第30話(第5章第4節)
文字数 10,568文字
顔を、腕を撫でると汗をかいている。
頭を掻くと皮から抜けた髪が下へと落ちる。
ようやく興奮が収まってきた。
爪が伸びる。
指先で爪の固さを触って確かめると、それがとても不思議なことのように感じられた。
生きている、ということを自らの代謝が滞りなく在ることにより明確に意識した。それは鉄山から逃げる時のような先行きの不安とは性質の異なる恐怖からの解放だった。
媼との約束通り、晩の分の水汲みをして、顔を洗った。
手に付いた赤い汚れから、熊の傷口のぬらりとした血液の赤を思い出した。
一歩間違えれば、動かなくなっていたのは自分だった。
ふぅと息を吐き、平静へと戻ろうと努めてみる。
屋内へ戻ると、蒔は座り込んで考え事をしているようだった。早くに失神したおかげで、本当に恐ろしい一幕を目にせずに済んだのは不幸中の幸いだろうか。落ち込んではいるものの、寝込んだり、言葉を失ったりするほどのことはなさそうで安心した。
媼は、とにかく温まることだと言って、今日も汁物の支度をしてくれている。
「蒔、この赤なんだが。」
透は掌を広げた。
水で洗っても忽ちには落ちないこの赤は、探し求めていた丹ではないのか。あのとき咄嗟に握りしめた小石に含まれていた成分が、冷や汗で溶けだしたのでは。
「顔料であるかもわかりませんし、そうだったとしても弁柄かもしれません。なんとも言えないですね。」
「まあそうだが。」
気のないやりとりだった。もう少し詳しく確認してもよいが、同定の根拠が希薄な中で、再びあの河原に戻るには危険が大きすぎる。
(さて、どうしたものか。)
それっきり二人とも考え込んでしまった。
「あれ、なんだか暗いね。首尾はどうだった。」
そこに朱夏が帰って来た。
「熊っこに襲われたんだとよ。」
媼が山菜を刻みながら事も無げに言った。
「あんたも喉が渇いただろう、勝手に飲んでおくれ。」
朱夏は驚きながらも、旅装を解くと足を洗って板間に登りこんだ。透の対面に腰を下ろすと、自在鉤から瓶を降ろして茶を淹れる。
一息つくのをまって、透はさっきの出来事を説明してやった。
「無事でよかったね。三陸じゃあんまり熊は見ないけれど、生きて帰ったのなら武勇伝になるね。」
「やめてくれ。逃げ回っていただけだ。それに、マタギに偶然助けられなければ、ほんとうに危なかった。」
「マタギね…」
「それより、お前の方の首尾はどうだったんだよ。」
「空振りだったね。」
喉をごくごくと鳴らしながら、一日かけて歩いた商店に、心当たりはなかったと朱夏は報告した。
「あんたら、ほんとは何しに来たんかね。」
鍋を抱えた媼が囲炉裏へと向かってくる。
「さっきから聞いてりゃ、どうも椀を売りに来たわけでもない。そもそも椀を抱えて持ってきておらんからな。べつにうちへ逗留して命の洗濯に来たというわけでもないんだろう。」
媼の問いかけに、朱夏がぽかんと蒔の方を向いた。話が通っていると思っていたのだろう。透も今朝まではそう思っていた。
「ごめんなさい、ばば様。隠しごとをするようなことになってしまいました。」
「謝ることはないが、あまり危ない真似はしてくれるなよ。はなれて暮らしてはいるが、おまえは大事な孫娘なのだから。」
(まあ確かに…)
久しぶりに訪ねてきた孫娘が、気ぜわしく鉱山へ向かったと思ったらさらに深い渓流に分け入り、獣に襲われて帰って来たというのである。心臓に悪いことこの上ないし、連れてきた透と朱夏という家人がなにごとか
そう考えると、朱夏の知恵と当意即妙の受け答えが評価を受けたようで、透はわがことのように嬉しくなった。不思議なものである。
熊のことですっかり後ろに追いやってしまったが、蒔とはこれまで以上に心が通い合ったような気がした。折を見て、帰ってからのことを話したい。自分の腕を磨くことも、砂屋の経営に参画することも、積極的に捉えて研鑽し、蒔と正面から向き合いたいと考え始めていた。
その蒔は、媼に弁明するように、ここにきた理由などを話している。気恥ずかしさに頬を赤く染め、眉を垂らした困り顔を眺めることで駆り立てられた感情は、庇護欲と呼ぶのだろうか。
(いや、)
独立した職業人に対して庇護という言葉は不適である。それでも意外と危なっかしいところもあるこの娘が、自律して生きることに助力する、助力をしたい。そういうことだ。
一方で、朱夏に感じるこの情はなんだろう。話し込む祖母と孫娘の代わりに鍋をかき混ぜる同い年の娘。日に焼けた顔は鼻筋が通り整っているが、そうした見た目の印象がこの情を規定しているわけではない。透は考えを続ける。ともに修羅場をくぐった絆と説明すればそれまでだが、それは過去の経緯の概説でしかない。
そうではなく、現在または将来に向けて自分が朱夏に望むこと、それは
よかれかし
という言葉が一番近い。仏事に心を留めて歌を作ろうと試みたり、山に分け入って漆の生育に労を注いだり。隣り合わせに座りながらも全く異なる世界を見据えている友が、これからも壮健なままで見識を豊かにしつづけること、それを楽しみにしているし、自分もまた負けていられないという気にさせられる。負けずに豊かさを得ること、そのためには…。
「いかりの話をしようか。昔話だが。」
媼が皺枯れた声を出したので、漫ろな思索が霧消した。
「いかり…」
丹を探しに来て、専心が嵩じて奥地へ踏み入ってしまった、という今日のことを説明していた蒔が、怪訝な声を上げる。
「むかし、南部も、津軽も、久保田もなく奥州がひとつだったころの話よ…」
勝手に汁物をよそって啜っていた朱夏も、箸を握りしめたまま頬杖をついて興味深そうに傾聴し始めた。
―北に住んでいた若者がいた。若者は分限者の息子でな。健康でたくましい青年だったが、ちぃとばかし血気が盛んすぎた。この地方を治める有力者の息子だったのをいいことに、まわりの百姓たちに乱暴をし、好き勝手に遊び回っておったのだ。
あるとき、若者は供まわりの者を連れて、狩りに来ていた。若者は鹿角に狩りに来ていたのだ。
(なんだか廻りくどい話し方だな。)
「しいっ。」
透が不満を述べようとするのを、朱夏が唇に指を当てて制した。
―鹿を追って山の中を走り回るうちに、若者はすっかり喉が渇いてしまった。朝から歩き通しだったからだ。若者は供まわりの者に命じて湧水を探させた。水を飲んで渇きを癒そうとしたのだ。
しかし水は見つからなかった。知らぬ間に若者たちは山の奥の奥まで来てしまっていた。山の奥には水が見つからなかったのだ。若者たちは道に迷ってしまったのだ。
(昼間のおれたちのようだな。)
今度は黙って、頭の中で思うだけにする。
―力尽きそうになったその時、向こうに杉の木が見えた。大きな杉の木だった。不思議なことに、杉の木には白い光が差していた。杉の木は強く光っていたのだ。最後の力を振り絞り、若者たちは杉の木の方へ向かった。杉の木の根元には、泉がわいていた。若者たちは泉の水を飲んだ。むさぼるように飲んだのだった。
朱夏がはっと息をのむのが分かった。光る杉の木と泉の水。その組み合わせに、なにか琴線に触れるものがあったのだろうか。
―そのとき杉の木の枝から、釣り鐘が落ちてきたのだ。鉄でできた釣り鐘だった。釣り鐘はちょうど若者に覆い被さるように落ちてきた。若者は釣り鐘の中に閉じ込められてしまったのだ。
「はよぅ、どかしてくれい。」
中から若者が助けを求める声が聞こえてきてな。供回りの者は合力して釣り鐘をどかそうとしたが、鉄の釣り鐘は大きさの割にずしりと重たかった。必死に汗をかいてどかそうとするが、びくともせん。
「たわけどもが、はよぅどかさんかい。」
若者はじれったくなって荒っぽい口をきいた。供回りの者たちは馬鹿馬鹿しくなってな。日頃からこの若者にいじめられていた仕返しをしてやろうとおもったのかもしれん。釣り鐘の中に若者を残して、どこかへ行ってしまった。
「おぅい、助けてくれ。誰ぞ。」
供回りの者たちの気配が消えて、若者は泣きそうになりながら叫んだが、誰も答えることはない。若者は初めて、ここで誰にも助けてもらえないままで、飢え死にしてしまうのではないかと背筋が寒くなったのだ。
隣をうかがうと、蒔が息を飲んでいる。
(すっかり物語に入り込んでいるな。)
透は子どもに聴かせるような話に退屈し始めていたが、朱夏も真剣な目をして聴いている。よほど心に適う逸話だというのだろうか。
―そのとき、釣り鐘の隙間からひとすじの光が差し込んだ。さっき杉の木から放たれていた光が強くなったのだろうか。若者は必死に釣り鐘の縁の土を掘って、ようやく外をのぞき見ることができるほどの穴を空けた。
外の光の中から、尻尾のある娘が表れた。娘には尾が生えていたのだ。
「おまえはなにものか。」と娘は若者に言った。
若者は有力者の息子だったから、そのように問われたことがなかった。
だから、「おまえこそなにものか。」と問うた。
娘は「わたしはいかりの姫である。おまえたちは山を荒らす。山を荒らさないならば村へ帰してやる。」と若者を叱った。
若者は美しい顔をした娘が荒々しく自分を叱ったことに驚いた。そして乱暴な振る舞いをやめて、二度と残酷な狩りはしないと約束した。
娘がほほ笑むと、不思議なことに釣り鐘はごろりと横倒しになり、若者は外に出ることができた。そして娘は麓までの道案内をしてくれたのだ。
麓に帰ると若者は供回りの者たちに「おれは今まで悪いことをした。おまえたちにも申し訳なかった。」と謝った。供回りの者たちは勝手に帰ったことを怒られると思っていたから、不思議なこともあるものだと肩すかしを食らい、そのあとで笑った。それから皆で肩を組みながら笑って家まで帰ったのだった。
いまでも鹿角のどこかに、光る杉の木があるのだ。そして杉の木の根元には泉がわいているということなのだ…。
ふぅと息を吐いて、媼が語り終えた。蒔が気を利かせて、茶を淹れてやる。
「結局だから、若者は
透は身も蓋もない感想をいった。
「それもあるだろうけど・・・神話にも似たような記事がありましたね。」
朱夏が応じた。
「少し細かなところが違っているようですけれど。天子さまが吉野の山で道案内をされるような話ではありませんでしたか。」
媼は目を細めた。すっかり朱夏のことを気に入った様子である。
(それでのめり込んで聴いていたのか。)
それにしても朱夏は博識である。透も素直に舌を巻いた。
「貴人の編んだ物語とて、もとは土着の素朴な逸話だったものよ。」
「そうなのでしょうね。」
「吉野と言えば…」
蒔が気づいたように言った。
「丹の産地ですね。ばば様はそのことを指してこの話を?」
「いかりとは、井の光ということだろうよ。地の底に見える光る石。それは丹ではないのかね。」
蒔は目を丸くして祖母の顔を見る。そうしてから透の方へ振り返った。
「杉の木とやらは、本当に鹿角のどこかにあるのか。」
その目に促されて訊いた。
「さあ。不作の年には、いかりの地へ辿り着けば、宝に出会えるかもしれない。そう言って山に入る者もあった。だが何かが見つかったという話は聞かなかったね。」
透の問いに、媼はすげない返事を返した。
「元来、奥州は不毛の地よ。山に囲まれて肥えた地は狭く、冬は地吹雪に阻まれて、あばら家の中に留まるほか生きる術もない。狩りをして山の幸を少しだけ分けてもらい、あとは僅かな滋味を求めて宝探しに望みを託す、愚かで悲しいことではないか。」
「三陸も同じですよ。」
「遠野だってそうだ。」
二人は同時に応じた。
「そうして得た僅かな作物も、生きるために育てた馬たちも、お上の都合でたやすく奪われた。」
「五人組の重税に耐えかねて、村の仲間を売るように鉄山に送らなければならなかった。今なら村の肝煎りたちの苦悩がよくわかります。」
「あんたらは…。」
媼は蒔の肩に手を置いて、
「ああ、何も言わなくていいさ。この娘をこれからも助けてやってくれ。」
と軽く頭を下げた。
「しかし、いかりの地を探すというのは手掛かりになるな。里の者たちなら、ある程度の目星はつくんじゃないのか。」
「少し離れているが、
「明日、そこに行ってみると言うのはどうだ。」
「やめときな。まず一日で行って帰ってこれる道中じゃないよ。」
逸る若者を制する媼は、ひととき、いかりの姫が顕現したようであった。
「わたしは今日の続きで、まだ話を聞きたいところがあるから、また町の方へ行くけれど。透たちは少し休んだらどう。今日は色々あったんだろう。」
朱夏は気遣うように言った。
「だが、そういうわけにも…」
透が抵抗すると、
「じっとしていられないなら、とりあえず先生のところに行って来な。ちょうどいい。届けて欲しいものもある。山桑も一枚持って行けばいい。」
媼が提案した。娘の嫁ぎ先の漢医のことだろう。はなれて暮らしているが、物の行き来はよくしているということだった。
さあ、とにかく食べな。と媼が手をたたく。
「ばば様に話をしたら、箸の上げ下ろしまで決められてしまいました。」
蒔が苦笑した。気負っていたものを降ろしたような、安らかな苦笑いだった。
水を汲んで朝餉を摂ってから、北へ向かって出発した。今日は朱夏もゆっくりと、透たちと同じ刻限に足並みを揃える。
「何が入っているのかね。」
透の背負った籠を見ながら朱夏が訊いた。
「畑の野菜と、あとは
蒔が答える。二人の仲がずいぶんと丸くなったようでこそばゆい気がしたが、二人とも知に貪欲な性質は似通っている。自分が煮え切らないせいで蒔に要らぬ心配をかけ、朱夏にも気を揉ませたことを今更になって申し訳なく思っていた。
「じゅんさいって何だ。」
透は気恥ずかしさを払うように質問した。
「
朱夏がまたぞろ難しいことを言う。
わが情 ゆたにたゆたに 浮きぬなは 辺にも奥にも よりかつましじ
朱夏が吟じるのを聞いて、蒔が笑った。二人の女が透の顔を見て、同じようにくすくす笑っている。
(なんだよ、すっかり仲がいいじゃないか。)
行ったり来たりしているのはおれのことだと言いたいのか、と憎たらしい気持ちになったが、鋭く反目されるよりはましであると納得することにした。山の澄んだ水を溜めた窪地に生える蓴菜は、秋になると越冬用に地下茎を伸ばす。これを採取して根菜として食用するのが鹿角より西の郷土料理らしい。媼がその一部を娘に裾分けしようということだろう。
「じゃあここでね。」と家並みが濃くなってきたところで朱夏といったん別れる。
「一人で大丈夫か。」
「何言ってるんだよ。昨日だって一人で歩いていたさ。」
「まあ…」
「また晩に。今日はなにか収穫があるといいけどね。」
見えない荷を背負いなおすように一息つくと、朱夏の背はあっという間に小さくなった。
「わたしたちも。」
蒔に促されて街道を離れ、水田の畦を抜けて集落の中心の方へ入って行く。段丘になった小さなつづらを登ると、
「なんだ、よく来たね。蒔坊かね。」
落ち葉を掃いていた女がこちらに気づいて声をかけた。挨拶をする蒔の様子を見れば、これが姉妹の伯母なのだろう。
「おばばのとこに来てるんだったね。まだしばらくいるんだろ? 仕事の手伝いでもして行きなよ。あんたがいれば村の親爺たちもよろこぶよ。」
「ええ、どうしましょうか。」
困り顔をしながら蒔は楽しそうだ。伯母は滴と同じように歯に衣着せぬ話し方をするが、周りを陽気にする空気は年の甲というところだろうか。
媼に託された手土産を渡せば、その場で荷を開けて中身を確認する。
「あれえ鶏団子がはいってるじゃない。えらく奮発したね。あんたら、あとで煮込んでやるよ。とりあえず入りなよ。」
手招きされるままに建物の中へ入ると、土間に腰掛けが置かれ、簡単な待ち合いのようになっていた。つんと鼻をつく匂いの中で、開け広げられた奥の間にこの屋の主人が陣取って、診察だろうか、百姓めいた男の手を取ってふむふむとうなずいている。
「あんた、蒔坊が来たよ。」
「ああ。」
奥方に声をかけられた亭主はしかめっ面をしたまま生返事をする。診察を受けていた親爺の方が却って、「身内かね?」とこちらを振り返っている。
「いつ来たんだい。」
伯母が腰かけて相手をしてくれる。
「まだ、おとといの晩に着いた所です。」
「昨日はどうしてたの。おばばとゆっくりお話しできたのかい。」
「昼間は、外に出ていたんですが、夜はゆっくりと。狩りをしていた若者が山でいかりの姫に会うという昔話をしてもらいました。」
「ああ、なんだっけ。道に迷ったらきれいな姫さんに出会った話だったかね。あんまりちゃんと覚えてないな。こういう話はあんたらのおっ母の方が好きだったもんさ。それにしても…」
裏手の方から「御免下され。」と女の声がするのに、伯母は「はあい」と応じて引っこんでいった。しばらく奥から景気よく話し込む声が漏れ聞こえていたが、すぐに籠を抱えて戻って来た。
「薬草か。」
透は呟いた。
「見ての通り、うちの人は煎じるのが商売だからね。」
伯母はにやりと笑うと、草履を脱いで、畳間に誂えられた薬箪笥に籠の中身を詰めて引き出しを閉める。
「あの箪笥も、漆が塗られているな。」
「桐ですね。うちの作ではなかったと思いますが。鉄具が多いですから、今の透の腕があれば作れるかもしれませんよ。」
「ふうん。」
それもいいかもしれない。いつになく創作意欲が沸き立っているのを感じた。
「それにしても、外に出ていたと言って、どこを見物してたんだい。」
伯母は土間に下りて籠の中身を払う。裏にまだ薬草を携えてきた女を待たせているらしい。
「塗りに使う丹を探しに。行商に頼むのも心もとなくて、自分で来てしまいました。」
「丹ね。このあたりにあるのかい。」
だが伯母はその答えには興味がないようで、
「あんた、いつまでもうんうん唸ってないで、さっさと薬を出してやりなよ!」
夫に呼びかけると、また裏に引っこんでいった。
(せわしないことだが、用は済んだし、邪魔ならさっさと辞して良いのでは。)
鶏団子を煮てくれると言ったが、そんな余裕はないくらいに忙しそうだ。親戚同士の距離感はよく分からないが、そうした透の考えに蒔も気付いたようで、
「夕方に出直してきましょうか…」と腰を浮かせかけている。
「御免下され。」
そこに表の戸の外で、野太くたくましい声が響いた。
蒔と顔を見合わせて、それから亭主の方をみやるが、まだ自分の世界に没入しているようだった。
「どなたか、いらっしゃらないか。」
人の気配はあるのに応答がないので、表の声は少し焦れたように繰り返した。
「はあい。」
伯母が戻ってこないので仕方なく、蒔が応える。
「お入りください。」
板戸を滑らせて入ってきた男を見て透は驚いた。
昨日のマタギである。
「女将は少し外していまして、よければ少しお待ちください。」
気付かずに応対する蒔に、マタギの方も「そうか、では。」と腰から提げた嚢中より小袋を取り出して空いた場所を探そうと目を配り、そこでようやく爛々とした視線を自分に向けている透に気付いたようだった。
「あんた…。」
「あれ、なんだ、昨日の小僧。よく見れば娘もか。驚いたな。」
「あ。」
蒔の方は倒れ伏していて、昨日はほとんど顔を合せなかったはずだが、装束や身にまとう雰囲気にそれと気づいたものらしい。
「昨日は、助かったよ。礼もきちんと言っていなかったな。」
「構わんよ。おかげでこうして熊の胆も獲れた。礼を言うのはこちらかも知れんな。」
マタギはそう言って手に持った小袋を軽く揺らした。
「富治さんかね。お久しぶり。お待たせしたかね。」
表の様子に伯母が駆け戻ってきた。
「なんだ、蒔坊と面識があったのかい。」
「おたくの身内かい。なに、昨日山で行きあってな。こいつを獲る手伝いをしてくれたのさ。」
富治は小袋の紐を緩めると、中から茶褐色のものを取り出した。
「大きいね。干せば何匁になるね。」
「さあ、十と二、三匁くらいかな。」
「それじゃあ…」
伯母は台の上に置いてあった算盤を取り上げて珠を弾く。
伯母が示した銭嵩に、富治は満足そうにうなずいた。行商の薬売りに頼めば干す手数料に足して仲介料まで取られる中で、この家に持ち込めば自分の懐に多くを入れることが出来るのだろう。
「それにしても、手伝いって何のことさ。いつから猟師に鞍替えしたのかね。」
伯母は商談を進めながら、不審そうに蒔に尋ねる。黙り込む蒔に、富治は笑い声をあげた。
「山の中で睦みあうようなことをしたら、神様がお怒りになるのも当たり前だ。おれはその機をうまく捉えただけだがな。」
一瞬ぽかんとした後で、「なんだ。そういうこと。」と伯母はにやにやと口の端を上にあげて二人の顔を交互に眺めた。
「おばさま、勘ぐるのはやめてください。」
蒔が抗議する。
「山の神様はおんな神様だからね。若くて威勢のいい男が大好きだ。あんたも大事なものをぽろっとみせてやれば、それで照れ笑いに怒りを鎮めてくださっただろうさ。」
後の方は透の方を見ながらの台詞だった。あけすけな物言いに、思わず赤面してしまった。
「そういうわけだ。さて。」
ひと抱えの銭を手にして、富治は早くも去ろうとする。
「なんだい、気ぜわしいね。一服して茶のひとつくらいよばれていったらどうだい。」
「気遣いありがたいが、冬に向けて色々準備したいのでな。せっかくまとまった路銀が入ったんだ。」
「旅マタギかい。」
「そうだ。出羽へ行くのか、蝦夷へ渡ってみるか。仲間と相談してみるさ。」
脊梁山脈を伝って南北へ旅するマタギたちの世界は、自分たちとは規模が違うものだと恐れ入った。
「あんた、この子らになんか助言してやりなよ。」
伯母がその背に呼びかけた。
「助言と言うと。山にはうかうか入らないように、とかそんなものでいいのか。」
「俺たちは丹を探していたんだ。富治さん、丹の採れる沢を聞いたことがないか。」
透は、伯母が丹探しを助ける心遣いをしてくれていると気づき、その意を体して説明した。富治はふうんと頷くと、
「それであんな山奥に居たんだな。しかし生憎だがよくは知らんよ。蝦夷地じゃ金が採れると言うが、丹は聞いたことがないな。大人しく上方から取り寄せたらどうなんだ。」
(ここまで見つからないとなると、それもひとつかもしれないな。時間はかかるかもしれないが。)
「近頃は鉄やら銅やら、蟻みたいに山を掘る連中ばかりが入ってきて、おれ達の猟場も手慰みのように荒らされるんで弱ってるよ。戊辰のいくさで使った銃が安く払い下げられているらしい。丹も、よほど銭になるのかね。」
「銭のためにではなく、塗りをするために採りに来たのです。制作のために。」
蒔が唇を噛みながら言い返す。
「いえ、もともとは信仰のため、ということでしょうか。美しさはただそれだけで、傷ついた人々の心に拠り所を与えるものでしょう。鉄や銅も鋳直して実用に利する道具を生み出すものですが、この世界に遍くある素材に手を加えて、便利さや美しさを生み出すというのは、責めるべき営みだとは思えません・・・」
「別に責めてはいないが。」
自信なげに尻切れになる蒔の主張に、富治は苦笑した。
「信仰な。俺たちにもあるよ。だがそれは山の恵みと、それを分け与えてもらうことへの素朴な感謝だけだ。形のあるものに縋るより、それは優れて内面の問題だと思うが…」
富治はそこまで話して、はたと、
「いや、まてよ。あれはどこで…お守りを携えているやつがいたな。それで思い出したよ。」
「なんのことだ。」
「ずっと以前、戊辰のいくさの時に傷を得て休んでいた時のことだ。」
「そういえばあんた、あのいくさに出たんだったね。」伯母が思いだすように言った。
「丹だったのか、赤く輝く石を見せてもらった気がする。あのときは色々あったからな。記憶がはっきりしないが。あの鈍い赤は、山でも見たことがなかった。」
「それはどこで。」
掴みかからん勢いで透は尋ねた。
「川の交わるところに、肝煎りの屋敷があって、そこが救護所のように使われていたんだよ。」
富治はたじろぐこともなく応えると、「さあ、もういいだろう。」と足早に屋敷を後にした。
しばらく探るように蒔と顔を見合わせた。手がかりと言えるだろうか。
「お待たせしたな、蒔坊。」
ようやく診察を終えた亭主が、受診に来ていた親爺とともどもに土間に下りてくる。
「めごか娘さんじゃの、女将。」
「色目使ってないで、せいぜい養生しな。うちのが長々と悪かったね。」
長い診察がようやく終わって、蒔に興味を示して絡みたがっている親爺の尻を伯母が叩く。
「あんたらはゆっくりしていきなよ。あんたには詳しく話を聞いてみたいねえ。」
透はすっかりこの女将の関心の的になってしまったようだ。
「伯母さま、せっかくですが、日のあるうちに歩きまわっておきたいので…」
蒔が詫びる様に言うと、
「どなたさまもせわしいことだ。あんた、帰りに寄りなよ。こんないっぱいの団子、とうちゃんとあたしじゃ食べきれないからね。」
嘆息する伯母の隣で、亭主も口をすぼめながら頷いていた。