第23話(第4章第5節)

文字数 13,050文字

 北風と南風が交互に谷間を撫でる。どちらの風が優勢となるかによって、その年の豊凶が占われるとあり、百姓たちはしとしとと斜面を打つ雨に濡れつつ作業をしながらも、絶えず風の流れに気を留めている。
 霧に煙る林の中を朱夏は仲間たちとともに進んでいく。春の間に育てていた苗木の発芽は一段落し、山の中腹へと向かう。
(足元が怖いな。それほど上まで行かなくていいのは助かるけど…)
 漆の木の栽培には、日当たりや風通しがよく、土の肥えた土地が選ばれる。自然、落葉によって滋味の豊かな中腹以下が適地となる。これは林業計画的にいえば、他の用材林とどちらを植えるかの争いとなるわけで、しかも漆は枝と枝が触れ合うほどの密生具合にしてしまうとどちらかの木が枯れてしまうので、杉やヒノキのように稠密(ちゅうみつ)に植えることが出来ず、その点で優先度が低くなってしまう。原生する漆を用いて発達した浄法寺の漆器産業ではあるが、人工的に林を形成して持続していくためには、山守りに従事する人々の不断の手入れが求められることになる。
 朱夏は春の間にも絵図を見せられて、漆の雌雄を見分ける習練をしていた。
 漆の木は雌雄で別の木であり、それぞれの花の中に雄しべと雌しべの両方を持つが、どちらか一方が退化することで花の形状が異なるので、それによって肉眼で識別することが出来る。

 


 

椿



 本草綱目の言う黄色い花。
 根や枝がぶつからないほどの疎らさで、しかし作業効率があがるだけの密度を保ちながら広がる林に交じり、枝垂れかかる黄色い花を、蜜蜂に気をつけながら手にとって確認して行く。霧の中の黄色は、水墨画の薄墨ほどに色素を薄めている。
「それじゃ、奥の方からいこう。」
 古株の掻き子の指示に従い、一同が雌木のまわりに取り付く。既に砂太や滴からも教授を受けていた通り、雌木は実をならせるために掻きとりを控えなければならない。雌しべを包み込むように内向きに花弁の反り返った雌木には紐を巻き、高く伸びた雄しべを押し出すように外を向いた花弁を持つ雄木には目立てをしていく。目立てとは掻き鎌を使って漆の幹に、地面と水平に一定の間隔の傷をつける作業を言う。この作業によって、掻き取るべき雄木への目印がつくとともに、幹を刺激して、傷の周辺に樹液を分泌させることができる。
(なんだかいじらしいけど、人間の知恵の方が上を行っているんだな。)
 漆の樹液が幹の中に生来含有されているのであれば、成木になった時点で切り倒して粉砕すれば中から絞り出すことが出来るようにも思えるがそうではなく、樹液は天然の絆創膏のように、傷を修復しようとして幹から分泌されるという機序(きじょ)になっている。だから傷をつけた場所をおよそ五日おきに確認しに来て、そこに溜まった樹液を掻き取るという作業が必要となる。これを辺掻きという。
 山にいるときは作業に必要な言葉以外を交わすことはなかった。それは木地小屋の連中や、塗り小屋の透たちも同じなのだろうと思うが、あれこれと世話を焼いてくれる滴の目を離れていると、なにかさびしいような思いがして可笑しかった。

 ふた月前に「そのうち漆林を案内してやる」と言ってくれた滴はここにはいない。母屋で休んでいるはずである。子を懐妊したというのだ。春先から、朱夏自身も溌剌とした姉御が時折動きを鈍くすることに不審の眼を持っていたし、透によれば妹の蒔はもっと敏感に姉の変化を読み取っていたようだが、ともかく悪疫にさらされたわけではなく、慶事による体調の変化と言うことでみな安堵した。
 いまはまだ月齢も浅いため、ときおり一時的な貧血に襲われる他は大事もなく、出産に向けた準備をすると共に、書きものなどの仕事も続けている。とはいえさすがに山に登って目立てをするのは危険も伴うし、控えているようであった。
 安産祈祷は、稲庭岳の山頂付近にある神社で行うことになった。懐妊の際の祈願は、本人ではなく代理人が行くこととされている。滴はその代理として朱夏を指名した。
「蒔どのではないのですか。」
 朱夏は意外の念を持って問いかけた。
「それでもいいけどね。朱夏には機会を見て色々と浄法寺のことを見てもらいたいと思ってね。」
 滴は子を宿しても相変わらず鷹揚に気配りをしているようだった。
 一日だけ特別の休みをもらって、粂太郎とふたりで稲庭岳を登った。
「なかなか、急な坂ですね。」
「ほとんどなだらかなんだが、神社までの最後の一息だけ、ちょっとな。冬場は滑って、通るのはもっと難儀になるだろう。」
「そうすると、出産の頃にはもう、詣でられなくなるかもしれませんね。」
「いや、遠回りだが、いったん頂上まで行って、上から迂回すれば着くには着けるかな。」
(頂上か・・・)
 滴に、稲庭岳には機会があれば登ってみればと勧められたが、今回はあまり余分の時間はないだろう。
「滴どのが子を産むということになれば、砂屋のしごとの分担もいくらか変えないといけないでしょうか。」
 滴は主に朱夏と同じように漆林の管理に関わるようにしているようだったが、別にそれだけに限らず、商人との交流や、村の中での付き合いの全般を担っている。父親の砂太を対外的な顔としつつ、木地小屋は粂太郎が、塗り小屋は蒔が中心となって治める中で、いわばそれ以外の全てを滴が引きうけているような状況だった。
 滴が動けなくなれば、そうした仕事は誰かが代わりになってやらなければならない。
「そうだなあ。」
 粂太郎は、彼にとっても初めての体験となる、子どもを産み育てるという事柄に考えの多くを割いているようで、そうした組織のことにまで考えが回っていないようだった。朱夏は野暮な質問をしたことを反省した。
 だが朱夏は逆に、家族としての砂屋よりも、商家としての砂屋に関心があった。滴の不在を埋める者として、読み書きのできる自分が期待されていることを強く意識していた。しかし山に入り、山の四季とともに働きたいと思う気持ちは苗木に触れるうちに高まり、その相克をひとりで勝手に感じていた。
 もちろん砂太や粂太郎が、ついこの間来たばかりの朱夏に、商人との窓口を丸投げするような形にはならないだろうから、こうした悩みはひとり相撲に過ぎないとも思える。しかし現実的に朱夏のほかに滴の代わりができる者がいるのだろうか。木地師も塗り師も数を減らす一方であり、商家としての砂屋の体制はどんどん弱くなっていくように思えた。
 滴の室に起居して、この一家に最も深く関わっている家人である朱夏ですらも、滴の懐妊を手放しでは喜んでいない。まして他の家人はどのような目で捉えているのか。そう考えるとどんどん渋い気持ちになってきて、粂太郎を見る目も微妙なものにならざるを得なかった。
「かかさんが懐妊すると、男親の方も悪阻(つわり)になるというだろう。」
「ええ。三陸では『ヤンデスケ』と言っていました。病んで助ける、という意味と聞いたことがありますが。」
「へえ。会津じゃ単に『くせやみ』としか言ってなかったけど、そうなると、おれも仕事を休みがちになってしまうかもしれないな。」
「なまける言い訳にしないでくださいよ。」
 粂太郎の話は半分冗談としても、確かに、出産する本人だけでなくその周りも色々と手間を取られることになる。実際こうして安産祈願のために山に登るのも一日仕事で、その間作業ができなくなっているではないか。
「おまえさんはどうだい、もう仕事には慣れたのか。」
「砂屋の漆は、よく手入れもされていてきれいだと思います。三陸にいた頃から、母が漆を扱っていたのですが、それは樹液であって、樹木としての漆に接したのは実は初めてで。」
「そうだよな。おれも会津で椀作りをしていた頃は、この近くに寄るとかぶれちまう危なっかしいものがどこからやってくるのか、考えたこともなかった。浄法寺は面白いところだろう。」
「そうですね。」
「おまえさんがたも、おれと同じようにあちこち転々としてきたみたいだが、ここらで居着いてしまえばいいだろう。それだけのおおらかさのある里だよ、ここは。」
「・・・・・・。」
 居着くとか居着かないとか、そういう風には、考えたこともなかった。ほんの少し前までは鉄山にいた自分たちが、目まぐるしく変転をしてこの里に辿り着いた成り行きを、日々の慣れない仕事に食らいついていくのが精一杯で、振り返るほどの暇がなかったからだ。
 ただ確かに、流れ者として生きる者たちは、常に今いる場所を仮住まいとして意識し、いつでも離れる心の準備をしているのかもしれない。
 そして粂太郎は、そうではなく、いつまでもここにいる気構えで仕事をすれば良いと言ってくれている。
 そうであるならば尚更、商家としての砂屋に対して、勇んで力を尽くして貢献しようという気持ちにもなってくる。
 駒形神社に着くと、正装の神職と巫女が待ち構えていた。簡単に禊をして、幣の祓いを受ける。このとき、新生児の男女の別が託宣される。
 神職から「男親の仕事道具を清めるように。」と言われて渡された塩を、粂太郎は「轆轤にふりかけておきます。」と受け取って懐にしまった。

 何日か経って、辺掻きを終えた帰り道、一緒に山に入っていた家人たちが各々の家に帰るのと別れて独りで砂屋へ戻っていた。安比川左岸には、谷筋ごとの支流が何本も注いでおり、それぞれに別々の商家が管理する漆林が広がっている。簡素な木の橋が架けられたところまで来た時、せせらぎの上手から何人かの男女が下りてくるのと行きあった。
「なかなかの切れ味だな。」
「藩政時代は雌木を切るとお咎めを受けたもんだが。」
「新政府は話が分かるんだろ。」
「おれらだって、すぐ銭に替えられるほうがありがたい。」
 仕事終わりの気楽さで思い思いに喋っていた彼らは、朱夏に気づくと会釈程度に軽く頭を下げる。朱夏もそれに応じ、団体さんに道を譲ってやった。別段帰りを急いでいるわけではない。
 だが一団の中から、ひょっこりと頭一つ抜き出た男がひとり立ち止まり、朱夏の方を振り返る。
「砂屋の家人だったな。見覚えがあるよ。少し話さないか。」
 初めて浄法寺に来た日に滴とやりあっていた、風陣と名乗る男だった。
「陣さん、先に行ってて良いのかい。」
 一団のうちの一人が声をかけた。
「かまわんよ。旗屋どのには関わりのないことだ。」
 朱夏は、何か因縁をつけられるのかと身構えたが、それならば旗屋の徒輩を払わなくてもよいだろう。なにか秘密の話でもあるのか。禿げ山は見通しが良く、遠くからも二人で話しているのが一目瞭然となる代わりに、近づいてくる者があればこちらからもすぐに分かる。談合をするのであれば、密室よりも却って安全と言えた。
「姉御どの、ご懐妊と聞いたぞ。おめでたいことだ。」
 興味津々といった目をした旗屋の面々が豆粒ほどの大きさになるのを待って、風陣は朱夏を見下ろしながら言った。
「肩で風を切ってるものだと思ってたけど、案外殊勝なんだね。」
 朱夏は祝いの言には応えず首をかしげて、舐められないように擽りから入ってみた。他人の用材林を勝手気ままに蹂躙する割に、旗屋には気を遣っているように見えたからだ。
「おれは越前から来た仲間内じゃ頭みたいなことをやってるが、旗屋からすればただの食客だからな。分はわきまえないと。」
「あの小さい男は今日はいないんだね。」
「別の仲間と、上の方へ登っているよ。」
 気色ばんだ朱夏に、風陣は落ち着いた様子で手を振った。
「今日は、砂屋どのの山ではないさ。」
「それにしたって誰かの山なんだろう。」
 呆れたように返した。
 改めて相手の装備を見ると、自分と同じように鎌、篦や木桶を腹に巻き付けている。
「あんたたちも辺掻きの帰りなの。」
「そうだ。いよいよ殺し掻きの季節だよ。越前の刃物の評判も上々だ。旗屋の連中が触れこんでくれるのを楽しみにしているよ。」
「それで、砂屋にも売り込みに来たわけ。」
 朱夏はまだこの男が自分に絡んできた理由を読み取れずにいた。
「砂屋どのは津軽や盛岡までご足労いただき、殺し掻きに協力的だとばかり思っていたが、おれたちの持ってきた道具を見せに行っても、あまり感触がよくないようでな。」
「さっきの話を聞いてたけど…」
 朱夏は豆粒の旗屋たちを見下ろしながら、
「雌木だって構わずに傷をつけてるのかい。実をならせないと、来年からとれるものもとれなくなるんじゃないのかい。」と、砂太が懸念していた点について問い詰めた。
「これは。姉御に劣らぬ歯に衣着せぬ言い方だな。恐れ入ったよ。」
 風陣はでかいなりをしながらおどける様に言った。なんともちぐはぐな態度である。
「だが漆の木を育てるのは、別に実から種を抽出するばかりが方法ではない。根分けと言って、横根で浅く埋まっている根を掘り出して埋めなおせば、そこから芽を吹くんだよ。知らなかったかな。」
(それは…)
 知らなかったな、と思った。まだまだ先達からの聞きかじりが朱夏の知識の主な源であって、漆の歳時記を十分に理解しているわけではない。だがそれだけで済むのなら手間をかけて苗木を作る必要はなく、砂屋が根分けを採用していないことには意味があるのだろう。眉に唾をつけて、あとで滴に聞いてみよう。
 さっきからなんだかお互いに探るようなやり取りをしてしまっているが、朱夏は正面から風陣の目を見据えると、次の言葉を待った。
「その目…」風陣は顎に手をやって髭をいじりながら、「腑抜けた砂屋の連中の中じゃ珍しいな。お前と話を出来たのは幸運だったのかもしれない。」などとつぶやいている。
「姉御どのの宿した子は、男だったか、女だったのか。お前は知っているか。」
(来たな…)
 粂太郎と行った駒形神社の安産祈願で、男女の別については聞いている。だがそのことを目の前の男に教えてやるつもりはなかった。滴や家族達からもやんわりと口止めをされていたが、そうでなくても砂屋の家人たちにも言っていない。託宣はあったとしても、結局産まれてみるまでどちらかは分からないのだから、右往左往しても仕方が無い。
 そしてこの男には特に言ってはならない気がした。何か邪悪なたくらみがその裏にあるような気がしてならなかった。
「その目が良くないな。」
 黙り込んだ朱夏に向かって風陣は薄く笑った。
「白黒させていれば、全く蚊帳の外の新入りの家人だと思わせることもできただろうに、そうやって睨みつけてしまえば、知っていると語っているようなものだぞ。」
「どうだろう。お見込みのとおり新入りで、山に入って下働きをさせてもらっているだけの身だよ。」
「だとしたら、新入りの身で早くも砂屋の中心に入り込んでいるらしいお前が何者なのか、見極めないといけないな。」
(目を付けられたか。)
 だがそれならそれで、この男から出来る限り情報を取ってやると気を吐いた。
「浄法寺の椀は、勢いを失ってるみたいだけど、殺し掻きは巻き返しの策になるのかい。」
「どうだろうな。やってみないとわからんだろう。」
 風陣は軽くいなすと、
「そちらでは、あの蒔って娘が色々と試行錯誤しているのは聞こえているよ。それも一つのやり方だろうが、ひとりの腕に頼るような商売はいずれ行き詰る。おれはおれで旗屋と上手く足並みをそろえながら、自分のやり方を試させてもらうのさ。」と言い捨てた。砂屋の事情をかなり深くまで知っている様子に、朱夏は驚いた。滴たちは旗屋の様子を同じくらいに知ることが出来ているのだろうか。
「秋になれば、ある程度見えてくるだろう。お前も精進しておくといいさ。」
 風陣はにやりと笑うと、早足に斜面を駆け下りていった。
(望むところだ、見せてもらおうじゃないか…)
 油断の出来ない男だが、砂屋の状況を客観視するいい機会にもなった。きょう偶然にあの男と自分の間にわずかながらつながりが出来たことに、何か意味があるのだろうと思うことにした。

 翌朝朱夏は、天台寺へと向かった。
 辺掻きは時期によって初漆(はつうるし)盛漆(さかりうるし)末漆(すえうるし)と分けられ、一般に盛漆の品質が最も良いとされる。夏の盛りはしたがって絶えず漆林に登ることになり多忙となるが、初漆のこの時期はまだ予め話をしておけば半日くらいの休みはとれる。
 川を渡って、いつもと反対側の山に登る。桂のご神木は、たっぷりと葉を茂らせて今日も天を衝いていた。石段の脇には薄く赤や青に染まった紫陽花がぽつぽつと法面を飾っている。雨の季節だが、三陸と違ってべとっとしない清らかな空気は、この寺に近づくにつれてさらに澄み渡るように感じた。
「朱夏どの、来られたか。」
 この雰囲気が好きで、あれから何度か天台寺に通ううち、檀家たちとはすっかり顔見知りになってしまった。三陸の月顕寺で手伝いをした体験は、朱夏の身体に寺というものへの愛着を染みつけていたのかもしれない。
「みなさん、早いですね。」
「なんの、収穫も一段落したから、梅雨が明けるまでは小休止だよ。夏になれば乾燥させていかにゃならんから、また日のあるうちは出ずっぱりだがな。」
 あちこち破れ、禿げ、崩れかけた庫裡の傍らに、檀家の男女たちが数人集まっていた。日当たりの悪い斜面を所有している右岸側の彼らは、漆産業ではなく畑作を中心とした生計を立てている。藩政時代にはたばこの葉の生産が奨励され、食料よりも現金収入となりやすい商品作物を生産する文化が成り立っていた。彼らが話しているのも、たばこの歳時記である。
 近くの沢から汲んで来た水を使って、木箱から取り出したものを洗う。廃仏毀釈から隠していた仏像の類である。
「やっぱり、元いた家の方が居心地がよいだろうさ。」
 檀家たちは木像の(ひだ)に入り込んだ土を丁寧に払っていく。湿り気を含んだ経典の紙は、天日に干して乾かす。
「住職さまは、来られないのですか。」
 中尊寺へ逃げ帰った寂景という小坊主は、兼務座主が来ると言っていた気がしたが、朱夏はまだその僧侶に会ったことがなかった。
「来んだろうよ。」
「どころか、一度も来たことがないよ。」
 檀家たちは呆れたように口々に言った。朱夏も別に足繁く通ってくれるとは期待していなかったが、漠然と月に一度くらいかは様子を見に来てくれるのだろうと思っていたので、こうしてまったく打ち遣られるのは予想外だった。そのことは彼らの中でも不安の種になっているのだろう。
 だがそのことが却って、辺境の末寺のことを中央政府から忘れさせ、こうして監視の目を逃れて住民たちの素朴な信仰をよみがえらせる契機となるとも言える。まさに嶺得和尚の言っていた、信仰は尽きないという信念を思い起こさせる動態を実際に見、朱夏は熱い気持ちに包まれながら、彼らと一緒に手を動かした。
「ちょっとみんな、こっちに来てくれ。」
 檀家の一人が、散らばって作業をしていた一同を呼び寄せた。砂をかぶって薄くなった玉砂利の上に、二体の仏像が寝かされている。仏像自体も土や砂で容貌が平板になってしまっているが、横になっているとはいえかなりの大きさだった。特に一体は、縦にすれば朱夏の身長よりも高いだろう。これは本尊ではないかと思った。
「大きい方が、十一面観音さまだよ。」
 隣にいた女が教えてくれた。

という名のその女は、滴よりももう少し歳上といった頃だろうか。一本の桂の木から切り出された数百年前の像が、穏やかな切れ長の目をして梅雨の晴れ間に照らされているのを、ふたり並んで眺めた。
「みんなできれいにして差し上げよう。」との声で、よしと言って一同でその身体を磨きあげていく。
 もう一体、その隣に横たえられた像は、大きさこそ十一面観音ほどではないが、不思議な見た目をしていた。身体中に目立てをした漆の木のような彫り溝がつけられていて、滑らかな曲面を描くような普通の仏像とは、かなり印象が違って見えた。
「桂泉観音さまじゃ。」
 物知りそうな老人が、朱夏の肩に手を置いた。
(桂と泉…)
 石段の下にある桂の木が脳裏に浮かんだ。
「お見込みのとおり、ご神木を象って作られたんじゃな。十一面さまも、こちらの聖観音さまも、千年近く前、平安朝の時代に同じ仏師が彫ったものと伝えられておる。」
(千年…)
 開山が八世紀と言うから、その後天台宗の寺院として体系に組み込まれていく過程で、本尊等の体裁が整えられていったという順序だろうか。
「この溝は…お清めするのに手間がかかりそうな…。」
「はは、罰あたりな言い方だが、おまえの言うとおりだな。」
 老人は観音の身体を指でなぞる。その指先についた汚れは、心ならず土に埋められた淀みであり、忘れ去られ軽視されることへの哀しみでもあった。
(だが、こうして思い出す人がいれば、何度でもその身体をなぞって、もとの世界に戻すことが出来る。)
 抽象的ではあるが、そう思った。
「この鑿目(のみめ)で、揺らぎを、お見せ下さっているのだよ。」
 そうした朱夏の連想を補うような解説だった。
「御山は、もともと神の居着く地として信仰されていたが、それが行基さまの来山によって仏道に帰依することになった。そのとき、桂の木は切り出されて仏像となることによって仏のお姿なのだと捉えられるようになったのだ。」
「へえ。」
 観念一辺倒ではなくその当時の息遣いが聞こえそうな語り口が興味を引いた。
「だが、桂の木を神としていた信仰が消え去るわけではない。神と仏は同じものではないのじゃよ。新政府はその理屈がおかしい、神に取って代わって百姓を支配しようとした仏とは不逞の考えだと言って、弾圧しようとした。」
「それが廃仏毀釈ですね。」
 そうした思想的背景については、三池が詳しかったな、と思い出した。
「ああ。そうした反発は、おそらく仏さまというものが伝わった頃にも同じようにあったのだろうさ。それを当時の人らは、別に分けて考えようとせずに、穏やかに両立させようとした。それがこの鑿目じゃよ。」
「どういうことですか。」
「だから、揺らぎ、なのだと言っただろう。この仏像は揺らいでいるのだ。仏のように見えるが、もしかしたら神なのかもしれない。神が今まさに、仏になろうとしているのかもしれない。曖昧で、騙しだまし、変化の過程にある。決めてしまわないということが結局良いことだということもある。」
(この激動の時代だからこそ。)
 そう考えるべきか、と自分の中で説教がましい台詞を構成してみてもいい。浄法寺の漆は変化の中にある。その変化に応じて脱皮をしようとする動き、大きな転換をしようとする動き、関わる人の思いは様々に入り乱れているが、何が正しいのかはすぐには分からないのだろうと思った。
 二体の観音像は檀家たちの手ですっかりと磨きあげられ、立てられて、本堂へと運び込まれた。元いた場所につきづきしく収まると、薄暗い本堂に光が差すような気がした。これが後光というものだろうか。
「さて、こうなると交代でお世話をしに来ないとならないな。」
 檀家たちが相談を始めた。埃の積もるのを払うのはもちろん、盗難にあわないように気をつけないといけないし、もっといえば役人が見に来る心配も完全になくなったわけではない。
「わたしもお世話をさせてもらいたい。」
 朱夏はそう頼んだ。
「遠いだろう。無理しなくてもいいよ。」
「漆掻きはこれから忙しくなるだろうしな。」
「数は少ないが、おれたち檀家でなんとかする問題だ。」
 好意的ではあるが、一線を引いた反応は、仕方ないとはいえ残念だった。
「それじゃ、私も仕事の暇があるときには、できるだけ来るようにします。」と言って引きさがることにした。
 一仕事終えて、昼からは漆林の方に顔を出さないといけないな、と考えながら石段を下っていると、「そういえばさ、」と隣に並び寄ってきた

に話しかけられた。
「先代さまが砂屋さんに、曼荼羅を作るよう頼んだって聞いたことがあるけど、どうなったの。」
「寂景どのが去られる前に、その話はなかったことに、と言っておられましたが。」
 とはいえ、作りかけの作品が置いてあるのを小屋のそばかどこかで見かけたような気がする。結局制作を断念したのか、続けるつもりなのか、はっきりとは分からなかった。
「そうなんだ。別にどっちでもいいけどさ、作るんだったらわたしらもすこしは銭を出さないといけないな、と思って。」
「確かに檀家のみなさんにはちゃんとお伝えしないといけないですね。滴どのがどう考えているのか、聞いておきます。」
「本尊さまも戻ったし、景気よくいきたいよね。」
 頭が下がる思いだった。
 確かに先代の住職が願ったのは、浄法寺の技術と信仰が溶け合った曼荼羅を作ることで、新時代へ向かう人々の拠り所の一つとなすことだっただろう。中尊寺に見捨てられた今だからこそ、この土地の者たちが主体的にそうした考えを深めていくべきだと思った。
 それは朱夏にとっても、なにか傾倒していく事業となっていくような予感があった。

 砂屋の屋敷に帰ると、この日はまだ起きていた滴が、座り込んで文字のびっしり書かれた紙に目を通していた。
「新聞ですか。」
「お、おかえり。あんたも読むかい。」
 よく食べてよく眠ることが母体には肝要と見え、毎晩、朱夏が室に戻ると滴はすでに寝んでいることが多かったが、今日は珍しい。妊婦の身の回りの世話をする女中は別に居るので、朱夏が何か気遣う必要はないのだが、帰るのが特に遅くなる日などは、それが気づまりに感じる様になってきた。透たち男衆が家人部屋で雑魚寝をしているのに比べれば破格の待遇なのだが、これはこれで、商家の仕事だけではなく、家族関係の雑事まで共に考えることを引き受けさせられているような心情になっていた。
 手渡された紙に目を通すと、人々のいき交う街道沿いに、蒸気船のような黒い大きなものが煙をあげている絵が描かれている。
「あんたは蒸気船を見たことがあるんだよね。」
 滴は朱夏を見上げて言った。
「三陸の海では、ときどき見ましたよ。ろしあ国の船が多かったんだと思いますが、子ども心には不吉なように思えましたね。」
「その記事、蒸気船を陸に上げようって話だろ。」
「そのようですね。」
 さっと文章に目を通しながら応えた。
 東京では、来年の開通を目指して鉄道線路の敷設が急激に進められているそうだ。
「陸蒸気が通れば、人や物をいちどきに大量に素早く運べるってことですね。」
「そうそう。商売の理屈がまるっきり変わってしまいそうだな。」
「行商の方たちのことですか。」
 仮に国中に陸蒸気が走るような時代が来たら、運ぶことを生業としている男たちの仕事はどうなるのだろうと想像した。
「それもあるけど…」
 滴は何事か思惟しているようだったが、
「それで思い出したけど、こないだ蒔が一度売れた椀を取り返しに行ったことがあってさ。」
「透と一緒に行ったという話ですね。」
 その一幕は透から簡単に聞いていた。
「うん。蒔のやつそうとう焦っていたらしくて、こんな証文を書いてきたんだよ。」
 滴は手元の文箱から一枚の証文を出した。
「署名がないですが。」
「それは写しだそうで、拇印を押した原本は相手方が持っているそうだ。読んでみなよ。」
(……。)
 文章自体は簡潔な証文だった。
「危ういですね。」
「あんたもそう思うかい。」
「ただいま制作中の品もの、って何のことですか。全然分からないですが。」
「蒔によれば、螺鈿細工の椀のことを指しているらしくて、どんなふうに完成するか分からないからそういう書き方をしたんだそうだけど、あとから他の者が見ても何も分からないからね。」
「相手はだれなんですか。」
「豊和ってやつだけど…」
「ああ、競りの時にいちど話したことがあります。」
 日に焼けた、強かな風貌を思い出した。
「そうだとしてもそのまま、螺鈿細工の椀、と書いてしまえば良さそうなものですね・・・あの男が、その程度の目端が利かないとは思えませんが。」
「蒔もそうだよ。あれで世間知らずなところがあるからね…」
 妹を箱入り娘にした張本人はあなたではないのか、と思ったが黙っていることにした。家族の問題には深入りせず、商売の話だけを続けよう。
「そう考えると、確かにあんたの言うように、陸蒸気が通れば、こんなふうな行商人とのやり取りの手間や、信用できるやつなのか見極める目みたいなのは、必要でなくなっていくのかもしれないね。」
 滴の考えは朱夏よりもかなり先を言っているようで、どうもつかみどころのないものだった。
「でもあまりぴんとこないというか、うちの椀は、そんなに量を作れるものでもないでしょう。」
「そうかな。」と滴は目を光らせた。
「まあこんな山奥に今すぐに鉄の塊が来るとも思えないし、悩んでも仕方ないね。」
「想像してみると楽しいですが。」
 それは率直な感想だった。
「うちの商売のことも連想してくれたんなら、見せた甲斐があったよ。やっぱりあんたは勘所をつかむのが上手だね。」
「どういうことですか。」
「今度の五日の市にさ、福岡に行こうと思っているんだよ。あんたもついてきてくれないか。」
 話が意外な方向に向かいだした。
「え、その身体で福岡まで行くんですか。」
「なんだよ、あんたまでおっ父みたいなことを言うね。」
 滴は苦笑いした。
「動けるうちに打てる手は打っておきたいんだよ。旗屋の連中、殺し掻きをずんずん進めているんだろ。ひとこと言ってやりたいんだが、山に登るのも一苦労だよ。」
「具合はどうですか。」
「別にどうってことはないんだよ。ただときどきくらっとするから、そんなときは座り込んで休まないとだめだね。」
「それで、付き添いをすればいいってことですか。」
「それもあるけど、あんたには色々と見ておいてもらいたいって言っただろう。」
 粂太郎は何も考えていないようだったが、やはり滴は自分の仕事を朱夏に引き継ぎたいと思っているのではないか。それとも便利な使用人として飼殺そうとしているのだろうか。どちらでも構わないが、はっきり言ってほしかった。
「殺し掻きと言えば、苗木を作らなくても成木を生やせる、根分けという方法があるそうですね。」
 朱夏は風陣から聞いた話を投げかけた。
「よく知っているね。うちの連中から聞いたのかい。」
「いえ、旗屋の辺掻きの方々から聞きましたよ。」
 深い考えがあったわけではないが、風陣の名は出さないことにした。
「やっぱりね。あいつら、生えている漆の全部をとりつくして銭に替えることしか考えてないね。」
「でも、苗木の手間を考えれば、根分けで木が生えるのならそれでもいいのでは。」
 春先から朱夏も携わってきた苗木の重労働を思えば、旗屋の考え方も分からないではないというのが正直な感想だった。
「根分けで生やした漆は、寿命が短いんだよ。結局苗木から生やした方が、長く樹液を採ることが出来る。」
「そんなもんですか。」
 それはつまり、殺し掻きを前提とした場合は根分けが、養生掻きを前提とした場合は苗木が適切だという選択の問題に過ぎないということだ。滴は殺し掻き憎しで視野が狭くなっているのではないかと危惧した。
 風陣は「秋になれば分かる」と言っていた。朱夏は砂屋のやり方がすべてではない、という感覚を忘れないようにしたいと思った。
「さてそれじゃ…」
 滴は床に就く準備を始めた。
(須弥山儀のことを、相談しそびれたな。)
 朱夏は滴の身支度を手伝ってやり、燭台の火を消した。滴が寝息をたてはじめてからも、しばらく物思いに耽っていた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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