第34話(第6章第3節)

文字数 12,750文字

 がたがたと音を立てて木の扉を滑らせると、むわっと乾燥した空気が雪の積もった戸外にまで流れ出してきた。
「中は暖かいんだな。」
 透は藁靴の雪を払った。
「うん。最初のうちは軒下あたりで仮乾きにしたあとで、ここで本乾きにするんだよ。建て付けが悪くなってきたが、隙間が空くよりはいい。」
 所狭しと棚が並ぶ格段には様々な寸法の角材や板材が横たえられている。
 さあ、奥へ、と粂太郎がいざなった。
 木地小屋に併設したこの建物に透は入ったことがなかったが、塗り小屋に風呂が付属しているように、こちらには木地を乾燥させる設備がそなえられているということだ。
「どうせなら丹をたくさん使いたいのですが。」
 手頃な材を指で探しながら蒔は構想している。
「蒔どののご指図の通りに木地小屋は働かせてもらうよ。しかし、雛壇と言ったら緋毛氈じゃないのか。」
「そうですね。雛壇を全て塗ってしまうと却って(うるさ)いかもしれません。」
「菱餅くらいにしておけばどうかな。」
「なるほど、五段にしますか。」
 蒔は滑らせていた手を唇に戻して思いついたように目を輝かせた。
 菱餅の色は三段の場合は下から白の雪、緑の葉、桃の花で、秋を除く三季を(かたど)ることで「飽きない」を掛けてあるものだが、五段にすればその上に黄色の月と朱の太陽が乗る。
「菱台は絵付けもあるし、塗り師からすれば一番力の入るところだろう。」
 粂太郎に畳み掛けられて、蒔の頭の中ではくるくると構想が練られているように見えた。
「雛壇の形は挽物では作れなさそうだが。」
 透は少し話が分からなくなったので、粂太郎に基本的なところを尋ねた。
「うん。挽物と言うより、指物(さしもの)の範疇だな。ほぞを作って縦横に板材を()すから指物だ。ひとつやってみるか。」
 粂太郎は腰元から鑿を取り出して端材を(えぐ)り、忽ちに四角い穴を空けた。
「この穴に雄材の突起を指すわけだ。」
 今度は別の端材の先端を手早く削る。透は黙って木地師の技に見惚れていた。
「本当は真四角より扇形にしたり重ね突を作ったりした方が丈夫になるが、こんなもんだ。漆を流せば大抵のことでは外れんよ。」
 完成したほぞをはめ込んで、粂太郎は手のひらで軽く叩くと、
「さて、どれを使うね。」と蒔へ問うた。
「立派な作りにはしたいですが、あまり段を重ねると、人形が。」
「そうだな。やはりそこが問題だ。」
「人形というと、お内裏様とお雛様か。」
 透も話について行こうとする。
「そうです。粂太郎どのが木彫りは巧みですから心配ないと思うのですが。」
 蒔は粂太郎の目をのぞき込んだ。
「うむ、着物に合うように彫らないといけないんだな。おれもあまりやったことがない。いろいろと文献を当たってみるよ。」
 会津や浄法寺で経験を積んだ粂太郎ほどの木地師でも、人形作りにはさほど携わってこなかったということだ。
「もとより椀物の浄法寺に敢えて注文なさるのだ、江戸前ほどの質の人形をお求めと言うこともないんだろう。」
「ええ。できうる限り努めれば、それで構わないと私も考えます。」
 蒔と粂太郎はそう言っているが、透はできるだけ妥協はしたくなかった。といっても、実際に主になって制作に当たるのはこの二人であり、透はその手伝いをする程度だ。はやる気持ちと、自分の腕前の乖離がもどかしく、まだ板材を吟味している二人を残して、乾燥小屋の外へ出た。
 湿り気のある雪が、また少し強く降ってきたようだ。
 
 明治五年春、県令孫娘の初節句を期し、浄法寺街道砂屋は雛飾を制作し、盛岡県庁へ納入する。
 白檀が携えてきた証文に、砂太が署名をして、官民の請負契約が成立した。本来の注文者はシオールであるが、形式上、県庁が注文者となっている。公金の使途として不適正なのではないかと気を揉んだが、受注者としてそこまで心配する筋合いはないし、シオール自身がかなりの私財を県庁と連動した様々な事業に投じているようだから、案外そのあたりの境界は曖昧なのかもしれない。
「品物の造作については、お任せいただけるのですかな。」
「もちろんです。シオール殿もどういったものができあがるのか、浄法寺の技術にご期待の様子。」
 砂太の念押しに、白檀は鷹揚に応えた。
 透もたまたまその場に同席したが、白檀が証文の正本を懐に入れ、副本を控えていた朱夏に直接渡したのが印象に残った。
「少し、肩入れしすぎなんじゃないのか。砂太どのは拘りのない性格だから良いが、主人を差し置いて受け取るというのも、なんだ。」
 白檀を見送ってから朱夏に苦言を呈したつもりだったが、
「細かいことを言うね。確かにすこし差し出がましかったかな。」と軽くいなされた。
 それじゃ、といって朱夏は裏手へと消える。この時期は春に向けた苗床作りの準備として、種子の脱蝋作業を行うのだそうだ。
「この頃は官有地との境がはっきりするようになってきて、簡単にあちこちの山をうろつきまわるわけにはいかなくなってきたからね。杉の葉が足らなくならないよう大切に使わないと。」
 天台寺にこもって、砂屋の歳時記から一歩引いたように見える朱夏も、こうして賦役に精を出している。自分も余計なことを考えていないでまずは塗りの仕事に専心するか、と透は思い直したのだった。

 また雪が強くなってきた。
 小走りに塗り小屋に戻ると、土間に蝋梅がちょこんと置かれているのに気がついた。
(あの木地師、また来たのか。)
 透はそれを拾い上げると、戸口へ引き返した。
 政と遭遇し、蒔のことを話してからしばらく経って、しばらくこの差し入れは止んでいた。縁談が破れて、砂屋と旗屋の間には緊張が強まったように感じた。その上、今回は旗屋を出し抜いて雛飾りの注文を受けようとしている。同じ浄法寺の職工同士でにらみ合い、化かし合うのは馬鹿馬鹿しいし、牧歌的な頃を知る蒔などはなおさらそう思っているだろう。
 差し入れをしていたのが政であることを、透は蒔に伝えていなかった。蒔が季節の花に殊の外思いを寄せていたのを知っていたし、政の意図も読み切れていないような気がしたからだ。それだけにまたここに蝋梅が置いてあるのを、透は棘が刺さったような気持ちでにらんだ。
 そうして佇んでいる自分の姿を近くから見ている視線を感じて、透は四方を見渡した。
「旦那、居るのかい。すこし話をしないか。」
 透は叫ぶほどでなく、かといって呟くほどでもない声で呼んでみた。
「不思議だよ。あんたは袖にされたわけで、だったら逆恨みしたって良いわけだ。今度こそこの蝋梅には、毒でも仕込んであるのかい。」
 雪が(まった)音声(おんじょう)を吸い込んで、返ってくる音は僅かにもない。
「だがそれでもなお、親しげに蝋梅を贈ってくれるのなら、それはあんたが、浄法寺の、村のつながりを大切に思っていることだと勝手に解釈させてもらう。よそ者ばかりのこの村だ。出稼ぎでみなが居なくなると、なおさらそう思う。おれが以前働いていた鉄山もそうだった。いろいろなところから集められた者たちが、秩序をもって仕事をしていた。侍と、百姓たちで立場に違いはあったが。」
 唇がかじかんで、しゃべるのも途切れ途切れになる。それでも透は灰色の虚空に向かって話し続けた。
「違いはあったが、能力によっては、銭座の中核へと導いてもらえた。信じてもらえたことがうれしかった。いがみあい、足を引っ張る奴はどこにでもいる。けど、信じ合い、助け合うことでしか、大きな事業は成し遂げられない。そうじゃないか。利益を独り占めにしようとするから、覇権がほしくなるのだ。はじめから分かち合うつもりなら、争う必要などないんだ。」
 なぜ、そのような繰り言を独りごちているのか分からない。だが、それが自分の中にわだかまっていた感情である限り、どこかで吐き出されることを望んでいたということだ。
 塗りを覚えるほどに、ただ静かに塗りのみに専心できる環境を好ましく思う。
 蒔のことを愛おしく思うほどに、ただ世界を二人だけで完結できないのかと出来もしない空想に自らを馴染ませて慰める。
 つまりそれは、それができないということを強く表している。
「あんたは木地師だよな・・・」
 透は声を放ち続けたかった。放つ内容は何でも良かった。
「雛飾りを作ることになったんだ。人形作りが難題らしくてな。あんたなら詳しいんじゃないのか。教えてくれよ。」
「透、誰と話しているの。」
 ふと我に返ると、蒔が怪訝な顔でこちらをのぞき込んでいた。
「手頃な板材を選ぶのに手間取ってしまいましたが、いま粂太郎どのが木地小屋で作業に取りかかってくださったところです。あれ。」
 蒔は透が持っている蝋梅に気づき、それを受け取った。
 透はその手が香りを見ようと裏返るよりも前に、蒔の身体を抱きしめた。
「ど、どうしたの。寒いですよ。中に入りませんか・・・」
「いや、暖かいよ。」
「湯たんぽのように扱わないで、煮詰まっているなら、お話ししてください。」
 ふくれっ面で睨まれて、透は腕を緩めた。
 それもそうだ。思わず顔を綻ばせたとき、築山の方で鈍い音が響き、そちらに顔を向けた。
「なんでしょう。」
 蒔も気づいたようで、手拭いを被り直すと、ともに音のした方へ向かった。
(前にも政が来たとき、築山に潜んでいたな。)
 透は思い出した。
 しかし今はそこに姿はなく、雪面はなめらかで足跡もない。足を取るほど局所的に深くなった雪だまりを踏み抜けながら、築山の庭木の根元までようやくたどり着いた。目線が少しだけ高くなり、築地の上の瓦が見えるようになった。所々、不自然に雪が落とされている。
(足跡を消したのか・・・)
 蒔が追いついてきて、腕に縋った。
「誰か、いるのですか。」
「さっきまでは。でも、もういないな。」
 登ってきた足跡を振り返ると、銀に塗られた地面の上に、不釣り合いな木の色が零れている。拾い上げると木偶人形だった。
(人形・・・だが、オシラサマではないな。)
 朱夏のオシラサマであれば「天」と墨書きされている胴部分に、この人形は襟合わせのような筋目が彫り込まれている。
「あ、そうか。」
 蒔が後ろからのぞき込んで言った。
「木目込み人形ですね。これなら粂太郎どのの腕だけでおおかたできあがるから、うちにはこちらの方がよいでしょう。どうして気づかなかったのか。」
「この切れ込みのことを言うのか。」
「ええ。軸だけを彫って着物の型で人形を成形するのではなく、木目に着物を入れて固定するので、木地の形が人形の身体の形になるんです。だれの落とし物でしょう。」
 透は人形の雪を払い、切れ込みに爪を立ててなぞった。
「痛てっ」
 背中に手を添えられて、驚いて爪を反らせてしまった。
「透、誰と話していたの。」
 蒔の声色が隠し事を許さない調子へと変わっている。
 蒔にするには気恥ずかしい話なのだが、逃がしてはくれなさそうだった。

 秋の測地で定めた官民境界線には、ところどころに真新しい木杭が打ち込まれている。白一色に覆われた斜面から、木杭の出した頭はごく僅かで心許ない。
 白檀はそのうちの一つを足蹴にぐにぐにと動かしてささり具合を確認した。
「そんなぞんざいな扱いをして良いの。」
 後ろで朱夏が含み笑いをしている。
「山は動くからな。深くささっていても、雪解けの時に斜面ごとずれる。長い時間が経てば、図面とは異なる場所に打たれているなどよくあることだろう。」
 白檀は少しむっとして早口で返答した。もとより朱夏が恣意的に決めた境界に不服を抱いているのは分かっているが、それでも決めないといけない、役人には役人の気苦労というものがある。
 珍しい晴天に、積もった雪が音を吸い込んで、心地よく歩を進める二人の足音だけが響いている。冬の林は、葉を落とした木々の樹高を測るには適しているし、間伐や集材は虫の少ない冬場に行うから、今後作業を行う際の林道の目処などもこの季節につけておきたい。ばさばさっと近くで、上空へと羽ばたくトビの羽音が聞こえた。沢筋は凍って、餌となる魚は得がたくなっているだろう。
 動物の足跡が雪の上に残るので、この季節は生息状況や営巣地を探るにも適している。しばらくそうして業務をこなすのを見守りながら、朱夏は興味深げについてきていた。
「わっ。」という声が聞こえて、背中に重さを感じる。その同行者が足を取られたものらしい。
「すまない。」
 朱夏は体勢を立て直すと足元の雪を払った。
 白檀は振り返り、微笑みながら「少し休もうか。」と提案した。
 手頃な日なたを探して腰を掛けると、水筒を出して水を飲んだ。隣で朱夏は袂から昆布を出して囓っている。ぷるっとした唇が黒い塊を吸い込んでいくのを見ると、白檀はぶるりと身体に痺れが走るような気がして、もう一口、喉を湿らせた。
「杉。乾いてるのがあったら、拾っても良いかな。」
 手すさびに雪を掘りながら朱夏が尋ねてきた。
「それは、聞かなかったことにするよ。」
 我に返ると、苦笑いして応えた。
 もとは入会地だった山を、新政府になってから次々に召し上げて県の所有地としている。
 それは土地の人々を、受けていた山の恵みから切り離す営みと言える。漆の種の保管に杉の葉を使うという話は朱夏から繰り返し聞いており、入会地が主としてその供給源であったということも知っている。
 朱夏が白檀の営林についてきたいと言ったとき、興味本位で自分の仕事を知りたがっているだけで、また自分と過ごす時間を少しでも長く持ちたいと考えてくれているのかと好意的に解釈したが、なかなかしたたかに、実利のことも考えていたようだ。
「助かったよ、注文を受けてくれて。」
 白檀は話題を転じた。
「いや、砂屋にとっても利のある話だよ。」
「それでもだ。シオール殿は工芸品への関心がお高いから、並の作品では満足されないだろう。」
「それは、透たちにとっては励みだけど、肩肘が張ってしまうかもね。」
「まったく心配していないさ。」
 朱夏は口をすぼめて照れたようなまなざしをこちらへ向けながら、腿をさすっている。仲介をしてしまえば、朱夏の役割はほとんど済んだようなもので、あとは天台寺のことにまた、心を寄せているのだろうと思った。
「異国には、漆はないのかな。」
「そうなんだろう。とりわけ黒漆に感銘を受けられたご様子で、室には大小様々に器を揃えておられたな。」
「生国はどちらだと言ってたっけ。露西亜(ロシア)国?」
「いや、仏蘭西(フランス)国だそうだ。幕政時代にいち早く条約を結んだ五カ国のひとつだよ。米利堅(メリケン)国なんかは捕鯨のための停泊地として日本を見ていたようだが、仏蘭西国は生糸が目当てらしい。本国の生糸が、蚕の病気とかで駄目になったとおっしゃっていた。」
「生糸ね。」
 朱夏は懐から木偶人形を取り出した。
「その人形。」
 よほど大切なものなのだろう。白檀も折に触れて目にしたが、記憶を損なう前の自分が同じ物を持っていたというのはどうにも思い出せなかった。
「やっぱり思い出せないのかい。」
「そうだなあ。」
 残念そうな顔をした朱夏に応えられないことはもどかしい。
「滴の姉御の動きが随分とれなくなってきて、砂屋の商売もなんだか落ち込んだような気がしているんだ。冬の時期だから、というだけなのかもしれないけれど、また春が来たときに、再び去年のように苗を育てて、漆を掻き取ってという生業が続いていくのか、不安になってしまう。」
「今は産褥に伏しておられるのだったか。春には産まれるのではないのか。それはめでたいことだろう。」
 あれほど激しく役人に立ち向かってくる娘も少ない。黒森たち上司くらいの年齢になれば跳ねっ返りのお転婆だと鷹揚に応対できるのだろうが、同年代の白檀にとっては、未熟な知識で権威を押し付けると却ってやり込められてしまいそうな、やりにくさのある相手だ。
 朱夏とはそうした引き締まった気持ちを持つことなく、肩の力を抜いて離すことが出来るのがありがたい。相手もまた、自分に対して権威を感じることなく、同じようにゆったりと話をしてくれるのを嬉しいと思っている。
「やっぱり、あんたには、記憶を取り戻して欲しいと思ったんだ。」
 だから朱夏が決意するように見つめてきたとき、意外な気持ちになった。
「ああ、もちろんそれに越したことはないが、だが無理をして思い出さなくても、私はそれで充分だと思っているよ。」
 前にも話したことのある気持ちを、繰り返し説いた。
「そう、私もそう思っていたんだ。あんたは白檀という人間で、営林所に勤め、ときおり私と話すために寺を訪れる。たまに飾りの注文をもってきたりしてね。それで良いとも思っていた。だけれども、滴の姉御のように、確固とした行き先を見据えてまっすぐに進んでいる、進んでいくように見えた人であっても、苦難に直面したときに、折れそうなほどに弱くなる。」
「弱く・・・そうなのか。」
 出産の支度のため表舞台に登場しなくなったあの娘が、砂屋の黒塗りの垣の内側で、想像が付かないほどの様子になっているということか。
「三陸にいた頃に手伝っていた寺が、廃仏毀釈で燃えたことがあったんだ。寺が守っていた百年以上の帳面も一緒に燃えた。過去の出来事とは、そうやっていつしか喪われてしまう宿命なのだろうか。私はそれをとても悲しく思った。だから天台寺では、この寺では、四季を映しとり、伝えることが出来ないかと思った。幸いにして檀家のみんなにもよくして貰って、私の得た知識や、天台寺に来て感じた思いなんかを伝えるような場所も用意して貰うことができた。」
 白檀は黙って朱夏が語り続けるのを聴いた。
「だけれど、紙に残してもいつかは燃えるんだろう。それに、人もいつかは死ぬ。だけでなくあんたのように、命を喪うほどの危難に接したときには、生きながらにして過去との繋がりを()ってしまうこともある。それでいいのだろうか。いや、仕方ないかもしれない。でも本当は繋がっているはずなんだ。記憶を通して、人は過去と繋がる。過去と繋がりながら、それを土台として、将来に向けて励んでいく。そうやって(めぐ)っていくということだと思うんだ。」
「揺らいでいるのだな。あちらこちらに。何かに専心することで、果たして専心する方向はこちらでよいのか、無駄なことをしているのではないかと不安になる。過去を気にしまいと決めた次の瞬間に、やはり過去にこだわってしまうように。苦難に直面したときに折れない強さを得るためには、折れないだけの芯がいる。それを得るために努めよということならば、分かった。私もそのように努めてみよう。」
 朱夏は小さく頷くと、先程から握りしめていた人形を、その胴に着せた布に指を滑らせながら、こちらに差し出した。
「触ってみてよ。」
「なるほど、確かに絹だな。」
 白檀も同じように布に指を沿わせ、錦の繊細な手触りを確かめた。
「わらしのころからずっと巻いてるから、すっかり擦れて、縮れているだろう。」
 朱夏は苦笑いした。
「盛りのときは短いと、昔の人はよく感慨深げに言っているけど、浄法寺の生業も、だんだんと磨り減っていくのではないかと、不安になって。」
「それは人々の行動次第だろう。あなたもまた、春になったら同じように苗木を育てて、漆を掻くつもりなのだろう。」
「うん。夏になれば、また盛りの漆がやってくると、そう信じてね。」
「そうだ。意を込めて精を尽くせば、盛りは四季の(めぐ)るごとに訪れる。」
 慰めるように力を入れて述べた後で、その生業の淵源を管理しようとしている役人の口がそれを語るのはどうにも自家撞着しているような気恥ずかしさを覚えた。
 切り出すために営林する。すでにあちこち生じている禿げ山を、さらに拡大させることを目的として、自分は足繁く山に登って木々の茂りを見つめている。
 県として、国家として国土に内在した財を摘出して国力へと換えることが重要であるとは理解する。各地で操業する鉱山は、地中に埋まった鉱石を取り出すという意味で端的にそれを表しているし、広く構えれば漁業も、林業もそうだ。そして次に、国力を備えることが何に繋がるのかを考えたとき、外国の植民地となって惨めな思いをすることを避けることだと教えられる。
 しかし、条約によって貿易を強いられるまでもなくすでに、人々の犠牲をもとにして、国土が育んできたものを無理矢理に財へと換える営みはなされていたのではなかったのか。
「そうだね。誇りを持って仕事をし、盛りを呼ぼうと試してみよう。」
 白檀の言葉が響いたのかどうか分からないが、朱夏は腕を前に伸ばし、くるくると表裏に回して目を細めている。ぷうと息を吐くと、印を結ぶように両手のひらで三角を象って()を作った。
「とこしえに盛りの功徳を与える彼岸を祈るよりも、いま目の前にあらわれている仏の身を磨くと言うことだね。わたしはしばらく、天台寺にいるよ。」
「いいのではないか。わたしも福岡にいて、あなたの営みを見つめていることにするよ。」
 朱夏はにっこりと、ありがとうと礼を言った。苺色の唇から零れた白い歯が眩しくて、白檀は落ち着かなく懐から図面を出して広げた。
 朱夏が覗き込むように身を寄せてくる。歩き回っていれば暖かいが、止まれば奥州の底冷えが刺さるように吹き付けてくる。しんしんと雪の降る日よりも、こうしたからりと青い空の日は尚更なのだから、白檀もそれに応じて肩を抱き寄せた。
「この冬の間に一通り回らねばならない。」
 墨で丸をつけた区画の外は、冬の状況を確認するに至っていない。奥州の冬は長いといえ、年内にある程度の目処をつけておく必要があるだろう。
「桂はどこ・・・」
 紙の片端に手を添えながら朱夏が尋ねるので、白檀は泉の描かれた地点を指さした。
「桂泉の地については、面白いことに気がついたんだ。」
 白檀は示した指を左方へと滑らせ、ある一点で止めた。
「ここが稲庭岳。浄法寺の在所からでもよく見えるだろう。ここらでは一番標高のある山だ。稲庭岳の山頂と、桂泉の地は、まっすぐ東西の関係になる。」
「へえ。面白いね。」
「しかも、稲庭岳の山頂から南に同じ距離だけ進めると、そこには不動の滝がある。地形の目印がちょうど東西、南北に一致するんだ。」
「そこまでいくと、こじつけじゃないの。」
「滝は、そうかもしれない。しかし桂泉の地はそうでないかもしれない。もとより僅かなりとも泉の湧く地であったことに加えて、西方に主峰の山容があれば。」
「ああ、なるほど。」
 さすがに朱夏の回転は速かった。
「聖なる地と主峰の位置が一致するのではなく、主峰と一致する地を聖なる地に選んだと。」
「もとは小さな湧き水という位だったのではないかな。それを広げ、管理することで今のような大きな泉へと変えた。慕わしく、懐かしく思う気持ちが地形すらも変えて、後世の者がこうしてまた厳格な気持ちに至る。わたしは神や仏と言われてもどうにもはっきり分からないが、神や仏を信じた人々の心というものは信じられる。信仰とはそうして蓄積されていくものなのだと思うよ。」
 朱夏は唇の片端をあげると、再び塩昆布を取り出して口に含みながら目を輝かせている。
「山頂の近くに、神社があるね。一度、詣でたことがある。」
 図面に記された鳥居の記号を見て、朱夏は気づいたように言った。
「降り積もった信仰という話、ここにもあるかな。」
「分からない。また、折りを見てともに、参ろう。」
 そう約束した。
 時を替え、ともに往く者を代えて、何度も詣でる。重ねていく。神仏と人も、人と人の関係も。約束をすることで関係性が続いていくことを信仰できるとも考えられる。
「塩が・・・」
 白檀は朱夏の頬についた欠片に気づいて、それを指で拭った。朱夏は中空にとどまった白檀の手に手を添えると、ゆっくりと顔を近づけて、慈しむようにその指先をなめた。
 生ぬるい触覚に白檀が驚いて隣を見ると、朱夏の方が却って顔を染めている。
 赤い、丹の色・・・
 その色を隠すように自分の胸に飛び込んできた朱夏の身体を、紙切れが飛んでいかないように握りしめたのと同じくらいの力で大切に抱きしめた。

 仕事に区切りをつけると、街道を下って福岡に戻った。宿舎の自室で一息ついていると、呼び出しがかかった。
 敷地の石畳を踏みながら、隣接する官舎へ向かう。
 黒森の執務室に声を掛けると、来客があるようだった。板張りの間の正面にある卓子ではなく、窓際の応接机の方から許しの声を得て入室すれば、相変わらず営林の専門家たるこの上司は、鈍い目でこちらを見上げている。
「ビャクダン、さん。調子は、どうですか。」
 対面して外を向いていた金色の髪が、こちらへ振り向いた。
「シオール殿。」
 盛岡から訪ねてきた意外な知己を白檀は喜んだ。
「当所の領内を見物に来られたということだ。主として浄法寺だな。」
 黒森が来意を解説する。
「ならば、案内いたしましょう。あのあたりの山を最近は駆け回っております。」
「いや、それには及ばんよ。別の者をつける。」
 白檀はやや当惑した。領内を巡るなら、シオールにとってはこの代官所へと送り込むに当たり世話取りをした自分を同道させるのが、最も気を置かずしてよいのではないか。
「わたくしも、ビャクダンさんと、ゆっくりお話いたしたかったのですが、少し長く、世話になりそうですので、黒森さんと、相談していたのです。」
 シオールが宥めるように言った。
「まあそこに座れ。」
 黒森も笑顔である。
「仕事は、どう、ですか。」
「境界の決めごとはおおかた終わりましたので、冬の間に一通りの植生と動物相を確かめるお役目に当たっているところです。」
「良い木々が、ありますか。人々も。」
「ええ。」
 人々というならば、退潮する漆器産地の中で、砂屋と旗屋の関係が果たして適切に展開していくのか、両方の立場を知る身としては心配であるが、
「信仰が面白いです。シンコウ・・・信じるものという意味ですが、山そのものや、泉の湧く地などの、普通と異なることへの素朴な驚きが畏怖の対象となり、それを具現化するものとして仏というものが発見され、取り扱われる。日常と異なる場への参詣、崇拝、それを日常の一部として取り込む。」
「そうですか。わたくしたちにも、信じるものが、あります。」
「耶蘇ですかな。」
 黒森が口を挟んだ。
「ええ、神の御教えを、お伝えする、そうした命を、受けた者たちも、おります。」
 シオールは座のふたりを見回して、
「しかし、わたくしが信じるのは、そうではない。競争、と、この国の言葉では言う。」
「外夷に攻め込まれぬよう、国力をつけるということでしょうか。」
「それは、ひとつの面でしか、ない。もっとたくさん、もっと速く、ものを作り出す。たくさん、速く、作ったものが、強くなる。国と国だけでなく、県と県、店と店、人と人も。」
「増産ということですね。」
 各地の鉱山が是としている方針を白檀とて知っている。
「強くなるため、ジョボウジの、山の、木々も、器を作る、人々も、宝のようなもの。大切に、してください。」
 白檀はシオールのまなざしに温かいものを感じた気がした。
「雛飾りを作っておるらしいな。県令殿に。わしも楽しみだ。」
 黒森が話を繋いだ。
「ええ。なんでも当地では珍しい顔料を使うそうで。」
「精密な細工なのだろう。ここから盛岡まで、運ぶのは難儀かの。」
 黒森が心配したように言った。
「ならば、運ぶに適当な者を、いまから見繕っておきましょうか。」
「よいよい、こちらで考える。おぬしに頼むこともあろうが、改めて申すさ。」
 柔和な顔で顎を掻き始めた。
「長くいらっしゃると言うと、こちらに逗留されるのですか。」
 夜に一席設けることもできるかと期待して、白檀はシオールの方を見て尋ねた。
「いや、街道沿いの旦那衆に世話を頼んである。」
 黒森殿、と外から呼ぶ声がして、突き放すような言い方をした上司は席を立った。
「シオール殿、わしは先に行っております。後ほど迎えをやりますので、しばらくこの室でお待ちください。石沼が相手をしましょうぞ。」
「分かりました。」
 黒森は上着を羽織ると慌ただしく出て行った。
 要するに、せっかくシオールが来ているものの、案内役を仰せつかるわけでもなく、自分と話す機会はいまこのときしか設けられないということだろう。黒森がシオールと自分の関係を知ってわざわざ呼んでくれた配慮に感謝しつつ、少し寂しい気もした。
 それよりも、シオールに聞いてみたいことがある。
「浄法寺は、鹿角が近いのです。」
「カヅノ・・・。傷ついた、あなたと、初めてお会いした。」
「ええ。最近、浄法寺の者がわたしのそうした境遇を知って、鹿角に用を足しに行った折にいろいろと聞き回ってくれたのです。」
 シオールは黙って髪を掻いている。
「わたしの世話をしてくれた御寮人さまはすでに亡くなっておられたようですが、使用人がわたしのことを覚えていたようで。」
「ああ、ご婦人。立派な方でした。あなたのことを、浄法寺の山にゆかりの者と、紹介して、くださいました。」
「え、それは。」
 なぜだろうか。実のところ、御寮人のこともよく覚えていない。朱夏に依れば自分は三陸の生まれということらしいが、靄がかかったように思い出せない記憶を辿る。朱夏の知らない自分が、浄法寺で何事かをなしていたのだろうか。御寮人はそれを知る機会があったのだろうかと、辿ってみたが要を得なかった。
「わたしは、あなたを引き取りたいと。それに、モリオカの方々に、頼んで、村の者を、後方に配置し、戦いの後には、鉄山のことを、考えると、約束しました。」
 山や渓流の涵養を考えるならば、鉄山の操業は害となる。古くからの分限者ほどに鉄山の増産方針を忌々しく思っており、その点でこの、有力者に繋がりを持つ外国人と見解の一致を得たと言うことだろうか。
「それで、わたしは懐に、大事そうに人形を持っていたそうなのですが、シオール殿には心当たりがありません。」
「人形、ですか。そうですね。」
 少し目を伏して思い出すような顔をしている。
 石沼の家に運び込んだ荷はさほど多くなかった。その中に、鹿角では持っていたとおぼしきオシラサマが含まれていないならば、シオールが預かっているということではないだろうか。
「お守りと、いうのですか、確かに、この国の木細工には、関心があります。研究のために、預かったことが、あったかもしれません。」
「そうですか。」
 白檀は瞳を輝かせた。
「期を見て、盛岡のお屋敷にてお荷物を拝見できないでしょうか。」
「イイデショウ。」
 シオールは約束した。
「ただし、ひとつだけ、お願いしたいことが、あります。」
 がたがたと、ふたりの正面の大きな窓が、風を受けて冷たい音を立てた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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