第7話(第2章第1節)
文字数 4,354文字
モウとあちらでも、牛が鳴いた。
こちらの牛は、塩俵を満載して山の上を目指している。
あちらの牛は、鉄をかごに入れてふもとの港へと下ろしている。
「兄さんたちは、盛岡の方にも行くの。」
弁当の干し魚や干し柿を食べながら、慶二が牛方の男たちと話している。
「行くときは行くわな。」
「三陸の塩はよう売れるで。奥州街道沿いは塩っ気に飢えとるで。」
「羽州との境の山に登れば、もっとそうじゃ。」
牛方たちも機嫌良く答えている。慶二は気が弱いところがあると思っていたが、こうしたところは春一に似て気さくだし、初めて村を出て少し興奮していることもあるだろう。
「去年のいくさには行った?」
「いや行っとらんが。ここらの藩はみな非常時というて商売にならんかったな。」
「景気のええときには、塩を売ってから、運んできた牛も売ってしもてな、手ぶらになってちょっと遊んで帰ってくるのよ。」
「あれは楽しいわな。」
「牛方なんぞしてるのも盛岡で遊ぶためみたいなもんかもしれんな。」
春一のことを聞き出そうとしているのかも知れないが、なかなか話の流れをうまく導くのに苦戦している様子を見て、朱夏は苦笑した。
「そろそろ行くぞ!」
三池がふところから丸い木の細工をとりだして見ながら言った。慶二は慌てて弁当をたたみ、牛方たちに別れを告げて隊に追いついた。
「それ、時計ってやつかい?」
朱夏は歩きながら聞いてみた。
「よく知ってるな。百姓にしては珍しい。」
「何かで読んだことがあるよ。でも確か錘を使って刻を計るんでしょ。ふところに入れて上手く動くのかい。」
父の書物で得た知識を思い出しながら尋ねた。
「おれも分解したことがないからよく分からんが、鉄の歯車を砂の重みで動かしているらしい。あんまり上下に動かすなとは、作ったやつに言われたよ。」
三池は時計を上下に振りながら答えた。
「へえ、知り合いが作ったの。」
「鉄山にこういうのが好きなやつがいてな、試作品といって色々と持たせてくれるんだ。季節によって一日の刻限が変わるのを、盤面をずらして調節してな。みんながやってる日の高さの目分量と合わせて見れば、ある程度の目安にはなる。」
「すごいね。」
「ぜんまい仕掛けにした方がいいとかなんとか言ってたから、まだ改良の余地はあるんだろうな。」
「昔あんたと歩いたとき、狐みたいな男が遅くなったのを怒っていたのを思い出すね。」
朱夏は笑いながら言った。
「午までに来たとか、来てないとか。江戸の方はここらより刻限が早いのかな。」
「あいつならこれから行く鉄山にいるぞ。」
三池は平静に戻った声で言ったので、朱夏も「えっ」と顔色を戻した。
「はしゃぐのも結構だが、あいつがおまえらの棒頭になるはずだ。狐なんて呼ぶなよ。」
と忠告した。慶二のことを笑えないほど、朱夏自身も興奮していたようだ。あまりいい印象の残っていない男である。朱夏は暗くなった気持ちを引き締めた。
橋野の集落は鉄山よりも少し手前にあり、切り出した材木を置いてある場所の間を縫って馬が繋がれ、さらにその間に牛たちが輪を書くように並んで休んでいた。朱夏たちも集落で少し休み、村の者から水をもらってひとごこちついた。山のわき水だろうか、自分たちの村の水よりも少し苦い味がした。
「さて、もう一息だ。」
日が暮れる前に鉄山に入ってしまいたい。三池に連れられて朱夏たちは黙々と歩いた。
峠を行く道から、谷筋への下り道がつけられている追分についた。この鉄山が開業してからおよそ十年、人や荷が行き交ううちにすっかり踏みしめられて、峠よりも歩きやすい道になっている。沢を跨ぐ小さな橋を越えると、小屋が建ち並ぶ一角が見えてきた。さらに歩くと、先ほどの沢よりも少し太い流れがあり、橋の向こうに黒い門がそびえていた。
「普段づかいは、脇の小門を使うようにしてくれよ。今日は大門から入ろう。禅寺の初入山みたいなものだ。」
「でっけぇ門だな。」と慶二が見上げる。
「このくらいで驚くなよ。周りを見てみな。」
門を入ったところには、異様な景色が広がっていた。
二十尺以上の高さで天をつく木の櫓、その中心には赤黒い石を規則正しく積み上げた建物があり、その周りを囲むように、小屋がいくつも建てられている。
だがその構造物の中心は、赤黒い塔の上から少しだけ顔を出している灰色の窯だろう。
櫓の上の男たちが、鉱石や炭を鋤で拾い集め、棟梁の合図に合わせて調子よく窯の中に投入している。
一緒に来た年配の連中も、鉄山といえばたたら窯だと想像していたのか、その巨大な構造物に圧倒されている。
さらに右へ振り返って斜面の上の方を見ると、同じような構造物がさらに二つ見えた。夕日に照らされるそれらの窯は今日は動いていないようだが、ここよりも高い場所にあるため、さらに巨大に見えた。
「これが、小松川殿の建てられた高炉、というものだよ。」
声もなく立ち尽くす朱夏たちを満足げに見ながら三池が胸を張った。
(これほど大きなものを作れるのか。)
三陸海岸をどこまでも覆う崖、月顕寺がへばりつくように建っていたあの崖も大きいと感じたものだが、地形の作るああした威容とは別種の、人の手による建物の重厚さに、強く印象づけられた。
「えらくおそかったじゃないか。」と聞き覚えのある声がした。
「荒船殿か。ではこの者たち五名、引き渡し申す。」
「しゃちほこばった口をきくなよ三池。釜石くらい、半日あれば来れるだろう。どこで道草食ってたんだ。」
くだけた口調で話すのは、あの日盗賊宿で会った狐づらの男だった。
「釜石よりさらに南の、ほぼ仙台領のあたりから来てるんだよ。そういじめてくれるなよ、富男。おれだってここと藩内のあちこちを何度も行き来して、なかなか大変なんだよ。」
三池が泣き真似をしながら言い訳した。
(荒船、富男か。横山ってのもそうだが、似合わない名だな。)
狐づらを見つめながら思った。富男は朱夏に一瞬視線を移して首を傾げたが、朱夏が知らない振りをしたので、そのまま振り返って歩き出した。
「今日のうちに、ひととおり山の中を見せておこうと思ったが、この時間じゃ仕方ない。今日はとりあえず人足小屋で休め。あとで夕餉の配給がある。」
と言って戸板を開けて、朱夏たちを小屋の中に放り込んだ。窓が少なくあまり光の入らない板敷きの一間の、左右に囲炉裏が一つずつあるだけの殺風景な空間だった。
「あまり場所を取り過ぎないようにしろよ。」と声を掛けると富男は去って行った。
朱夏たちは隅の一角に場所を取ると固まって座り込んだ。
「広い部屋だね。」慶二が何か喋ろうとして声を出した。
「もうじきしごとが終われば、人であふれかえるんだろう。」年配の一人が答えた。
朱夏は手持ちぶさたに昆布をかじったりしていたが、男の言ったとおり、じきに小屋の中は仕事を終えて戻ってきた人夫たちで一杯になった。その多くが煤や埃だらけになった姿で、また、春先とは言え窯の周りは相当熱いのだろう、汗だくになっている。
配給は、米と稗を混ぜた飯に、ゆで栗がひとつ付いていた。小屋を出て、配給場所でそれらを受け取ってから、そこらの手頃な石や材木に腰掛けて食べていると、馬に乗った男たちが大門をくぐって人夫たちの方へ近づいてきた。
「みな、そのままで聞いてくれ!」とその中の一人が馬上から声を張り上げた。「小松川さまより、お話がある!」
男に促されて、中心にいた一人の男が前に進み出た。馬の背に乗っているので正確なところは分からないが、かなり背の高い男のようだった。頬は痩せているが、口ひげを生やし、侍らしい鋭く光る眼をしていた。
(この人が、小松川さまか。)
三陸の嶺得和尚ですら名前を知るほどの名士であり、恐ろしく巨大な高炉を三つも建てた男、その人であろう。
「本日もご苦労である。みな知ってのとおり、ここ橋野は良質な鉄石を豊富に産出する、日の本でも随一の鉄山である。鉄石はみなのはたらきでどんどん採掘量が上がっている。素晴らしいことだ。」と人夫たちをねぎらった。
「一方で、」と話を続ける。
「高炉で燃やす木炭は、まるで足りておらん。わしらは今日も領内をまわって、安価な木炭を売ってくれる者を探したが、なかなか折り合いが付かん。やはり、この付近の山の木々を切り出して使うのが、効率も良い。雪の季節はなかなか山に入るのも難しかったろうが、そろそろ本腰を入れて切り出しにかかってもらいたい。」
朱夏は背後に広がる山を見た。急峻な斜面に、けやきやくぬぎの木が立ち並んでいる。
「異国に負けぬ国力を蓄えるため、鉄の生産は日の本の民のみなが注目している。わしらは、一人の死者も、一人の逃亡者も出ないよう、風紀を守って、それでいて生産量を上げることが求められる。各自の奮起を期待する。」
人夫たちの間からは、「はっ」とも「おぅ」ともつかぬ声がぱらぱらと聞こえているが、それほど士気が上がっているようには見えなかった。役人たちの気構えとは温度差があるようだが、小松川は気にせず、役所の掛屋へと馬を向けた。その隣では、めずらしい眼鏡をかけた男が、小松川に向かって何事か話しかけていた。
(侍にしては、案外偉そうぶらない方だ。)
別段、人夫たちに人気があるわけでもないようだが、第一印象は悪くはなかった。しかし隣で慶二が、
「いまの話、要するに注意していないと死者や逃亡者が出ると言うことだろう。どんなしごとなんだ。」と震えている。
確かに、つるはしでも持って鉄山を砕くのが仕事だと思っていたが、山に入って木を切るというのだから、杣のような仕事だろうか。そういえば嶺得も、木を切り倒すことが鉄山の重要な仕事だと話していたような気がする。
「明日からもう働くわけだから、心配しても仕方ないだろう。」などと慰めていると、近くに居た男から、
「おまえたちは、どんな仕事をしていたんだ。」と険のある声で話しかけられた。
「おれは漁師をしていたけど・・・」と慶二が思わず答える。
「漁師だって板子一枚下は地獄というじゃないか。どんな仕事だって、何かが間違えば死ぬかもしれないさ。その程度におののく臆病者は、足手まといだぞ。」
「足手まといだ!」
後ろから二人の男が口を挟んだ。同郷の者だろうか。
「おまえら、黙ってろ。とにかく棒頭の言うことを聞いて、まじめにやるだけさ。俺たちにはそれ以外ないよ。」
男は達観したように言った。
(いけ好かない雰囲気の男だ。)と朱夏は思った。