第9話(第2章第3節)
文字数 4,106文字
梅雨時になって切り出す木材自体が湿り出すと、乾燥にこれまで以上の時間がかかるようになり、さらに木炭の生産量が伸び悩んだ。役人たちはほうぼうをまわって木炭を納めてくれる村を探し、また実際に木炭を運び込む牛馬の数は日増しに増えていたが、高炉に投入する木炭の量は常に不足していた。
また役人たちは並行して、鉄山の周りの山から木を切り出せないものかと付近の村々と交渉しているようだったが、入会権など昔からの権利関係が複雑に入り組んでおり、一つの山だけで何人もの村方と話をしなければならないことで難航しているようであった。
何日もしとしとと雨が降り続いたあと、久しぶりに晴れ間の見えたある日、朱夏たちは富男に連れられていつもとは違う山へと向かっていた。富男は珍しく機嫌が良いようで、「今日はここを、切る。」と後ろの山を指さして人夫たちに言い渡した。これまでに入ってきた山に比べると斜面もなだらかで、切りやすそうな木が多く繁っている。
「前々から、村方たちと話をしていたのだが、ようやくこの山にも入れるよう話がついた。」
富男は鼻を膨らませている。
「しかしこのあたりは禁足地です。入れば祟りがあるかもしれません。」
近くの村出身の人夫が水を差すように言ったが、富男は平然として、
「そう言った話は、すでに村の古老たちとつけておるわ。神である天子様が我々を直接支配する時代になったのだ。天子様の意にそって鉄づくりを行うのに、祟りなど起こるはずもない。古老たちもそれで納得しよったわ。おまえらも怖じ気づくな!」
「しかし・・・」と人夫はなおも心配げに訴えるが、
「これだけの木が目の前にあるのだ、祟りなどというくだらないものに怖じ気づいて、切り出さないという手があるか!」
富男は顔を赤くすると、みずから禁足地の山へと入っていった。男たちは黙って付き従わざるをえなかった。
作業を始めて見ると確かに切り出しやすい木々だったし、無理のない体勢で
「しばらくはこの山で作業が続きそうだ。楽そうでいいね。」
慶二が呟いたのが、人夫たちの大半の意見だったかも知れない。
午を過ぎると、雨が降り出した。山の天気は変わりやすい。
「このくらいの雨なら、続けられるさ。」
富男は何人かの人夫に命じて、人足小屋から人数分の蓑を持ってこさせた。
しばらくすると、木立の隙間に霧が立ちこめ始め、隣で作業をする人夫の姿も見えづらいようになってきた。
朱夏は何本かまとめた木を縦にして縄で縛っていたが、「あっ」という間に手を滑らせて倒してしまった。からんごろん、と音を立てて木が転がる。
「気をつけろ!」
近くにいた男が叫んだ。幸い斜面がなだらかなので、それほど転がり落ちることもなく止まってくれたようだ。慶二に手伝ってもらいながら木を起こし、再び縛り始める。
(いつまで続けるのか。)
雨に打たれているうちに指先も冷えて感覚がなくなっていく。しかし富男から作業中止の号令はない。号令がない限りは止めるわけにも行かず、朱夏たちは指先をさすりながら黙々と作業を続けた。
「ふぅ、はやく終わらせて、みそ汁でもすすりたいね。」
と慶二が言う。はやく暖まりたいと朱夏も思った。
そのとき、急に霧が少し薄くなった気がした。
同時に、空気が重くなったような感じがして、いやな予感がした。
(なにか、来る・・・)そう思った瞬間、ごごっと音がして、地面が揺れ始めた。
「な、なんだ。」と慶二も異変に気づいたらしい。
ごごごっと嫌な音が近づいてくる。
「に、逃げろ!」
「クエじゃ!」
と叫ぶ声がその中に僅かに聞こえたかと思ったとき、すぐ近くで鼓膜が破れるほどの大きな音がして、それ以外何も聞こえなくなった。
空気がばりばりと木立を揺らしながら朱夏の身体の両側を通り抜けていく。
そのあまりの圧力に、朱夏は斜面に伏せると隣にいた慶二の身体にしがみついた。
(な、何が起こってる!)
朱夏は丸くなって耳を塞いだ。さっき「クエ」という声が聞こえた。つまり、土砂崩れか。
沢づたいに崩れたのだろうか。
そこでは誰が作業をしていた。
いま自分がいる場所は安全なのか。
矢継ぎ早に不安が胸の中を行き来した。
「朱夏っ。」
気がつくと、慶二に呼びかけられている。大きな音は少し収まりかけてきたようだが、代わりに雨がますます強くなり、雷が鳴っている。
「はよぅ、下までおりよ! みな、おりよ!」
富男が声を張り上げているのがようやく聞こえてきた。人夫たちは身体を起こすと一目散に山を下り始めた。
そのとき、霧が少し晴れてきた。
(な、なんてことだ・・・)
骨を焼いたような色の土の塊が遥か上の方から崩れ、木々をなぎ倒しながら目の前まで迫っていた。
(少しでもそれていたら、死んでいた・・・)
朱夏は身の縮む思いをしながら、富男の声がする下の方を目指して走った。そのとき崩れた土の方向から、
「駒っ」「駒ぁ!」という声が聞こえた。
遠野の男たちだった。
「ま、巻き込まれたのか。」
慶二が走りながら声のする方を見据えて呟いている。
(あの、馬面の男か。)
遠野の男たちは、沢づたいの斜面で作業をしていたのか。三人で息を合わせながら斧を振るっていた姿を思い出した。
「駒っ!」
なおも叫ぶ透たちの声がしたが、近くにいた人夫たちに抱えられるようにして下へと連れて行かれるのが見えた。
ようやく、
「どうなってんだ! 何があった!」
下から三池が羽織の裾を濡らしながら駆け上がってくるのが見えた。
切り出して積み上げられた木の陰に隠れるようにしていた富男が出てきて、
「クエじゃ。次のクエが来るかも知れん、安全なところまで下りんと・・・」と放心して呟いている。
(雨が強くなったときに、やめていれば良かった。)
それはあまりにも遅すぎる判断だった。
「駒っ!」
そのとき、起き上がった二人の男が、崩れた土に向かってまた登ろうとするのが見えた。
「おい! 捕まえろ!」
富男は、我に返ったように、そしてやり場のない怒りをぶつける相手を見つけたかのように声を張り上げた。富男に命じられて、近くにいた人夫たちが二人を羽交い締めにする。
なおも暴れて逃れようとする二人の方に富男は近づいて、拳を握りしめると思いっきり頬を殴りつけた。頭の禿げた葛は「ぐぅっ。」と苦しそうにうめいた。
「葛! 何するんだ!」
透が我に返ったように言ったが、富男は透の方に向き直ると、再び拳で殴りつけた。透は顔をしかめたが、怯まずに「駒を! まだ生きてる! 助けに行かせてくれ!」と叫んだ。富男は再び透の鼻っ柱を殴りつけた。朱夏は思わず目をそらした。
透の叫びは悲痛だった。朱夏だって慶二が同じように土に埋まれば、必死で掘り返すよう懇願するだろう。
だが周りの人夫たちの眼は冷ややかだった。
「さっさと逃げるぞ。」
「一人死んだくらいで、大騒ぎしてもめ事を起こすな。」
「ただでさえ人夫たちにきつくあたる棒頭の機嫌を、わざわざ損ねるようなことをするな。」
そんな眼をしている。
「富男、やり過ぎだ。そのへんにしとけ。」
三池が富男の腕を押さえつけた。
「まずは逃げよう。」
少し離れたところまで戻ると、朱夏たちは並ばされて点呼を取られた。結局、巻き込まれたのは駒一人だったようだ。富男は「不幸中の幸いだ。」と、もごもごひとりごちている。
「何が幸いだよ。」
朱夏は富男に聞こえないように呟いた。
富男はその視線に気づくと一瞬たじろいだようだったが、すぐに睨み返してきた。
朱夏は黙って目をそらし、傍らに並んだ遠野の男たちの様子を伺った。
透は憔悴した様子で、顔を腫らして血を流している。葛は涙を流していた。
「禁足地に入ったから、やっぱり祟りがあったんじゃろ。」
先ほどの男がおびえた声を出していたが、富男は
「ばか! 雨が降ればクエくらい起きるさ。そんなものは村方の百姓どもの言い訳だ。どうせやつらは、この鉄山ともちつもたれつなんだ。木だって人手だって、うるさいことを言わずに出して貰わねば困るのだ!」
と叱りつけた。ようやく入ることが出来るようになった禁足地の山に、この事故がきっかけで再び入れなくなってしまうのを恐れているのだろう。
「とにかく今日は休め。亡くなった者は残念だが、木炭の増産は急を要す。明日からは土の状態にも注意して、がんばって能率をあげてくれ。」
三池がみなを落ち着かせるように言った。
「てめえが仕切ってんじゃねえよ。」と富男が毒づく。しかし三池は、
「おれがどれだけ苦労して村々から人夫を集めてきていると思ってるんだ。むやみに使い潰すようなことはしてくれるなよ。」としっかり釘を刺した。
(この男も、こんな真剣なことをいうときがあるのか。)
いつもと違う様子の三池のひとことに、朱夏は重みを感じた。
しかし朱夏には、三池や富男の言う「増産」というものがどれほど大事かよく分からなかった。それは人の命よりも大切なのだろうか。父が死んだ一揆の時の話を思い出してみた。百姓の命が侍たちに侮られることはよく分かっていたつもりだったが、実際にそれを形として目の当たりにしたのは初めてだった。月顕寺が燃えたときにしても、人が死にまではしなかったのだ。
振り返って見た山は、鬱蒼として人夫たちの前に広がっている。