第1話(序章第1節)

文字数 1,447文字

 季節は春から夏へと向かうこの時期でも、三陸の日暮れは早い。
 その日は端午の節句で、日清戦争から復員してきた村の者たちの慰労会が、崖の上の寺の本堂を使って行われていた。豊漁の年だった。こうした席で膳に乗る魚もご馳走が並んでいたが、昼過ぎから騒いでいた男たちもさすがに疲れたのか、暗くなる前に、と潮を見て、ぽつぽつと帰り道につき始めている。
 戦地での武勇伝にひととおりの十七歳の若者らしく心躍らせた彼だったが、年長者に勧められるまま断り切れずに盃を何度も干さされて、火照った身体を風に当てるために浜へと降りる石段に腰をかけていた。
「それじゃな、おまえの兄貴が戻ったら、もう一席楽しみにしてるぞ。」
 帰途に就く男たちが座り込んだ彼に声をかけて、石段を降りていく。数日前に復員してきた兵たちの中に、彼の兄の姿は無かった。一瞬、不安が胸をよぎったが、大陸で命を落としたわけではなく、新たに領土とした南洋の島に、次の任務で渡ったとのことだった。わざわざ出迎えに戻ってきていた姉たちは肩すかしを食らったように、彼に「今度は報せだけでいいよ」と言い残して、再び浜沿いのそれぞれの嫁入り先へと散っていった。
(そろそろ、片付けを手伝うか・・・)
 酔いもほどよく覚め始め、立ち上がって庫裡へと引き返したとき、
「そんなとこにおったか。」
 髭に白いものの混じり始めた和尚に、向こうから声をかけられた。
「おまえが目を輝かせておったとみて、やつらがこれを置いていったぞ。」
 いつも酒瓶を抱えている和尚だったが、このとき抱えていたのは、いくつか重ねた軍帽だった。軍から支給された備品を、兵たちはそのまま持ち帰ることを許されていた。砲声の響く大陸の景色を空想しながら、かの地の砂が浸み込んだ羅紗(らしゃ)地の手触りを飽かずに楽しんでいたところを、どうやら見られていたらしい。
「へえ。ありがとうございます。よろしいのですか。」
「かぶってみたらよい。見せてみい。」
 和尚がにやにやと勧めるので、寸法の合いそうなものを受け取って、頭に乗せてみた。前髪が額にくっついてくすぐったい。
「ほう。馬子にも衣装。」
「なにを。ぼくも来年には徴兵ですよ。」
 ふわふわと高揚した気分で言い返した。和尚はしばらく彼の顔を眺めながら、次第に目を細め、
「こうして見ると、おまえは伯父どのにそっくりじゃな。」と呟いた。
「伯父どのですか。」
 兄や、姉たちが産まれるより前に亡くなったと聞かされている伯父について、父は多くを語らなかった。
「どのような・・・」
 人だったのでしょうか、と和尚への問いを最後まで言い切る前に、彼の身体はぐらりと揺れた。
 目の前にいる和尚もまた、「むぅ。」と言いながらふらついているので、それは彼の酔いのせいではなく、大地が揺れているのだと気がついた。
「えらく長いですね。大きさは、たいしたことはないようですが。」
 続く揺れの中で歩を進め、彼は和尚をいたわるように、その背に手を当てた。
「これはまずい・・・

が来るぞ。」
 和尚の身体は大地のそれよりも小刻みに震えていた。
「よだですか。」
大海嘯(だいかいしょう)じゃ。安政のときのような。」
 ふと我に返ったように、和尚は彼の顔をまじまじと見て、
「おい、帰った連中を呼び返せ。いや、だめだ、下へは降りるな。」
 と、混乱しながら指示をした。
 彼は訳も分からずに石段の下へ向かって、「おおい、」と声を張り上げた。
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登場人物紹介

朱夏(シュカ)

主人公。1853(嘉永6)年8月生まれ

月顕寺(ガッケンジ)の和尚である嶺得に読み書きを習い、

嘉永の大一揆を率いて死んだ父親が遺した書物を読み耽って知識を蓄えた。

商家の旦那に囲われながら自分を育てた母親に対しては、同じ女として複雑な思いを抱く。

幼馴染みの春一を喪ったことで先行きの見えなくなった三陸の日々を精算し、鉄山へと旅立つ。

やがて紆余曲折を経てたどり着いた浄法寺の地で、漆の生育に関わりながら、

仏の世話をし、檀家たちに学問を授け、四季の移ろいを写し取ることに意義を見いだしていく。

塩昆布が好き。

春一(ハルイチ)

1852(嘉永5)年生まれ

すらりとしたかっこいい漁師の息子。

朱夏とは“いい仲”だったが、戊辰戦争で久保田攻めに加わり、鹿角で行方不明となる。

盛岡で再開した彼は「白檀(ビャクダン)」と名乗り、鹿角での過酷な戦闘で記憶を失っていた。

浄法寺に林業役として赴任し、天台寺に朱夏を訪ねるようになる。

透(トオル)

1853(嘉永6)年6月生まれ

遠野から鉄山へ来た色素の薄い青年。遠野では馬を育てていた。

朱夏と反目しながらも一目を置き合い、やがてあるきっかけで親しくなっていく。

朱夏とともに鉄山を抜け、浄法寺へと同行する。

浄法寺では、蒔から塗りを学びながら、鉄山で得た知識を生かした製作へと情熱を抱き、

砂屋の事業へと傾倒していくことになる。

慶二(ケイジ)

1854(嘉永7)年生まれ

心優しい春一の弟。幼い頃小さかった身体は、次第に大きくなる。

朱夏とともに橋野鉄鉱山へ向かう。

嶺得(レイトク)

朱夏が通う月顕寺の和尚。45~50歳くらい。

髭面で酒好き。朱夏に読み書きばかりでなく、仏の教えの要諦や、信仰の在り方を説く。

当時としては長老に近いががまだ壮健。朱夏の父親代わりの存在。

横山三池(サンチ)

労務管理担当役人。アラサー。

世間師を生業として藩内を歩くことで得た経験を生かし、口入屋まがいの手腕で、藩内から鉄山へと労働力を供給している。

飄々と軽薄な雰囲気ではあるが、男だと偽って鉄山に入った朱夏にとって、本当は女だと事情を知っている三池は頼れる兄貴分である。

田中集成(シュウセイ)

三池より少し歳上の銑鉄技術者。高炉技術の研究に情熱を注ぐが、政治には関心がない。

なまじの武家よりも話が合う朱夏のことを気に入り、三池とともに相談に乗る。

なお、名前の本来の読みは「カズナリ」である。

荒船富男(トミオ)

鉄山の棒頭(現場監督)で人夫たちを酷使する。容貌は狐に似て、神経質だが同時に荒っぽい。

もとは上州で世間師をしており、三池とも交流があったため、何かと張り合っている。


小松川喬任(コマツガワ)

橋野鉄山を差配する旧武家。40代前半。

長崎で蘭学を学び、南部藩内に近代的な洋式高炉を導入したその人。

見た目は厳しいが清濁を併せ吞み、朱夏と透を鉄山の中核となる、ある事業に登用する。

滴(シズク)

1850(嘉永3)年生まれ

木地師と名乗り、盛岡で朱夏と透を助けた頼もしい姉御。新聞を読むのが好き。

二人を浄法寺へと導き、商家「砂屋」の食客とする。

砂屋の経営を担い、漆の生育、競りの開催、天台寺との交渉、生産組合の結成など、

時代の流れに応じ、先を見据えた手を打っていこうと奮闘する。

蒔(マキ)

1854(嘉永7)年生まれ

座敷童のように福々しい見た目をした滴の妹。

圧倒的技術力で砂屋の塗り小屋を治める塗り師。

行商の男たちに強気に交渉するが、それは世間知らずの裏返しでもある。

透に塗りを教える中で、彼女自身も成長していく。

風陣(フウジン)

越前から浄法寺へやってきた越前衆の頭目。

大柄で髭面。ならず者のように見えるが、口調は柔らかく油断できない。

浄法寺に「殺し掻き」を導入し、越前の刃物を売って生産力を高める。

「旗屋」の食客として、砂屋に対抗する。

政(マサ)

天皇家の赦免状を持つ近江の木地師。風陣とともに旗屋の食客として活動する。

大柄な風陣とは対照的な小男で、ほとんど喋らないように見える。

やがて砂屋と旗屋の対立の中で、特殊な役回りを与えられるようになっていく。

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