第19話(第4章第1節)
文字数 4,971文字
川霧に霞む板葺きの家並が、なだらかな斜面にまるで秩序を持ったかのように散らばっている。よく見るとそれらは細かな沢筋に沿って構えられているものらしい。
浪打峠を下りて福岡宿に着いた後、椀物は携えていないが得意先に挨拶だけしていくという砂太と別れ、滴に連れられて川を遡った。
「
聞き慣れない響きに、遠いところまで来たという感慨を覚えた。
「山が見えてからがまた長いんだ。先に昼餉をとっていこう。」
川べりで弁当を食べ終わり、更に少し歩いてようやく、浄法寺の在所にたどり着いた。
安比川の本流沿いには大きな構えの屋敷が連なっており、中からはしゃっしゃっと何か作業をする音が絶えず響いている。
「ヤチのほうは、うちとこの沢じゃろ」
「お構いなしじゃ。」
「誰ぞ、行って来るべ。」
「誰がいくべ。」
向こうの軒先で、なにやら騒いでいる男たちがいる。
「あれ、うちの前で何やってるんだ。」と滴が駆け寄っていく。集まってがやがやとしていた中から、眉が太く目鼻立ちのはっきりした男が滴に気づき、
「おう、帰ってきたか。ちょうど良いとこに来た。」
「あんた、何の騒ぎさ。」
「越前の連中が、またうちの沢に入ってるらしいと、報せてくれたんだが。」と別の男に目をやる。
「まだ目立てにも早いのに、何の用かと思って後を追ったんだが、木地をな、採りに行ったんだろ。別にそれだけなら構わんが、場所がな。」
報せに来た男はまだ興奮しているようだ。
「誰か、話をつけてやらにゃ。」
「それで、誰が行くか揉めてたわけ。」
滴は呆れたように行った。
「だったら全員で行こうさ。多勢の方がいいだろ。」
「まあそうだが。」
家の中をちらちらと見てまだ渋っている男たちを蹴飛ばすようにして滴が先へ向かい始めた。
「悪いけど重い荷だけその辺に置いて、あんたたちも来てくれ。」と朱夏と透の方を振り返った。朝から歩き通してきたが、まだ一休みとはいかないようだ。
立ち並んでいた板葺き屋根が尽きると、斜面に切れ込んだ沢が網の目のように山頂に向かって伸びていた。それが分かるほどに木々が薄くなり、そこかしこにはやっと植えついたほどの苗木が痩せた身を僅かな風に揺らしている。
(近づいてみると、案外寂しい山だな。)
朱夏は木炭を切り出すために登った山を思い出した。すっかり切り出した後の山は、こんな風になっていた。
切り株や木の根に足を取られないように気をつけながら、一つの沢を選び、男たちと列を為して上へと遡った。ややあってようやく少し繁みが深くなってきた。ブナや山桑の木が生えるほどの高さまで登ってきたようだ。
「居た。あいつらだよ。」
報せに来た男が指を差した。その方向には身を潜めもせずに二つの影が動いている。
(勝手に他人の山に入るってのは。)
どんなならず者だというのか。山の中は入会地となって村同士で権利関係が実に複雑怪奇に入り乱れているものだと思っていた。ここでは「うちの沢」という声が聞こえたように、一つの問屋が占有しているのかも知れないが、いずれにしても揉め事になるのが明らかな状況で目立った行動をとる連中のことが分からなかった。
「弁当でも食べてるのかい!」
滴が怖じずに影に向かって声をかけた。影はしばし動きを止めたが、そういった呼びかけを予想していたかのように、今後は向こうからこちらへと向かってきた。隣を見ると透も肩肘に力を入れている。
「おお、これは。砂屋の若女将どのに、それに若旦那どのも。」
姿を現した男は身の丈六尺にも及ぼうという大男で、顔を埋め尽くした髭は三陸の嶺得和尚のようだが、嶺得よりも線は細く、目の下の隈が陰気な印象を与える男だった。
「そんな呼び方をしてくれても、おべんちゃらにもなってないよ。ここらがうちの沢だってのはわかってるんだよね。」
滴はこの男と面識があるようだ。
「そうじゃ。」
「わかっとんのか。」
滴の後ろから男たちが弱々しく囃し立てる。
「ええ、もちろん。だが我々のような根無し草には、自分の山というものが無い。木を切って飢えを凌ぐためには、ときに他人の山に入らざるを得ないときもある。」
男は落ち着いた調子で返すと、ふと目を伏せた。殊勝な気になっているのかと思ったら、伏せた先にもう一人の男が居た。こちらは対称的にずんぐりと小さな、あたまの毛をすっかりと剃った狸のような男である。小さくて居ることに気がつかなかった。
「
大男の声に従い、小男の方がふところから多当に折った紙を取り出す。広げるとそこにびっしりと文字が書かれていた。
(御綸旨・・・?)
朱夏は前に立つ男たちの陰からその文字を読もうとしてみた。かろうじて「近江国」「宮」「公文所」といった文字だけが見える。
「なんて書いてあるんだ。」と透がささやいた。
「よく読めないな。由緒がありそうだが。」
「またそれか・・・」
滴の勢いを削がれたような声が聞こえた。男たちは満足したようにしてまた紙を折りたたむ。
「ほんの僅かに、何本か頂戴するだけですとも。ご迷惑はかけませんよ。」
大男の方が押しつけがましい声色を使った。
「わたしたちも厳しいんだ。下の坊主山を見ただろう。」
滴が眉根を寄せた。
「それより若女将。盛岡に行ってきたんでしょう。首尾はどうでした。」
大男は無視したように訊ねた。
「別に、あんたの使い走りで行ったんじゃないんだよ。また日を改めて、父から皆に伝えさせて貰う。それまで大人しく待ってな。」
滴にとってもやりにくい相手のようだ。
「その言葉がすでに、無事に赦免が済んだという証拠のように聞こえますが。」
薄ら笑いを浮かべて、二人の侵入者は苦々しい顔の砂屋の面々に見送られながら山の奥へと消えていった。
すっかり低くなった日を半身に受けながら黙々と山を下った。
「おまえら、もう今日はいいぞ。」と男の一人が他の連中に声をかけたので、通いの木地師や塗り師と思われる男たちは、三々五々散っていった。
「付き合わせて悪かったね。」
滴が朱夏と透を気遣うが、何に付き合ったのかも分かっていなかった。
「要するに、自分たちの山に入って勝手に木を切られたんでしょう。なぜ黙って見逃したんですか。」
「あの紙を見ただろ。」
「由緒のありそうな文字が並んでいましたが。」
「それだけ分かれば上等だよ。要するに京の天子様が、あいつらに諸国の木々を勝手に切って良いという免状を出している。あれはその写しだよ。」
滴が苦々しく説明した。
もともと山とそこから採れる天然資源というのは、「御山」という通念により、国の支配者の所有に帰すると考えられている。九世紀頃の皇族が瓦器の椀を見て味気なく思い、木地椀を制作することを国の宝であると思し召したという伝説は遍く知られ、相対的に天皇家の権威が低下した江戸幕府の治世下においても、切りだした木を細工して作った椀物を天子への献上品とするならば、大木の切り出しも手前勝手として良いものと考えられていた。
先ほど「政」と呼ばれた小男が披瀝した書面は、そうした献上品の椀物を作ることの赦免であり、それは取りも直さず国内のどの山にでも入って大木を切り出して良いとする赦免状となる。こうした赦免状を片手に携え、近江国を祖地とする木地師たちは脊梁山脈を縦断して移動を重ねてきた。
一方、浄法寺というこの地方の山もやや特殊な事情を持っている。奈良朝末期の創建とも伝えられる八葉山天台寺の影響を受けて発達し、平安末期には平泉の藤原氏によって京都に紹介されたことで、この地方の御国産品として京の天子への献上品となるに至った。
加えて、南部藩の藩政時代には、一本いくらの役銭や切り出した木から得た利益の一部を税として藩に支払うことで、藩の管理する面付帳に個人の名を書き込んで、管理義務を負う代わりに所有する権利を百姓のひとりひとりが自覚していた。
流浪を旨とした木地師たちと、その土地に定着して権利関係を細かく管理した木地師たちの利害が、浄法寺を舞台として鋭く対立しているのである。
「あの、
「さっきの大男か。ただ者では無い雰囲気だったが。」と透が相槌を打つ。
「明治の世になって、越前から何人かの仲間とともにここへ流れてきて、旗屋という問屋の食客になった。」
「商売敵ってわけか。」
「それだけなら別によくある話さ。渡り者というだけなら、あんたらだってそうだろ。」
朱夏と透は顔を見合わせた。
「だがあいつはあの政ってのを引き連れてて、赦免状を笠に着てうちの山にまで平気で押し入ってくる。旗屋もそれを黙認しているんだよ。」
「だったら旗屋とやらに抗議してやったらどうだ。」と透は血の気の多いことを言う。
「わたしはそれでもいいけど、おっ父はあんまり事を荒立てたくないみたいでね。それにうちの木地師も塗り師も、黙々としごとをするのは得意だが、争い事には慣れてないからね。」
確かに、先ほど山の様子を見に行く役を押しつけ合って軒先で問答を繰り返していた男たちの様子を見れば、何となく察しはついた。
「渡り者を受け止める度量を持ったこの山には、いろいろな人がやってくるということですね。」
朱夏の言葉に、これまで黙っていた男が「ははっ」と笑った。
「いい括り方だな。その中には、おれも含まれている。」
男は笑みを浮かべながら自分の顔を指さした。
「あれ。」と朱夏は目を瞬いた。「もういい」と雇いの木地師や塗り師たちに声をかけてそれぞれの家へ帰した男は、砂屋の重役だと思っていた。
「さきほど、若旦那、と声をかけられていませんでしたか。」
「そう。おれは砂屋の若旦那、ってことになるんだろうな。だが元は会津の生まれなんだよ。」
「へえ、腕次第で重役に取り立てられるってことか。」と透がまなざしを向けるが、
「いや、そうでもないよ。結局は家族で問屋をやってる、よくある商家だと思うよ。」と男は軽くいなす。
(ということは・・・)
朱夏は滴の方を見た。
「もったいぶった言い方をするなよ。この人はわたしのとうちゃんなんだよ。」
朱夏の視線に気づくと、滴は焦れたように言った。
「えっ、そうなのか。」
透は目を丸くして男と滴の顔を見比べている。
「
(夫婦だったのか。)
朱夏は三陸にいた頃、春一と夫婦になりたいと考えていたことを思い出した。あのとき考えていたのは観念としての夫婦に過ぎないが、目の前で健康な肉体を持った少し年上の男女が夫婦と名乗っているのをみると、それを実感としてようやく認識できはじめた気がした。
「あんた、なんか無礼な目をしてるね。」
滴はまだ目を丸くしている透の方をじろりと睨んだ。朱夏は自分が睨まれたように気になって、
「粂太郎どのは、なぜ浄法寺に来られたのですか?」と話を戻した。
「ああ。文久の頃に出稼ぎのつもりでここまで来たんだが、居心地が良くてつい居ついちまって。気づいたら古株になっちまったなあ。」
そういって足元の石を蹴っ飛ばした。山の斜面を転がっていく小石の動きは、先の方までよく見えた。
「そうしているうちに故郷は新政府とやりあって、あっというまに藩自体がなくなっちまった。それでも戻れば親戚や知り合いは居るかも知れないが・・・」
もはやわざわざ帰るつもりはないようだった。
「あんたの腕はみんな認めてるんだからね。うちだって手放す気はないよ。」
「ははっ、砂屋に捕まったのか、滴に捕まったのか分からんがな。」
粂太郎は照れたように笑った。
(誰でも呼ぶ、ということは、悪い人間ばかりを呼ぶものではない。)
各地を歴訪する木地師たちの動きが、混ざり合い、溶け合って文化にとって良い影響をもたらすこともあるのだろうと思った。