夏は月顕寺の下で見かけた冷酷な雰囲気の連中のことを思い出した。
「おれもしごとをしていればそっちに気をとられるけど、家にいておっ母といると色々と考えちまって・・・おっ母は兄ぃのことを考え過ぎて、ちょっとへんになってしまったのかもしれないよ。」
「はは殿のこと、しっかり支えてさしあげなされ。」
 朱夏の母の小枝はそう言って慶二を諭した。
「はい、ただどうにも中途半端で。戦地に送られたと言っても最前線にいたわけでもないだろうに、生きているのやら死んだのやら。」
 それは朱夏も考えていたことだった。オシラサマを撫でながら床につき、いつも考えていた。春一の両親は牛方や五十集商いなど盛岡に出入りしている連中が村に来ると、誰彼となく息子の消息を尋ねていたが、詳しく知っている者はいなかった。
 ただ戦況についてのはなしを総合してみると、南部藩は仙台藩に味方して薩長軍と敵対し、相手方についていた隣の久保田藩に侵攻したらしい。春一は盛岡に出たあと、その軍勢の後方部隊についていたのではないだろうか。南部軍は鹿角(かづの)から大館(おおだて)に向かったところで久保田軍に迎え撃たれ、結局敗走したというのである。
 春一は無事に逃げられたのだろうか。
「盛岡に留め置かれているのかも。」朱夏は気休めを言った。
「だけど無事に逃げ帰った者たちはみなもうおのおのの村まで帰っているというよ。どの村も貴重な男手をもってかれてるんだから、いつまでも盛岡に留め置かれていたら不満も出るだろうさ。怪我で動けないにしても、言づてか便りくらいは寄越すだろう。いまになっても帰ってこないってのは・・・」
 慶二は冷静である。もう何度も、あらゆる可能性を考えたのだろう。仲のよかった兄弟なのに、無理をしているのではないかと思ったが、
(はやくどこかで、踏ん切りをつけないと仕方ない。)
 冷たいようだが、どこかで諦めないといけないことだと朱夏も考えていた。侍のいくさに巻き込まれてこんなことになったのは憎いが、出稼ぎや奉公に行って帰ってこない者も多い中で、誰かが行方知れずになることはそう珍しくはなかった。
「朱夏だって、新しい相手を見つけないといけないだろう。」
「そんなことはどうでもいいよ。」苛立った声で返した。
「ごめん。だけど朱夏が新しい相手を見つければ、おっ母も諦めがつくかも知れない。」
「やめてって!」朱夏は思わず声を荒らげた。
 若者組の男たちは、春一が行方知れずになってしばらくは朱夏を気遣っていたが、だんだんとくだらない話をかけたり、娘宿から連れ出そうとする者が多くなってきていた。朱夏はそれが嫌だった。春一のあのぬくもり、あの匂い、力強さ。それは他の男によって与えられるものでは決してないと感じていた。
(それはわたし自身も、踏ん切りがついていないということなのだろう。)
 朱夏が大きな声を出したので、母は驚いてしまったようだ。身を横たえると、「母はもう寝るで。」といって眼を閉じてしまった。朱夏は麻布を敷き直してやったが、何か声を掛けてやる心の余裕はなかった。
「それよりなんか、煙たいねえ、朱夏、見てきておくれ。」
 母が眼を閉じながら言った。
「たき火じゃないの・・・」と呟いて応えたが、
「いや、落ち葉の燃える匂いじゃないよ。」
 慶二が腰を浮かせて、低い声で言った。
「妙だよ朱夏。見に行こう。」
 わらじを履き直して、外へ出た。煙は下の方から来ているようだった。二人は浜の方へと下っていった。

 浜につくと人だかりが出来ていた。その向こうに朱夏は信じられないものを見た。
(月顕寺が燃えてる!!)
 隣の慶二を見ると、眼をまん丸く見開いている。人だかりを押しのけて前へ出る。
「朱夏っ!」
 慶二も追いかけようとするが、身体が大きくて難儀しているようだ。朱夏は構わず進んだ。
 石段を登ろうとすると後ろから村の者たちが、
「巻き込まれるぞ!」
「侍たちが来とる!」
 と後ろから声を掛けてくる。
(侍? どういうことだ。それより和尚様は。)
 石段へ。嶺得はどうしたのだ。無事なのか。
 石段を登る間、しばし寺の姿は死角になるが、煙の匂いはますます強くなる。朱夏は袖で口元を覆いながら駆け上がった。
 登り切ると、境内の様子がよく見えた。燃えているのは庫裡だ。それに境内の至る所に火が焚かれている。顔の知らない男たちが駆け回っている。
 朱夏は息を整えながら、男たちに交じって消火を手伝おうと焦った。はやく火を消さないと、本堂へ燃え移ってしまう。本堂へ目を移すと、裏手から出てくる嶺得の姿が見えた。
「和尚様!」
 叫びながら呼びかけると、男たちが一斉にこちらへ振り向いた。幾人かはこちらに向かってくる。「たれじゃ!」と鋭く誰何されて朱夏は思わず身を強ばらせた。
 嶺得が直ぐに「寺を手伝うとる娘じゃ!」と叫ぶ。
 男たちは朱夏の全身をねめつけてから、「邪魔立てをするなよ。」と言ってまた火のそばへ戻っていく。
(なんだ、この雰囲気は。)
 男たちは火を消しているのではないのか。嶺得の方へ近づくことも出来ずにただ事態を眺めていると、嶺得の後ろから木箱を抱えた、学者風の男たちが出てきた。
 彼らは「このくらいでいいでしょう。」といって、木箱の中身をあらためると、無造作に火の中に放り込んだ。
(経典を、燃やしている!?)
 再び、信じられないものを見ていた。男たちは消火しているのではなかった。彼らこそが火をつけたのだ。
「な、なにをなさっているのですか!?」
 朱夏は金縛りが解けたように踏み出して、男たちを止めようとしたが、
「邪魔立てをするなと申したはずだ!」
 と胴を掴まれ、後ろに強く投げ飛ばされた。
 さいかちの木の幹にしたたかに身体をぶつけ、上から葉や実が落ちてきた。
「朱夏よ、あらそうな!」
 嶺得の声が聞こえる。
 ぐったりとしながら顔を上げると、男たちは経典だけでなく、木の仏像までも火の中に入れようとしている。
(何のためにこんなことを。)
 かすむ意識で考えた。それに、嶺得はなぜこんな無法を黙って見ているのだ。
 だがその嶺得も、男たちが次なる木箱に手を掛けようとするのには抵抗して、
「宗門帳に手を出すのはやめよ! 村の者たちの生きた証ぞ!」
 と叫んでいるのが見えた。
「やかましい坊主! こんなものは村方が持っておれば良いのであって、坊主風情が偉そうに管理するものではないわ! どうせ、銭儲けの帳面としか思っていないのであろう!」
 朱夏は頭に血が上った。嶺得は飲んだくれとからかわれているが、決して檀家から銭を取り上げて贅沢な暮らしをしていたわけではない。
 他の村の僧たちにはそういう暮らしをしている者たちも居るかも知れないが、嶺得は決してそんなあくどいことはしていなかった。それは寺の手伝いをしていた朱夏が一番よく知っている。
 泣き叫ぼうとしたが意識が遠のいて何も言えなかった。
 庫裡の火がさいかちの木に燃え移り、上から火の粉と煙が降ってきた。
「逃げよ、朱夏っ。」
 嶺得がこちらに走り寄ってくるのが見えたところで、意識を失った。

 月顕寺が燃えてから数日後、朱夏は母に、塗り終わった鉄瓶を釜屋に納めに行くよう言いつけられて山手の道を歩いていた。
 無残に燃え尽きた月顕寺が嫌でも眼に入ってしまうので、浜辺を歩くつもりはなかった。
 あの日朱夏は、気づくと本堂の中に寝かされていた。月顕寺に残されたのはすっかり閑散と広くなった本堂だけで、それ以外は全て燃え尽きてしまった。
 朱夏も労を注いで字を書いた宗門帳は、嶺得が守ってくれようとしたが、結局全て燃やされてしまった。正確には知らないが、嶺得が和尚になる前も含めて、百年分以上があったはずだ。朱夏は自分の一部が焼かれたような気持ちになった。
「髪が焦げとるな。」といって、嶺得がふところから取り出した小刀で朱夏の髪を切ってくれた。わらしの頃のような長さになった。
 水を一杯飲んで顔を洗ってから、慶二に肩を借りつつ家に帰った。その日以来嶺得には会っていない。
(それにしても、以前は足繁く受け取りに来たくせに、おっ母の身体が悪くなると、寄りつきもしないのか。)
 朱夏は歩きながら心の中で釜屋に毒づいた。しばらくは名子(なご)(旦那衆に使われる家人(けにん))を遣わして受け取りに来ることもあったが、このところは塗り終わった鉄瓶を朱夏が釜屋まで持って行っている。といっても、もう母は大した量を塗っているわけではないので、さして重労働というわけでもない。ただ釜屋に近づかなければならないということが不愉快だった。朱夏はふところから干した昆布を取り出して噛みしめた。
 釜石の本村にある釜屋の店は、生け垣の中の敷地に、いくつもの蔵に囲まれた母屋がずっしりと据わっている。いつもは勝手門から入って、家人に塗り終わった鉄瓶を渡し、手間賃とともに新しい鉄瓶と漆を受け取って帰っていたが、今日は正面に釜屋本人が番頭とともに出てきていた。肥えた身体は富の象徴だろうか。慶二のような若やいだ肉ではなく、なにか松やにの油を発するような印象を与える体躯の男である。釜屋は朱夏に気づくと、
「朱夏か。ご苦労。」
 と言って鉄瓶を受け取って横にいる番頭にそのまま渡した。
「次の注文と今回の銭は改めてそちらに渡しに行くようにするがな。」
「注文はいいですけど、手間賃はいまいただけないですか。」
 母に野菜でも持って帰ってやりたかったのだが、
「いまそれどころではないのだ。早めに持って行くようにするから許せ。」
 と邪険に扱われた。そこに、母屋から一人の男が出てきて、
「では近々また参りますので、お話はよく考えておいてください。」
 と釜屋に話しかけている。客が来ていたようだ。朱夏は踵を返しかけたが、
「ありゃ、どっかで見た顔だな。」と後ろから話しかけられて振り返った。
「村の娘ですが、知り合いですか?」と釜屋が応えているが、
「娘? 女ですか。」
 男は意外そうな顔をしている。朱夏の髪が短いので、一見年頃の娘には見えなかったようだ。
「三陸の娘って言うのは、ほう、なるほど。」
 男は朱夏の体つきを見ながらぶつぶつと呟いている。何か無礼なことを言われているような気がしたが、確かに朱夏の方も男の顔に見覚えがあった。
「いや、女と聞いて思い出したよ。何年か前に、山の中で会ったな。」
 男がにやりと言った。
「さん、三、ちゃん・・・?」
 朱夏は記憶を辿りながら言った。
「ちゃん付けで覚えてくれていたか。いや、あの時は助かったよ。」
 あの時。つまり朱夏が春一と一緒に山の中で手当をしてやった男か。確か獣の皮を上着にして、いかにも旅の者という雰囲気だったが、いま目の前に居るのはきちんと冬の羽織を着こなしたすらりとした男である。眼の光には油断できないものがあるが、まず好青年といってよいだろう。
「しかしいまはお上を相手の仕事をしていてな。面子もあるので、しっかり横山どの、とでも呼んでくれよ。」と三池は言った。
「よく分からんが、お知り合いならちょうど良かった。朱夏よ、横山どのを月顕寺までお連れしてくれ。」
 釜屋が横から朱夏に命じた。月顕寺と聞いて朱夏の心は騒いだ。
「寺は燃えましたが、何のご用があるのですか。」
「和尚にご用があるのじゃ。堂に居なさるじゃろ。さあ早く。」
 有無を言わさず追い立てられた。

「そんなたいそうな苗字の持ち主だとは知らなかった。」
 三池と並んで浜を歩きながら朱夏はわざとらしく言って見せた。
「横山三池。と、そう聞くとたいそうなお侍のようだが、昔おまえと山で会ったときのおれが本当のおれだよ。」
(世間師、と言っていたかな。)
 そう返されて朱夏は思い出した。
「請負師というか、やっていることは口入屋に近いな。」
 呪わしい響きだった。あの時盗賊宿のおやじに、娼街へ売り飛ばすとからかわれてぶるぶると震えてしまった。人身売買の仕事である。
「そういえばおまえあの時、二、三年経てばもう少しいい女になるとか値踏みされてたが、うーん、そんなに変わってないな。」
 また何か無礼なことを言われているが、朱夏は聞こえないふりをした。
「男のほうはどうしたんだ、元気か。春一だっけ。やさ男だったな。」
「春一はこないだのいくさで盛岡に行って帰ってこない。」
 ぶっきらぼうに事実だけ答えた。
「ほう、そりゃ悪かったな。しかしここらの百姓が盛岡に行くってのは珍しいな。久保田へ行かされたのはマタギの連中が中心だったと思っていたが。」
「そんなもんなの。知らないけどさ。」
「なんだ、口の利き方まで男のようなやつだな。」
「見えてきたよ。」
 朱夏は遮るように言った。
 高台にある月顕寺は遠くからでもよく見える。焼け落ちた後の月顕寺を見るのは初めてだったが、伽藍が十全であった頃に浜を見守る霊験を思わせて頼もしかった姿は、今や海風の通り抜ける痛々しい姿を衆目に曝しているようで、朱夏はまともに眼を向けることが出来なかった。
 わずかの間に、朱夏は大切なものをいくつも喪ったことを改めて認識した。
 石段を登り、堂内に三池を導いた。空っぽの堂内に嶺得は胡座をかいて酒を飲んでいた。だいぶ酔っているようだが、日頃からよく飲んでいるこの和尚は、酔ったからと言って正体をなくすということはない。
 とはいえ、さすがにこたえているようだった。少し見ない間に、髪や髭に白いものが一気に増えたようだ。焼け残ったさいかちの実を手元で弄んでいる。
「ここもえらくやられたようですな、和尚。」
 三池は気軽に言った。あまりの気軽さに嶺得も言い返す気力もないようだった。
「ここも、ってことは他の村でも同じようなことがあったの。」朱夏は尋ねた。
「どこもかしこもさ。」三池は訳知り顔で言った。
「どなたですかな。」
「釜屋のお客の横山どの。和尚様にご用があるらしい。」朱夏が答えた。
「他の村じゃ、僧たちもめちゃくちゃに殴られたり蹴られたりして痛々しい連中が多かったが、和尚は意外にお元気そうですね。」
 三池がにやにやと話しかける。
「わしは抵抗しなかったからな。」
 嶺得は苦々しそうに答えた。そう、朱夏はあの日、なぜ嶺得が抵抗しなかったのかが疑問だった。
「あの日、侍や、侍の連れてきた学者の連中が寺に来て、これからは天子様が直接世を治める。天子様は神であるから、この国のひとびとはみな天子様を崇めることになる。ついては仏に関するものは全て破却しなければならない、というようなことを居丈高に言い捨てて、堂内を漁り始めた。」
「それで、経典や仏像を燃やし始めたの。なぜ抵抗しなかったの。」
 朱夏は憤りをぶつけるように言い募った。嶺得自身が憔悴しているときに、ぶつける相手が間違っていることは承知の上で、しかしそれを聞く必要があると感じた。
「信仰はものがなくてもできるさ。真に信じられる人間がそばにおれば、難局にあってもその者と語らって乗り越えることが出来る。経典や仏像なんてものは形だけに過ぎない。信仰の助けとなるものではあるが、信仰それ自体ではないのだ。焼かれたならまた作れば良いだけなのだよ。」
(とにかく不安な心にどう寄り添うかということが、宗教のありかたということか。)
 朱夏にもわかりかけてきた。
「だから、信仰には様々な形があってよいはずなのだ。神を信じる者がいれば、仏に救いを見る者がいても良いだろう。救済へ至る道は、人の数だけある。」
 嶺得は続ける。三池も無表情に耳を傾けている。
「だが、そうした繋がりが無い者にとって、仏との繋がりと、それを表した仏像というものは大切な心の拠り所にもなる。」
 嶺得にも噛みしめる何かがあるようだった。朱夏に語っているのか、自分に言い聞かせているのか。春一と別れてからオシラサマに縋っていた朱夏にはよく分かる話だった。そういえばオシラサマの着物は、三池がくれたものだった。
「だったら、人の数だけある信仰のかたちを全部一緒くたに考えて、信仰のかたちを押しつけるなんてことは、よくないことなんじゃないの。」
 朱夏の強い口調に嶺得は、
「その通りだ・・・」と呟く。
 その通りだと感じながら、しかし力及ばず侍たちに経典や仏像を明け渡したことを、この和尚は悔いているのだろう。
「その学者風の連中ってのは、国学者でしょうね。」
 三池が口を挟んだ。
「彼らは古来日本の伝統文化を勝手に組み替えた仏教というものを蛇蝎のごとく憎んでいますから。ここぞとばかりに寺を攻撃したんでしょう。」
 そういえば、寺の奥から経典を引っ張り出してきて嬉しそうに火にくべる細身の男たちがいたことを朱夏は思い出した。
「それに、寺は宗門帳を使って檀家を管理し、銭を取り上げて私腹を肥やす悪僧の巣窟だとか思われていましたし、新しい政府も、百姓を管理するしごとは自分たちだけで独占したいでしょう。」
 それも侍たちが言っていた。朱夏はまた頭に血が上ってきた。結局自分たちの利益や都合で、彼らは朱夏の大切な場所、大切なものを焼いたのか。
「宗門帳は・・・確かにあの侍たちの言うように、檀家を縛り付ける呪符だともいえるかも知れんが、これは決して再び正確に作り直すことはできない。村はあのときをもって、ここで生きてきた人々の、暮らしの記憶を喪ってしまったのだ。」
 嶺得が本当に哀しそうに言った。
(記憶を喪う・・・)
 昔のことが分からなくなると言うこと、それは確かに哀しいことなのかも知れない。
「いやいや、とはいえ他の村じゃ、日頃から檀家を締め付けていて、檀家たちからも暴行されてしまった僧もいますからね。和尚の人徳が分かりますよ。」
 軽薄な口調だが、世間師のひとを見る眼は確かなようだ。朱夏はあの夜、霞む意識の中で嶺得を弁護した自分の声を、少しだけ三池が代弁してくれて嬉しかった。
 それにしても、三池の言葉はひとつひとつ、あの日の光景や男たちの言葉を裏付ける説得力に富んでいた。この男はなぜ、そんなに事情に詳しいのだろうか。
「さて、そろそろ私の話も聞いて貰えますかな、和尚。」
 三池が言いながら、朱夏の方に目を向けた。先ほどから話を始める機を伺っていたようだ。嶺得は頷くと、
「朱夏。」と席を外すよう促した。
 朱夏は黙って堂を出たが、伽藍堂(がらんどう)になった堂内には声が反響し、壁に耳をつければ充分会話を聞き取ることができた。
「朝からこのあたりの村々を回って、旦那衆のみなさんとも話をしてきたんですが、鉄山(てつざん)に人を出していただきたいんですよ。」
「人夫集めですか。しかし旦那衆と話をしても、自分から名子(なご)を手放す者はおらんでしょう。貧乏している村の者に直接当たられたらいかがか。」
「それが、今度の依頼人は、お上でして。」
「橋野ですか。」
 嶺得は思い当たることがあるようだった。
「その通り。それぞれの村から、四、五人ずつ程も出していただきたいと。それが出来ない場合には、代わりに税負担をせよ、ということです。」
「なるほど、連座制があるから、旦那衆も人ごとではないわな。」
 つまり個人経営の鉄山に貧しい者が流れるのではなく、藩営の鉄山に村の賦役として人を出す必要があると言うことか。朱夏にもようやく話の流れが見えてきた。昆布を取り出してかじりながら考えてみたが、しかしそれが嶺得和尚とどのように関係するかがよく分からない。
「橋野では十年ほど前から、これまでのようなたたら式ではなくて、西洋式の高炉とやらを使った最新の製鉄を行っているわけですが、今年の六月から少し新しい事業を始めているようでしてね。あまり品のよくない人夫ではなくて、働き盛りの百姓たちが求められているんですよ。」
「働き盛りの男といっても、ここらの村に漁師の他にそんな者どもは大しておらんぞ。五人もとられれば漁の規模も小さくなるし、旦那衆も考えあぐねておるじゃろうな。」
「そこですよ。」
 三池の声色が変わった。
「さっき釜屋の旦那にお話にいったところ、月顕寺の和尚に話をしておくように、と言われました。先日寺が燃えて、ちょうど帳面の整理をしておる頃合いだろうと。」
「・・・」
 嶺得は黙っている。朱夏にはそれがどういう繋がるのか分からなかったが、
「帳面を、誤魔化せということですかな。」
 嶺得の冷たい声が聞こえた。
「わたしは、そんなことはひと言も言っていません。ただ、徴発に応じた者は、鉄山に行ってもわたしが責任を持って面倒をみさせていただきます、ということはお約束いたしますよ。まあ税を払って鉄山の経営にお役立てるという方法もありますし、また改めてお答えを伺いに来ます。」
 言いたいことは言い切った、という感じで三池が立ち上がろうとする音が聞こえて朱夏は慌てて壁から耳を離したが、
「横山殿、少し手伝ってくだされ。わしはどうも、萎えてしまって。」
 と言って、嶺得の方が先に堂の外へ出てきた。
 外に目を向けると、庫裡の柱や梁は灰になっており、黒焦げになった鉄片や紙片が境内のあちらこちらに散らばっているのが改めて目につく。
 嶺得は境内のあちこちをうろつきながら何かを探していたが、「ここにしよう。」と言って三池と朱夏を招き寄せた。
「ここを掘ってくだされ。羽織のかたに恐れ入るが・・・」
 嶺得の手には一つだけ燃え残っていたさいかちの実が握られている。これを三池の掘った穴に植え直した。
「経典も仏像も作り直せば良い、建物は新しいのを建て、木は植え直せば良い。」
 嶺得は独りごちた。
「人の心も暮らしも、時間をかければ元通りになる。それは元通りにするためには時間がかかる、とも言えるかな・・・」
(でも私は忘れないよ。大切なものを喪ったことを。)
 朱夏は心の中で反論した。
 三池は黙って頭を下げると、石段を下って消えていった。

「また人手をとられるの?」
 堂に戻って、嶺得の手から徳利を取り上げながら朱夏は訊いた。寺が燃えた後、自分も気持ちが一杯になってここには寄りつけなかったが、嶺得にも話す相手が必要なのかも知れないと思った。
「なんじゃ聞いておったか。まあおまえなら聞いておると思ったが。」
 嶺得は苦笑いして言った。外の風に当たって、少しは酔いも覚めたようだ。
「橋野の鉄山って、すぐそこだよね。」
「そう。だが村との交流はあまりない。」
 三陸地方はもともと国内でも随一の磁鉄鉱の産地であり、砂鉄を精錬するたたら製鉄は藩からも奨励されて各地で商人による鉱山経営が興され、村民たちも重要な産業として価値を認めていた。
 そして、朱夏のまだ幼かった安政の頃、釜石から遠野へ至る街道の北側の山の奥に、近代的な製鉄所が建てられて操業を始めた。この製鉄所は江戸や長崎で洋式製鉄を学んだ小松川という南部藩士が試験的に創業したが、出荷先として見込んでいた水戸藩の反射炉が藩主の失脚により停止したことで経営に行き詰まり、まもなく藩営化された。
 鉄山で働くことについて、農業や漁業に従事する百姓たちは必ずしも良い印象を抱いておらず、
「罪人の行くところじゃ。」
「百姓は土地にしがみついてなんぼじゃ。」
「鞭で打たれながら、重い石を運ばにゃならん。」
 といった考え方が常識だった。実際に民営の鉄山は、侍たちによる統治とは異なる、特別な法によって山主の意向に順じた規律がなされ、一般社会に居られない連中の駆け込み場所のようになっていた。
 たたら製鉄の経営者たちも高賃銀をちらつかせながら、借金で首の回らなくなった百姓たちを半ば脅すようにして鉄山の人夫として集めていたが、鉄需要は年によって乱高下し、需要の小さい年には満足に賃銀すら支払われない。ただ働きをすることを「鉄山稼ぎ」と呼ぶくらいであった。こうしたこれまでの民間経営者が苦心した人夫集めに、南部藩もいま直面して、権力による徴発を行うことにしたらしい。
「だが元はと言えば、嘉永の大一揆も強引な徴発への反発が直接的な原因になったのだったが・・・盛岡の役人たちはもうそれを忘れたのだろうかな。」
 こうした情勢について朱夏に説明しながら、嶺得は眉を寄せた。
「さん・・・横山殿は、何を言いに来たの。よく意味が分からなかったけど。」
「重税を避けるためには、多少条件に合わなくても人数を揃えた方が良い、という忠告じゃろう。つまり、この寺の宗門帳は燃えてしまったが、肝煎りの旦那衆のところにはまだ人別帳が残っておる。年が明けたら二つの帳面の照合をするわけだが、そのときに条件に合うように書き換えをすれば・・・」
「寺請証書を誤魔化すってことね。」
「そうだな。寺の発行する証書で、養子でもつくるか、年齢を書き換えるか・・・。とはいってもわしに知恵を出せと言うよりは、人別帳を旦那衆たちで勝手に書き換えるが、よろしく頼むというほどの話であろう。」
 ようやく朱夏にも合点がいった。
「ところで、あの男、もとから知り合いなのか。妙に馴れ馴れしいようだったが。」
 怪訝な顔で訊かれた。
「あ、うん。むかし春一と山に行ったとき、怪我しているのに会って、手当てしてやったことがある。」
 そうなのだ。三池の顔を見ると、どうしても春一のことを思い出してつらくなってしまう。どこに行ったのか分からない春一。帰りを待ち続ける慶二や両親、朱夏に早く忘れろと責め立てる若者衆たち・・・。自分が春一と夫婦になれば、一人前に稼いで、母を安心させてやることもできたのだろうか。しかしそれはもはや叶わない想像なのだろうか・・・。
(夫婦。夫婦になりたかったのか。私は。)
 朱夏は初めて思い至った。一人前になるためには夫を持たなければならなかったのか。それが父を知らない朱夏にとって、心の欠落を埋めることとなり、母を養うための資格を得る途だったのか。
 そう気づいたときに、同時にその途がすでに閉ざされているような暗い気持ちにもなった。村の若者たちの誰かと夫婦になればよいのか。しかし、自分の一部を明け渡し、代わりに相手の一部を受け取るような、そんな関係を春一以外の男と持てるとは、朱夏は思えなかった。
「でも、だったら、あたしが行ってもいいわけだよね。」
 思わず口をついた。嶺得はぽかんとしているが、
「あたしが行くよ。鉄山に。あたしが男になればいいんだろ。」
「いや、おまえ。」
「あたしは、春一になる。」
 今思いついた。口にすると、それが一番良い方法のように思えてきて、次々に頭の中に言葉が浮かんできた。
「春一が死んだという証書はまだ書いていないんだよ。春一のおっ母は、まだ帰りを待ってるからね。でも、もうそろそろ踏ん切りをつけないといけないさ。春一が死んだという証書を書くのがつらいなら、あたしが春一として生きていけば良い。春一は鉄山に働きに出たことにするんだよ。そして、小枝の娘朱夏は死んだという証書を書いて、人別帳を書き換えて・・・」
 矢継ぎ早に訴える朱夏に対して嶺得は「待て待て」と両手を出して、
「朱夏、おまえの言っておることはめちゃくちゃじゃ。女が鉄山に行って何の仕事をするというのだ。そりゃ、飯炊き婆や、砕鉱女どもは居るかも知れんさ。しかし今求められているのは、険しい岩山から鉱石を切り出し、深い森に入って木を切り倒す男どものことぞ。それが女に勤まるか。」と必死に止めようとする。
「第一、おまえの母者のことはどうするのだ。おまえが居なくなれば、弱った母者がひとり残されることになるぞ。」
 朱夏は言い返されたことを咀嚼した。嶺得の言うことはもっともである。爪をさすりながらじっと考えていたが、思い切ったように、
「女に勤まるか、ということは、さっき横山殿が答えを言ってくれたんじゃないかな。責任を持って、面倒を見てくれると。きっとそれほどひどい働き方にはならないよ。」
 これには嶺得も渋々頷いた。確かに、幼年の者や年配の者を出す場合でも、同じことが問題になる。その際、役人側に配慮してもらう必要がどうしてもあるだろう。横山三池という男にどれほどの権限が与えられているのか分からないが、そのことは旦那衆たちにしっかりと釘を刺しておいてもらわねばならない。
「それと・・・」と朱夏は居住まいを正して、
「おっ母を、釜屋に引き取って貰えるように話をつけて欲しい。」
 朱夏はようやく、母の気持ちが分かった気がした。
「本当は、もっと早くそうした方がよかったんだよ。でもおっ母は、あたしが惨めにならないように・・・」
 涙があふれてきた。
 釜屋の屋敷に離れでも建ててもらって、そこに住めば、もっと良い暮らしも出来ただろう。しかし母は、生きていくためにみずからの女を明け渡しながらも、鉄瓶のしごとを通じて、釜屋とは職業上のつきあいだという建前を守ったのだ。病が進行して、釜屋に見放されつつある今が、引き取ってもらう最後の機会なのではないかと朱夏は思った。
 嶺得は朱夏をじっと見つめながら、鼻をすすり口ひげをこすっている。
「おっ母が守ったおっ父の書物は、和尚様が引き取って、大切に守って欲しい。その代わり、藩からの前借り銀は、春一の両親と、釜屋と、それから和尚様でいいように分けてくれて良いよ。」
「・・・分かった。母者のことは、確かにおまえの言うとおりかもしれん。」
 嶺得は静かに、しかし決意するように呟いた。
「しかし、つらければすぐに戻ってくるが良い。わしに銀を分かつというてくれるが、酒より他に使う当てもない身じゃ。お前のために残しておいてやる。」
「そんなことはいいよ。寺の修理にも、支度が要るだろう。」
「そうは言うが・・・」
「ほんとうにいいんだよ。だけど、その代わり。和尚の作った塩昆布、ときどき橋野まで送ってくれないかな。」
 朱夏は笑って言った。
「なるほどな。わしの干した塩昆布が、おまえの好物だ。」
 和尚もまた、何かの熱にうかされているようだった。

 嶺得はすぐに話をつけてくれた。もとより重税を逃れられる旦那衆に異論があるはずもなく、また釜屋も最初は渋っていたが、前借り銀を渡すことを伝えると最後には頷いたようだ。
 母には朱夏が一人で伝えた。驚いたようだったが、「この世は、上手いこと出来とる。」と言って、受け容れてくれた。朱夏を守り養うために、家を分けて囲われた。稼ぎの主体が母から朱夏へと移った今、母は自分が足手まといになっているという思いを持っていたのかも知れない。
 決してそんなことはない、と朱夏は思った。
「鉄山は山の上じゃ、ここよりも寒い。身体に気をつけよ。母はゆっくりと休ませてもらうわ。」
 夫を喪って十五年以上、一人で娘を育てた女の誇りを、朱夏は改めて知った。
 春一の両親には、嶺得と朱夏の二人で談判に行った。彼らも驚いていたが、彦七は、きくの容態を安定させるために、春一が鉄山に行ったという話に落ち着かせるのは良いかも知れないと賛成してくれた。
 年が明けてから、人別帳を管理する肝煎りの旦那の屋敷に、嶺得、朱夏、彦七、慶二が集って書き換えを行った。
「朱夏、おまえが書け。」
 嶺得は初めて朱夏に筆を渡したときと同じように言った。
 朱夏は筆を受け取ると、朱墨をたっぷりと含ませ、人別帳の自分の名前の上に大きく×を書いた。
「ううう、兄ぃちゃん・・・、ううおおおぉ!」
 隣で慶二が慟哭した。母を気遣って気丈に振る舞い、冷静な口調で兄の死を語っていた慶二は、いま紙の上で朱夏が死ぬことによって初めて、春一がいなくなったという事実を確かめたのだろう。彦七が涙を浮かべながら慶二の肩を叩いている。
 嶺得は「では」と人別帳をとると、
「あと残りの者を、誰を出すか考えねばなりませんな。」
 と言って、控えていた旦那に渡した。
「三月にはもう雪下ろしをして、全藩から人夫が集まってくるらしい。準備の時間を考えると、もう余り時間がありませんぞ。」
 嶺得の言葉に旦那は頷いて、
「時代が変わっても、百姓は搾り取られるばかりじゃ。」と愚痴を言っている。
(時代とはなんだろうか。)
 ただよく分からないままに朱夏から色々なものを奪い取っていったその時代というものは、しかし目に見える形で理解できるわけではなかった。
(鉄山に行けば、分かるだろうか。)
 洋式の高炉とはどういうものか。盛岡の役人たちと話せば分かるだろうか。
 待ち受ける運命に、自分が興奮しているのが不思議だった。
 出発までは、母と過ごす時間を多く持った。村の人々とは、しばらく会わないことになるだろう。父の書物を月顕寺に運び入れるときに母は、
「あんたに、もっと良い燭台でも与えてやれば良かった。」
 というようなことを口にした。夜ごと書物をひもといていたことは、気づかれていたようだ。
 出発の一月前には釜屋の離れに引っ越しをして、朱夏も母とともにそこに起居した。家人が三度の飯を持ってきてくれた。嶺得が一度訪ねてきて、良い環境だと言って去って行った。波の音が遠く聞こえる静かな建物で、朱夏は安心した。

 出発の日、まだ夜が明ける前に、手に握ったオシラサマを眺めながら、三池に指定された場所で待っていた。すると、慶二が向こうからやってきた。見送りにしてはずいぶん大荷物を提げていると思ったが、
「おれも、ついて行くよ。」というから驚いた。
「おっ父とも話したけど、全藩から人が集まってくるなら、兄ぃと一緒にいくさに行った人にも会えるんじゃないだろうかと思って。」
 それは朱夏も考えていた。いくさに行った経験のある者がいれば、話を聞いてみたいと思っていた。
「そんなことなら、あたしに任せてくれてもよかったのに。あんたには漁があるんだから。」
「いや、それに、おれと兄ぃは二人で鉄山に行ったということにしておいた方が、おっ母にとっても安らげるんじゃないかと思ったんだ。」
(それは、そうなんだろうか。)
 大変なときだからこそ、そばについてやった方が良いのではないか。朱夏は思ったが何も言わなかった。家族には家族の考え方や決まり事があるだろう。慶二が両親と相談してそう決めたのなら、朱夏が何かを口出しするべきではない。
(それに正直、心強い。)
「朱夏、たいへんな労働だと思うが、頑張ろう。」
「あたしのことは朱夏じゃなくて、兄ぃと呼んでもらわないとね。」
「そうだったよ。朱夏だって、あたしじゃへんだ。おれと言わないと。」笑い合った。
 そのうちに、一緒に行く残りの三人の百姓も集ってきた。やはり年配の者が多いようだ。肝煎りたちの屋敷で使われていた者たちだろうか、同じ村の者でも、面識は無かった。朱夏が本当は女であることも、別に聞かされてはいないだろう。
 日が昇る頃、三池が姿を現した。前日はどこか、村の旦那衆の家に泊まったのだろう。
「さて準備はよろしいかな。ここから鉄山までは八里と少しだから、夕方までには着きたいところだな。」
 五人とも黙って頷いた。三池は朱夏の方を見て、
「聞いたよおまえ。これからは春一、と呼ばないといけないようだな。女として見られることに震えていたおまえが、男として生きていく、それもいいかもな。」
「わかったようなことをいわないでよ。」
 朱夏は睨みつけた。三池は一瞬その剣幕に押されたが、
「いいさ。鉄山に行けば、甘えたことは言っていられない。おれじゃなくて、まわりに対して負けないように、その威勢はとっておけよ。」
「あなたは、わたしたちの面倒をしっかりみるって約束だからね。」
「わかってるさ。昨日の晩に旦那衆にも言われたよ。」
 どうにも軽薄な雰囲気があるが、とにかくこれから行く場所では、今のところこの男だけが頼りだ。
 歩き始めた一行の後ろに昇る春の日が、三陸の海を鉄紺色に染めていく。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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