第22話(第4章第4節)

文字数 12,935文字

 梁を高く通した倉庫の土間に(むしろ)を広げて、光を映して鈍く輝く黒と朱の椀物を重ねて並べている。木綿の作業着を着た砂屋の家人たちが忙しく立ち回る間を、目の肥えた行商人たちが腰を据えて椀物の品質を吟味している。
「それじゃ、この三ッ椀からいかせて貰うよ!」と滴が声を張り上げた。

 上品の三ッ椀、一貫二百二十文から
 中品の三ッ椀、一貫百二十文から
 下品の三ッ椀、一貫二十文から

 最初に設定した価格は、行商人たちの声によって「二百三十、」「二百五十、」「三百」とつぎつぎに吊り上がっていく。砂屋が企画した競りは本日も盛況である。
 半月ほど前から砂太を始めとする福岡に卸しや買い付けに行く家人たちが触れ込みを墨書した紙を携えていたのは知っていたが、それによってこれほど多くの商人たちが砂屋を訪れて競りに参加するというのは驚きだった。
「みな、蒔ちゃんがお目当てというわけだね。」
 競り落とされた椀物を油紙で梱包する作業を続けていた朱夏は、商人のひとりに不意に話しかけられた。どことなく三池に雰囲気の似た男は、豊和と名乗った。
「おまえさんが、あの透ってのと流れてきた女だな。駆け落ちでもしたのか。」
 みなが判で押したように同じことを言うので、朱夏は段々と否定するのも面倒になってきた。からかってやろうと思って、
「亭主ともどもによろしくお頼み申します。」などとあしらってみたが、豊和は顔色を変えずに、
「冗談だよ。男と女のつがいを見て、夫婦かそうでないかくらい、見れば分かる。それにあの男には、こぶが付いていない方が蒔ちゃんも喜ぶだろうさ。」
「蒔どのね・・・」
 こぶ扱いされたのは心外だが、塗り小屋の中にこもって作業をするうちに、蒔が同じ年ごろの透に懐こうとしているのは外からも分かった。だがそれを殊更に恋情に結びつける必要はないのではないかと見ていた。透がうるさそうに応じているのが可笑しかった。
「下地の丁寧さだけでも抜群に質が良いが、やはりあの娘は加飾がよい。おれも箔椀でだいぶ儲けさせて貰ったよ。」
「そんなもんですか。」
 それはこんなところで吹聴して良い話なのか。どうにも軽薄な印象を持ってしまう。
「おうよ。いま新しい加飾を色々工夫しているみたいだな。砂屋は木地師の粂太郎も囲い込んで、家族だけで腕は足りちまいそうだなあ。」
「粂太郎どのね。」
 若旦那は商人たちの間を歩いて知った顔の肩を叩きながら、ときに如才なく商談に応じているようだった。単に会釈をして去るだけの場合もあれば、口元を覆いながら話し込んでいる場合もあった。
「会津から流れてきた腕の良い男を囲い込むために、滴の姉御が寝技を使ったというわけだ。」
(放っておけば良いのに。)
 それこそ下衆の勘ぐりというものだが、行商人たちはこうして取引相手の噂話をしながら交流し、相手の懐に入っていくものなのかも知れない。黙って相槌を打っておけば色々と情報が集まりそうなのでしばらくそのまま喋らせておいた。
「おまえさんはなんぞ、必要なものはございますかな。」
 噂話に一段落をつけた豊和は朱夏に向かって問いかけた。といわれても今のところは苗木を育てるだけなので道具も何も店にあるあり合わせのものを使っていて、不便はしていない。ふと思い出して、
「それじゃ、塩昆布を貰えますか。」と言ってみた。そういえば、浄法寺に向かう途中で滴が、食べるものなんかも行商人に頼めば良いと言ってくれていた。
「は? 何に使うんですかな?」と豊和は怪訝な顔をしていたが、
「何にって、食べるんですよ。」と答えると商人の顔になり、「分かった、一度相場を見てくるよ。今度来るときに持ってきてやろう。」
「できれば三陸の海のが良いですね。」
「注文が多いな。下北の方が知り合いは多いんだが。」とぶつぶつ呟いている。
 そのとき、一座がざわつき始めた。人々の視線の方向に目をやると、塗りを終えたばかりらしく仕事着に手ぬぐいを姉さんかぶりした蒔が小屋から姿を現したところだった。その後ろから、品物が入っているらしい木箱を抱えた透が随行している。蒔は行商人たちの視線を集めながらゆっくりと滴の方へ歩み寄る。その姿に緊張も力みもなく、自分の登場が場にもたらす効果を十分に理解しているようだった。透の方が却って目を見開きながら歩いているのが可笑しかった。朱夏は透の方へ「大変だね」と視線を送った。
「姉さん!」
 ちらりと透の方を振り返った後で、蒔が口上を述べるように大きな声で滴を呼んだ。
(こんなに大きな声を出す娘だったのか。)
 意外な気がしたが、別に彼女の何を知っている訳でもないと気づいた。座敷童のような福々しい見た目をしていても、その体には周囲の不躾な視線を跳ね返すだけの熱量が籠っている。そういえば、姉である滴が甲斐甲斐しく蒔の制作の世話をするのも、考えようによっては期待という圧力をかけているのであり、内と外からの眼差しを受け止めるだけの強靭さがどうしたって必要とされるだろう。
 一同が姉妹の様子を見守っている。手ぬぐいの裾からほつれた前髪を垂らす蒔の姿態を見つめる者が半分だが、残りの半分の視線はいまや、透の手元の木箱へと注がれている。ここに運ばれて来た椀こそが、今回の競りの目玉だということなのだろう。
 主催者側としては、中だるみや尻切れが生じないように、朝から並べている商品のほかに、質の高いものを日の高くなってから新しく投入することで、競り全体の盛り上がりを演出したいものである。買い手側もそのことは分かっているので、当初の競りでは持ち金を温存し、目玉商品へ資金を投入しようとする者や、あるいはその裏をかいて、一定の質のものを一定の量だけ早いうちに確保してあがってしまおうと考える者もいる。いずれにせよ、ここで蒔と透が運んできた商品は、競り全体の盛り上がりを左右する大事なものと言える。
 透が木箱を覆っていた布を剥ぎ取ると、その下から整然と並べられた箔椀が姿を現し、どよめきが起こった。蒔が自ら運び出してきた椀である。箔椀を目にしたことのない(にわ)か者は少ないだろうが、浄法寺街道の誇る塗り師の顔を直接拝みながら見てみれば、その下地の黒は益々冴えわたり、その飾りの金は益々光を放つように見えるだろう。
 だが滴はなぜか不満げな顔をしており、蒔に続けて何かを囁いている。蒔も表情を殺してその言葉を聞いているが、やがて降参したかのように小さく頷くと、そのまま母屋へ向かって姿を消していった。
 滴は近くにいた家人に命じて、塗り小屋の方へ走らせると、
「それじゃ箔椀、一貫文から始めるよ!」と声を張り上げた。
 上品の椀の、一気に五倍近い最低価格に、さすがに男たちはざわつきながら顔を見合わせている。
「一貫文はさすがに大金だ。手にとらせてもらってもよいか。」
 豊和が場をほぐすように円座の外から声を上げた。滴は一瞬苦い顔をしたが、結局それを認めた。男たちは先を争って木箱へと近づき、地面に向かって手を伸ばす。その姿は地獄から生える亡者の手の群れのようにも見えた。
 そこに、先程塗り小屋へと走っていた家人が、別の木箱を抱えて戻ってきた。滴は箔椀が回されるのにも目を配りながら、その中身を確認している。箔椀とは違って、木地の木目を生かして透明な漆を塗りつけた椀に、持ちやすいように溝が何本か彫られている。良く見ると墨文字が色々と書かれている、落ち着いた雰囲気の椀であった。
「あれは…」
 目ざとくその様子に目を留めた豊和は、朱夏の隣を離れて滴へと近づいていくと、話し合いを始めた。
(箔椀には対して興味がなさそうだったが、ああいう椀の方が好みなのか。)
 蒔が憮然として引っこんでから出てきた椀なのだから、満足のいっていない作品なのかもしれないが、豊和の思惑がよく分からなかった。
 考えているうちに、円座の中から透が抜け出してきた。
「朱夏、ここにいたのか。」
「わたしの方は一段落したから、次はいま競っている箔椀が売れてから、それを包んで、という感じかな。」
「ああなるほど。それにしてもすごい熱気だ。」
「蒔どののたまものなんだろ。」
「そうだな。一人でいたのか。」
「いや、さっきまであの人が色々教えてくれたよ。」
 まだ滴と話し込んでいる豊和の方を指した。
「豊和どのだな。なかなかやり手のようだ。蒔どのも信頼しているよ。」
「知りすぎている気がしたけどね。」
 みなが押し寄せている箔椀から距離を置いて、渋みのある椀の方へ食指を動かす玄人好みは、訳知り顔で油断がならない印象だ。
「それより、さっき何を話していたの。」
「蒔どのか。姉御に、もっと他に出せるのがないのか、と訊かれて、結局試作していた分を出すことにしたようだな。」
「試作ね。」
「なにか新しく売れるものがないか、色々と試しているのは、朱夏も聞いているんだろ。」
 創意工夫によって様々な椀を考案できる塗りの魅力に、透の眼が心なしか輝いているように見えた。
(なんだか楽しそうではある。)
 塗り小屋の小さな世界観の中で、透がどういう景色を見ているのか関心があった。
「しかしあの姉御、黒白をはっきりつけたがる性格だとは思っていたが、これほどせっかちだとは思わなかったな。」
 透がひとりごちた。
「ああそれは…」
 朱夏はこの間滴と行った天台寺での出来事を思い出して、透に話してやった。
「頼りないことを言ってるからさ。あれじゃ代金は返ってこないだろうね。ここで儲けないと首が回らなくなる心配をしているんだろうね。」
「賑わっているように見えて、その実は薄氷の上にいるかもしれないな。」
 透はまだ箔椀にたかっている亡者のごとき商人たちの方を振り返ってつぶやいた。
 鉄山にいた時には、銭座という操業の核心も含めて、他の人夫たちと比べれば詳しく教えてもらっていたが、それでも基本的には侍たちの経営に従って言われたことをこなしていればよかったし、上手くいかないことがあれば侍たちのせいにすれば済んでいた。
 翻ってここでは、自分と年頃の変わらない娘たちが、製品の質の確保を一手に引き受け、また雇い人の食い扶持まで見据えた収入の調達に心を砕いているのである。
 朱夏は、砂屋の食客たる自分たちは、そうした経営の全体像に対して、どの程度関わっていくのが適当なのか、これから考えていかなければならないと感じた。
「おれも塗りが楽しくなってきた。ただ、楽しいだけではないんだろうな。」
 透がそう続けたので、朱夏は微笑を返した。そしてまた、そうした関わり方について一緒に考えてくれる透がそばにいてくれることを、朱夏はありがたいと感じるのであった。

 透は、蒔の姿を探した。
 競りの翌朝といっても休みになるわけでもなく、いつもと同じように塗りをすることになっていた。だが、いつもであれば透が来たときに既に塗り小屋の中に入っている蒔の姿が見えなかった。昨日なにか不貞腐れたような態度で母屋に戻ったまま、結局蒔は再び姿を見せることが無かった。蒔の作業台の後ろに、一通りの加飾が終わったように見える螺鈿(らでん)細工の椀が積まれたままになっている。まだ、工程を重ねるのだろうか。ならば下地が乾いている状態で、時間を置かず上塗りをした方が効率的である。少し不審には思ったが、他の通いの塗り師たちも集まるにつれてその日の作業がなんとなく始まり、透も目の前の椀と向き合って塗りに没入した。
「透どの。」
 だからそう言って他の塗り師に話しかけられた時は、すでに一刻ほど過ぎていた後だった。
「蒔どのがあまりにも遅い。様子を見てきてくれまいか。」
 古株のその塗り師は頼むように言った。
「昨日は競りでしたし、休んでおられるのではないですか。」
「それならそれでいいんだが、そのことを確かめてきてくれないか。」
 そういえば今日は滴や朱夏など、母屋に起居している連中の姿を見かけないなと思った。だからこの塗り師も、蒔がどうしているかを確認する相手がおらず、心配していたのだろう。塗っている途中に作業を中断すると漆の乾き具合の調節が難しいのだが、透の椀はちょうど一通りの塗りを終えたところだったので、素直に言うことを聞いて、腰を上げることにした。
 母屋にはここに来た時に入った玄関からではなく、塗り小屋のある庭側に面した勝手口から入る。無造作に草履を脱いで板張りの廊下にあがると、足に伝わる木目の冷たさが心地よかった。奥へ向かう廊下の片側には、畳の香りもふくよかな室がいくつも区切られている。遠野の肝煎りの旦那衆の中でも、こうした立派な内装の屋敷に住んでいる者は一握りではないかと思った。
 蒔が同じ年頃の自分に懐くような態度を見せていることに、透は十分に気づいていた。だが蒔が生来具備している恵まれた環境と、そこで花開いた才能に対して、本人が無頓着であることに反発を感じていた。鉄線の花のことでからかわれたと思ったのは自分の考えすぎだと、そう処理できるくらいには大人げない感情を棄てているつもりだが、どうにも冷たい態度をとってしまう。それは塗りによって商圏を築き、見目によって衆目を捕える自らの優越的地位を、誰に対しても当然に行使できるわけではないのだと教えてやりたいという捻じれた思いがそうさせていたのかもしれない。
 そういえば鉄山でも朱夏たちに最初、冷たく当たってしまっていた。あのときは戊辰のいくさで手塩に掛けた馬を取られて気持ちが落ち込んでいたときであったが、なぜだか朱夏の一挙手一投足に目障りなものを感じていた。結局話してみれば意気投合し、こうして共に浄法寺へ流れてくるくらいの絆となったことを考えると、どうにも自分は親しくなる前の人間のことを色眼鏡で見てしまうのかもしれない。だとすれば、蒔の言い分を聞いてやらなければならないのだろう。
 廊下の突き当たりにある滴の室には朱夏が同居しているが、今は誰の気配もない。北へ曲がってさらに奥が蒔の室である。膝立ちになって障子戸の外から、「蒔どの」と声をかける。中の空気が動く気配がした。
 少し間を置いてから「蒔どの、開けてもよいか。」とさらに繰り返すと、中から戸が滑らされた。塗り小屋にいるときと違って手ぬぐいを被らない蒔を、透が見上げるような格好になった。ほんの僅かに顎の肉が浮腫んでいるような印象を受けたが、それは毎日塗り小屋で言葉を交わしている透にしか分からないほどの違いだったかもしれない。
「蒔どの、今日は、塗りはなさらないのか。」
「すみません、心配をかけて。昼からは行くことにします。」
 蒔は眼をしばたかせながら応えた。身体越しに室内をみやると、書見台に書物が開かれている。それだけ確認すれば分かりましたと言って辞してもよいのだが、目を揉むほどに熱中して何を読んでいたのか気になった。
螺鈿(らでん)は…もう少しやり方を工夫しないといけないと思いまして。」
 透の視線に気づいたように蒔が唇を湿らせた。
「貝を貼っておられる試作だな。」
「そうです。細かな文様を刻むのに、刀の先を使って一つ一つ削っていましたが、やはり貝は固いので、木地ほど思ったように削れてくれないですね。」
「文様をいくつも同じ形に切りだすのはなかなか骨が折れそうだ。」
「貝を貼り付けてから、同じ高さまで漆を盛り上げるより、貝の厚みだけ木地を掘って表面と高さを合わせる方が楽だというのは早くから気付いていましたが、貝の方の細工が捗らないと、種類を増やせないですからね。」
「と言って、淡々と削る以外に何かいい方法があるだろうか。」
 蒔がこうした技術的な話をぶつけてくれることを、透は素直にうれしいと感じた。それは塗り師として議論に足る腕を身につけつつあると認められているということである。ただ一方で、透にこぼすほどに、自信を失くしているという意味ともとれる。何か自分に対して具体的な努力や協力が求められている話なのか、単に聞き役になればよいのかは判断がつかなかった。
(さん)抜きと言って、切り出したい形に漆を塗って保護してから、酸をかけて不要な部分を溶かしてしまう技法があると、書いてあるのを見つけました。」
 蒔は室の奥に歩み、開かれた書物を取り上げた。
「酸。」
「どのようなものが良いか、今度豊和どのに相談してみましょう。」
「浄法寺には、あまり螺鈿の技術は伝わっていないのだな。」
「元が、南国の貝を使った細工ですから。正倉院の宝物にはよく取り入れられていますが、実際に目にしたことはありませんから、走りながら色々と考えてみるしかありませんね。」
「走りながら、か。」
 いい心構えだな、と思った。浄法寺の椀の流通を復刻するために、書物に当たり、試験的に手を動かす。この制作に対する真摯で熱意あふれる態度こそが、蒔が商圏を築く原動力になっているのだと理解した。
「昨日競りに出した椀は、まだ満足がいくものではなかったですから…」
「箔椀のことか。」
 何か違和感のある言い方だった。
「いえ、形になっていればなんでも良いから、と姉さんに言われて、あとから螺鈿の椀を競りに出したでしょう。あんなものを出してしまうのが恥ずかしくて、部屋に戻ってしまいましたが。」
「…」
「透どのに後を押し付けてしまいました。」
「それは別に構わないが…」
 悪びれずぺろりと舌を出した蒔の姿を、責任感が欠如していると見るか、あるいは逆に、半端な作品を売り物とすることへの並はずれた責任感があると見るかは判断が分かれそうだが、透はそれよりも別のことが気になった。
「いま言っておられる螺鈿の椀は、今日もまだ塗り小屋にあったぞ。」
「え。」
 蒔の作業台に乗っていた椀は、いま話が出た椀と特徴が似ていた。
「昨日競りに出されたのはもっと素朴な椀だった。透漆だけで、木地に溝がついていたのが、何枚か重ねられていたが…」
 蒔の疲れた目が見開かれ、さぁっと血の気が引いて行くのが見えた。
「それは山桑です。あの椀を、全部売ったのですか…?」
「確か、豊和どのが買っていったと思うが。」
 透が答えるより早く、蒔は書物を投げるように置くと、戸口に膝立ちしたままの透を押しのけるようにしてキシキシと板張りを鳴らしながら走りだした。透もすぐに後を追う。
「山桑の椀は。」
 息を吐きながら蒔が説明した。
「山桑の椀で飲食すれば、悪病除けになるという信仰があるんです。お渡ししたい人がいて、作っていたのです。」
 途切れ途切れの言葉に、状況が伝わってきた。
「売る方を間違えたんだな。」
「そう思います。とにかく確かめてみないと。」
 塗り小屋に着くと、蒔は自分の作業台から螺鈿の椀を手にとって、
「やっぱり。」とつぶやいた。
「こちらを売ろうとされていたんだな。」
「そうです。横着をせずに、自分でとりに行くべきでした。」
 昨日の競りの一幕を思い起こしているらしい。姉御から「なんでも良いから」と告げられたのは、そうした冷静さを欠くほどに、よほどこの妹職人の誇りを傷つけたらしい。
 血走った眼で鼻から息を吐いている蒔の登場に、小屋の中の塗り師たちは眼を丸くして身を縮めている。
「今日、豊和どのを見ましたか。」
 一同に向かって蒔が声を張る。普段は淡々と作業を続ける蒔だが、時折こうした激しい様子を外に表すことがある。
「朝がた、ここに来られて、一声かけてから去って行かれましたよ。」
 古株の一人がそう答えた。
「どちらに。」
 蒔はもう詰問口調である。安比川を遡上して浄法寺界隈の塗り師たちを行脚しているだけなら探しもつきやすいだろうが、昨日の競りで大方の仕入れは済んだだろうから、おそらくそれはないだろう。福岡に降りて捌きに行ったと考えるのが自然だが、県境を越えて鹿角へ向かった可能性もある。
「荷を、取り返すということですか。」
 古株が訊いた。突然の成り行きに、彼らがまだ状況を飲み込めないのも無理はない。焦点の定まらない目をしたままの蒔の代わりに、透が昨日の競りで売る椀を取り違えた話を説明した。
「しかしあれはあれで完成していたのですから、また別のものを作り直せばいいのではないですか。」
 古株がもっともな提案をした。しかし蒔は、
「あの椀は、違うのです。あれは廃藩の前に、鹿角のご神木を、鹿角の…」と必死に説明している。要領を得ないが、やむをえない事情で神木を切り倒したとき、付近の職人に託して特別な用材にすることがあるという。あの椀はそうした類のものだったか、とにかく替えの効かないものらしい。
「馬を駆って、追いかけてはどうか。」
 透は提案した。朝出発したのなら、重い荷を負ってそれほど遠くには行っていないだろう。福岡に降りたとヤマを張って追えば、十分追いつけると思ってのことだが、塗り師たちはお互いに顔を見合わせている。どの顔も、自分がその役を果たすのは御免被るとの顔だ。ここに来た日に、山に登る役を押しつけ合っていた砂屋の家人たちの悪癖が、ここに来てまた表れているらしい。
「なら、おれが行こう。」
 焦れたように蒔の方を見た。蒔はすっかり放心しているように見えた。気を利かせた塗り師の一人が、厩から一頭、引っ張ってきて小屋の前に繋いでくれる。
「滴どのに言わなくてよいか。」古株が確認した。「いったん競り落とされた品を取り返すなんてなると、うちの信用に関わるんじゃないか。」
「まして蒔どのの椀はうちの目玉なんだから、それが売り物じゃなかったなんて、吊り上げとか八百長とまでは言わないまでも、損得のことを言う奴が出てくるかもしれん。」
 別の塗り師もそう言って心配した。
「だったら、蒔どのにもついてきてもらおう。豊和もそれなら文句ないんじゃないか。」
 諦めるならそれでもよいが、追うなら追うで、早く出発した方がいい。透は苛々としながら蒔の方を見たが、髪を揺らしながら首を左右に振っている。
「なんだ、馬に乗れもしないのか。」
 冷たく突き放すように言ったのは、以前にからかわれたことへの意趣返しだったのかも知れない。眉間に力を入れて目を見開いている蒔の方に近寄ると、
「行こう。」と言って、蒔の手を取り、その身体を抱き上げて馬の背に乗せた。きゃっと蒔が身を縮めるのも待たず、透はその前に跨がり、手綱を握った。
 目を丸くした塗り師たちを置き去りにして、砂埃の舞う浄法寺街道を東へと向かった。
 蒔は矢のように速く駆ける馬の背にあって言葉を失っているようで、ただ後ろから透の身体に手を回して縋り付いていた。
 蛇行する安比川に沿って敷かれた浄法寺街道の曲がりくねった道を軽妙な技術で駆けていく。行き交う人々がつむじ風の去来を振り返り見ている姿が、次々に後ろに向かって線と消えていく。
 背に荷を追った行商人然とした男たちを幾人も抜き越す。昨日の競りの後で浄法寺に一泊し、今朝出発した連中がこの街道に列をなしているようだ。
「居た!」
 両側と背に荷を満載した馬を一頭引いた男は、そうした中で目を引いた。あと一里も行けば福岡の町中に入ろうかというところまで来てしまっていた。
「豊和どの!」
 馬上から声をかけると、豊和は驚いた顔で見上げてきたが、すぐに「どうなさった。わざわざ。」と応え、馬をとめた。やはり、予想通り福岡に向かっているところだったようだ。
「ここでは往来に障るな。」と少し歩き、地蔵の前に少し道が広がっているところで、並木に二頭の馬を繋いだ。
「ずいぶん急いで追いかけてこられたようだな。蒔どの、大丈夫か。」
「は、はい。」
 ふぅと息を吐きながら地に足をつけた蒔は、ようやく少し落ち着いたようだ。豊和の荷に目をやって、誤って売った椀がどこに積まれているか探している。
「解いた方が良さそうですな。」
 豊和が気づいて、馬にくくりつけた荷を解いて下ろした。
「山桑の神木を使った椀を、買われましたね。」
「箔椀のあとに追加した分でしょう。驚きましたね。由緒のありそうな墨文字でしたので、出自を聞こうと今朝も塗り小屋に寄ったのですよ。蒔どのの姿が見えなかったのでそのままお暇したのですが、ちょうどよかった。」
「実は、お返しいただきたいのです。」
「ほぅ。」
「こちらの手違いで、競りに出す椀を取り違えてしまいました。あいすみません。代金は今度お返ししますので、なにとぞ。」
 下手に出てはいるが、当然に豊和は応じてくれると信じ込んだ言い回しである。だが豊和は、「そう簡単にはいかないでしょうね。」と目を光らせた。
「神木を使った椀を作れるのは、神職からの信頼の厚い職人だけです。浄法寺街道の砂屋はこれまで箔椀の生産により高名を得てきた、信頼に足る商家でしたが、これからはどうでしょうか。」
「売り上げが下がっていることは、みなが認識しています。それで色々と試行錯誤している。豊和どのもよくご存じではありませんか。」
「それに私は山桑椀を全部買って大枚を叩いたせいで、残りの競りで大きな買い物が出来なかったのですよ。単純に代金を返されるだけでなく、機会を逸した分の損失についても、あがなってもらわないと納得できないとは思いませんか。」
(はったりだな。)
 透はそう見抜いたが、蒔は青い顔をしている。手の内にあると思っていた行商人に冷ややかな対応をされた衝撃はいかばかりだろう。蒔の態度のところどころに顔を出す、無意識のわがままな優越感に反感を覚えていた透だったが、いままさに売り手と買い手の力関係が逆転する過渡期に差し掛かっている、それをつぶさに目撃しているのだと思った。
「本当は螺鈿細工の椀が上手く出来れば、それをお渡しできるのですが…」
 蒔の言葉は尻切れトンボに小さくなっていく。
「と、ごねてみても仕方ないかな。ならばその椀が完成した時、私にお譲りいただくということでどうだろうか。」
 豊和は手を打った。このあたりが引き時だと判断したのだろうか。砂屋の競争力は確かに減退しているが、それでもまだ利用価値はあると考えて慎重に瀬踏みをしているのだろう。厄介な男を相手にしたな、と蒔に同情した。滴の姉御ならもっとうまく立ち回るのだろうか。
 豊和は荷の中から特に厳重に包んだ一くるみを取り出し、中身を確認して「これで間違いないですかな。」と蒔に差し出した。中身と数に間違いはないようだ。
「証文が要りますな。」
 豊和は懐から紙と筆を取り出し、さらさらと書きつけた。器を包むような極く薄手の油紙のようだった。
「次の器が完成すれば、それをお受け取りするということで。」
 示された証文の文言は言い回しも独特で、文字を完全には読めない透にはしっかり理解できるものではなかった。古文書を読み漁る蒔ならば理解出来るのかもしれないが、眉間にしわを寄せたまま早くも拇印を押そうとしている。
「待った。」と思わず声を出した。
 掛け軸の絵が動き出すのを見たような顔で豊和が透と目を合わせた。
「何ですかな。」
「念のため、おなじ証文をもう一枚作ってもらえないか。あとで滴の姉御に報告しないといけないだろう。」
 豊和は心なしか苦い表情をしたようだったが、「なるほど。」と言われた通りに写しを作成した。
「手違いがあったことは、砂屋の信用に関わるでしょうから、他の連中には言わないでおきますよ。」
 恩着せがましい言い方をした後で、豊和は荷をまとめなおすと再び東に向かって去って行った。既に日は天頂を越えている。豊和からしても思わぬ足止めを食った形になり、その点は申し訳ないことだと思った。
 馬を引いて山を下りていく男の姿が見えなくなると、蒔は張り詰めていた感情を一気にゆるめるように、並木の漆にもたれて座り込んだ。
「帰って、さっそく螺鈿の続きをやろう。おれも手伝わせてもらうよ。」
「…」
 蒔は山桑椀の箱を抱きしめながら黙りこんでいる。
 焦りや衝撃が重なった様々な感情の洪水が流れ去り、ようやくもとの静けさが戻ってきたその余韻に浸っているのだろうか。透も隣の並木に座って、蒔の気が済むまで待ってやろうと思った。
「透どの。先程は。」
 蒔に呼びかけられ、横を向いて、目を合わせる。尖らせた口に溜まった空気が、みるみる頬に伝わって膨らんでいく。
「速すぎて涙が出てきました。でも涙も風で後ろへ飛んでいきましたよ!」
 身体の緊張を緩めたまま、表情だけで怒りを見せられて、透は噴き出してしまった。
 ここまで馬を駆る中で、ずいぶんと無茶な速度を出してしまった。だが結果的に豊和が街道を歩いている間に追いつけたのはそうして急いだからで、福岡の町中に入られてしまっていれば、出会う難しさは格段に大きくなっていただろう。
「すまなかった。」
 だからそうして透が素直に謝ると、蒔はすぐに怒りを解いたようだった。ひとつ深呼吸をすると、
「何か、お気に障りましたか。」と尋ねてきた。
 その質問は、具体的に何を意味するかを指定しない、漠然としたものだった。先ほど透が蒔を馬に乗せる前に冷たく「馬にも乗れない」と言い放ったのが堪えているのか、それとももっと広く、自分は懐こうとしている透が何となく距離を置こうとしている気まずい雰囲気を敏感に察知し、そのことを含めて確認しているようにも思えた。
「いや、人それぞれに得手不得手があるものだ。おれも大人げない態度を取って悪かったよ。」
 透は再び素直に謝った。意地を張っても仕方がないのだ。自分はいつもこうして後から謝ってばかりだと思った。
「塗りのことになると、夢中になってしまって・・・」
 蒔は呟くように言った。
「同じ年頃の方と、どのようにお話しすればよいか分からないのです。失礼があったのなら、わたしも謝ります。」
(鉄線のことなら、別にもういいんだ。)
 蒔の育ってきた環境を鑑みれば、塗りによって自己を表現し、親しみを示そうとするのは自然なことなのかも知れない。当意即妙な意匠を描くことによって周囲の大人に褒められたことはあれど、気色ばんだ反応をされたことはなかったのだろう。仮にそうしたことがあったとしても、次から次へと出入りする行商人の一人一人に対しての心配りを、深く行うことは彼女の仕事ではない。
 そうした相手の感情の機微を慮ることなく(たちま)ちに子供染みた態度を取ったことを透は反省した。
「おれだってそうさ。他人と仲良くなりたいとき、わざと突き放した態度を取ってしまう。」
「・・・」
 並木一本の距離を空けたまま、蒔は黙って透を見つめている。
 砂屋の恵まれた環境が涵養した蒔の考え方は、時代の変化に否応なく応じていく時を迎えている。本人がそれに気付いているかどうか分からないが、今日そう思った。
 塗り小屋の小さな世界観の中で気に入った、気に入らないと気取っていても仕方が無い。経済の()の中での砂屋の立場を箔椀の時代に戻し、いや、それ以上に高からしめるために、透は反発によって蒔を変えようとするのではなく、対話してお互いが成長できるような関係を志向する方がよいのだろうと思った。
 帰りの馬を走らせる透に、後ろから蒔がぺったりと貼り付いている。背中越しに伝わる温度に、自分自身の身体も熱を帯びていくようだった。
「少し、速めてもよいか。」
 透はふと冷たい風を浴びたくなって、そう投げかけてみた。
「日が暮れる前に、戻らないとな。」
 言い訳のような言い方になった。
 蒔の腕の力が少しだけ強くなったのを感じてから、わざと気負ったような顔をして手綱を引いた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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