第9話 ヴェスパーの話
文字数 1,974文字
娼館カエルムに戻ってきたのは日暮れにはまだ早い時間だ。村には今日も事情を知らぬ旅人がウロついている。彼らは今すぐ宿をとれば、助かる。運のいい連中だ。
「おかえり。ケルウス。夕食を食べるんだろう? 用意させるよ」
笑顔で出迎えるコルヌを見て、ケルウスはホッとした。生まれてこのかた、家族のあたたかみというものを味わってはこなかった。これが、そうなのだろうか? 帰る家があるというのは、なんと素晴らしいことか。
しかし、問題はアレコレ山づみなのだが。
「どうかした? 私の顔をまじまじと見て」
「いや……」
コルヌには自覚はないようだ。夜になると徘徊するあの不死者が探しているのは、自分なのだと。それとも、コルヌはただ古代の神と同じ名前を持っているだけなのだろうか?
「灰をかぶった。まず、風呂に入りたい。そのあと、食事しながら、話をしよう」
「あちこち怪我をしてる。狼の群れにでも会ったの?」
「もっとタチの悪いものだ」
「まあいいよ。君が無事でよかった」
頬へのキスには深い意味はなかろう。ただの親密の情だ。
娼館の裏庭に女たちも入る風呂があった。木桶に水をためて下から薪 で沸かす。労力がかかるので、娼婦たちでも毎日は入れない。しかし、髪のあいだから砂のように灰がこぼれるので、今日はワガママを言って贅沢させてもらった。
さっぱりしたあと、コルヌの部屋へ戻ると、まるで宴会場の様相だ。床にちょくせつ、たくさんの皿がならび、そのまわりを娼婦や召使いの少年少女がかこんでいる。
魚や肉を焼いたもの。蒸した野菜。各種のパンとチーズ。エビや貝のスープ。ひじょうに豪華だ。
しかし、これほど人がいるなかでは、神殿での経験を語れない。
「どうだったの? 兵隊から話は聞けた?」
「なんでそんなに怪我してるの?」
たずねてくる女たちには、要点だけかいつまんで答える。
「竜はすでに王の軍に殺されていた。だが、死ぬ前に呪いを残していった。村を襲っているのは竜の霊だ。霊の本体は神殿に巣食っているので、村人はあそこに近づいてはいけない」
「兵隊たちは?」
「残念ながら、全滅だ」
みんなの目がヴェスパーにむく。ヴェスパーには、スクトゥムというなじみ客の兵士がいた。
「かわいそうに。元気を出すんだよ」
「スクトゥムはきっと生きてるよ」
「まだ死んだと決まったわけじゃない」
みんな励ますのだが、ヴェスパーの態度は悲しんでいるというより、おびえているふうにしか見えない。そういえば、ケルウスが出かける前にも、何か知っているそぶりを見せた。
にぎやかな食事のあと、女たちはゾロゾロと去っていく。それを見送りつつ、ケルウスはヴェスパーだけをひきとめた。ヴェスパーはあきらめていたのか、うなだれつつしたがう。
「話してくれ。おまえのスクトゥムは何をしでかした? おまえは神殿での件をスクトゥムから聞かされていたのか?」
ヴェスパーは少女めいた、おとなしやかな造作に、深いおびえの表情を浮かべる。
「スクトゥムはもうここにいないわ。王都へ帰っていったの」
ヴェスパーの話はこうだ。
一年前。スクトゥムはその夜に竜の退治作戦があると言って、娼館を出ていった。
「竜を退治するの? だって、神様なんでしょ?」
「卵をかかえてるんだ。王様がそれを欲しておられる」
つまり、王の命令で卵を奪うために、竜を殺したのだ。ケルウスが見た幻視はそのさまだったのだろう。
「スクトゥムはみんなが竜を攻撃しているすきをついて、卵を持ちだしたの。真夜中に一人でこの宿まで来たけど、一晩中ふるえていたわ。卵を見せてと言ったけど、布にくるんだまま、見せてくれなかった。でも、これがあれば褒美は望みのままだから、大金持ちになって、きっとおまえを迎えに来ると言ってくれたのよ」
信じられない話だ。ケルウスが見たあのときの状況では、誰一人、生き残れるとは思えない。ましてや、竜から何かを奪って逃げるなんて?
可能だとしたら、あの魔術師アクィラが関係しているのではないか? 魔法の力で、スクトゥムだけが逃がされたのだ。
「では、スクトゥムはとっくに都へ旅立っていったんだな?」
「今ごろはわたしを迎えにひきかえしてると思う。でも、竜の卵を持ち逃げするなんて、悪いことが起きなければいい……」
ケルウスは王都へ行ったことはない。竜のウワサを聞いてから、この国へ入ると、あとはまっすぐレクシア村をめざしてきた。
しかし、途中で近くの街を通りすぎたので、距離はだいたいわかる。レクシアからなら、徒歩でもひと月で行ける。スクトゥムが無事に王都へついたなら、帰ってくるのが遅すぎる。途中で何かあったのか、あるいは、ヴェスパーを迎えに戻る気など、最初からなかったのか?
なんにせよ、竜の卵はとりかえさなければならない。竜の影が探しているのは、卵かもしれないからだ。
「おかえり。ケルウス。夕食を食べるんだろう? 用意させるよ」
笑顔で出迎えるコルヌを見て、ケルウスはホッとした。生まれてこのかた、家族のあたたかみというものを味わってはこなかった。これが、そうなのだろうか? 帰る家があるというのは、なんと素晴らしいことか。
しかし、問題はアレコレ山づみなのだが。
「どうかした? 私の顔をまじまじと見て」
「いや……」
コルヌには自覚はないようだ。夜になると徘徊するあの不死者が探しているのは、自分なのだと。それとも、コルヌはただ古代の神と同じ名前を持っているだけなのだろうか?
「灰をかぶった。まず、風呂に入りたい。そのあと、食事しながら、話をしよう」
「あちこち怪我をしてる。狼の群れにでも会ったの?」
「もっとタチの悪いものだ」
「まあいいよ。君が無事でよかった」
頬へのキスには深い意味はなかろう。ただの親密の情だ。
娼館の裏庭に女たちも入る風呂があった。木桶に水をためて下から
さっぱりしたあと、コルヌの部屋へ戻ると、まるで宴会場の様相だ。床にちょくせつ、たくさんの皿がならび、そのまわりを娼婦や召使いの少年少女がかこんでいる。
魚や肉を焼いたもの。蒸した野菜。各種のパンとチーズ。エビや貝のスープ。ひじょうに豪華だ。
しかし、これほど人がいるなかでは、神殿での経験を語れない。
「どうだったの? 兵隊から話は聞けた?」
「なんでそんなに怪我してるの?」
たずねてくる女たちには、要点だけかいつまんで答える。
「竜はすでに王の軍に殺されていた。だが、死ぬ前に呪いを残していった。村を襲っているのは竜の霊だ。霊の本体は神殿に巣食っているので、村人はあそこに近づいてはいけない」
「兵隊たちは?」
「残念ながら、全滅だ」
みんなの目がヴェスパーにむく。ヴェスパーには、スクトゥムというなじみ客の兵士がいた。
「かわいそうに。元気を出すんだよ」
「スクトゥムはきっと生きてるよ」
「まだ死んだと決まったわけじゃない」
みんな励ますのだが、ヴェスパーの態度は悲しんでいるというより、おびえているふうにしか見えない。そういえば、ケルウスが出かける前にも、何か知っているそぶりを見せた。
にぎやかな食事のあと、女たちはゾロゾロと去っていく。それを見送りつつ、ケルウスはヴェスパーだけをひきとめた。ヴェスパーはあきらめていたのか、うなだれつつしたがう。
「話してくれ。おまえのスクトゥムは何をしでかした? おまえは神殿での件をスクトゥムから聞かされていたのか?」
ヴェスパーは少女めいた、おとなしやかな造作に、深いおびえの表情を浮かべる。
「スクトゥムはもうここにいないわ。王都へ帰っていったの」
ヴェスパーの話はこうだ。
一年前。スクトゥムはその夜に竜の退治作戦があると言って、娼館を出ていった。
「竜を退治するの? だって、神様なんでしょ?」
「卵をかかえてるんだ。王様がそれを欲しておられる」
つまり、王の命令で卵を奪うために、竜を殺したのだ。ケルウスが見た幻視はそのさまだったのだろう。
「スクトゥムはみんなが竜を攻撃しているすきをついて、卵を持ちだしたの。真夜中に一人でこの宿まで来たけど、一晩中ふるえていたわ。卵を見せてと言ったけど、布にくるんだまま、見せてくれなかった。でも、これがあれば褒美は望みのままだから、大金持ちになって、きっとおまえを迎えに来ると言ってくれたのよ」
信じられない話だ。ケルウスが見たあのときの状況では、誰一人、生き残れるとは思えない。ましてや、竜から何かを奪って逃げるなんて?
可能だとしたら、あの魔術師アクィラが関係しているのではないか? 魔法の力で、スクトゥムだけが逃がされたのだ。
「では、スクトゥムはとっくに都へ旅立っていったんだな?」
「今ごろはわたしを迎えにひきかえしてると思う。でも、竜の卵を持ち逃げするなんて、悪いことが起きなければいい……」
ケルウスは王都へ行ったことはない。竜のウワサを聞いてから、この国へ入ると、あとはまっすぐレクシア村をめざしてきた。
しかし、途中で近くの街を通りすぎたので、距離はだいたいわかる。レクシアからなら、徒歩でもひと月で行ける。スクトゥムが無事に王都へついたなら、帰ってくるのが遅すぎる。途中で何かあったのか、あるいは、ヴェスパーを迎えに戻る気など、最初からなかったのか?
なんにせよ、竜の卵はとりかえさなければならない。竜の影が探しているのは、卵かもしれないからだ。