第30話 ラクの涙
文字数 2,168文字
うっうっと泣き声が続く。
「ケルウスさまですか? お願い。お顔を見せてください。もう一度だけ、あなたにお会いしたい」
ケルウスは迷った。アレは魔物だ。気配でわかる。変化の魔法の中心に存在し、吸収しながら、さらに強い波動へと変換させている。
つまり、今現在、この後宮内でもっとも強い欲望を放っているのが、彼女なのだ。だから、魔法が彼女に取り憑いているのだろう。
「ケルウスさま。ケルウスさま。わたしです。ラクです。お願い。最後にお別れさせて」
こうして話ができる。まだ理性を保っている。スクトゥムも理性があるときには会話が成り立つ。今なら話くらいはできるかもしれないと考えた。
ケルウスは思いきって、タペストリーのかげから、室内をのぞきみた。魔術のグリーンの光にあふれて、目がくらみそうだ。
そのなかに異様なシルエットが見える。それに、とても大きい。
魔物と化しているのだから、すでにラク本来の姿ではない。変化していると、覚悟はしていた。それにしても、その姿は想像をはるかに
天井いっぱいに頭がつかえるほどの巨大さだ。
やけに白いのは、体のほとんどが骨だからだろうか? ミルク色の骨。八本の足を持つ獣の形をした骨格だ。足のさきには牛の角のような、するどい爪がギラギラ輝いている。その爪は血で汚れていた。
だが、頭部だけは、それはそれは美しい女だ。つややかな長い髪の美少女。アザが消えただけではない。あきらかに前より整っている。少し、コルヌに似ていた。だが、ラクの面影はあった。
「ラク……なぜ、そんな姿に……」
「ああ、ケルウスさまだ。ケルウスさま。ごらんください。わたし、こんなに美しくなったのですよ? この世で一番美しい天使さまのような。そうでしょう? あなたさまの櫛で髪をといたら、生まれ変わったの」
きっと、後宮にかけられていた変化の魔法と、ケルウスの櫛で奇跡が起こると願ったラクの思いが同調したのだ。前日に見かけたコルヌの端麗さに憧れたのかもしれない。
おそらく、急にキレイになった女というのも、この変化の魔法のせいだ。後宮とは女が美しさを競う場所。麗しくなりたいと願う者は多いだろう。
ラクもそうだった。
だが、それだけなら、この姿はなんなのか?
「ラク。おまえの身に何があった?」
「わたしが美人だからって、みんながイジワルをしたんです。あなたさまから貰った大事な櫛をこわされて……」
「だから、殺したのか?」
血で汚れた爪を流し見る。
ラクは悪びれたようすもなく微笑む。
「当然です。生きてる価値のない人たちですから」
「ラク……」
人の姿は魂の形だ。容姿の美醜ではない。魂の善悪が表れる。姿は心を映す鏡である。
その姿がここまで変化したのだ。魂に影響がないはずはない。
ここにいるのは、もはや以前のラクではなかった。
証拠に、ラクは微笑のまま、恐ろしいことを言いだした。
「ケルウスさま。やっと美しくなったのに、あの人たちのせいで、また醜くなってしまいました。もう一度、櫛をいただけますか? あなたの櫛で髪をとけば、きっと、もとに戻れる。いいえ、もっと美しくなれる。もっと、もっと。あなたと歩いていた、あの踊り子のように」
言いながら、ラクの姿は恐怖するほどの速度で変化していく。髪が白くなり、翼が生えてきた。目が赤く、白目部分がなくなる。肌の色は青ざめて、骨の胴体と区別がつかない。可愛い造作がグニュグニュゆがみ、一瞬だけ、その表面にコルヌの美貌が浮かんだ。
それはすぐに溶けくずれ、その下からラクのおもてが現れる。が、すぐにそれも消えた。彫像のように、ただ白い顔。もはや、人の感情はないように見える。
いくつもの骨がねじれ、花になった。白い骨の花束。葉のかわりに、あちこちから白い鳥の翼が生えている。花芯にある顔だけが、不安定にラクからコルヌ、コルヌからラク。または右半分はコルヌ。目元だけラクと、目まぐるしく変動する。
変化するたびに、魔術の波動がいやましていく。
「櫛を、櫛をください。くださらないと言うのなら——」
「ラク!」
「あなたそのもので、髪をときます! あなたの体を裂いて、櫛を作れば」
長い髪が伸びてきて、ケルウスを襲う。
「詩人! 危ない!」
フィデスが剣をぬいて、その髪を切り裂く。白い髪のさきから赤い血がこぼれた。その血が床に落ちると、ボコボコ泡立つ。
「うわっ。酸だ」
「フィデス。あんたはドアを破壊してくれ」
「しかし——」
「物理的に壊せば、結界に穴があくかもしれないだろ」
言いつつ、ケルウスは竪琴をつまびく。弦がふるえると、ラクは苦しんだ。
「なぜ。なぜですか? ケルウスさま。なぜ、わたしをこばむのですか? あなたもわたしをイジメるの?」
ラクの目から血の涙が流れる。それでいて、攻撃はまったくおさまらない。むしろ、激しくなる。髪の毛の束が無数の蛇のように、空間を
(どうする? ますます強くなっていく。変化の魔法が止まらない)
髪の束が
——と、そのとき。
「あんたたちは逃げろ! そして、ヴェスパーを……頼む」
スクトゥムが跳躍し、ラクにとびついた。