第29話(第5章第3節)

文字数 12,494文字

 釣瓶落としの日が暮れて、あたりの色が紫から黒へと変わるころ、ようやく目指すべき(むら)の灯が見えてきた。
「手を振ってるな。」
 行く手に明かりが揺れるのを、透が目敏く見つけた。あらかじめ報せてあったので、迎えに出てくれていたものらしい。
「ばば様。」
 媼は、姉妹の祖母と言うから還暦はとうに超えた老齢のはずだが、大地に根を生やしたようにどっしりと、蒔が駆け寄るのを胸で受け止めた。
「蒔。すっかり娘らしくなったな。まずは入りなせ。」
 招き入れられた屋は、茅屋(ぼうおく)と言ってよいほどに壁のほつれが見える藁ぶきに、風除けの材木が立てかけられた簡素な造りだった。
(三陸の家を思い出すな。)
 荷物を抱えながら追随すると、農具や調理器具が家人だけに分かる秩序をもって並べられた様子が、生まれ育った断崖沿いのあばら家の中を思わせる。
「いまも、独りで住んでいるのですか。」
 土間に立って茶の支度をする祖母の背中に、蒔が尋ねた。
「月に何度かは、入用のものを持って来てくれるよ。それで不便はしていないね。」
 燭台の灯りに照らされた人となりを視ると、旋毛(つむじ)から鬢までことごとく燻した銀のような光沢を放った髪は、小屋の結構とは裏腹に、確かに困窮はしていない境遇と見えた。
「一番上の伯母さまが、漢医さまを婿にとったのです。町の方に住んでいて。」
 蒔が透の方を向いてぼそりと説明した。
(女の多い家系と言うことだ。)
 滴と蒔も女子だが、その母も女ばかりを兄弟に持つのだと、僅かなやりとりではあるが理解がついた。
「最後に会うたのはいつだったかね。あの子が亡うなってからだから…」
「まだ明治になる前でした。」
「するともう四年以上か。早いものだ。」
 媼は指を折りながら目じりの皺を深くして微笑んだ。
「ばば様、これを。」
 蒔は手元に用意していた包みを対面へと滑らせた。媼はほほ、と口の中で呟きながら結び目に手をかけ、透漆で塗装された木箱を取りだした。
「出羽さまの…」
「山桑です。せっかく送っていただいたのに、すっかり遅くなってしまいました。」
「うれしいね。年月はかかったが、神様が戻ってこられたよ。さっそく明日、一枚お供えに行って来よう。あんたらも詣りなさい。」
「はい。」
「あの山桑、このあたりの神木だったのか。」
 透が納得したように頷いている。
 競りの日に誤って売りに出してしまい、後で慌てて取り戻した山桑の椀は、鹿角の神木を加工したものと聞いていたが、この媼が送ってきたものだったらしい。それで椀に作り変えて贈り返しに来たというわけか。天台寺でもそうだが、霊験ある樹木を故あって切り倒す時、それを他の用材と十把一絡げにするのではなく、こうして大切に加工して神のもとに再び奉ずることが多い。蒔の手で椀になるならば、神職や邑の者たちも納得だろう。媼は献納するものと、顔役に渡すものといって何枚かを受け取った後、残りの椀は「町の方で、売りに出せばいい」と、丁寧に箱へ入れ直して渡し返してくれた。
 味の濃い(ふき)を煮た汁で身体を温めながら、しばらく久闊を叙すような話を祖母と孫が応酬しているのに、朱夏と透は黙って耳を傾けていた。
「それにしてもすっかり娘らしくなった。もう好いた人もできたか。」
 媼の問いに、それまで如才なく応答していた蒔が思わず黙り込んだ。顔を赤らめるような初心(うぶ)な反応ではなく、唇を結んだ表情は何かもっと心に蟠るものがあるようだった。
(なんだ…? 蒔も透のことが好きなのだと思っていたが、透の前で遠慮しているようにも見えないな。)
「ばばにも娘だったころがあったでな。」
 媼は語りたがらない蒔の心情を汲み取ったように、みずからの方から物語り始めた。
「若者組の、少し年上の男だった。一緒に田植えをし、山に入って草を摘んだ。優しい男だったな。崖に生えておったうつぎの白い花を取りに行ってな。枝から手折って贈り物してくれた。」
「それはじじ様の話なの。」
 蒔も初めて聞く話のようだった。
「いや、じじはそんなことはひとつも知らんと死んでしもうたさ。なにせその男は早くに亡うなったからな。あのころ南部は公方様から蝦夷地の警護を命じられて、草木も生えぬような氷の地へ遣わされておった。あるときおろしあの船が攻めてきて、みな討たれてしまったと伝わっておる。」
「文化の露寇のことですか。」
 朱夏は驚いて思わず訊き返した。そして頭の中にある歴史事跡の年代を確かめ、目の前の媼が思っていたよりもずっと年嵩なのだと気づかされた。
 媼もまた驚いたように朱夏の方を向いた。
「そう、よく知っておる。ただの下女かと思うたら。」
「朱夏と言います。わたしは三陸の生まれですので、異国船を目にすることも幾度かありました。」
 媼は感じ入ったようにこちらを見つめ返してきた。
「そう。太平の世と言ってもそれはお江戸だけの話で、下級の者はひどいものだ。」
「わたしも戊辰のいくさで、好いた人を亡くしました。」
 好いた人、と、媼の言葉に沿うように、春一のことを称してみた。そう説明するのが、もっとも今の気持ちに適っていると感じた。
 蒔は顔の半分だけで振り返って目を伏せている。
「そうだったか。あのときはここらあたりも、ずいぶん焼けてしまった。」
「どのあたりがいくさ場になったのです。」
大舘(おおだて)へ向かう街道の、久保田との境の峠が主だったと聞く。あのあたりの田は踏み荒らされて、その年の収穫はほとんどできなかったな。」
 朱夏は明日、そのあたりへ行ってみようと思った。
「マタギの連中は、イネには執着せんのだろうかな。」
 媼は連想するように呟いた。
「マタギ。」蒔が反応する。
「粂太郎どのから聞いたことがあります。」
「滴の婿殿だったな。会津から流れてこられたのだったか。山の中へ分け入る木地師なら、深いところで出会うこともあったであろう。不思議な連中よ。耕作の出来るような土地も少ない山奥におるはずが、その集落は大きい。田畑にしがみついているわしらとは、違う生き方なのだなと思う。」
「マタギが、いくさの時にやってきたのですか。」
 朱夏は自分の関心事へと話を戻そうとしたが、
「そう。鉄砲のいくさであった。おそろしいことであった…」
 媼はそれだけ呟くと、ふうと疲れた顔をして、片づけを始めてしまったので、その話はそれで打ち切りになった。

 隙間風の吹く家だったが、客分も含めて綿を詰めた暖かい掛け布が備えられていたのは助かった。透は番犬よろしく最も入り口側に寝床を与えられ、女たちの寝息から少し離れて休んだ。
 雲少なく空は高いが、その色は鈍色にくすんだ翌朝、媼に連れられて近くの井戸へ水を汲みに行った。
「ここに居る間は、朝晩と汲みに行っとくれ。」
「承知した。もっと大きい樽はないのですか。」
「頼もしいの。」
 使い込まれた樽は、(たが)が黒漆で塗られている。かつて浄法寺から贈られた物なのだろうか。何度か往復して家の脇にある(かめ)を満たしていく。透明で冷たい水面に手を浸し、掬って顔を洗ってみると、ここの水も鉄のような匂いがすることに気がついた。
「透、手伝ってるの。」
 戸口へ振り向くと既に着替えて、歩き回る支度を整えた朱夏が弁当の包みをたすき掛けに背負っているところだった。
「早いな。もう行くのか。」
「町までは少し遠いからね。商店なんかをあたってみるよ。あんたらは山へ行くんだろう。気を付けなよ。」
「ああ、おまえも…」
 透は沈黙した。はっきりとした話を聞いたことはないが、朱夏の考えていることはわかるような気がした。
「きのう言ってたのが、春一ってやつのことなのか。」
 鉄山で、朱夏が名乗っていた呼び名。
 それは戸籍を改竄して、鉄山に潜り込むために利用した、といった即物的なものではなく、もっと深い絆なのだろう。
 早池峰山で朱夏が黒々とした鬱屈の沼へといりかかっていたのは、鉄山の生業を放擲することだけでなく、その絆を剥がされた痛みに因っていたのではないかと今では思っている。
「そうさ。ちょうどよかっただろう。蒔もわたしの方を見て、やっとあんたのことを好いてるんじゃないって分かってくれてたよ。」
 目と目を合わせなくても、女同士で通じる呼吸があったのだろう。
「そんなことはどうでも…おまえ、」
 雲間から日が差し、朱夏の身体が一瞬白く消失したので、その先の言葉を失ってしまった。
「もう行くよ。早起きした甲斐がなくなってしまう。」
 踵を返して北へ向かう背は、漆掻きをするうちに引き締まってたくましい。だがだからといって鉄山に居た時のように、この背を見て男だと錯覚することは二度とないだろうという確信を抱かせる、そういう雰囲気を纏った後姿だった。

 三人で朝餉を済ませたあと、媼に見送られて出立した。途中、言われたとおりに出羽神社へ参詣してから、蒔とともに西へ、山を登る道を往った。
「丹とは、そもそもどういうものなのだ。」
「突き詰めて言えば、岩石ですね。」
 昨晩の内に、探し物の分担は決めてあった。朱夏が町へ向かって商業的に流通している辰砂を詮索する一方で、透は蒔に付いて尾去沢の鉱山近くまで入り、製造あるいは天然のものがあるかを聞いて回ることとした。
「西国では各地に鉱床が見えて、掘るほどに赤みを混じらせた岩石がとれると言います。奥州では、出羽の国に太い鉱床が一つあると書いてありました。」
「それじゃ、このあたりで出るかどうかは博打みたいなものか。」
「どうでしょう。銅の採れる山ならば、同じように採れるような気がします。それにさっき拝んだ出羽の神様。」
「名前が一緒だからと言って、関係があるのか。」
「わたしが読んだのは、江戸で書かれた書物ですから…」
 蒔の言いたいことは分かった。奥州の地理感覚を持たない著者の作ならば、鉱床の位置を指す言葉の粒度も荒くなるのではないか。つまり、脊梁山脈を越えた羽州側の鉄山なら、広く望みが持てるのではないかという期待だ。
「祖母上は、心当たりがあると言っていたのか。」
「いえ、ばば様にはわたしたちは単に椀の卸先がないかを探しに来たと言ってあります。もとは南部領といえ、いまでは違う県となっていますから、丹を持ち出すとなると、わたしたちの箔椀が領外に出る時のような、ややこしいことになるかもしれないと。」
「そうなると祖母上にも迷惑がかかるか。」
(気を揉み過ぎな気もするが。)
 県境の番所は即席で、肝煎りの証書を見せれば難なく通ることが出来た。鹿角と浄法寺が別の県だと言う区分を肌で感じる機会はないままだ。新時代になって、藩の代わりに置かれた県と言うものは、どれほどの苛烈さで各位のもつ資源を囲い込むつもりなのだろうか。
(それに万一問題になるとしたら、たとえ黙っていても親類縁者に累が及ぶことは避けられないのではないか。)
 今回の鹿角行きに、滴がほとんど関わっていないことを改めて意識した。蒔の行動は思慮深いようで実は危ういのではないか。ならば自分がしっかりせねばなるまいと気を張りなおした。
 いくらもいかないうちに、炊煙のあがる一角に辿り着いた。もともとあった邑が、鉱山労働者のための、食事や山道具を供給する拠点として変貌しているのだろう。
 橋野の近くの集落はまだしも古くからの農林業に従事する者が暮らしていたが、それでも鉄山ののろで汚れた水がそうした産業に深刻な被害を与え、またそれに対する救済もままならない状況で、鉄山では増産ばかりが掛け声となっていた。
 生業を放棄せざるを得なくなった住民たちがこうして鉱山と共生を図るのは自然の流れともいえた。
「兄妹か。だれの紹介で来た。」
 しばらく所在なさげに棒立ちしていると、どこからともなく目つきの悪い男が表れ、二人に話しかけてきた。親を亡くして山に流れてきたとでも勘違いしているようだ。
(まああながち間違ってもいないかもな。)
 心もとない旅の地で、雲をつかむように石ころを探しているのは、雛鳥のような頼りない姿に見えるだろう。
「この山では、辰砂は採れませんか。頭領と話をさせて欲しいのですが。」
 蒔が臆せずに所用を告げるが、男は警戒を強めたようだった。
「ここは銅山だ。おまえら働きに来たんじゃないのか。山法(やまほう)を知らんのか。」
「分かっている。お見込みのとおり、働きに来たのではなく、いま言ったように銅以外に採掘している鉱脈があれば、そこから採れるものを買い取りたいと思っている。」透は助け船を出した。
「ふうん。」
 買い取るという言葉を聞いて、男は二人の佇まいを値踏みするような目を向けてきた。
「頭領と言っても大勢いるし、山全体を仕切っているのは、おれたちもあったことのない江戸のおえらい方だということだ。」
「それじゃああんたの頭領に会わせてくれないか。」
 透は男に幾許かの銭を握らせた。
「わかったよ。とりあえず話をしてくるからここで待ってな。」
 胡散臭そうな目は消えないが、とりあえず害意のある者ではないと分かってもらえたらしい。
 走り去って行った山の上へ目を向けると、坑道口だろうか、木組された大きな構造物の影がほの見えて、透は橋野の高炉を囲んでいた(やぐら)を思い出した。
「山法というのはなんでしょうか。」
「橋野の鉄山は藩営だったから詳しくは知らないが、危険を伴う山仕事では、頭領に付いて仕事を学び、一人前になった後も組になって仕事をするんだそうだ。頭領と弟子は親子のような強い絆で結ばれるし、国中の山で、誰の弟子だ、誰の義兄弟だという関係性が通用する。そういう人と人の紹介によって、山での立場や仕事の内容を決めていくことを、彼らは山法と呼んでいるということだろう。」
「それは…」
「働こうとする者を、身分ではなく信用によって早々に秩序に組み入れようとする意味では優しいとも言えるし、いったん中に入ってしまえば心強いだろう。だが、おれたちのように一歩引いた余所者として振る舞おうとする人間は排斥されることになる。」
 この調子だと期待は持てなさそうだ。
 透は邑の中にいくつか並んでいた鉱山労働者向けの商店から、話し好きそうな亭主の顔が見えた道具屋を選んで冷やかすことにした。
「銅山相手の商売を始めてから、それだけで生活が成り立つようになっちまった。」
「山にはもうあまり入る連中もいないさ。」
「芸人だか、娼妓だか分からんような得体のしれない連中も棲みつき始めてる。」
「あねこ殿、役者かと思うくらい綺麗だな。稼ぎに来たのかい。」
 透に問われて好き勝手に喋る亭主の話を聞いているのかいないのか、蒔は黙って後ろについている。さきほどの男とのやり取りから、透に任せた方がうまく運ぶと考えたのだろう。
 他の邑の者たちとも話をした。聞いた話は役立つものも多かったが、派手にやり過ぎて目立ってしまったかもしれない。
 たっぷり一刻くらいそうしてから、さっき男に話しかけられた辻まで戻ると、すでに男は帰って来ていた。
「なんだ。まだいたのか。諦めて帰ったのかと思ったぞ。それならそれで構わないが。」
「悪いな。道具屋に長っ尻してて。頭領は。」
「一応話をしたが、これから潜るってんで、会うのは勘弁してくれ。それに、お求めのシンシャだったか。ここにはないってことだ。」
「そうかい。」
 予想通りだったが、蒔の方を振り返る。
「以前は採っていたとか、そういうことはないのですか。」
「銭をもらったからな、詳しそうな頭領たちには聞いて回ってやったんだ。だがだれも聞いたことないということだ。」
(律儀なことだ。思ったよりも悪いやつじゃないのかもな。)
 なおも食い下がろうとする蒔を押しとどめ、透はこの界隈に見切りをつけることにした。

 媼の家から尾去沢までの往還はさほど険しくもないのが分かったので、透はここからさらに奥へ沢を登ってみてはどうかと考えた。蒔がついて来られるかは分からないが、いざとなればどこかで待たせれば良いだろう。先ほどの男には礼を言って辞した。
 鮎でも獲れるのか、小ぶりの(やな)がいくつも仕掛けられた渓流を遡る。高く登るにつれて周囲の木々の、冬に向けて葉を落としきった白い枝ぶりは徐々に衰えていく。
 岩場に足を取られながら進むと、行く手に滝が見えた。
(迂回して上を目指すか…?)
 落差を持って轟々と落ちる瀑布に対峙しながら、蒔の方を振り返ると肩で息を吐いている。逸る足取りで進んだ自覚はあったので、さもありなんと気遣うと共に、近づいてみると思った以上の高さであったことで気が変わって、しばらく休憩してみることとした。
「蒔、このあたりで…」
 足を止めた透を後ろから見つめ、蒔は何も言わずにそこに腰かけた。あたりの河原には大小の岩石が転がり並んでおり、このあたりを捜索してみるのも良いかもしれない。透は蒔のところまで道を戻り、隣に並んで腰を下ろした。
「どんな石を拾えばいい。」
 透は改めて辰砂がどのような形質で転がっているのかを確かめようと蒔に聞いてみた。だが蒔は疲れたのか中空を見据えて黙り込んだままである。
「蒔。」
 肩に手を置いてなお呼びかけると、蒔はびくりとして振り向いた。
「黒い石の方がいいのか。むかし鉄山で散々拾ったが。」
「ええ…そうですね。その石を採って下さい。」
 蒔が指差した小石を拾って渡すと、その石を足元にぶつけて叩き始めた。ぶつけられた白い石に、拾った黒い石の粒粉が付着して汚れていく。
「丹の含まれた石ならば、砕いた時に赤い粒が出てくると思います。」
「そうか。」
 透は蒔を待たせて、近くからいくつか黒い石を集めて戻った。
 二人で手分けして、足元の岩場に打ちつける作業を続ける。かん、かんと山合いに固い音が残響した。
 候補となった石が黒だけを虚しく散らすと、また別の石を拾ってきて戻る。しばらく続けるうちにそこだけ色の違う小山ができた。
(もし、後からここを見る者がいたら、何の跡だと思うかな。)
 考えると可笑しかったが、そろそろ徒労となる兆しが見えてきた。やはり滝の上まで登るのが良いかもしれない。考えながら蒔の方を見ると、先程から同じ石を握りしめて、かつ、かつ、と同じ場所を叩いている。
「少し、飽きたな。」
 透が軽い調子で話しかけると、蒔は力のない笑いを浮かべて砕いた面の粉を掌で拭った。そうして手に付いた汚れを着物でさらに拭う。
「やはり、滝の上へ行ってみるか。」
 そう言いながらも、一息つこうと再び腰を下ろした。
「朱夏はどうしただろうか。」
 町へ行って、流通している商品がないかを見に行ってくれている。朱夏の首尾が上々ならば、自分たちが必要以上の労を負うこともない。引き返すことも考え始める時間帯になっている。
 かつ、かつと蒔が再び同じ石を打ちつけはじめ、その動きはぐり、ぐりと次第に円を描きながら擦り付ける動作へと移って行った。
「どうしようか、蒔。なにか意見はないのか。」
 黙り込んだ様子に不審を感じて顔を覗き込んで見た。
「朱夏は、好いた人が居る、居たと話していましたね。」
「え。」
 不意に全く違う話が始まって面喰った。
「ごめんなさい、考え事をしていました。こんな山まで来て、探し物をしていると言うのに。」
「いや、たんたんと作業をしているときほど、考え事をしてしまうのは分かるよ。」
 話を合わせながらも、今朝発ちがけに朱夏が告げて行った言葉を思い出した。
「あいつは鉄山では男として働いていたからな。今だって健脚で漆山を駆け回っている。頼りになる友だが、おれもあいつのことを惚れた腫れたの相手とは思えないし、あいつにもそういう気持ちがあるんだとむしろ驚いたくらいで・・・」
 正直な感情だった。
「では、透は…」
「ああ。」
 何を問いたいのか、聞かずとも分かった。だが蒔も、自分も、それを言葉に出してどうするのだろう。今のまま、塗りをやってよい器を作る、加飾の研究を進める、そのためにこうして山の中まで丹を探しに来ている。それで良いではないか。
 ただ頷いた。それだけで全てが伝わる気がしたし、伝わっている自信があった。お互いの考えていることが一致しているという確信に浸されたとき、言葉こそが却ってその空間を掻きまわす余計なものとなる。どちらか片方の語彙(ごい)によって無理やりに規定しなくても、ただ胸の奥を源とした熱が全身を駆け巡るのに感覚を研ぎ澄ますだけで十分に満たされていく。
 見つめた先の蒔は、ほたりと紅涙を流す。いまや小石を痛いほどに握りしめて、蒔はこちらを見つめ返してくる。ぴんと張られた糸のように、二人の視線が交差する。
「なぜ、泣くのだ。」
「ふたりの絆に、わたしは入り込めないのではないかと。ともに親しく塗りをしながらも、どこか余所を向いたあなたを、わたしは。」
「馬鹿な。街道中に響いた佳人が、そのように辞を低くして。おれだって…」
 見目も良く、腕もたつ、全てを兼ね備えたように見えていた女が、自分と同じように思い悩む弱さを見せたことにうろたえた。
 蒔は唇を噛みながら待っている。しかし、透は次に継ぐ言葉を知らなかった。
「透。」
 不意に腰を浮かせた蒔を見て、だから透は反射的に仰け反った。
 ひどく傷ついた顔をして、俯いてしまう。
「なぜ、なにも言ってくれないのですか。」
「おれが、何かを言うことではないと、思って。」
 福岡の夜、朱夏と話をしたことを思い出した。あのときは自分の腕のことを言って、話題を逸らした。あのあと鉄細工が上手くいってようやくある程度の面目が立ったが、まだまだ来たばかりの見習いの身である。滴たちが、自分を認めてくれたときに、蒔とのことをどう考えるのか。先々に至る関係を思い描くのならば、そういった過程が自然なものだと考えていたし、いま物足りなげな眼を向けられても、それは変わらない。
「旗屋から、縁談が来たようです。」
 だから蒔が意を決し、眉根を寄せてそう告げた時、そうらやっぱり、と本音とは裏腹に納得した顔をしてしまった。
「この間、鹿角行きを姉さんに相談した日、透たちが居なくなった後に伝えられました。」
「相手は誰なんだ。」
「政という、近江からの食客だそうですが、縁談が成るならば旗屋の養子にすると。」
「応じるのか。」
 あいつか、と高い山の上で柄の悪い連中に隠れる様に居た小男を思い出した。
「まだ決めていません。おっ父も姉さんも悩んでいます。」
「それはそうだろうな。」
 揺さぶりだろう、と誰が聞いても思う。
 砂太や滴の意に反して殺し掻きを推進する旗屋は、すでに節度を持った採取という題目を捨て去り、掻き取ったあとの木々を切り倒す手間さえ惜しんで大量の器を生産している。砂屋の拠り所である蒔の腕をみすみす手放して、そのような均質な生産に従事させるのは、浄法寺全体にとっての損失である。また政という男は、赦免状を笠に砂屋の山を荒らしている仇ともみなし得る。実際に山に登って警戒に当たっていた滴にとってはなおさらその意は深いだろう。
 そう考えた時、このような縁談は一蹴すべきものとも見える。だが一方で、透がここに来てからの半年の間にも、浄法寺の勢力図が様変わりしてきてしまっているのも事実である。官有林への入会のまとめ役は取って代わられ、近傍の木地師や塗り師たちの囲い込みも進んでいる。蒔を旗屋に送り込むことは、こうした旗屋の動きを監視して制御する契機として利用することも出来る。
(あの姉御は、現実的な考え方をする。)
 切れる手札が限られている中で、その最も重要な一枚を自分のようなものにむざむざと渡すようなことはあり得ない。
「だが、おまえ自身はどうなんだ。正直、人手の多い旗屋の方が、良いしごとができるような気もするが。」
「それは錯覚でしょう。長い目で見て正しいのはうちのやりかたであるはずです。」
「一番身体も動き、気力もあるこの若い時を、こんな風に材料を探しに深山に入ったりせず、ただ創作のみに使うことができるのは良いことなのかも知れない。」
「塗ることだけがわたしの望みではないのです。それで得られるものなど、大したものではない。」
 行商人たちからの不躾な眼差しや、砂屋の稼ぎを一手に背負う重圧など、蒔が得て来たものは自分の心を奮わせるような満たされた感情ばかりではなかっただろう。
 競りの日に車座の中心であたりを睨みつけていたのと同じ目で、蒔は透と再び視線を合わせた。
「なぜ、理詰めで説得するのですか? どうしてただ、おれは嫌だ、行ってくれるなと言ってくれないのですか?」
「得られるもの、と言ったな。俺の存在は、おまえにとって得るべきものなのか。」
 透は自分がひどく冷たく、また哀れなことを言っているのを承知の上で、
「そんな自信はない。蒔、むしろ俺は、おれ達は、おまえの創作を、豊かなる生き方の契機を妨げているのかもしれない。何が正しいのか、わからない。」
「そんなことは気にしないでください。わたしは、どこでも塗りは出来ます。いざとなれば、木地師のように流れて生きていけばいい。」
「蒔、おれは…」
 何かを答えるより早く、蒔が頭突くように透の懐に入ってきた。体勢を崩して後ろへ倒れ込む。さいわい固い河原の石に頭を打ち付けることはなく、芳しい蒔の髪の匂いが間近に迫ってきた。
「それよりもわたしは、好きなものをただ変わりなく好きで居たい。あなたのことが慕わしいというこの気持ちが、生業だけに時を費やす中で変わっていくことのほうが、わたしはこわい。」
 透の胸に顔をうずめながら蒔が言葉を発する度、暖かな息が肌に触れた。
(この熱を受け止めるだけの度量が、自分にはあるのか。)
 いや、それを今からでも身につければ良い、ただそれだけの話だ。起き上がり、蒔の身体をその腕に強く抱きしめた。
「蒔。」
 耳元に囁くように、みずからの素直な感情を告げようとする。蒔はその気配を捉えて身体を震わせた。
「蒔、おれは・・・」
 言いかけたそのとき、
 かさ、かさ、と。
 対岸の茂みが震えるような音がした。
 咄嗟に目を送る。風の音ではない。
 蒔も気付いたようだ。透に覆いかぶさっていた身体をわきにどけた。
「なんでしょう。」
「見てくるよ。」
 素早く身体を起こし、じゃぶじゃぶと細い流れを渡った。薮を分けると、奥へ向かって小さな黒い影が退いて行くのがかろうじて見えた。
 人ではない。
 火照った身体から急速に血の気が引き、空気の温度までが変わった気がした。
 小熊――?
 まずい。
 すばやく蒔の元に戻る。
「熊が居る。まだ見えないが。近くに。」
 大声を出さないように、落ち着かせた。
 あたりを見回しても、立ち木や大岩のような遮蔽物は見当たらない。見通しはよいが、河原の道を距離を取りながら戻るのが良いだろう。
「あれ…。」
 蒔が青ざめた顔で見据えた先に、不吉な黒い塊が見えた。
(母熊…あんなに大きいのか。)
 遠野の山にも熊は居る。だが近寄らないようにと教えられた笹竹の薮には寄らなかったし、話は聞いても、実際に対峙するのは初めてだった。
 まだ三十間ほどの距離があるが、鼻をひくつかせてこちらを観察している様子が見て取れる。
 音が悪かった。
 丹を求めて清流を探しまわり、小石をかつかつと打ち付ける姿は、縄張りを荒らす敵と捉えられてしまった可能性がある。
 じりじりと、背を向けそうになる蒔を押しとどめながら、ゆっくりと後退して行く。
 それだけ、恐ろしいものを視界に入れなければならない。
 爛々とした白い目が正しくこちらを向いている。
 こちらが退がるよりも、あちらが向かってくる速度の方が上だ。
 だから、徐々に距離が縮まって来る。
 今や彼我の距離は十間あまりになり、相手の巨体が、嫌が応にも恐怖を募らせる。
 きゃっと蒔が石に足を取られて倒れ込む。
「大丈夫か。」
 透は熊から視線を離さずに屈みこんで様子を見るが、どうやら気を喪ってしまったようだ。後ずさりも限界が来たようだ。
 鋭く黄色い牙が剥き出しになる。
 携帯の小刀の他に、武器などない。いざとなれば足元の石礫が頼りだ。透はできるだけ大きな礫を手に握りしめた。
 突如、ばねのように四つ足に力を溜めた獣は、収縮した力を解き放ち、猛然とこちらに突進してきた。
「おあおああああああ!!」
 恐怖を霧消させ、己を奮い立たせるために大声を上げて威嚇すると、相手は少し怯んだように踵を返し、そしてまたこちらへ向かってくる。
(まだ、まだ投げない。)
 思いっきり目を狙ってぶつけてやるため、雄たけびをあげながらぎりぎりまで引きつけようとした。
 だが投擲(とうてき)体制に入るよりも速く、熊は指呼の間合いに入りこんできた。
 鋭い爪が振りかざされ、痛みに備える覚悟を決めた時、
「岩に登れ! 大きく見せろ!」と叫ぶ声が聞こえた。
 熊が警戒して退く瞬間を見逃さず、透はどこから湧いたのか自分でも訝るほどの力で蒔の身体を抱えあげて背後の岩場へと持ちあげると、自分もすぐにそれに続いた。
 ぱんっと鋭い音が響く。
 見下ろすと、先程まで猛り狂っていた巨獣は、喉元を撃ち抜かれて赤黒い血を流しながら倒れている。
「どうなったのですか…」
 蒔は目を覚ましたようだ。腰の抜けたまま、髪を乱しながら尋ねる。
「分からんが、もう動かないようだ。」
 それでもしばらく警戒して岩場の上に残っていると、足音も立てずに毛皮に身を包んだ男が向かってくる。
「おい、大丈夫か。」
 男はこちらを見上げて呆れたように言った。肩に担いだ猟銃から、硝煙が白く漂いあがっている。
「熊楯も、鈴も持たずにこんな上まで来て、川を荒らして、逃げるようなやつがいるとはな。何しに来たんだ。」
「それは…」
 透は答えに窮した。丹を探していたと。説明すればこの男はさらに冷笑しそうだ。昂奮を抑えるために身体を震わせた。
「なんでも良いが、さっさと去るんだな。」
 それだけ言い棄てると、男の関心はもう、たった今仕留めた獲物のもとへと移ったようだった。駆け寄って屈みこむと、刀を使って毛皮を剥ぎ始めた。
「マタギ…」
 茫然としたまま蒔が呟く。
 あれがマタギか。命を救われた。
 鋭い小石を強く握りしめた掌は、赤く汚れていた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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