第4話(第1章第2節)
文字数 7,693文字
翌日、朱夏は春一を誘って山へ来ていた。慶二は一晩寝るとすっかり元気になったが、両親に言われて今日一日は大人しくさせられているらしい。普段山菜や薪を集めに入るところよりも更に山の奥まで進んできている。
アカマツの繁みの中は日の光が疎らに差し込み、樹幹に囲まれて広さを持った空間の中に籠められた静謐な冷気を柔らかく照らしている。薄明るい足もとに気をつけて歩きながら春一の顔を伺うと、「それで?」と先を促す表情をしている。春一には何でも相談してしまう。
「おとことおんなは、なさけを通じるということが、めおとでなくても、あるらしい。そうしたときに、おとこのほうはおんなの生活のめんどうをみてやるというのが普通みたいなんだ。」
「それを、囲われている、というと。しかし何か悪いことをしているんじゃなく、ただ仲がよいということなら、それでもいいんじゃないのか。」
「悪いことでないなら、なぜかくすんだろうと思う。かくせてないし。あたしのことをわらしだと思って、かんじんなことを何も教えてくれない。」
足元の小枝をパキッと踏み割った。
「それに釜屋が来たあとは、おっ母はからだがしんどそうなんだ。」
春一は前髪をいじりながら、
「まあたしかに、若者組の兄さんたちが、娘たちとほたえてるのはいつも見てるわけだし、おれたちだって何も知らないわけじゃないわな。だがそれはおれたちがわらしだから隠すんじゃなくて、そういうもんなんだろう。」
「あたしはそこまで冷めたかんがえはできそうもないけど。」
「なにもはなしてくれないからといって、信じていないわけではないさ。おやが自分になにを教えてくれるかではなく、自分で何を出来るかを考えるべきだろう。だから朱夏がおっ母のことをおもって薬草を摘もうと山に登るのを、おれはこのましいと思う。」
(自分で何が出来るか、か。)
朱夏は不意に春一に褒められて少し身体が熱くなった。
「それにもっと言うと、朱夏が事情を知らないと言うことが、結局朱夏を守っているかも知れない。」
春一は一息あけて、ギョッとするような口調で言った。
「それはどういう・・・」
その意味を問おうとしたとき、「おーい」と頭の上で呼ばう声がした。見上げると男が一人、アカマツの根元にうずくまっているようだ。
「村の子どもらか、はよ、きてくれぇ。」
泣きそうな声を出している。
二人が近寄ってみると、大荷物を背負った男が梢にもたれかかっていた。山犬か何か獣の皮を上着にして、膝には脚絆をつけ、旅の風情である。
「ちょっとな、すまんけどな、水汲んできてくれや。」
「どうしたの。」
「横着してな、つづらを回るのが面倒でな、崖をスイスイといっとったら、ツタの蔓がな。」
男は少し興奮しているようだ。足をひねって動けなくなったくらいなら、少し休めば良くなるとは思うが、朱夏は言われたとおりに、男から受け取った水筒に近くの沢で汲んだ水を満たすと、シブキ(ドクダミ)を摘んで絞ってやった。その間春一は、男の草履を繕い、近くの枝を組んで応急の添え木を作ってやっていた。
男は水を飲むと少し落ち着いたらしい。
「兄さん、この近くの村のひとじゃないね。
春一が男の素性を質す。
「杣もたまにはやるが、今日は手斧を持ってない。魚を商う
「村に向かってるの?」
「いや、村には用はねえ。おまえらは漁師の子か? まだ午になる前だがこんなとこで油を売ってていいのか?」
(確かに、知らぬ間にずいぶん奥まできてしまったけど、そろそろ帰った方が良いか。)
朱夏は今更心配になってきた。
「まあおかげで助かったが。おまえらが来なけりゃ、大声で歌でも歌って獣にでも見つけてもらうしかなかったかな。」
二人が答える前に勝手に一人で話している。だいぶ元気になってきたようだ。
「お礼にいいとこに連れてってやろうか。どうだい。」
「いいとこってどこさ、あやしいところじゃないだろうな。」
「そうかまえるなよ坊主。ほんとにお礼をしたいんだって。」
春一は警戒しているし、朱夏はさっき春一に褒められた手前、はやく漆を探しに行きたい気もしたが、正直男の提案に惹かれていた。
「おれは、今日は朱夏につきあうよ。」
春一が言ってくれたので、ついて行くことに決めた。
「朱夏って言うのか。おまえら兄妹か? 兄貴はなんて言う。」
「春一。兄妹じゃないよ。」
春一は少し怒ったように訂正した。
「ああそう。おれは
足をかばいながら立ち上がると、意外とすらりと背の高い、いい男だった。
斜面を回り込むようにかすかについている道を往った。三池は先を急ぐように歩くが、痛む足を引きずってなかなか速度が出ないでいる。
「何か、急いでる?」
「いや別に。午までにつけばいいよ。」
右、左、右と拍子良く足を前に動かして痛みを紛らわせているようだ。朱夏と春一は気が紛れるように色々と話しかけた。三池は行商に行った町の様子や、人々から聞いた話などを気さくに教えてくれた。春一はだいぶ警戒心も解けて、三ちゃんと呼んで懐いている。
四半刻ほど上り下りすると、崖の切れ目に簡単な小屋が掛かっているのが見えてきた。
「ついたぞ。ああ、やっぱりもう来てやがるな。」
三池は呟くと小屋の筵をはぐって中に入った。二人も後を追う。小屋の中には三池のほかに二人の男がいた。一人は熊の皮を上着にして頭から覆っているずんぐりとした男で、土間に敷いた筵の上に胡座をかいている。毛皮の中の首元や手にたくさんの鉱石を装身具として身に付けているようだ。もう一人は三池と同じような格好をした狐のような印象の男で、柱にもたれかかっていらいらと煙草を吹かしている。
「えらく遅かったじゃないか。」
狐の方が言った。
「あんまり遅いからもう昼餉をここですませちまったぞ。」
「そうかっかするなよ。午までにここで落ち合おうってことだったろう。まだお天道さんも真南には届いてないだろ。」
「白河よりこっちは、日暮れが早いんだよ。さっさとしようぜ。」
狐は足元に下ろした荷をがさごそ漁って、鮮やかに彩色された布を取り出した。
「その小僧らはなんだ、サンよ。今日は別に口入れを頼んだわけじゃなかったと思うが?」
黙っていた熊皮の方が口を歪めながら三池を上目遣いに見た。
「売りもんじゃないですよ。さっきちょっと助けてもらいましてね。」
三池は答えながら自分も荷を解くと、縄を通した鉄銭を何束か取り出して狐の持っている布と交換した。狐は鉄銭の束を矯めつ眇めつ「ふん、いや、さすが南部のは質が良いな。」などと呟いていたが、
「用は済んだ。それじゃこれで失礼しますよ。」
と熊皮に挨拶をすると荷をまとめて小屋を出て行った。
三池は手に抱えた布を少し手折ると腰から取り出した小刀で切り出し、
「じゃ、これ、ちょっとだけど、おまえらにやるよ。むすめのほうに渡した方がいいかな。」
と朱夏に手渡した。
(えらくふわふわとした手触りだ。)
と、渡された布をまさぐる朱夏の考えを見透かしたように三池は、
「これが絹ってやつだな。麻布なんかは織り上げてから柿渋で染めてしまうわけだが、錦織はまず糸を染めてから、その色糸を織って模様を作る訳よ。きれいだろ。」
と解説する。
「えらく気前が良いな。」と熊皮が茶化すように言う。
「まあこんな切れ端だけじゃ首巻きにもならんだろうけどね。家の柱にでも巻いて飾っておけよ。」
「五十集商いって、こんなきれいなものをあつかえるの?」
春一が尋ねる。三池と熊皮は声を合わせて笑った。
「正規品なら、こんな山奥で交換しないさ。こいつはおおかた、そうだな、呉服屋の奉公人が逃げるときに盗んできでもしたのを、あいつが買い叩いたんだろう。」
「そうだな。正規品なら、口入れとでも交換しなきゃ割にあわんだろう。」
熊皮が二人の方を指さすので、朱夏はすこし身を縮めた。春一がかばうように身を寄せてくれる。
「はは、冗談だよ。見たところ、こんな刻限にこんなところで遊んでいられるんなら、しばらく身売りする心配はなさそうだな。」
「うちのおっ母は、旦那さんがいるから。」
朱夏は悔しさを紛らわせるように早口で言った。春一が「おい。」とたしなめる。熊皮は少し目を開くと、
「威勢のいいむすめだな。まあ困ったらいつでも来れば良いさ。おまえも二、三年もすればその絹の一反と交換できるくらいの女にはなるだろう。奉公が良いか?」
男は首から提げた鉱石をジャラジャラと指で弄ぶ。
「妾、宿屋女、淫売、なんでも口をきいてやるぞ。」
「あまり脅かしてやらないでくださいよ。」
震える朱夏を見て三池が割って入る。
「いいさ。しかし、別嬪の母親のところに帰ったら、ここのことは忘れるんだな。百姓は百姓として生きられるなら、それが一番幸せだろう。」
「もう、行こう。」
春一に促されて外に出た。
南中した太陽は霧に覆われて鈍い光を放っている。「悪かったよ。」と春一が言う。
「なぜ、あんたがあやまるの。」
「熊皮のおやじが言ったのと同じことを、さっきおれは朱夏に言おうとしていた。」
「・・・」
(ようは、あたしもおっ母と同じように生きていくのか。)
立ち去る二人の後ろに、三池が小屋から出てきて声を掛けた。
「ま、あれだ、百姓は百姓らしく。それはその通りだとおれもおもうよ。今日は助かったよ。じゃあまた縁があればな。」
といって、また右、左、右と足を動かして去って行った。
(それが百姓らしい生き方なのか。多分ちがう。)
「朱夏、なにかんがえてるんだ?」
春一の声が遠く聞こえた。漆を探すという名目で入ったはずの山だったが、全く別の色々なことを考えるのに忙しくなって、頭の中がぐるぐると回っていた。
冬になった。寒くなると鉄瓶に塗る生漆は乾きにくくなり、家の乾燥棚がいっぱいになって母の仕事は捗らない。朱夏は母のとなりでわらを打っていたが、午過ぎには一息いれて外に出かけることにした。
三池にもらった絹は、あの日家に帰ってすぐ、言われたとおりに柱に巻き付けた。父の書物の入った木箱に隠れて、近づかないと見えない。それでも母は気づいて、
「あんなきれいなの、どこで見つけたの。」と尋ねてくる。
「山で拾った。」といい加減に答えた。家の中に秘密がどんどん積もっていく。
ただ時間をおいて考えてみると、あの場所はいわゆる盗賊宿という、ああいった闇取引を仲介するための場所に過ぎないのであって、必要もなく人をさらって身売りするようなところではないのだろう。それを恐れてぶるぶると震えてしまったのが悔しくなってきた。
しかもその恐れは、男たちが自分を女としてまなざしていることに初めて気づいた、ということに起因するものだった。つまり自分自身が一番、自分のことを子どもだと思っていたのだ。そのことを朱夏は反省した。
そうすると、母に対して不思議と親しく、優しい気持ちになれた。錦の織物は、見える高さに結んでも良いかも知れない。
そして同時に、春一に対してこうした悩みを相談していたことが、急に恥ずかしくなってきた。朱夏は気を取り直すつもりで、漆について嶺得に訊いてみることにした。
嶺得は朝から庫裡で飲んだくれているのだろうか。
賽銭を入れて堂に詣で、鈴を大きく鳴らしてから、庫裡の板戸を開けて中をうかがうと、奥から「なんぞ、ご用ですか、どうぞお上がりくだされ」と呼ばう声がしたので、遠慮なく上がり込んだ。
「なんだ朱夏か。」と嶺得はこちらを見て言った。
「なんだとは何さ。でもその様子だとまだあまり飲み過ぎてはいないようだね。」
朱夏は嶺得の顔色がそれほど赤らんでいないのを見てやり返す。
「なんぞ、付け届けをもってきてくれたのか。干したイカなんぞがあれば良いが。」
嶺得はわざとらしく上目遣いに朱夏を見た。
「教えてほしいことがあって。このあたりには、漆の木は生えていないの。」
「うん、えらく藪から棒だな。」
「おっ母はいつも仕事で漆をつかっているけど、そういえば木は見たことがなかったと思って。」
「釜屋殿は内陸の方にもよく販路をもってなさるからな。三陸でも漆掻きをしている者どもはおるが、冥加金が高くて、あまり儲からんのだろう。」
「漆掻きっていうの。いちど、見てみたいな。」
朱夏は書物に書いてあった漢字を思い出しながら言った。
(六月七月刻取渋汁、上等清漆色黒如璧。ちょっと季節が違うか。)
「心当たりがないわけでもないが・・・」
嶺得は少し頭を巡らせていたようだったが、ふと気づいたように、
「いや、こうしてはおられんわ。朱夏、ちょっと手伝ってくれ。」
文箱を手元に寄せると、嶺得は火鉢に炭を足した。
「さきに仕事を片付けてしまおう。」
嶺得は文箱から紙を取り出すと、朱夏に墨を摺らせた。
天台宗月顕寺 旦那――
という文字の下に、檀家の村人たちの名前を並べていく。宗門改帳である。
「おまえも書いてみるか。」
「いいの。」
「どうせ殿様に報告する分は、肝煎り殿にお渡しして清書してもらうから、読めればそれでよいぞ。」
「あまくみないでよ。」
朱夏はさらさらと筆を滑らせた。形良い文字が紙の上に並んでいくのを見て嶺得は驚いている。
「案外、上手いもんだな。仮名読みと簡単な漢字くらいはひととおり教えてやったつもりだったが、書き方も覚えたのか。」
「おっ父の書物に、字引があったから。あとは組み合わせて・・・」
「ふうん。それなら修練がてら、これからはおまえに任せることにするか。」
軽口めいているが感心した嶺得の口調に少し得意になりながら、朱夏は黙って書き物を続ける。嶺得は朱夏が集中しているのを見てほほえむと、厨の方へ消えていった。
昨年の台帳と、この一年の寺請証文を突き合わせて、出生や死亡、出稼ぎや婚姻による家族構成の変化を追う。名前を見て、村人の顔を思い浮かべる。
(和尚さま、それで思い出したのか。)
さっき朱夏が、嶺得に漆掻きの心当たりがないか尋ねたので、色々と檀家の顔を思い出しているうちにこのしごとを思い出したのだろう。大人の考えに近づけた気がして朱夏はふふと笑った。
しばらく続けていると、自分の家族の記載にゆき当たった。
同寺 旦那 後家 小枝
同寺 旦那 その娘 朱夏
後家。夫を亡くした女房という意味である。つまり帳面上は、いまでも母は父の女房なのである。殿様もご覧になるような権威ある文書であっても、実態を正しく記載してあるわけではないのだと朱夏は思った。
同寺 旦那 役人 彦七
同寺 旦那 内 その女房 きく
同寺 旦那 内 その長男 春一
同寺 旦那 内 その次男 慶二
両親のそろっている春一と慶二の宗門帳を、朱夏は羨ましいと思った。
「そろそろ休憩にせいや。」
嶺得が干した昆布と塩を皿に盛って、裏から戻ってきた。朱夏は筆を置いて大きくのびをした。
「だいぶ捗ったな。ほんとうにおまえにこれから頼もうか。」
「ちゃんと手間賃をもらえるなら、いいけどね。」
「しっかりしためのこじゃ。」
「でもおもしろいね。人が死ぬのは悲しいことだけど、子どもが生まれたり、嫁入りで家族が増えたりするのはめでたいことだし、それをこうして追いかけるのは紙の上だけだけどしあわせをわけてもらっているみたい。」
朱夏は皿の昆布をありがたくかじりながら言った。
「おまえの言うとおりかもしれんな。」
嶺得は何故か少し苦い顔をした。
「ほんの少し以前には、仙台領へ
「夜逃げ・・・」
飢饉や不漁による食べ物の不足や、高すぎる運上金、冥加金の課税により借金で首が回らなくなった者たちは乞食になるか、豊かな隣藩の仙台へ街道を避けて着の身着のままで逃げ延びるほかない、そういう時代がつい最近まであった。
「嘉永の大一揆が成功して、盛岡の殿様や代官所の役人どもの腐敗もましになったし、役人にわいろを渡して利益を独占していた商人も、借金棒引きの証文を書かされた。」
(おっ父の死んだ一揆・・・)
「おまえの父者は青年行動隊として村と村との連絡をしたり、諦めそうになる村人を鼓舞したりしておった。あのとき侍たちは、百姓たちの勢いに押されて、戦わずして逃げ出す者も多かったので、運が悪かったと言えばそれまでだが・・・、盛岡から来た鉄砲隊に撃たれてな。」
着物の端を握りしめた朱夏の様子を見透かして、嶺得は語った。
「釜屋の旦那さまは、おっ父に世話になったって、おっ母が。」
「うん、だからおまえの父者に世話になっておらん旦那衆などおらんわな。あのころは作物を作れば作るほど、大漁になればなるほど税を取られて、人を雇って仕事をさせておる旦那衆はずいぶん苦労しておった。起たねば乞食に落ちるだけの土ン百姓と違って、旦那衆には土地も財産もあるからな。そういう連中を束ねて一揆を成功に導いたのは、おまえの父者のおかげといってもよいぞ。」
嶺得は朱夏を慰めるために殊更父の功績を過大に見積もってくれているかもしれないが、あばら家に書物だけを遺して死んだ、顔も見たことのない父の表情に、少しだけ迫れた気がした。
「ありがとう。色々と教えてくれて。おっ母はあまり話してくれないから・・・」
「おまえも母者も、父者の知恵と勇気とはたらきによって今も飢えることなく暮らしていける。母者もそのことは充分分かっているのだろうさ。しかしな朱夏、ただ飢えることなく暮らしていくだけでなく、人は誇りを持って生きていかねばならない。」
(おっ母の生き方に、誇りがあるのだろうか。)
男に囲われ、申しわけ程度に漆を塗る母は。そして恩人という父の女房を囲う釜屋は。
「まだ、わしの言う意味がわからんかもしれんな。いいさ。古今の学識に接し、様々の事物を自らの眼で見て、修行なされよ、あねこ殿。」
朱夏はほんとうに、寺の仕事を手伝ってやってもよいなと思った。
火鉢の炭がぱちっとはぜた。