第29話 ノクス王の顔
文字数 1,879文字
「陛下! ノクス王陛下!」
フィデスがあたりを見まわし、人影がないのを確認すると、寝台へとびついていく。
しかし、とばりのなかには——
フィデスが青ざめ、鼻を押さえてあとずさる。ケルウスも、それを見た。寝台の上でバラバラになった男の死体。ベッドは血の海だ。
「陛下……」
フィデスが男を見てつぶやく。間違いなく、男はノクス王なのだ。
しかし、もしそうなら、これはどういうことだろうか?
ケルウスはわが目を疑い、まじまじと王の顔を凝視した。血の気が失せ、苦悶の表情にゆがんではいるものの、それはケルウスの知っている男だ。そんなはずはない。ノクス王に会うのは初めてなのだから。
それでも、ケルウスは王の顔を知っている。それは昨夜、さんざんおがんだ。
ウンブラのツボのなかに入っていた、あの死体。
魔術で人蛇になり、襲いかかってきた。あの魔物の顔だった。
(なぜだ? 王が魔物だったのか? いや、でも、今朝も王の姿は人が見ている。消えた踊り子をけんめいに探していると、アージェントゥム公爵も言っていた)
では、この死体は王ではないのか? 王に似せた——たとえば、影武者であるとか?
いや、ただ単にケルウスを混乱させるため、昨夜はウンブラが魔物の顔を王そっくりに作っただけだろうか?
わからない。わからないが、この事実は妙にケルウスの胸をさわがせた。
立ちつくしていると、フィデスが肩をつかんできた。
「おい。逃げるぞ。陛下がご崩御なさっているなら、ここにいる意味がない」
「そうだな……」
昨日も使った隠し扉。あそこから外へ出られる。脈動する魔術の力が刻々と増していくが、まだ、二人が逃げだす時間くらいは残っている。
そう思っていた。
とつぜん、スクトゥムがうなだれたまま、つぶやく。
「おれは……もしかして、このまま、もとに戻れないのか?」
「……」
「そうなんだな? もう人には戻れないんだな?」
「……スクトゥム」
「じゃあ、ヴェスパーに伝えてくれ。おまえをほんとに愛してたって」
「スクトゥム。何をする気だ?」
「おれはここから出られない。もう……前のおれじゃないから」
うつむくスクトゥムの双眸から、ボロボロ涙がこぼれおちる。床に水滴の輪がひろがった。
そう。たとえ、魔法が解けて人間に戻れたとしても、スクトゥムは殺された女官たちの肉を食っている。何事もなく、前の暮らしには戻れない。
「毎夜、女たちを殺したのはおまえか? スクトゥム」
「違う」
「ほんとか? 女たちの肉を食うためじゃなかったのか?」
「肉は……でも、殺したのは、おれじゃない!」
スクトゥムが夜ごとの殺人者ではなかった。彼は死んだ女の肉を食べただけ。
では、誰が殺したのか?
しかし、考えている時間はない。タペストリーをめくろうとしたときだ。廊下から何かが近づいてくる。高まる魔術の波動のどまんなかだ。変化の魔法は、その何者かを中心にしている。
「何か来る」
「詩人。逃げるぞ」
「このタペストリーのむこうが隠し扉だ」
フィデスがドアノブをまわす。掛け金はかかっていない。昨日、ケルウスたちが逃げだしたときのままだ。なのに、ノブはガチャガチャ音を立てるだけでひらかない。
「おい。あかないぞ」
「魔法だ。そういえば、後宮の敷地内に結界ができてるんだった」
これでは外に出られない。結界に穴をあけられるのは、アクィラやウンブラのような大魔術師くらいのものだ。あるいは、魔術と魔術が干渉しあって、ゆらぎが生まれれば……。
言っているうちにも、廊下にいる何者かがそこまで迫っていた。気配が近い。
なんだろうか? 邪悪な感じもするのに、なぜか、ケルウスの知っている感覚がある。
何者かが室内に入ってきた。ケルウスたちはちょうどタペストリーの裏に姿が隠れている。その者は何かを探すように、息を殺して部屋のなかを歩きまわっている。静かに。ゆっくりと。
ソレが歩くたびに、ビィーン、ビィーンと、魔術が波打つ。幻視がじっさいの風景をにじませるほど濃く、厚く重なる。
そのなかで、かすかな泣き声が聞こえる。女の声だ。
ケルウスは息を飲んだ。やはり、知っている。その声、聞いたことがある。
「そこにおられますか?」と、ソレは言った。
「ケルウスさまですか?」
わかった。誰の声か。
ためらいがちに、ケルウスは問いかける。
「ラク……か?」
ケルウスを助けてくれた少女。
でも、それなら、この気配はなんなのか?
魔術の波動を一身にまとう者の正体は、あの親切でがんばりやのラクだ。