第36話(第6章第5節)

文字数 13,122文字

 疲弊しきって浄法寺に帰ってきてからもう一月以上が過ぎた。
 四季が(めぐ)り、再び春に向かって英気を溜めるべき季節にあって、朱夏の心は凍てついたまま解けようともせずに止まっている。
 あの日から、白檀は天台寺には寄りつかない。浄法寺界隈に足を踏み入れているような気配はあるのだが、朱夏の元を訪れてひとしきり話をする、その幸福な時間は不意に喪われてしまった。
 役人としての立場を考えれば、むしろここまで朱夏に寄り添うような姿勢を見せていた方が不自然であって、お上らしく剥き出しの収奪を試みる方が。いっそ清々しいとも言える。そこに、朱夏への思いを介在させていると、白檀がそう説明したことが苦しみとなっていた。
 砂屋の経営にとっても痛手だっただろう。特に加飾の材料を仕入れる機会と皮算用していた透たちには、当座の現金を得られなかったことで当てが外れた訳である。別に誰も面と向かって朱夏を責めるわけではないが、滴からの期待に応えるべく前向きに動き始めた矢先であったため、気勢を削がれて、仕事に専心することでその苦しみを馴らすこともできなかった。
 砂屋の誰にも得がたい、福岡の役人との繋がりをうまく使いながら経営を利するように振る舞ったつもりだったが、白檀との仲を恃んで楽な受注をとろうとしていた、と自戒すべきで、いっそ経営に口を挟むのは慎んでいくべきなのだろうか。
 オシラサマは見つかったのだろうか。それだけの感情の軋轢を生んでまで、探し求めようとした過去の証。朱夏は白檀を鼓舞しながら、あとになってその犠牲に尻込みして梯子を外したような形になっていることを恥じた。
 彼に会って話をしたかった。
 しかし、天台寺の境内を掃き清めながら待っていればあちらから訪れてくれたこれまでと違い、こちらから浄法寺の広い山の中へ彼を探しに行く必要があり、途方に暮れてしまった。
 ぼうっとして観音様を眺めていると、白檀といつか話したことを思い出した。
(信仰とは、人の集まるところに生じる。つまり・・・)
 信仰のあるところに、人が集うとも言える。
(そうだ。)
 薄曇りの空を見上げ、今日の空模様はまだましだと勢いを付けるように唇を噛んだ。
 朱夏は脛まで編み上げた藁靴を履いて、蓑を被った。天候が変わってもある程度間に合うほどの装備である。ともに登ろうと、信仰の跡を探しに行こうと約束した、西方の稲庭岳、その山頂付近の駒形神社である。
 滴の安産祈願のために粂太郎とともに一度登ったことがあるとはいえ、それはもっと季節の良い頃だった。まだ根雪が緩むほどに温かくなっていないが、表層の雪が滑れば雪崩が起きることもある。それに天候が崩れれば、地吹雪にもなるだろう。
 必ず白檀に会えるという確証を持っているわけでもないのに、そんな中に向かって行くなど愚かな真似であると充分に自覚しつつ、しかし逆に、それで白檀に会うことが出来れば、それは二人の絆が生きている徴しだと見定めることも出来る。
 漆林に向かうために通った沢を遡り、かさかさと兎が跳びはねて茂みに消えていくのを横目にしてさらに奥へと向かった。このあたりも、ますます多くの木が切り倒されて禿げ山となっている。夏には切り株が痛々しいが、いまは雪が全てを覆い隠しており、見晴らしがよい。下界の家々からは炊煙が上がり、背景の雲と山に溶け合っている。口元が寂しくなったので、蓑の内側をがさがさと探って、ようやく塩昆布を取り出した。
 九十九折りに登山道が一本になり始め、崖へと滑らないように朱夏はかんじきを付けた。足跡はハの字から円へと変わるが、斜面があるので雪を崩しつつ上に行くこととなり、きれいな形が残るわけではない。だがどうやら、先に通った者がいるように思えた。それが白檀だ、彼は上で待っているのだ、と勝手に思いを巡らせながら、徐々に荒くなる息を吐いた。
 山頂についた。夏は直接、急斜面を伝い登って駒形神社へと向かったが、この季節にその道をとるのは難しい。そのように粂太郎に教えられたことを思い出しながら、ぐるりと迂回したのだ。それで、初めてここからの眺めを目にした。つかの間、靄が晴れて、いつか滴が自慢げに勧めたように、八方の景色が見通せた。足元の浄法寺の集落はもとより、南には七時雨山、八戸方向には海に面した平地が広がり、北へ目を向ければ八甲田連峰のふた瘤が薄く浮かんでいる。
 やはり、山頂には先客がいたようだ。なだらかに踏み均された雪が、朱夏が来たのと反対方向へと続いている。一本道のついた登山道よりも、八方に歩を進められる山頂の方が道を間違えやすいというが、足跡を辿ればその心配なく駒形神社へと着けそうだ。風がじかに当たる頂を去って、登り以上に滑らないよう気をつけながら降り始める。
「遅かったな。」
 しばらく行ったところで、ばふっと朱夏の降りる気配に気づいたのか、茂みから声を掛けられた。
 ちゃりちゃりと音を立てながら姿を現したのは、白檀ではなく、風陣だった。道中合羽の内側で金物が鳴っている。朱夏は驚いて身を竦めたのが弱みを見せたようで、肩幅に歩を開いて後付けに相手をねめつけた。
「おや、おまえだったのか。」
 風陣もまた驚いたように一瞬だけ眉を開いたが、すぐに顎に手を当てて、
一瞥(いちべつ)以来だな」と、にやりと笑う。
「あんたもお参りなの。意外と信心深いんだね。」
「なんの。今日は空気も澄んでいて遠目が効く。高いところから、払い下げを受ける山を指さして確認しておこうと思ってな。」
(やっぱり、こいつらが払い下げを受けようと動いているのか。)
 田中集成から話を聞いて、真っ先に旗屋が暗躍していることを疑った。予想通りに過ぎ、驚きを通り越して呆れてしまっている。
 風陣は朱夏の反応が芳しくないことに気を悪くしたようだった。
「あの山も、あっちも貰い受ける。そのための資金も充分に貯まった。やはり、勝負はついたな。」
 風陣は「秋になれば分かる」と砂屋に対抗していた。その相手は、殺し掻きを抑え、管理された養生掻きを主張していた滴ではなく、もっぱら朱夏だと目しているようだった。
 目を付けられていると感じていた。一介の食客に過ぎない小娘をそれだけ目の敵にするのは、朱夏の能力を評価しているというよりは、今年初めて苗木を植え、辺掻きを行った流れ者の娘ならば、殺し掻きへと籠絡し、砂屋の方針を変える勢力になり得ると計算しているのかもしれない。
「馬鹿みたいに木を切り倒して禿げ山をいくつも生み出して、安い下地で質の悪い器を作って、それがあんたのいう勝ちなのかい。」
「おまえらは柿渋の下地じゃすぐにひび割れると怒るが、ひび割れたなら次の器を買えば良い、それだけの話ではないか。」
 風陣は煙管(きせる)でも探しているのか、合羽の内側をがさがさと探った。
「山も同じだ。こちらの次はまたあちら。見てみろ。見渡す限りの山だ。役人たちにちょっと銭を渡せば、そんなものはすぐに手に入る。」
「鹿角は、秋田県になったんだろう。浄法寺ももう青森県に入ったんだろう。ここを皮切りにして山を買い進めるにしては、袋小路から始めたもんだね。」
 ちくりと皮肉を言ったつもりだったが、
「県の区割りなんてものは、ちょいと中央で働きかければ、あとからいくらでも変えられる。俺たちに目を掛けてくださっている方は、そういう力をお持ちなのさ。」
 風陣は権力に酔うように言った。
「それにいざとなれば、街道の並木でも、破れ寺の用済みのご神木でも、何でも切ってやれば良い。」
「そんなことをしたら許さないよ。」
 天台寺のことを言っているのは明白だった。
(富男が出世していたら、こんな風になっていたのかも知れない。)
 朱夏は自分が灼熱の高炉へと突き落とした棒頭のことを思い出した。権力を手にすることで、じぶんの都合の良いように人々を動かし、周囲の環境を思い通りにしようと望んでしまう。それは逆説的にその者の弱さを表しているのではないのか。
 朱夏の目に怒りよりもむしろ哀れみを読み取ったのか、風陣はぴたりと語るのをやめた。急速に雲が動き、粉雪を舞い上げて風が通り過ぎた。思わず顔をそむけてやり過ごした後、前に向き直ると風陣の傍らに、並び立つと殊更にその背丈の小ささが目立つ政が佇んでいた。
「天台寺の小娘か。なんや、呼応しとるんかいな。」
「密談には良いところだと思っていたが、こんなところに人が来るとはな。」
(呼応・・・それに密談?)
 二人で朱夏を置いてけ堀にして通ずるように言葉を交わしている。朱夏はこの木地師の小男が声を発するところを初めて見た。異様な雰囲気にややたじろいだのは、この場所がいつか風陣と対峙したときのように、開かれた空間ではなく、いざとなれば周囲に助けを求めることができる場所でないことに起因するかもしれない。ちぐはぐな身の丈の二人の男に詰め寄られているようにも感じられた。
「思い出したよ。雛飾りのことは残念だったな。」
 風陣はこちらへ向き直った。
「あんたたちに気を遣われることじゃないね。」
 朱夏は負けてしまわないように言い返した。
「そう意地を張るな。なかなかの出来映えだったそうじゃないか。」
「見てきたようなことを。あんたにそれが分かるの。」
「どうだろう。確かに俺の品定めの目利きは、おまえと同じくらいかもしれないな。だが、ここにいる政の目は確かだ。」
(そうだ、この小男は。)
 政の助言で、透たちは木目込み人形を作ることに決めたのだと蒔が言っていた。この男の考えていることも分からない。透はもっと鷹揚に、旗屋に歩み寄れば良いと考えているようだが、旗屋がそのように考えているとは限らないのだ。
「それよりも、おまえのことだ。役人に色仕掛けで仕事をとっても、それが結実するとは限らないということが分かったんじゃないのか。」
「そんなつもりはないけど、わたしが白檀どのと通じているのが気に入らなかったというわけ。」
「どうかな。砂屋のあねこがたは、みなそれぞれに詰めの甘いところがある様子だからな。」
「風陣よ。なにをだらだらと突っかかっとるんや。この娘は名代(みょうだい)で来よったんか。」
 政が口を挟んだ。放っておけばいつまでも朱夏を攻め立てる風陣の態度に、政はなぜか苛立っているようだった。
「知らんよ。どうなんだ。」
 風陣は肩をすくめて朱夏に問いかけた。
(名代・・・)
 そういえば、この者たちは何のためにここに居るのだ。先ほどから誰かを待っている風だったが、もしやその待っている者とは。
「朱夏・・・なぜこんなところに。」
 笛のように澄んだ声が驚きで少し裏返るように、先ほど朱夏が避けた急斜面を伝い上がって白檀が姿を現した。
(やっぱり、白檀を待っていたのか。)
 ここに来れば会える気がした。それでこんなところまでたどり着いた。自分の考えが当たって、白檀と気持ちが通じ合った、という喜びを感じるよりも先に、この場がすでにそういう色っぽいものではなくなっていることに意識は向かっていた。
 白檀と風陣はここで会う約束をしていたのだろう。さっきから風陣が妙に探るような話を出してきていたのは、朱夏が白檀の意を呈してここに来たと疑っていたと言うことか、とようやく合点がいった。どうしても朱夏と白檀の繋がりが気に入らないらしい。
「その様子だと、別に示し合わせていた訳じゃないのか。そちらから呼び出したにしては、遅いお着きじゃないか。あんたの姫御前と楽しく時を過ごさせて貰ったがな。」
「朱夏、この場所に、わたしを訪ねてきたのか。」
「あんたとは、話すことがたくさんあるからね。」
 朱夏は頷いた。その様子を、風陣は髭を揉みながら興味深げに眺めている。
「あんたも鬼のような役人さまだ。信じて懐いた娘を(そそのか)して飾りを作らせ、それを奪い取るのだからな。」
「やはり、あんたらが糸を引いていたんだな。あの証文の出所は。」
 白檀が色をなした。
「ご名答。福岡で面白くなさそうに酒を飲んでいた豊和の奴と話を付けるのは造作もないことだったな。それを聞きたかったのか。」
 何気なく答えた風陣の言葉に、朱夏は驚いた。
「それじゃ、あの証文は、あんたらが預かってたってこと。」
「なんだ、思ったより察しの悪いやつだな。」
 風陣はやや白けたように言った。
「おまえがこの男と繋がっているように、おれたちも役所に協力者を設けている。しかも、もっと影響力のある方だと言っただろう。シオール殿だよ。」
 構図が繋がってきた。朱夏はさらに頭を巡らせた。
「つい先日に、屋敷にお立ち寄りいただき、ご相談したのだ。様々なことをな。」
「その、シオール殿のことをあなたがたに聞きたいと思ったのだ。」
 白檀は黙り込んだ朱夏を引き取るように言った。そして朱夏の方を気にしながら、「雛飾りのことは、済んだことだ。」と付け加えた。
「あなたがたは、ずっと(せん)からシオール殿と懇意になさっていたということだな。そうでなければ、福岡の領地をあちこちと見て回るに、あなたがたが先達となる理由がない。」
 風陣が黙っているのは暗に肯定しているものとみたのか、白檀は続けた。
「そうとなれば、わたしが福岡にお役目をいただいたのは、シオール殿の思惑があったものと捉える必要がある。それを理解しなければならないのだ。それはひいては、なぜシオール殿はわたしを引き取られたのか、そういう大元の問いにも繋がる。」
「あんたは鹿角で拾われたと言っていたな。」
 風陣は口の端の歪めた笑いを消した。
「なぜだか知らんが、シオール殿はあんたのことを浄法寺にゆかりのものと判断されたようだ。確かにあんたの想像するとおり、浄法寺において役割を果たさせたかったのだろうさ。」
 その話は、朱夏も玄爺から聞いたような気がした。
「役割、それがなんだったのか。」
「それはもちろん殺し掻きだ。浄法寺が生み出す宝物は、職人たちの高い技術と、豊富な漆の産出によって成る。おれたちの刃物を使って漆をもっともっととれるようにする、というのは、シオール殿の思惑に適う。あんたは営林をしながらおれたちを助けるように言われたんじゃないのか。」
「確かにそうだ。だが山に分け入るうちに、野放図に採り尽くせば良いというものでもないと分かってきたのだ。現に、山はどんどん禿げ上がって、いつまで続けられるかは分からない。それに・・・」
 白檀は朱夏の方を一瞥すると、
「単に漆を採って銭に代えるだけではない、山にある、もっと奥深いもの、伝え継がれていくものがあるのではないかと、そう教えられた。」
「そうかい。それは何だ。」
「それは、記憶だろう。山に交じって生業としてきたあなたがたには分かるはずではないのか。遙か祖先より伝えられた、山の恵みを拾い掴んで生きていく知恵だ。そして四季の(めぐ)るたびに何度でも恵みを再生する山の不思議な営みだ。繰り返される営みに身を浸していれば、それを支配しようとは思わない。ただ渾然と営みと一体となることでこそ、心地よい情感を得ることが出来る。」
 朱夏は白檀を見つめた。それが答えだと言うことか。白檀は目を伏せて、しかし再び振り返ることなく、
「人は過去に縛られて生きる。自然もまた、人を縛るように感じるのかも知れない。だが、そうして自然の許す限りの分を守って生きることが大切なのだ。シオール殿もそうしたものを大切になさっていると解釈していた。鹿角でわたしを引き取るとき、シオール殿は当地の肝煎りたちと鉱山の操業を手控え、山を守ることを約束されたと耳にした。」
 風陣は一瞬、意外なことを聞いたように口をすぼめたが、ややあって、がははと豪傑笑いをした。威勢は良いがさっぱりしたところのない、嫌味な意味が読み取れて朱夏は不快な気持ちになった。
「それは全く逆だ。」
 風陣は再び真顔に戻ると、今度は哀れむような目で白檀を見据えた。
「わからんのかね。シオール殿は鹿角の旦那衆たちと、鉱山の「増産」を約定されたのだよ。旦那衆に利権を分けてやるという条件でな。おまえが山を歩いて感得したのは大層に高尚な霊妙さだろうが、もとより異国の者にそんな機微が分かると思ったのか。」
「なぜ。シオール殿は、浄法寺の漆を、素晴らしい技術と、美しい工芸品だと賞賛されておいでだった。」
「それは、あの方の意図をくみ取れていないな。あの方はこうおっしゃっているんだよ。素晴らしい技術、美しい工芸品。これは、この浄法寺の木地椀は・・・銭を次々に生み出す、打ち出の小槌になると。」
「それが、そんな・・・」
 白檀は呆然と呻いた。
「あとは砂屋の妹娘を取り込んで、おれたちの意に沿うような品物を作らせれば、それで漆産出の増加と、工芸技術の確保の両面が成る、という計略のつもりだったが、なかなか上手くいかんものだな。」
 後ろで政が僅かに鼻をひくつかせたが、風陣はそれに気づかずに、
「だが、それも時間の問題だろう。おれたちもいろいろと手を回したが、別にそうしなくても勝手に砂屋は退潮しただろう。反対に、旗屋はますます上げ潮だ。」
「それほど、単純に割り切れるものではない。」
 白檀は必死に反論しようとしたが、その弱々しさはかえって風陣を勢いづけたようだった。
「山が無くなれば、鉄や銅を探せば良い。選鉱といって、立派な仕事の一つだ。それのどこが悪い。古くからの暮らしを守るばかりで工夫も無く生きることが、目端を利かせて、新しい稼ぎの方法を探るよりも優れていると、どうして言いきれるのだ。」
「滴も蒔も、粂太郎や透たちも、誰もそんな働き方は望んでいない。」
 黙り込んでしまった白檀の代わりに、朱夏が口を開いた。
「なぜ分かる。訊いてみたのか。」
「人は、誇りを持って働かなければならないからだ。」
 朱夏は力強く言い切った。
「愛着のある土地の、自然と共に生き、自然の命のほんの少しを分けて貰って、そうやって暮らしを立てること。過去から繰り返してきたその生業を続け、自分たちの次の代にも受け継いでいくこと。それがみなの誇りなんだよ。あんたの号令にただ従って、あやつり人形のようにただ木を切り倒して、作りたくもない器を作って。それだけで、みなが生きていけると思わないで。」
 言葉を投げつけたが、風陣は僅かに眉根を寄せただけで、堪える様子もない。
「俺はそうは思わんな。みな、あれこれ考えて働ける者ばかりじゃないだろう。頭をからっぽにして、ひとつの作業に集中する。何本木を切り倒したか、どれだけ多くの漆を掻いたか、そういう成果を誇る者もいるはずだ。おまえの論が、だれにでも当たると思うなよ。」
「木がなくなり果てるように、鉱石もいつかなくなると言っているんだ。」
「ばかなことを。木地師たちが何百年のあいだ山に入っても、山の木々は絶えることはなかっただろう。まして山の中身は、その表面よりももっと膨大だ。目の前の山がなくなることに繊細に傷ついて、豊かな暮らしを拒む理由がどこにある。」
「だったらなぜ、あなたたちはここに来たの。」
 朱夏は既にこの男の欺瞞に気づいていた。
「だったらそれを、越前でやれば良かったじゃないの。越前の木々が絶え果てたから、あなたたちはここに逃げてきたんじゃないの。」
「時代が、追いつかなかったのだ。」
 風陣は悪びれずに言った。
「木船に帆を立てていた時代は終わり、いまや蒸気船が海を行きかっている。東京では、陸蒸気というものも作られているそうだな。これまで誰も入ることが出来なかった山の奥の隅から隅まで、これからは入っていくことが出来る。取り尽くせないほどの宝の山が広がっているのだよ。」
「やめなさいっ。全てを銭で図ることの虚しさを、知るべきだ。」
 朱夏は叫んでいた。
「はたらきを銭にし、工芸品を銭にし、山を銭に見立てるなど。自然も人も、そうやってあやつれるものではないでしょうっ。」
 どうしてもわかり合えない。鉄山でも、あの棒頭とわかり合うことはついに出来なかった。だが風陣は、この男はただ自分が権力に酔いしれるためだけに振る舞っているのではなく、権力すらも手段として、自分の一党を含めた多くの者が「幸せ」になることを目的として行動している。思わずこちらが間違っているのかと錯覚させるような弁舌を尽くして、幸福とは、豊かさとは、救済とは何かを問いかけてくる。それゆえに、この漆の実のみのる浄土のような山の中にあっても、わかり合えない者同士が道を違えるのを避けることが出来ない。
「ふうん。」
 風陣は朱夏の顔を見つめ、唸っている。また蓑の中に手を差し込んで、かちゃかちゃと音を立てている。降り始めた雪が粒を大きくし始め、まだ昼過ぎだというのに夜のような暗さにあたりは包まれた。
「シオール殿はそれでもおまえを浄法寺に結びつけようと腐心されていたが、けっきょくうまくいかなかったようだな。」
 朱夏から目を離さずに、風陣は白檀に向かって呟いた。
「おまえが砂屋に肩入れするようになったのは、結局この御しがたい娘に惚れたと言うことなんだろう。くさびを打つつもりが、逆に打ち込まれてしまったということだ。」
 ようやく蓑の中から出した両手には、怪しい光を放つ刃物が握られていた。
「おれの生業を知っているだろう。」
 一気にその場の温度が上がったようだった。
「朱夏、逃げるんだ。」
 白檀は(かば)うように朱夏の前に立った。
「おまえとシオール殿の関係を思えば、情が移っても仕方あるまい。だが万が一にも旗屋の不利となるような憂いは、今のうちに取り除いておくとしようか。冬の山は怖い。こわいこわい。雪崩もある、滑落もある。どんな災いかは知らんが、若い役人どのは果敢に無謀に冬の山に挑戦し、そして呑み込まれてしまったと、里では噂することになるだろう。」
 無表情に言葉を連ねるのが、殺気を放たれるよりもよほど不気味で恐ろしかった。
「朱夏っ。」
 白檀も山に入るときには必ず携行する熊盾を取り出して応戦の構えをした。その腕に押しのけられるようにして後ずさる。二人してじりじりと崖際に追い込まれていく。
「きゃっ。」
 不意に、足元が崩れる。驚愕しながらも必死に唇を噛んで、戦闘の気配を逸らさない白檀の形相が濡れ雪の奥に浮かんだのを最後に、朱夏は奈落へと滑っていった。
「娘のほうはわしが追うわ。」
 斜面を慣れた脚付きで政が小走りに追うと同時に、風陣が初太刀を打ち込む。白檀は腕を痺れさせながらそれを受けた。
 光のない鉛色の世界の中で、二人の手元の鉄だけが煌めいている。

「透、悪いが駒形神社まで行ってくれないか。」
 眉根を寄せて粂太郎に頼み込まれた。
 滴が産気づいたため、朝から大わらわの状態だった。男に出来ることは少なく、手伝いを求めて透は天台寺まで走ったが、朱夏はどこに行ったのか留守だった。
 帰ると、産屋からは苦痛の呻き声が響いている。
「難産のときには、山の神様をお迎えに行くのです。」
 たすき掛けをして産屋から出てきた蒔が、透の両肩に手を置いて早口で説明をしてくれる。
「遠野でもそうだったよ。馬に鞍を置いて、塞の神様に向かって歩いた。それが浄法寺では、あの山の上の神社なのか。」
「そう、そうなのです。」
 蒔は紙包みを取り出した。
「中に(あわび)が入っています。神社に向かって歩いて行けば、山の神様が降りてこられるので、裂いて熨斗(のし)を作ってください。」
「え、神様が降りてくるってのは、どういうことだ。」
「詳しくは分かりませんが、必ず降りてくると、馬役の者はそれが分かるということです。」
(よく分からないが、とにかく神社に着いて供えれば一応は格好がつくか。)
「すまない。おれもここで精進潔斎(しょうじんけっさい)して待っているよ。」
 粂太郎も諸肌を脱いで必死の形相だ。
「透、気を付けて。この季節にまだ雪崩などは無いと思いますが、雪山は何があるか分かりませんから。」
 蒔は気遣わしげにこちらを覗き込んだ。透にとっても、鉄山で駒が流された土砂崩れの、あっという間にあたりを押し潰して流れていく姿は目に焼き付いている。ただその色が黒か白かの違いだけで、恐ろしさに違いはない。だが、滴が健康に児を産むことは、久々に砂屋にとって良い報せとなるはずだ。
「ああ大丈夫だよ。姉御の苦労に比べればどうということはない。それに、馬の神社だ。おれにぴったりだよ。」

 静寂の中で目を覚ました。起き上がろうとすると腰のあたりが痛くて思わず呻いた。雪庇(せっぴ)をいくつか踏み抜いて落ちる間、したたかに全身を打ち付けていたものらしい。
「やっぱりこの中かいな。」
 遠くに声が聞こえたような気がして、動く限りに首を動かすと、暗闇の一部が動いて、ほんの僅かな明かりが差してきた。それだけで自分が落ち込んだ洞の中が照らされた気がして、朱夏は身を竦めた。
「天台寺の娘よ、心配せんでもええ。わしはもう往ぬ。やからそのままで聞け。」
 木地師の政の声が反響した。
「風陣はやりすぎた。商家同士、あの手この手で出し抜くのは好きにしたらええが、精を尽くして作った作品を奪い取るのはいただけん。その上に山で殺生までしたらおしまいや。」
(殺生・・・そうだ。白檀。)
「待って、木地師どの、助けを呼ばないと。」
 朱夏は政の言葉を騙し討ちだと疑わないではなかったが、それよりも白檀がどうしているかが心配になった。
「しばらくここに居ったら()え。山が震えとるわ。」
「雪崩なんて、そんなことより。」
「雪崩やない。じっさい昔の人は上手いこと考えとるわ。あの神社のあたりの地形は、おおかたの雪崩はあたらん。」
「それでは、どうして。」
 朱夏は痛むところをさすりながら少しずつ身体を起こした。
「根雪が圧縮される音や。こういうときにホウが来る。」
(ホウ・・・)
 何のことだろう。不気味な響きだ。
「あの雛飾りの完成品は目にした。小僧に見せて貰ったが立派なもんやった。小僧とあのいとはんと、互いの知恵と技術が溶け合うて、ええもんを見た。それでわしは満足や。」
「透のこと。透を認めてくれたのならば、あなたも砂屋と一緒にやればいい。」
「おまえもなかなかの朴念仁やの。」
 政が苦笑する声が聞こえた。
「わしはやっぱり山で生きることにするわ。脊梁山脈を渡り歩いた人生に飽いて、定住も悪くないと少しばかり夢を見た。かわえらしい嫁さんをもろてな。だがやはり、この国の山の、嶺々の最期を見届けるほうが、わしの性にあっとるんやと思うわ。」
「最期だなんて。わたしたちは旗屋とは違う。山とともに生き続けられる仕事の仕方が、あるはずだろう。」
「そういう話やない。以前に、測地をしたやろ。わしらの持っとる赦免状とか、昔からの入り会いとか、そういうのはもう否応なく無くなっていく。誰のものでもない山は、誰かのものにされていく。それが新しい時代の、新しい山の掟ということや。」
「だったら、だからこそ、わたしたちのような流れ者を緩やかに受け止めてくれる場所として、浄法寺の里のようなところを守っていかないといけない。」
「それもな。旗屋の連中の働き方をみて思った。これからああいう技術も、深い考えも要らんような仕事に就く者がもっと増えて、ただ言いなりになって働くことが美徳とされるようになる。風陣だけやない、あいつのようなことを考える奴は平地にもようけ居るやろ。これまで山に逃げ込んでいたような連中は、これからは町へ逃げ込むことになるで。わしやあんたらが気張っても仕方ないんや。」
 もはや、行くわ。と告げて、洞の外から覗き込んでいた気配が消えた。ぱさりと落ちてきたのは、霜が降りたハグマの茎だった。冬の高山植物。いまのやりとりが夢ではなかった証だった。
 ようやく痛みが引いて、洞から出ようと立ち上がったところで、ぼんやりと光の差す穴の裂け目から突風が吹き込んで再び朱夏は倒された。
 きゃっと小さく叫んで目を閉じたあとで、外から花火玉の炸裂するような鋭い音が響いた。
 その後で、ぼとぼとと雪の上にたくさんの固いものが落ちてくる音がする。
 外の様子が窺えず、さっき政の言った「しばらく」とはいつまでなのか、外に出たものかどうかの判断がつきかねて、しばらく目を閉じたままで横たわった。
 外の天候が、雨に変わったようだった。
(白檀・・・どうなった。)
 身体が熱っぽくてだるくなってきた。それでも男たちの様子を見に戻らないといけないという本能が働き、這い出すように手足を動かした。しかし先ほど政が覗き込んでいた穴が今の突風で塞がったようで、暗闇の中、どちらに向かえば良いかが分からなくなってしまった。
「朱夏ぁ、いるのか。」
 雪の層の向こうに男の声がした。白檀が、風陣を打ち倒して自分を探しに来てくれたと思った。
「ここにいる。雪を掘って。」
 必死に返事をした。
「やっぱりか。なんでこんなところに。」
 ざくざくと雪をどかす音が聞こえて、ふたたび差し込んだ光の中から顔を出したのは透だった。
「いきなり、と、鳥居が目の前に吹っ飛んできて、ちょっと間違えたら潰されるところだった。山の神ってのは鳥居のことなのか。ずいぶん派手だ。」
 透は興奮した様子で朱夏を穴から引き上げた。
「ほら、これ、おまえのだろう。それでここが分かった。」
 手渡されたのはオシラサマだった。錦を着飾るオシラサマはこの世に二つしか無い。
「違う。わたしのはちゃんとここに持っている。」
 朱夏は懐を叩いた。木偶の固い感触が打ち返してくる。渡されたオシラサマを裏返すと、そこには天の字が彫り込まれていた。五年が経っているが、この彫りは、朱夏が三陸のあばら屋で、月明かりの下で彫った文字に違いない。そして、ところどころに銃創が刻まれ、過酷な戦闘に晒されたことを物語っている。
 涙が溢れてきた。それならばこのオシラサマは春一の持ち物である。
(たどり着いたの・・・)
 それはつまり白檀が、喪われていたこのオシラサマを取り戻したということに違いない。
「鳥居と一緒に飛んできたのか。駒形神社の方からだな。」
 透が呟いて、朱夏は我に返った。
「も、戻らないと。」
 しかし、強い力で引き戻された。
「だめだ、おまえ、すごい顔色だぞ。はやく暖まらないと。」
「そうじゃない。上には白檀が居るんだ。」
 朱夏はじたばたともがいた。いや、白檀ではない。春一がいるのだ。朱夏の剣幕に透は驚いたようだが、冷静に諭した。
「それでもだめだ。早く降りるんだ。さして高くない山だから油断していたが、さっきのはホウラだ。」
 ホウラ。ホウが来る、と政が言っていた。
泡雪崩(ほうなだれ)という。遠野でもたまにあった。雪が滑りもしないのに飛ばされる。春先の雪崩と違って、ホウラはいまの季節の方が危ない。次が来るかもしれない。こんな洞は崩れるぞ。」
 透は朱夏を背負うと、一足飛びに斜面を下へと駆け出した。
「鳥居が飛んできたのだから、駒形神社のあたりは直撃したんだろう。白檀が居るとしても、避難してくれていることを今は願うしかない。」
 語りかける透の声を遠くに聞きながら、朱夏はやっと春一としてあの男に再会できたのに、何を語る間もないままに再び分かたれてしまった皮肉に涙ぐんだ。しかし雨に煙る清澄な山の冷気とともに透の息遣いだけが聞こえる段になって、いつしか眠りに落ちていった。

 その晩、滴は無事に女児を出産した。
 蒔が感極まって透にすがりつき、嬉し泣きをしている。
(いずれにしても、山は終わる、ほんとうにそうなのか。)
 時を経てようやく、作られたときの一対に戻ったオシラサマを撫でながら、風陣や政の言葉が呪いのように反芻される。
 次代の浄法寺の景色に、この児は何を見いだしていくのだろうか。
 濡れた髪から幾筋もの雫をしたたらせて、朱夏は唇を噛みしめていた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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