第17話(第3章第3節)
文字数 7,397文字
翌日、盛岡城を囲む森の中で滴に鋭く指摘された。
透は朝から盛岡の街をうろついてみると言って、どこかに行ってしまっている。落ち合う時間を決めようとしたときに、滴から「昨日は楽しかったからね、もう一泊くらいの銭は出してやるよ。」と言われて、結局夕方またこの夕顔瀬の宿屋に戻ってくることにした。
「材木扱いも多いみたいだし、出来たら日銭でも稼いでくるよ。」
と言って、さっさと出かけてしまった。
「なぜでしょうか。」と朱夏は平静を装って答えたが、ぶんぶんと飛ぶ蚊のやかましさが朱夏の内心を表しているようだった。滴は手で蚊を払いながら、
「透って言ったっけ。あいつの動きの方が自然じゃないか。橋野のしごとが無くなった。盛岡に出てきた。最初の晩は野宿でもしようと思ったら奇特な姉御のおかげで木賃に泊まれた。さあ今日から仕事を捜そう。ってね。だがあんたはそれよりも県庁を見物することを優先している。それは何故だ?」
相変わらず油断できない推理力である。朱夏はそわそわと髪を掻くしか出来なかった。
「言いたくないならそれでも良いけどね・・・」
既に砂太は城の中に入ってしまっており、朱夏は滴と二人きりである。何も答えないとなると沈黙が痛かった。三陸ならば娘二人で歩いていれば、からかってくる若者衆のひとりやふたりはいたが、ここは人が多すぎていちいち足を止めて二人に関心を示す者は居らず、誰かを捕まえて話を訊こうと思っていた朱夏には当てが外れた。しかもふんづかまえてまで何を訊くのだ。「橋野で大変なことがあったようだが、何か知らないか。」とでも聞くのか。早池峰山で同じようなことを言って透に毒づいた事があったが、今同じことを考えている。昨日の自分はどうかしていただろうか。
「飴でも要らんか。」
悩んでいると声を掛けられた。菓子を売っている若者のようだった。こんな若者までも、盛岡では洗練された雰囲気を放っている。年の頃は朱夏よりも二つか三つ下くらいだろうか。
(さすがにこんな小僧さんじゃ、鉄山のことは知らないかな。)
と返事をしそびれていると、
「じゃ、二つ貰おうか。」と滴が応じて代金と交換した。
「あいどうも。」と言って籠から飴を出そうとする若者に向かって、
「あんた、綺麗な身なりだね。元はお武家さん?」と斬り込んだ。
若者はハッと身を堅くしたようだったが、真顔になると、
「ならば、なんとする。」と暗にそれを肯定した。
「別になんともしないよ。戊辰のいくさで奥州諸藩のお武家たちは軒並み凋落なさったからね。おおかたあんたの家もそんな感じなんだろう。別に珍しくもないね。」
「町娘が、侮辱するのか。」
「そんなつもりはないよ。でも薩長が政権をわたくしするこんなご時世じゃ、あんたがたもおつらいだろうね。」
「薩長の中央集権はいずれ行き詰まる。地方によって産業も人々の気質もまるで違うのに、それを無視しているからだ。」
(さすが侍だ・・・)と朱夏に思わせるしゃちほこばった言葉遣いだ。
となりの滴の様子を伺うと、「続けてみなよ。」という目をしている。
「それに街道や城下町の整備はどの地方にも等しく必要だ。だから、一部の者が自分の都合の良いように整備を行うのではなく、各地方が代表を出して、自分たちの地方の事情や利益を述べ合う場が必要なのだ。」
「結局おのおのが好きなことを言い合って、都合の良いように百姓からむしりとった銭を奪い合うだけじゃないのかい?」
「そうならないよう、話し合いを通じて結論を得る。その結論は、天下の誰がみても納得できるものであることが求められるのだ。」
「たいそうなお話だが、そういう話し合いの場に、あんたが代表として行ってくれるわけか。」
「そのつもりだ。今は一介の菓子売りに身をやつしているが、近く江戸、いや東京に出て小松川様という方の作られた南部出身者のための学校で学問を深め、機会をうかがうつもりだ。」
急に小松川の名前が出てきたので驚いた。そういえば風呂の中で学校の話をしたことがあった。朱夏は小松川の理念が若い世代の侍にも受け継がれていくことに感慨を覚えた。自分は小松川本人からその話を聴いたことがある、と言ってやりたかったが必死に我慢した。
滴は若者の手から飴を奪い取ると、「そうかい、頑張りなよ。二十年くらいしたら、あんたの名を新聞で見るかもしれないね。」と優しくほほえんだ。
若者は急に変わった滴のその態度が激励なのか侮辱なのか戸惑ったようだったが、割り切れない感情を踏みつぶすように足音を立てながら、向こうへと去って行った。
「なぜ、あんな態度をとったのですか?」
飴を片方、ありがたく受け取って朱夏は訊いた。
「いやあのお武家、ふつふつわき上がる熱を帯びた目をしてたよ。だれかれ構わず議論したがっていたように見えたよ。」
滴は包み紙を剥きながら答えた。
朱夏は目の前の女に、急に関心を覚えた。癖のある性格をしているが、人を見る目がある。かつて三池に感じた頼り甲斐を、女ながらに持っているような気がした。
女ながらに。
この女は自分を木地師だと言った。そういえば三池も三陸の山で会ったときは、世間師と名乗っていた。生業で自分を語ること、自営しているという事実それ自体がその人物に自信を付与し、例えば侍相手にも引かない議論を可能とさせるのだろうか。
(それならば・・・)
ぜんまい時計の歯車のように誰かの命に従って動くのではなく、自分の才覚で何かをつくり、生み出すことに専心するのも良い。と考え始めていた。それは鉄山の仕事の性質とは、かなり異なっているのではないか。
「な、なんだい。」
急に朱夏に見つめられて、滴も戸惑っているような声を上げた。
「あ、すみません。」と断って、「滴どのは人を見る目を持っている。それは昨日から分かっていましたが、なんだか責められているような気にもなっていました。その目を、人を攻撃するために使うだけでなく、人の不満を解消させたり、激励したりするためにも使うことも出来るんだな、と。」
滴は最初ぽかんとした顔をしていたが、ややあって噴きだし、ついにはあははと大声で笑い出した。
「いいねあんた。気に入ったよ。これからの女は思ったことを何でも口にしていかないとだめだ。」といって朱夏の肩を叩いた。その調子を見ていると朱夏も笑顔になった。鉄山から逃げて以来、久しぶりに心から笑えた気がする。
「ところで、先ほど言っていた『新聞』とは何ですか?」
ふと疑問に思って朱夏は訊いてみた。
「瓦版って知らないかな。各地の出来事を早耳で紙に書いて配っているものだよ。わたしは読むのが好きでね。」
「あ、昨日の晩に読んでた。」
朱夏は昨日の宿屋での風景を思い出した。朱夏たちが訪ねたとき、滴はなにやら紙に目を通していたと思ったが、
「あの紙に、色々と書いてあるわけですね。」
「そうそう。今晩帰ったらあんたも読むかい。」
それは魅力的な提案ではあるが、同時に自分の眼で見るのが恐ろしいような気もした。
「では、橋野のことは何と・・・?」
それで、思わず滴に訊いてみることにした。
「新貨条例と、銭座の取締の話なんかはみんなが注目してるよ。ただ吟味の中身なんかは新政府も守りが堅くて、なかなか伝わってこないけどね。」
朱夏が最も知りたい情報はそこにあるし、野次馬たちも関心が高いところだとは思うが、組織されたばかりの江刺県庁の連中は緊張感を持って秘密を守っているらしい。
「まあそのうちに関心もすぐに移っていくけどね。」
滴が皮肉な口をして言った。
「夏に向けて、廃藩置県というのが起こるらしい。これは江戸、じゃなくて東京の情報だね。」
「廃藩・・・南部藩はとっくになくなったと思っていましたが。」
「南部の殿様は戊辰のいくさの借金が苦しくて、さっさと支配権を新政府に渡しちまったんだよ。それで新政府が南部の領内を切り刻んで、色々な県に分けた。今度の廃藩置県ってのは、ある種南部で起こったことを諸国に広げる試みと言えるかもね。」
「そうなのですか・・・」
藩への忠義というものを説く侍たちも、鉄山にはいた。彼らの考え方は、藩というものが無くなったときにどのように折り合いをつけるのだろうか。
「また、鉄山のことを考えてるだろ。」
滴に指摘されて顔を上げた。
「あんたはすぐに考え込むよね。何でも姉御に話してみなよ。」
ぐいぐいと踏み込んで来るこの姉御の距離感は掴みにくいが、根は悪人でないことはよく分かった。ごろつきに銭を押しつけたり、若い武家に議論をふっかけたり、行動だけを捉えてみると下品なようにも見えるが、それを押しつけがましくさせないだけの洗練された雰囲気をこの女はまとっている。
「・・・逃げてきました。」
朱夏は踏み出すようにして口に出した。
「まあ、そんなところだと思ったよ。鉄山のしごとはきついだろうからね。」
「そうではないのです。」
朱夏はその点を勘違いして欲しくないと感じた。
「しごとはこれでも、楽しんでいました。わたしも、透も。」
「へえ。」
滴の目を見る。さっきと同じ目だ。「続けてみろ」と言っている。
「江刺県庁の視察で、密造が露見したとき、県庁の手先になっていた棒頭が、山主の侍を斬り殺すのを見てしまいました。」
「そりゃ・・・」
すごいな。と滴の顔色が変わる。新聞にも書いていない生々しい話が出てきて、どのように反応するのが適切か考えているのだろうか。
「それでその・・・」
何から聞けば良いか逡巡している滴の言葉を少し待ったが、
「私たちは覗き見ていたことを知られ、山の中を追いかけられました。それで高炉の櫓に追い詰められたのです。」
「よく生きてたね。」
「それは・・・」
私たちが、追いかけてきた棒頭を殺したからです。という言葉までは到底言えなかった。だが、現実的にその状況を逃れるすべがそれしかないことは、考えれば分かるだろう。助けを呼ぼうにもあの時掛屋は県庁の役人たちの詮議を受けて右往左往していた。日の沈んだ後の高炉場に寄りつこうとする者は居なかったのだ。
滴は黙っていたが、円を描くように動かしていた視線を朱夏の目に合わせてから、「それは殺したとは言わないだろう。」と口をとがらせた。
「身を守るために、仕方ないことさ。あんたたちがそれで悩んでるんだったら、そんなことで悩むんじゃなくて、生きてたことを喜べと言ってやりたいね。」
やはりこの女は。
(話して、良かったか。)
それは実際朱夏自身も、心の均衡を保つために縋っていた理屈ではあった。
だが、同じことを他人から告げられ、明確に支持して貰えたことで、少しだけ肩の荷が下りた気がした。あとで透にも伝えてやろうと思った。
と、考えたときに、透の居ないところで勝手に鉄山のことを話してしまったのはまずかったかも知れない、と少し後悔した。滴は信用できる人間だと思うが、まだ出会ったばかりでその保証があるわけではない。
「そういうことだったんだね。」
滴の両手が、朱夏の頬を摺った。「そうなんだね。」ほほえむ滴の顔は、さっき武家の若者が戸惑ったように、複雑な意味合いを見るものに与えさせて、いま朱夏をも惑わせている。
(だが、今のところはこの手の暖かみにありがたく救いを求めておけばよいか。)
ぎこちなくほほえみを返しながらあれこれと考えているうちに、昼時になって城の中から盛岡県庁の役人たちが出てきた。江刺県庁の連中と同じように、雪だるまのような制服の男も居れば、昔ながらの羽織の男たちもいた。
「もう午になっちまった。おっ父、腹減らしてるだろうな。はやく出てくりゃ良いが。」
こぼす滴の声を聞きながら城の門の方を振り返って男たちの動きに目をやったとき、朱夏の目は一点に釘付けになった。
(・・・・・・!?)
眉根を寄せ、目を細めて凝らしてみる。
(似ている・・・)
気づかぬうちに脚の方がその男に向かって動き出していた。三人連れで出てきてなにやら頭を下げ合っている。
「おい、どうしたの。」
滴がまた戸惑ったように朱夏の方に手を伸ばしかけ、後ろをついてくる。この女は自分のことを情緒不安定な娘だと思っているだろうな。と考えるほどの余裕もなくすたすたと男との距離を詰める。
残りのふたりと別れ、ひとりになって歩き出したその男は、
「春一っ」
朱夏の声に反応して驚いたように顔を向けた。
「春一、生きてたの。」
「私のこと、ですか?」
男は表情を変えずにそう返すと、首を傾げた。
「三陸で一緒に暮らした、朱夏だよ。」
その言い方は正確ではないのを分かりつつ、必死になって話をするが、男の反応は鈍く、どうも話がかみ合っていないようだ。だが目の前のこの男は、どう見ても春一その人だった。
三陸でともに暮らし、仕事をし、若者宿で遊び、ふたり抜け出して、朱夏を抱きしめた男である。戊辰のいくさにいって行方不明となった男である。
そして、つい最近まで朱夏自身が、この男として鉄山に働いていたのだ。
精確に言葉に出来るわけではないが、すでにこの男への懐かしみは、精神的、肉体的な範疇を超えて、観念的な域にまで達しているとまで言える。四年ほどの年を隔ててはいるが、見紛うはずがないと思っていた。
「人違いでしょうか。御免。」
そう言って男はさっさと去って行こうとする。
(なぜ、そのようにあしらう!)
信じがたい気持ちで男を見た。故郷を去って時間が経つことで、故郷の思い出を風化させ、忘却へと追いやったのか。
向こうへ行ってしまう、と焦った朱夏は、男の行く手を遮り、ふところから出したものを突きつけた。
「これを見てっ」
男は目を丸くして朱夏の方を見る。手の先にはオシラサマが掴まれていた。春一がいくさに出るとき、同じものを持って出た。いくさ場で故郷を思い出すとき、オシラサマを見てくれていたのではないか。少なくとも朱夏は三陸でオシラサマを見ながら春一を思っていた。その思いは場所を隔てても同じ木偶をみて通じ合っていると頑なに信じていた。
鉄山でも肌身離さず持ち歩き、逃げるときにまで持ち続けた大切な守り神である。
「全く理解が出来かねますが・・・どういうご事情ですか。」
男がたまりかねて相手をしようという姿勢を見せたことで、逆に朱夏は戸惑った。
(あしらおうとしているわけではない。本当に人違いなのか。)
さっきまでの自信が嘘のように揺らいだ。
「春一では、ないの・・・?」
熱気と寒気が身体を交互に襲い、焦りが募って目の前が白くなってきた。
「私は
男は春一と同じ顔で、全く違う名を名乗った。
「盛岡県庁に勤めていますが、間もなく別の地に赴任することになっています。あなたの言う名前に心当たりはありませんが・・・」
朱夏は絶句した。この男は春一と全く違う人生を生きている。旧藩士の、養子と言ったのか。三陸の百姓の息子とは全く異なる世界の住人である。
「だが、あなたの顔をどこかで見たような気もする。それはなぜでしょうか・・・」
男もまた、眉をひそめて朱夏の顔を見た。二重まぶたの上の形の良い額にまっすぐな筋を立てて、鼻筋とすっと一本通った端正な顔立ちは、記憶の中の春一が四年の月日を経たままの好男子である。
「戊辰のいくさに・・・」
行ったのではないですか。朱夏は問おうとした。だがその声を遮るように、白檀の身体の影から声をかける者がいた。
「ビャクダンさん、どうし、ましたか。」
ゆっくりとした発声は、なぜか少し聴き取りづらい。先ほど門の前で三人で話していた男たちのうちの一人が追いついてきたのか。
(異人か。)
白檀という男よりも更にすっきりと高い鼻を持ち、透き通るような金の色の髪を持った男である。三陸の海岸には異国船が多数押し寄せ、異人の話は嶺得和尚など村の大人たちからも聞いたことがあった。その男が白檀の肩に手を置いて怪訝そうな目で朱夏の方を見ている。
「出発の日は、ちかいですよ。いろいろと、準備、しないと。」
口元に笑みをたたえて白檀と朱夏を交互に見る目には、有無を言わせぬ拒絶の色がにじんでいた。
「福岡まで、一日以上、かかります。」と手に力を込めて白檀を促す。
「ええ、そうですね。」と白檀の方も話はこれまでとばかりに、立ち去ろうとする。朱夏にはそれ以上話を続けてこの男たちを場に留めるすべはなかった。
「福岡っていったかい。」とそのとき、朱夏の後ろから声がした。
「わたしたちも、そっちが帰り道だよ。何しに行くんだい。」
張りのある、滴の声である。
「あなたは。」と異人がさらに笑顔を濃くして滴の方に目を向けた。濃くした笑顔の分だけ、拒絶の色も強まっていく。
「浄法寺街道の砂屋の娘、滴という。あんたら県庁と言ったが、福岡の代官所に赴任するってことかい。」
「なぜそれを。」
白檀が思わず言葉を返す。異人は少し不服そうな顔をしたが、
「そのとおり。砂屋と言いましたか。大きな問屋だ。塗り師も多いんでしょう。」
「役銭をまた、むしるかい。あんたもお武家には見えないが。」
「わたくしは、県令さんに、傭われましてね。殖産の助言をするのです。」
「どいつもこいつも・・・わたしらの勝手にやらせてくれよ。」
滴はうんざりしたように言い捨てた。二人の間の剣呑な雰囲気を見て取り、白檀が収めようとして、
「お察しの通り、青森県庁の方と先ほど話がつきまして、今度、営林などを仰せつかることとなりました。問屋の娘でしたら何かと世話になるでしょう。いずれよろしく。」と落ち着いた声をかけた。
異人は笑顔を取り戻すと、今度こそ白檀と二人で連れ立って、向こうへと去ってしまった。
(何だ・・・)
朱夏は自分の思っても見ない方向に推移した話の行方に、まだついて行けないでいた。